高田城
高田城の最新ニュースをまとめて検索!
|
高田城 (新潟県) |
|
|---|---|
高田城の航空写真(1975年度撮影・国土航空写真)
|
|
| 通称 | 鮫ヶ城、関城、高陽城 |
| 城郭構造 | 輪郭式平城 |
| 天守構造 | 御三階櫓 (3重3階不明1614年築 非現存) (独立式望楼型3重3階 1993年 鉄骨造復興) |
| 築城主 | 松平忠輝 |
| 築城年 | 慶長19年(1614年) |
| 主な改修者 | 松平光長 |
| 主な城主 | 松平氏、稲葉氏、榊原氏 |
| 廃城年 | 明治3年(1871年) |
| 遺構 | 土塁、堀 |
| 指定文化財 | 史跡 |
| 再建造物 | 三階櫓 |
| 位置 | 北緯37度6分35.64秒 東経138度15分21.27秒 |
高田城(たかだじょう)は現在の新潟県上越市本城(もとしろ)町にあった城である。
目次 |
[編集] 概要
徳川家康の六男、松平忠輝の居城として天下普請によって造られた。城地の縄張りと工事の総監督は忠輝の舅の伊達政宗である。
高田城は、高田平野にある菩提ヶ原に築かれた平城である。約230メートルから約220メートル四方の本丸を取り巻くように二ノ丸、南に三ノ丸、北に北の丸を配し、関川、青田川などを外堀として利用した。すべての曲輪に土塁が採用され、石垣は築かれなかった。低湿地に築城されたため排水設備が重視され、城地には現在の技術水準から見ても遜色ない暗渠が張り巡らされていた。天守はなく、1614年に3重3階の三階櫓を建てて天守の代用とした。当時の三階櫓の外観は不明で、江戸城の富士見櫓に似た外観であったと伝えられている。
明治以降、陸軍の駐屯地として使用するために大規模な土塁の撤去、堀の埋め立てが行われ、旧城地の東半分は旧状をとどめていない。本丸を含めた西半分には堀、土塁の一部が残されており、現在は公園として整備されている。
[編集] 歴史・沿革
[編集] 江戸時代以前
- 1610年 - 徳川家康の六男、松平忠輝が信濃川中島から福島城に60万石で入封
- 1614年 - 忠輝が福島城を廃し、高田城を建築
- 1616年 - 忠輝改易
- 1624年 - 松平光長が越前北ノ庄から26万石で入封
- 1665年 - 高田地震により倒壊、三階櫓を建設
- 1681年 - 越後騒動により、光長改易
- 1742年 - 榊原氏が播磨姫路から15万石で入封
創藩当時の高田藩は加賀前田藩への押さえとして重要な位置づけをされていたが、泰平の世が続くと次第にその役割は小さなものとなっていった。松平忠輝の改易や越後騒動など相次ぐ事件によって、幕府にとって高田藩は負のイメージを抱かせるものとなり、江戸中期以降はしばしば親藩、譜代大名で不始末を犯した大名の懲罰的な転封先、いわば「座敷牢」のような位置づけが強くなった。
- 稲葉正往
- 小田原城主より転封。京都所司代を罷免された。綱吉を将軍に擁立することを反対した大老酒井忠清派の人物であったため、これを嫌った5代将軍綱吉により粛正された。
- 松平定重
- 桑名城主より転封。些細な経理ミスを犯した野村増右衛門を斬首。その懲罰は一族にも及ぶ。この厳科が5代将軍綱吉の不興を買った。
- 戸田忠真
- 佐倉城主より転封。江戸から極めて近い佐倉城主であったが、戸田氏が幕閣から遠ざかったために、江戸から離れた高田に移された。佐倉城主は、幕閣の中枢の譜代大名がしばしば入封するのが例であったため、忠真の父・忠昌が致仕により、領地替えとなった。懲罰とはいえない。
- 榊原政永
- 姫路城主より転封。父、榊原政岑が幕府の倹約令を無視。吉原で豪遊し、女郎・高尾大夫を身請け。8代将軍吉宗の怒りを買った。
[編集] 明治時代
陸軍の入城時に3000本を超す桜(染井吉野)が植栽され、現在でも日本三大夜桜のひとつに数えられる。残された堀には失職した旧士族のための殖産策として蓮根栽培が行われ、現在では外堀の大半が蓮に覆われている。水質問題などから商品作物としての蓮根栽培は中絶したが、開花時期には毎年「蓮まつり」が開催されている。蓮研究の第一人者である東京大学農学部教授、大賀一郎が昭和28年に調査に訪れた際には、繁殖域の大きさ、育成の状況を「東洋一の蓮」と評価した。
[編集] 現在
- 新潟県指定史跡。上越市発足20周年記念事業として、焼失した三階櫓を1993年に復興した。
- 2002年(平成14年)、高田城築城当時、二の丸から本丸に渡っていた極楽橋が発掘調査の資料をもとに再建された。再建工事中に土中から旧極楽橋の木杭などの遺構が出土した。
1870年(明治3年)三階櫓が焼失して以降、城郭は土塁と堀が残るのみであったが、城跡の高田公園自体が風光明媚であり市民の憩いの場として、また観光地として、シンボルの復活を望む声があった。これに応える形で上越市が1993年(平成5年)に再建した三階櫓は、外観を松平光長「本丸御殿図絵」、規模を稲葉正通時代の「高田城図間尺」を基にして復興された。内部は鉄骨構造であるが、随所に木材を使用し木質感を再現している。最上階天井は本格的な木組みとしている。1、2階は展示室、3階は展望室として利用されている。
[編集] 石垣がない理由
60万石(一説には75万石)の大名の居城であるにも関わらず石垣を築かなかった理由としては、
- 近郊に石垣石として耐え得る石材が産出されなかった。
- 低湿地の軟弱な地盤が石垣の重量を支えられないと判断された。
- 大砲や銃器の発達など攻城法の変化により土塁の方が防御上有利であると判断された。
- 完工を急いだため石垣工事を省略した。
などの説がある。なお、明治初年に本丸付近を撮影したとする写真が近年発見されているが、これには石垣が写っている。また現在、城址公園に「本丸御殿の礎石」として保存されている石材の中には建築物の礎石としては不自然な大きさ・形状のものが含まれており、これらを根拠として、少なくとも本丸には石垣が築かれたのではないかとの説もある。



