高砂浦五郎 (初代)

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高砂 浦五郎(たかさご うらごろう、1838年11月20日 - 1900年4月8日)は、明治期に活躍した大相撲力士年寄。最高位は前頭筆頭。身長170cm、体重100kg。出身は上総国山辺郡(現在の千葉県東金市)。本名は山崎(後に一時今井姓)伊之助(後に浦五郎)。現在まで続く高砂部屋の開祖である。

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[編集] 力士として

農家の三男で土地相撲で活躍し、1863年文久3年)8月場所に初土俵を踏んだ。姫路藩のお抱え力士で「高見山大五郎」の名で1869年明治2年)11月場所に幕内に上がった。しかし明治維新の混乱期で抱えを解かれ、他の力士が他藩に鞍替えする中でこれを糾弾、姫路藩から改めて年75両扶持で抱えられ「高砂浦五郎」の四股名を与えられた。

[編集] 「高砂改正組」事件

高砂の名を歴史にとどめることとなったのが1873年(明治6年)11月場所で起こした脱退事件、通称「高砂改正組」事件である。

幕下時代だった1868年慶応4年)、相撲会所を牛耳っていた年寄玉垣伊勢ノ海らの専横に抗議して、250名もの力士の連判状を組織した。当時は一部の年寄によって巡業や興行の利益が独占され、力士たちには満足な分配がなかったという。この一件は仲介もあり幕下力士以下の待遇改善が約束されたものの、玉垣らはこれを反故にしていた。

高砂は沈黙を守っていたが、1873年に巡業地の岐阜で、かつて同じ姫路藩抱えだった大関綾瀬川らに改革の意思を打ち明け、多くの力士たちの賛同を得て名古屋に陣を構えた。しかし年寄勢説得のために東京に戻った綾瀬川が逆に言いくるめられて寝返り、11月場所の番付で高砂・関脇小柳常吉らの名前が墨で塗りつぶされる事態となった。綾瀬川には以前に姫路藩から他藩に鞍替えしないという誓約を破られたことがあり、再び裏切られた(詳細は綾瀬川山左エ門を参照)。

これを知った高砂は会所からの脱退を決意、数十名の力士を連れて「高砂改正組」を旗揚げした。改正組は名古屋を本拠に京都相撲・大坂相撲とも手を組んで興行を続けた。この間神田にも本拠を構えたが東京府が東京会所のみに興行権を与えるなどして行き詰まりも見せた。1878年(明治11年)、後援者らの仲介もあって調停が成立、対等合併という形で高砂らは会所に戻ることとなった。高砂は検査役(現在の勝負審判)に就いた。

なお2007年(平成19年)11月場所で時津海が引退し時津風を襲名したことに伴って西前頭11枚目に位置する予定だった時津海の名が番付から消え空欄となった。上記の高砂らの一件以来134年ぶりのことだった。

[編集] 権勢と終焉

会所に戻った高砂は徐々に権勢を増していった。1883年(明治16年)には取締の地位に就き、数々の改革を実現した。1889年(明治22年)には会所を「東京大角力協会」と改め(1927年(昭和2年)の東西合併までこの名称)、力士の給金制度や利益の配当方法などを定めた規約を制定した。要求の多くを規約として実現させた高砂は、最高権力者として持ち前の政治力で協会を牛耳っていった。

年寄としても横綱初代西ノ海小錦、大関大達一ノ矢初代朝汐らを育て、高砂部屋は角界の一大勢力にまでなった。

しかし次第に高砂の横暴が目立つようになっていった。1889年にはこれまであった高砂の年寄名跡高島に改めさせられた(これに伴い高砂の名跡は彼を初代としている)。また1890年(明治23年)には番付外に張り出されるのを嫌った西ノ海の地位が「横綱」として張り出されることになり、これが横綱の地位化の始まりとなったが、これも高砂権勢下の事件といえる。他にも専横を振るう高砂に反発も少なくなかったが高砂は1891年(明治24年)に「永久取締」就任を宣言した。これに初代梅ヶ谷らが猛反発、警視総監の立ち合いで調停され「永久取締」宣言の放棄で収束した。

そして1895年(明治28年)6月場所6日目、西前頭筆頭鳳凰と西ノ海の取組で鳳凰の寄りに西ノ海がうっちゃりを見せたが踵が蛇の目を掃いた。軍配は鳳凰に上がったが物言いがつき、もめているところに高砂が現れ、蛇の目を手で払い西ノ海の足跡を消すと「この土を掘れば俵だ」と言い放った。これに西方力士が反発し事態は混乱、後に勝負預かりとなった。

これが伏線となり、翌1896年(明治29年)1月、大関大戸平・関脇大砲以下西方力士33人が団結して場所を休場、料亭中村楼に立て籠もった。大戸平らは「不正なる取締の配下にあるを潔しとせず」とする檄文を協会に送った。年寄らは責任を持って改革にあたるとの回答を送り1月場所は興行されたが、回答した年寄らは雷はじめ西方力士派の面々であり、いわば西方力士と年寄一体となった高砂排斥となった。この事件は「中村楼事件」と呼ばれる。これを機に高砂は取締の座を追われて権力を失い、世は2代梅ヶ谷常陸山が対立する「梅・常陸時代」へと移り変わっていった。

[編集] 主な成績

  • 幕内成績:40勝17敗4分19休 勝率.701
  • 幕内在位:9場所(ただし1873年11月は脱退により名前が消される)

[編集] 関連項目

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最終更新 2009年9月25日 (金) 14:33 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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