高等女学校令
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| 高等女学校令 | |
|---|---|
| 法令番号 | 明治32年勅令第31号 |
| 効力 | 廃止(中等学校令による) |
| 種類 | 教育法 |
| 主な内容 | 高等女学校の体制など |
| 関連法令 | 中学校令、中等学校令、学校教育法など |
| 条文リンク | 高等女学校令(『学制百年史』資料編、文部省) - 文部科学省 |
高等女学校令(こうとうじょがっこうれい、明治32年2月8日勅令第31号)とは1899年(明治32年)2月8日に公布され、1943年(昭和18年)1月21日に廃止された勅令である。
目次 |
[編集] 年譜
- 1867年(慶応3年):五箇条の御誓文
- 1871年(明治4年):文部省設置(大学ヲ廃シ文部省ヲ置ク)
- 1872年(明治5年):学制公布
- 1873年(明治6年):学制による大学区分制定
- 1879年(明治12年):東京学士会院規則
- 1879年(明治12年):教育令公布
- 1880年(明治13年):教育令改正
- 1886年(明治19年):学校令公布
- 1886年(明治19年):帝国大学令発布
- 1886年(明治19年):師範学校令発布
- 1887年(明治20年):学位令発布
- 1888年(明治21年):官立大学・官立高等学校制定
- 1890年(明治23年):教育勅語
- 1894年(明治27年):高等学校令
- 1898年(明治31年):高等女学校令
- 1898年(明治31年):私立学校令
- 1898年(明治31年):図書館令
- 1900年(明治33年):小学校令全面改正
- 1903年(明治36年):国定教科書制度
- 1903年(明治36年):専門学校令
- 1907年(明治40年):小学校令改正
- 1918年(大正7年):大学令
- 1918年(大正7年):高等学校令
- 1920年(大正9年):帝国美術院規程
- 1920年(大正9年):学位令改正
- 1926年(昭和元年):幼稚園令
[編集] 沿革
高等女学校令(明治32年勅令第31号)は従来、中学校令(明治19年勅令第15号)14条[1]および高等女学校規程(明治28年文部省令第1号)[2]に基づく尋常中学校の一種として設置された高等女学校について新たに独立した勅令を定めて、その内容を充実拡大させたものである。
本令は制定後、4回の改正を経て[3]中等学校令(昭和18年1月21日勅令第36号)によって廃止された。
[編集] 内容
[編集] 高等女学校規程
高等女学校令は、高等女学校規程(明治28年文部省令第1号)をその元としている。文部省の『学制百年史』(1981年(昭和56年)発行)によれば、高等女学校規程の内容は以下の通りである(丸カッコの内容は引用者による修正)[4]。
- 高等女学校規程は学科目、修業年限、入学資格、附設課程等の規定をおもな条項とした。高等女学校の修業年限は6年とし、土地の状況によっては1年の伸縮を認め、入学資格は修業年限4年の尋常小学校を卒業した者と規定した。また修業年限に関して「入学生徒ノ資格ヲ高ムルニ従ヒ」3年まで短縮することができるとした。教授日数は年間約40週とし、毎週の教授時数はおよそ30時とした。その他2年以内の補習を受けさせることができるとし、また技芸専修科の附設課程について規定した。
- 尋常中学校と比較して修業年限は1年長くなっているが、入学資格の点では2年低くしたので、卒業年齢は1年程度低くなっている。修業年限に1年の伸縮を認めたのは、女子の高等普通教育は必ずしも男子と同型にする必要がないとの立場から土地の状況によって適宜修業年限を決定できるようにした。また入学者の資格が高くなるに従って修業年限を短縮することができるとしたのは「高等女学校ニ於テ必シモ下級生ヨリ生徒ヲ養成スルノ必要ヲ認メス経済上便益ヲ与ヘテ其設立ヲ容易ナラシメントスルニ依ル」ためであるとした。このように(明治)28年の高等女学校の規程は女子中等教育制度を詳細に規定した最初のものであるとともに、高等女学校に関するかねてからの方策がここに成就したのである。このようにして女子中等教育の制度をしだいに整えてきたが、さらに(明治)32年、独立の高等女学校令を公布するに及んで著しい発展を見るようになった。
- なおこの規程は「本令ニ依ラサル学校ハ高等女学校ト称スルコトヲ得ス」としたため、全国の高等女学校はこの規程に準拠して規則を改正することとなった。高等女学校規程によって示した標準は入学資格や修業年限の点で尋常中学校と比較して一段低いものであった。
[編集] 高等女学校令
文部省は1890年代末期に、諸学校制度の改革を行った。その一環として高等女学校に関しても中学校令から分離し、独立の学校令によって規定することとした。1899年(明治32年)に従来の高等女学校規程を改めて、高等女学校令(明治32年勅令第31号)を公布した。これにより女子中等教育機関は独立の学校令を持ち同令に基づいて設置運営され、内容も整備されることとなったためその後、高等女学校が著しい振興をみせた。文部省の『学制百年史』によれば、高等女学校令の内容は以下の通りである(丸カッコの内容は引用者による修正)[4]。
- この高等女学校令の規程は中学校令に準じたものであって、だいたい同様な方針で学校の性質を規定した。高等女学校の目的は、「女子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為ス」と定めたように、中学校の高等普通教育と同様な概念でその目標を示すこととした。しかし、女子中等教育機関のほとんどすべてが、高等女学校であって、男子のように実業教育の制度と高等普通教育の制度とを並立させる形としなかったために、高等女学校独自の方針を採用できた。高等女学校令制定について樺山文相(樺山資紀文部大臣)は、(明治)32年7月の地方視学官会議において、女子高等普通教育に関して次のように説明した。高等女学校は「賢母良妻タラシムルノ素養ヲ為スニ在リ、故二優美高尚ノ気風、温良貞淑ノ資性ヲ涵養スルト倶ニ中人以上ノ生活ニ必須ナル学術技芸ヲ知得セシメンコトヲ要ス。」ここでは、女子の高等普通教育が中流以上の社会の女子の教育であり、その特質がいわゆるのちの「良妻賢母主義」の教育にあることを明らかにしていた。
- 高等女学校の修業年限は4年を基本とし、土地の状況によって1年の伸縮を認めた。また2年以内の補習科を置くことができるとした。その入学資格は従来、修業年限4年の尋常小学校卒業者であったのを改め、男子の中学校と同様に年齢12歳以上で高等小学校第2学年修了者とした。さらに高等女学校においては技芸専修科、専攻科を置くことができるとした。4年を基本型とし、3年から5年にわたる多様な修業年限を認め、補習科のほか技芸専修科、専攻科の課程を設置するとしたことは男子の高等普通教育とは異なった編制をとったものであり、多様な要望を考慮した女子のための特有な中等教育制度としたのである。特に修業年限の点で、中学校より程度の低いものとして位置づけたこととなる。(中略)
- 高等女学校の設置に関しては北海道および府県においては高等女学校を「設置スヘシ」とし、その設置を府県に義務づけた。郡市町村および町村学校組合も高等女学校を設置することができるとした。さらに私人の設置についても認めている。
- 高等女学校令は中学校令と同様に、目的、設置・廃止、修業年限、入学資格、附設課程、「学科及其ノ程度」、教科書、教員資格、編制・設備、授業等について基本事項を規定した。またこれらの規定に準拠しない学校は「高等女学校ト称スルコトヲ得ス」として、法制上の基準を明確にした。なお本令施行上必要な規則は文部大臣が定めるものとしている。
また、文部省は、高等女学校令に基づいて、1899年(明治32年)2月に「高等女学校編制及設備規則」(明治32年文部省令第5号)、「高等女学校学科及其程度ニ関スル規則」(明治32年文部省令第7号)、同年3月に「中学校及高等女学校設置廃止規則」、「高等女学校教員ニ関スル件」、同年4月に「師範学校・中学校及高等女学校建築準則」等を制定した。1901年(明治34年)3月22日には、文部省は「高等女学校令施行規則」(明治34年文部省令第4号)を制定し、これにより教員資格に関する事項を除いた関係諸規則が中学校の場合と同様に、施行規則に総括されることとなった。
[編集] 改正
[編集] 1907年改正
1907年7月18日、高等女学校令中改正ノ件(明治40年勅令281号)により高等女学校令を改正した。
この改正は修業年限に関して義務年限延長に伴う措置として、入学資格を年齢12歳以上で尋常小学校卒業者と改めるものである。また修業年限1年の伸縮を認めていた従来の規定を改めて1年の延長だけを認めることとして、修業年限4年と5年の2種類とした。これにより、中学校の修業年限(5年)と同等の状態に一歩近づけた。
[編集] 1910年改正
1910年10月26日、高等女学校令中改正ノ件(明治43年勅令第424号)により高等女学校令を改正した。
この改正は日露戦争後に著しく増設された、新しいタイプの女子教育を施す学校について規定するものである。すなわち女子に対して実生活に必要な技芸を主として授ける学校でありその教育内容は高等女学校と異なるため、準拠する規程がなかったのである。そこで実科教育を主とした高等女学校の制度を設け簡便であってしかも家庭婦人としての実生活にただちに応ずることのできる教育を行なう学校を設けることとし、そのため高等女学校令の改正を行なった。文部省の『学制百年史』によれば、その内容は以下の通りである(丸カッコの内容は引用者による修正)[4]。
- (明治)43年10月高等女学校令の改正を行ない、技芸専修科の規定を改め、第十一条において高等女学校においては主として家政に関する学科目を修めようとする者のために実科を置くこと、または実科だけを置くことができ、実科だけを置く高等女学校の場合にはその名称に実科の文字をつけなくてはならないと定めた。これによって実科高等女学校が成立することとなった。実科の修業年限は、1)尋常小学校卒業程度を入学資格とする場合は4年、2)高等小学校第1学年修了程度を入学資格とする場合には3年、3)修業年限2年の高等小学校卒業程度を入学資格とする場合には2年、ただしこの場合には1年を延長することもできる、と定めた。したがって実科高等女学校には、4年・3年・2年の3種があることとなったのである。学科目に関しては、高等女学校令施行規則を改正をして定めたが、修業年限の異なる3種類の学校に対応して学科目および毎週教授時数を示した。それによると実科においては裁縫に多くの時間を当てていること、実業を加えることを特色とした。これによって女子の実科教育の特質に合致する方法を指示したのであるが、この教育方針によって家政を主とした女子の高等普通教育機関が設けられることとなった。当時訓令をもって改正の要旨を次のように述べた。「近時女子教育ノ進歩ニ伴ヒ実科的各種学校ノ設置ヲ企画スルモノ漸ク多キヲ加ヘントス然ルニ郡市町村等ノ如キ公共団体ニ於テハ之ヲ設置セントスル何等規定ノ拠ルヘキモノナクシテ不便ヲ感スルコト尠シトセス而シテ従来高等女学校ニ於テハ土地ノ情況ニ応シテ其ノ学科課程ニ斟酌ヲ加フルノ余地ヲ存セサルニアラスト雖主トシテ家政ニ関スル学科目ヲ修メントスル者ニ対シテ未タ適切ナラサル憾アリ是レ今回ノ改正ニ於テ高等女学校ニ実科ヲ置クコトヲ得シメ其ノ学科課程ニ於テ特ニ裁縫ニ重キヲ置キ実業ヲ加へ且ツ土地ノ情況ニ応シ学科目及其ノ毎週教授時数ヲ変更スルコトヲ得シメ又選科生ヲ置キテ事情已ム能ハサル者ノ為ニ簡易学修ヲ開キタル所以ナリ。」引き続いて実科高等女学校の教授要目を定め、高等女学校には2つの課程が成立することとなった。高等女学校の実科は男子の場合の実科中学校とは異なって、家政を主として婦人としての実務教育を施すもので、男子の場合の実業要項を加える方針とは著しい差異がある。なお、これを地方の生活に即応する簡易な女子中等教育施設とし、高等小学校に附設することも認めたのであって、中等教育普及のための一つの方策としたのである。
[編集] 1920年改正
1920年7月6日、高等女学校令中改正ノ件(大正9年勅令第199号)により高等女学校令を改正した。
この改正は、臨時教育会議の女子教育の改善に関する答申に基づいて行われたものである[5]。高等女学校は「女子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為スヲ以テ目的トス」という従来の規定に、「特二国民道徳ノ養成二カメ婦徳ノ涵養二留意スヘキモノトス」との文言を付加した。また、市町村学校組合も高等女学校を設置することができるとしたのは中学校令と同様である。修業年限は5年を基本とし、4年も置くとした。土地の状況によっては3年とすることもできた。これは、従来の4年を基本とした制度を改めたものである。さらに従来の専攻科の他に新たに高等科を設置し、それぞれ修業年限を2年または3年とし高等女学校卒業者に対して専門教育または精深な程度における高等普通教育を施すこととした。これらはいずれも答申に掲げられた方策を実施したのであるが、女子教育の発達を背景としたものであった。
この時期、高等女学校は大きな発展をみた[6]。1917年(大正6年)から1936年(昭和11年)の高等女学校(実科高等女学校を含む)数は395校から985校となり約2.49倍の増加であり、生徒数は10万9,857人から43万2,553人となり3.93倍の増加を示している。高等女学校の場合、中学校のように昭和初年にみられた停滞傾向は示さなかったが大正後半期の伸びが顕著であった。1936年(昭和11年)の高等女学校数および生徒数を1900年(明治33年)の学校数、生徒数と比較すると学校数で18.9倍、生徒数で36.18倍の増加となっている。以上は実科高等女学校を含めた数であるが実科高等女学校数だけについてみると1917年(大正6年)から1936年(昭和11年)に157校から179校、生徒数は2万3,427人から2万9,475人となっている。実科高等女学校数は1929年(昭和4年)が最も多く213校となったが、それ以後減少の途をたどった。
[編集] 1941年改正
1941年3月1日、高等女学校令中改正ノ件(昭和16年勅令第150号)により高等女学校令を改正した。
この改正は国民学校令(昭和16年勅令第148号)に基づき、従来の尋常小学校・高等小学校・尋常高等小学校を国民学校とする改正に伴うものである。
[編集] 中等学校令
1943年1月21日、中等学校令(昭和18年勅令第36号)附則17条により高等女学校令は廃止された[7]。
中等学校令は中等学校の目的・種類・設筺・修業年限・入学資格・付設課程・教科書・授業料等の一般的事項を規定したものである[8]。中等学校は「皇国ノ道ニ則リテ高等普通教育又ハ実業教育ヲ施シ国民ノ錬成ヲ為ス」こととして中堅皇国民の練成を主眼とし、高等普通教育または実業教育を施すこととした。高等普通教育を施す中学校、高等女学校と実業教育を施す実業学校、これらを一括して中等学校としたのでありその意味では従来の中等学校の性格を大きく変えるものではなかった。
1943年(昭和18年)3月2日、「高等女学校規程」(昭和18年文部省令第3号)を制定しこれを同年4月1日から実施した。高等女学校の制度に関しては修業年限を4年としほかに国民学校高等科卒業程度を入学資格とする2年のものを認め、さらに修業年限3年の夜間高等女学校を認めた。補習科を廃止し高等科および専攻科を存続させたこと、実科高等女学校の名称を廃止したこと、第3学年以下における実業学校との転校を認めたことなどが主な改革点として注目される。
この中等学校制度も同日から実施したが、修業年限の規定については同年4月入学の者から適用することとなった。しかし時局の緊迫に伴い学徒勤労作業の強化、実業学校卒業期の繰り上げ、工業学校への転換、学校報国隊活動の強化、学徒動員等によって戦時教育体制はいよいよ強化され中等教育もまた、その改革よりはむしろ戦時における国家的要請に即応する体制へと急速に推し進められていった。
なお、戦時下の高等女学校数および生徒数は急激に増加している。1937年(昭和12年)から1943年(昭和18年)までの間に高等女学校数および生徒数は996校(実科高等女学校を含む。うち高等女学校は818校)、45万4,423人(同42万4,948人)から1,299校(高等女学校のみ)、75万6,955人(同)となっている。わずか数年間で学校数および生徒数は1.7倍程度の飛躍的な増加を示した[9]。
[編集] 脚注
- ^ 中学校令中改正追加ノ件(明治24年勅令第243号)による改正後の中学校令。このとき、学校制度に関する規定のうちに「高等女学校」の名称がはじめてあらわれた。もっとも改正令公布当時にはすでに「高等女学校」としては東京女子師範学校付属高等女学校があり、ほかにも女子に対して中等教育を行う公私立の教育機関は存在した。
- ^ 高等女学校規程(明治28年文部省令第1号)、高等女学校規程ニ関スル説明。
- ^ 明治40年勅令第281号、明治43年勅令第424号、大正9年勅令第199号、昭和16年勅令第150号の各「高等女学校令中改正ノ件」による4回の改正である。
- ^ い ろ は 「高等女学校令の制定」、文部省『学制百年史』、1981年。
- ^ 「中学校・高等女学校の改革」、文部省『学制百年史』、1981年。
- ^ 「中学校・高等女学校の発展」、文部省『学制百年史』、1981年。
- ^ 中等学校令(昭和18年勅令第36号)。
- ^ 「中等学校制度の再編」、文部省『学制百年史』、1981年。
- ^ 高等女学校の学校数・教員数・生徒数の推移は、「1882年(明治15年)から1916年(大正5年)」および「1917年(大正6年)から1949年(昭和24年)」。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 高等女学校令の制定 - 文部科学省
最終更新 2009年9月20日 (日) 12:27 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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