魚津城の戦い

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魚津城の戦い
戦争戦国時代
年月日天正10年(1582年)3月11日
天正10年(1582年)6月3日
場所越中国魚津城周辺
結果:上杉方の守将自害、落城。織田軍の勝利。
交戦勢力
織田軍 上杉軍
指揮官
柴田勝家
佐々成政
前田利家
佐久間盛政
中条景泰
吉江宗信
戦力
約40000 約3800
損害
不明 不明

魚津城の戦い(うおづじょうのたたかい)は、天正10年(1582年)に行われた柴田勝家を総大将とする織田信長軍と上杉景勝軍との戦い。

目次

[編集] 開戦までの経緯

上杉謙信の没後、織田信長は北陸地方の支配を目論んだ。天正9年(1581年)に起こった荒川の合戦以後は、事実上、織田方に仕えているが上杉方に内通していた願海寺城主・寺崎盛永木舟城主・石黒成綱などが信長によって次々と粛清され、北陸地方における織田氏方の基盤が作られていった。だが天正9年(1582年)に織田に仕える小島職鎮が上杉景勝と手を組み、神保長住富山城を急襲し城を乗っ取った。それに逆上した信長が天正10年(1582年)3月11日に柴田勝家・佐々成政前田利家佐久間盛政を大将にして1万の軍勢を率い、富山城を攻めさせ奪還した。その後織田軍は軍勢を4万に増やし魚津城へ進撃、上杉氏も約3800の兵を挙げ立てこもり、開戦となった。

[編集] 合戦の展開

魚津城を早くも包囲された上杉方指揮官の中条景泰はすぐに上杉景勝に救援を求めるが、越後国に接する信濃国及び上野国には武田征伐を終えた織田軍が駐屯しており、さらに越後・新発田城主の新発田重家が景勝の領内侵攻の姿勢をとった為、兵を出せず救援を断った。その代わり能登国の諸将、および松倉城上条政繁斎藤朝信を派遣した。そして景勝は天正10年(1582年)5月4日に魚津城救援のため、自ら軍勢を率い春日山城を出発、5月19日には魚津城東側の天神山城に入り陣を張った。一方織田軍は5月6日に二の丸を占拠したため、景勝は魚津城に戦を仕掛けられず、信濃国・海津城森長可や上野国・厩橋城滝川一益が景勝の本拠、春日山城を総攻撃する態勢に入ったため、5月27日に退陣を決断した。その後、上杉軍は篭城戦を展開し両軍が決死の攻防戦を繰り広げたが、開戦から3ヶ月後の6月3日に落城を悟った山本寺孝長吉江宗信吉江景資吉江資堅・寺島長資・蓼沼泰重安部政吉石口広宗・若林家長・亀田長乗・藤丸勝俊・中条景泰・竹俣慶綱ら上杉方の守将13人が自刃して果て、魚津城は落城し織田軍の勝利となった。

[編集] 開戦後の結末

上杉景勝は織田信長に北陸地方を支配され窮地に立たされたが、6月2日に織田信長が本能寺明智光秀により討たれ(本能寺の変)、主君の死に驚いた織田勢は全軍撤退した。空城となった魚津城には須田満親を中心とする上杉勢が入り、越中東部における失地を奪還するが、越中平定を目指す佐々成政に押され城を再び開け渡した。

[編集] エピソード

  • 上杉景勝が撤退した後、上杉方は落城が近い事を悟った守将13人が自刃する際、自分の耳に穴を開けて、自分の名前を書いた木札を全員で結び自刃したという。
  • 落城前日の6月2日に、織田信長が明智光秀により討たれ(本能寺の変)、織田軍指揮官の柴田勝家に急報が入ったのは落城の翌日6月4日であり、この急報があと1日早ければ、守将自刃の悲劇は起きなかった。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年12月5日 (土) 00:14 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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