鴻池財閥

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鴻池家
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本姓 宇多源氏佐々木氏族
家祖 鴻池正成(山中元英)
種別 華族男爵
出身地
主な根拠地 摂津国伊丹村
著名な人物
支流、分家
凡例 / Category:日本の氏族

鴻池財閥(こうのいけざいばつ)は、徳川時代の日本最大の豪商で財閥鴻池家が、摂津国伊丹村(現・兵庫県伊丹市)で清酒醸造を始めたことにはじまり、これを江戸に送って酒の製造・販売を発展させた。

始祖・新六には男子が多数あり、鴻池家初代とされる正成は八男である。二男の善兵衛秀成は早くも元和元年(1615年)に大坂へ移り、醸造を始めた。同5年には新六も大坂内久宝寺町に店舗を設け、醸造を営んだ。寛永2年(1625年)には正成は九条島にて海運業を始め、後には西国大名参勤交代の運輸を担当するようになった。海運業の創始は、大坂から江戸への酒積みが多量となり、陸路駄馬で運んでいては間に合わず、海上輸送を行うことにしたのである。

海上輸送で米を運んだことから、大名の蔵物の取り扱い、その関係からの大名貸が始まる。明暦2年(1656年)には両替店を開店し、町人貸しや大名貸しで繁栄した。寛文10年(1670年)には幕府御用の両替商として、十人両替という地位にも就いた。鴻池は酒造・海運・金融(大名貸、両替商)という、一見相互に無関係の業務を営む形になった。

後に、鴻池は海運、酒造から手を引き、金融業と大名貸中心となり、成長を続けた。全国百十藩が鴻池家からの融資を受けていたと言われる。徳川時代にあっては、徳川家はもとより各藩に財務能力が乏しく、民間人である豪商に丸投げする形で財務管理を行った。升屋の山片蟠桃 に典型的なように、債務を履行させるために豪商が人材を派遣し、藩政を大きく動かすこともしばしば行われた。大名貸し以外には、この時代に鴻池家が営んだ事業としては、三代目の鴻池善右衛門宗利が着手した、鴻池新田の開発なども有名である。

幕末には鴻池家の資産は銀五万貫にも達しており、「鴻善ひとたび怒れば天下の諸侯色を失う」とまで言われた。「鴻池の犬 」という落語があるが、日本を代表する豪商として徳川期を通じて広く知られ、長く繁栄した。また三代目の鴻池善衛門の弟又四郎は、彼自身も商家として大をなしたが、三星屋武右衛門・富永芳春(道明寺屋吉左右衞門)・舟橋屋四郎右衛門・備前屋吉兵衛らとともに、官許学問所懐徳堂 の設立や運営にも力を貸したことで有名である。

鴻池家は代々、茶人文人趣味の当主を輩出し、表千家とも縁が深く、明治始めの当主、十代幸富も「粋の神」と言われた当代随一の数寄者・千草屋平瀬露香を交友とし、俳諧 を好むといった風流人であった。明治大正期を通じて、その邸では玄関先でを飼っていたという。十一代当主幸方の次男、鴻池幸武も並外れた通人で、浄瑠璃研究の第一人者として知られる。

明治維新によって実際にはそれほど大きな痛手を蒙らなかったものの、鴻池家は維新後も、金融業から他の事業へ営業分野の拡大はあまり図らなかった。維新後のいろいろな起業の発起人には多く鴻池善右衛門が名を連ねているが、同家の名声を利用するために誘い込まれたものも多い。明治以降の鴻池家の営業方針は堅実を旨としていたため、政商としての性格を色濃く持つ三井のように、藩閥政府の成長政策と歩調をあわせて急速に発展することはできず、銀行も他の諸銀行に次第に抜かれ、一地方銀行へと後退していった。その後も長らく日本有数の富豪としての地位を保ち、明治44年1911年男爵に叙爵。1933年12月、鴻池銀行三十四銀行山口銀行の3行が合併し、三和銀行が創立された。第二次大戦後は財閥解体農地改革によって甚大な被害を受けた。

往年の鴻池男爵家本邸の一部は、現在大阪美術倶楽部として公開されている。

なお、現在の鴻池組(在阪の準大手ゼネコン)およびそこから分かれた鴻池運輸とは直接の連続性はなく、またその創業者で大侠客として知られた鴻池忠治郎の弟鴻池藤太郎の孫である参議院議員鴻池祥肇も、本人も認めているように江戸期の財閥鴻池家とは結びついていない。

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最終更新 2009年11月9日 (月) 09:32 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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