鶴瓶上岡パペポTV

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鶴瓶上岡パペポTV
ジャンル トーク番組
放送時間 火曜日24:50~25:45 他(55分)
放送期間 1987年4月14日~1998年3月31日
放送国 日本
制作局 讀賣テレビ放送
プロデューサー 岡島英次
池田智
白岩久弥
出演者 笑福亭鶴瓶
上岡龍太郎

鶴瓶上岡パペポTV(つるべ かみおか パペポてれび)は、よみうりテレビが制作し、日本テレビ系列で放送された深夜トーク番組

1987年4月14日から1998年3月31日まで、讀賣テレビ放送の本社スタジオでの公開収録という形をとって放送された。番組開始当初は毎週水曜日に収録していたが、1991年頃から月曜日収録に変更。(生放送はパペポシアター開催時と500回記念の2回だけ)。「パペポTV」としては1998年で終了したが、番組は同年7月から同趣旨の「LIVE PAPEPO 鶴+龍」に移行し、2000年まで続けられた(後述)。

目次

[編集] 概要・エピソード

[編集] 放送状況

制作局・よみうりテレビでの番組開始当初は火曜日深夜24:50 - 25:45の放送であったが、後に金曜日深夜25:10 - 26:05に枠移動。その後、前番組の放送時間帯が深夜枠に食い込むに従い、25:25 - 26:20放送→25:40 - 26:35放送と少しずつ放送時間帯が遅くなって行く。最後の半年は再び火曜日の放送(深夜25:40 - 26:35)に戻る。

日本テレビでの放送は、1988年10月のネット開始当初は月曜日深夜 25:10 - 26:05に放送されていた。最初の3回は「入門編」と称して過去の内容が放送されていた。そして、湾岸戦争時の影響による1990年12月1991年3月の放送休止時期を経て(フジテレビの『上岡龍太郎にはダマされないぞ!』で突然発表された。ただし、1991年の新春SPだけは放送された)、復活後は当初水曜日深夜26:30 - 27:25の放送となり、2ヵ月後元の曜日と時間帯に戻り、1994年10月にいったん木曜日深夜25:40 - 26:35に移動し(これは東京タワーのアンテナのメンテナンスのため月・火が早終了のためだった)、1995年4月には関西と同じ曜日で35分遅れの金曜深夜26:15 -27:10に移動し(ただし当日のものではなく、原則1週遅れでの放送であった)、番組終了まで続いた(ただし、最終回に限っては放送日の都合上、日本テレビでの放送が読売テレビよりも先行されたため、日本テレビでは最終回前週分は未放送)。

地方局での放送も深夜時間帯で、地方によっては途中でネットが打ち切られたり、逆に開始された局もあり、中には東海地区の中京テレビなど、途中で一度打ち切られた後しばらくしてからネットを再開した地域もあった。放送曜日・放送時間は地域によりバラバラであったが、石川県テレビ金沢に限ってなぜか土曜日の朝 9:30 - 10:25に放送されていた時代があった(開局当初はNTV同様月曜日深夜 25:10 - 26:05の放送であった)。(※以上の時間表記は全てJST

[編集] ルーツ

この番組は、よみうりテレビのディレクター(当時)の白岩久弥と構成の疋田哲夫が「(笑福亭)鶴瓶で番組を作ろう」と企画したのが始まりで、鶴瓶が共演相手に上岡龍太郎を指名して番組が始まることになった。しかし、肝心の番組内容がなかなか決まらず、結局「2人に決めてもらおう」ということで、1987年3月に特番で「鶴瓶上岡・激突夜話」(つるべかみおか・げきとつやわ)が組まれる。ここでの2人の会話が後のパペポTVのスタイルになっている。

実は番組開始前、上層部やスポンサーは鶴瓶と上岡の2人のトークだけで60分の番組を作るという企画内容に難色を示していた。このため白岩は、実際の番組企画とは異なった色々なコーナーを織り交ぜたニセの番組企画書を作成し(数人の一般参加者に面白エピソードを披露してもらい、誰が一番面白いかを決める「全日本雑談選手権」など)、企画が通るや否やこれを翻し、自分のやりたかったトーク一本の番組を作るという強引な手法で番組の放送枠を獲得したというエピソードがある。

2008年8月3日に放送されたヤングタウン日曜日での鶴瓶と疋田の発言によると、当初の企画では、上岡ではなく野坂昭如とのコンビで番組を作る予定であったという。しかし、様々な諸問題があったために、この企画は立ち消えになった。

[編集] 番組タイトル

ワフルな二人がアを組んでップなノリで話を提供する」の略と一般的に言われているが、これは後からあいうえお作文として作られた文章であって、タイトルの由来ではない。本当のところは、大きく口を開けて、その中に握りこぶしを突っ込みながら、関西弁女性器を発音すると、そう聞こえることから名づけられた。番組タイトル案は50種類用意されていたが、49番目に作られたこの意味不明の余り物的なタイトルがスポンサーの郵便局(=当時の近畿郵政局)に気に入られて、採用されたという経緯がある。鶴瓶は新春番組「おめでとう!パペポ」のタイトルを、番組内で「おめポ」と略したことがある。また上岡も「マラソンパペポ」という企画はどうかというを話をしていた際に「マラポ」と略して言ったことがある。

[編集] ぶっつけ本番のトーク番組

タイトルが示すとおり、鶴瓶と上岡の2人が、60分間トークのみという形式。最近の時事問題から2人の身近な話題に至るまでシナリオなし、ぶっつけ本番の毒舌トークを展開。放送禁止用語も多く飛び出し、観客・視聴者を笑いの渦に巻き込んだ(実際には台本はあったのだが、「オープニング、2人が登場、舞台の中央に立ってエンディングまで止めずに収録」というように、番組の進行上の取り決めが記載されているのみで、どういう話をするかと言う、内容上の事は全く書かれていなかった)。また、60分番組(CMを除くと実質47~48分)であるがスタジオでの収録時間も50分~60分前後しか行われず、エンディング後の観客とのやりとりを除いてほとんどカットされずに使用されていた(ただし、後期には収録終了後の模様も時々放送されていた)。

ゲストは通常呼ばずに2人で進行するのであるが、ほぼ毎年恒例となっていた新春スペシャルでは横山ノックが登場。大阪府知事になった後でもよほどのことでない限り登場した(1993年のみ出演しなかった)。他には通りすがりに横切ったあのねのね、酔って乱入し暴れた桂ざこば(当時は桂朝丸)、交通標識を倒し逮捕された顛末を話した北野誠、横山ノック以外では唯一複数回(3回)ゲスト出演した大空テント、客席から引っ張り出された甲斐よしひろ、相撲甚句を歌わせるために呼ばれた桂文福、そして第8回目の放送で乱入して性的な発言を連呼し、この回に限り郵便局がスポンサーを降りる事件にまで発展した元AV女優黒木香、鳩に色彩をつけようとしてスプレーを吹き付け、羽を固めてしまったことが番組で話題になった手品師、一陽斎蝶一などがある。 ゲストではないが、鶴瓶の話を補足するために笑福亭晃瓶・笑福亭瓶二も登場した回があった。

[編集] 関西ローカルから全国ネットの人気深夜番組へ

元々は関西ローカルの番組であったが、たまたま出張で大阪に来ていた日本テレビのプロデューサーの目に留まったのと、1988年10月から関東圏の民放各局が24時間放送体制を取ることになり深夜番組を大幅に追加する必要性が出たこともあって、同月より月曜日深夜の「週刊テレビ広辞苑」、水曜日深夜の「藤本義一のおもちゃ箱」とともに東京進出、全国ネット化する(全国ネット開始当時、日本テレビではこれらの番組はすべて月曜日の深夜に放送され、深夜1:10 - 2:05に「パペポTV」、2:05 - 2:35に「週刊テレビ広辞苑」、2:35 - 3:05に「藤本義一のおもちゃ箱」と、3本続けて放送されていた)。これが、その後、鶴瓶・上岡両名が全国的人気を定着させるきっかけとなった。

1990年頃のデータによると、平均視聴率は深夜1時過ぎからの放送にもかかわらず関西で5%、関東でも3%前後取っていた。テレビ番組ガイド誌の企画で「放送時間中は寝ているが、後でビデオ録画したものを視聴している層」を含めて視聴率を調査し直したところ、その合計はゴールデンタイムの人気番組並みの19%にものぼることが判明した。また、関東でも5%近いビデオ視聴者層がいた。このことからも、深夜番組としては異例の人気ぶりであったことが伺える。

芸能界でもパペポファンは多く、番組で紹介されただけでも黒柳徹子加賀まりこ梶芽衣子萩原流行加藤茶仲代達矢などがいた。また、松山千春は仕事で大阪で来た際、宿舎のテレビで当番組を見ていたく気に入り、「なんでこんな面白い番組を東京でやらんの? もったいないよ。ぜひ(東京で)放送するべきだよ」と自身のコンサートのMCで言っていた。

さらにロンドンブーツ1号2号田村亮は「高校時代、毎週のように観覧し、単位を落としそうになった」と鶴瓶に別の番組で共演した際に打ち明けた。

週刊少年ジャンプの「ジャンプ放送局」で有名なさくまあきらも、当番組の大ファンであり、前述の一時関東でのネットが中断されたときに復活を強く希望するコメントを寄せていた。

[編集] 無駄を省いた編集手法と「マル禁マーク」の発明

パペポでは、現在のトーク番組の基本ともいえる、突っ込みテロップ・話題になった人の顔写真・サイドスーパーなどを全くと言っていいほど使用しなかった。1996年の新春スペシャルのエンディングで客席へ質問を募集した際、観客から鶴瓶に対する質問の声が聞き取りにくかったため、フォローするためのテロップを使用したことがあるが、「鶴+龍」時代を含めて13年間の放送の中でトークの内容についてテロップ・スーパー類を使用したのは、このときの一回限りである。このことから、この番組では純粋にトークだけで勝負をしていた番組と言える。

ただ流石に、放送禁止用語や放送上不適切な発言をした場合は、当初は音のみをカットしていたが視聴者から「何を言っているのか分かる」と指摘されたため、テレビで見ても分からないように、口元を黒枠で隠し、後に顔全体を「○の中に『禁』」と書かれたサイドスーパーとサイレンの音で覆い隠した。「マル禁」と言われるこの編集手法は「パペポ」が発祥であり(初めて口元をマル禁マークで隠す手法を用いたのは第68回放送分、マル禁マーク自体の初出は第62回放送分)、後に形を変えて他の番組でも使用されていくこととなった(ただしあまりに話が長く続く場合は「そんなこんなで○分経過」の字幕もしくは砂嵐を挟んで次の話題に移ると言う手法をとった)。

また、稀にオープニングでの放送禁止トークが修復不能の状態に陥るときがあり、そのときはいったん収録を打ち切って再度オープニングからやり直したこともあったが、実際は修復不能となった部分もマル禁で対応してオープニングが二度流れる形で放送していた。(例 1990年6月8日放送)

1990年5月4日放送分で、鶴瓶・上岡両名が「今日はCMを気にせずトークする」というような発言をしたところ、番組開始から44分30秒経過するまでCMが一回も挿入されることなく放送された。その結果、最後のふるさと小包プレゼントコーナー(実質2分程度)の間とその直前にCMが4回まとめて放送されるという前代未聞の凄まじい編集が行われた。番組の編集を担当していた白岩久弥が二人の要望に対して柔軟な対応を見せていたことがよく分かるエピソードである。なお、立ちトークだけで終了した回はその後もう一回あったが、担当ディレクターが変わっていたこともあり(高津英泰・3代目ディレクターが担当)、このときはオープニングトークの合間に適宜CMを挟み込む編集がされていた。

[編集] 「原則当日先着順」異色のスタジオ観覧募集

収録は第1回~第65回放送分(1988年7月8日)まではよみうりテレビ旧社屋で行われ、新社屋移転後の第66回放送分(1988年7月15日)からは主によみうりテレビ本社第2スタジオ(収容限界人数約300名)を使用(※ただし1988年秋~90年秋は第2スタジオを夕方の帯番組「ざまぁKANKAN!」が使用していたため、第3スタジオ(面積及び収容人数は第2スタジオと同じ)または第1スタジオを使用していた)。また、新春スペシャルの収録や春休み、収録日が祝日に当たる場合等、観客の増加が見込まれる回の収録は通常のスタジオより大きい第1スタジオ(収容限界人数約600名)を使用していた。第1スタジオを使用する時の告知は番組内で「次回はちょっと大きいスタジオで収録します」というテロップが表示されていた。第216回放送分(1991年7月12日)には、新橋演舞場で収録が行われたこともある(鶴瓶がそこで上演されていた松竹新喜劇に出演していたことによるもの)。

公開収録も原則として事前申し込みが必要なく、予告された収録日に配布される入場整理券を入手すれば、自由に見学することが出来た。整理券の配布は番組開始当初収録日の夕方に配布されていたが、観覧希望者がスタジオの収容限界人数を大幅に上回るファンが集まるようになり、早朝から並ぶ観覧希望者が後を絶たなくなったため当日正午配布に繰り上げられ、その後更に朝9時半に繰り上げられた(観覧希望者は朝に整理券を受け取り一度解散して、夕方に再集合していた)。

しかし、上岡の「女性最々優先!!野郎(男)どうでもええ」という趣向のおかげで、女性グループ・単独女性が優先的に整理券を受け取ることとなる。入場の際も女性が全員入りきるまで男性は入場できない(男女混合グループは男性と見なされる)。そのため、早朝から並びやっとこさ整理券を受け取った男性ファンは夕方に再集合するが、夕方受付ぎりぎりにフラ~っと立ち寄った女性ファンが先に会場入りできるため、正午ぎりぎりに整理券を受け取った男性は入場出来ないこともあった。番組最盛期は、配布直後にも整理券が入手できないということがあり、入手できなかった男性達は後日電話で申し込むこともあった。

観客がスタジオに入場する際に、スタッフから小さな座布団が手渡され、床に敷かれたカーペットの上にそれを敷いて座って観覧するスタイルで、それが1人あたりの占有スペースの目安となっていた(カメラより後方はパイプ椅子、立ち見席が用意された)。また、本番中のカメラ撮影もフラッシュ禁止ではあるものの原則自由という、公開番組としては異例のファンサービスも行っていた(ただしフラッシュ付きのカメラにはスタッフが本番前にガムテープでフラッシュ部分を隠すという処置がなされていた。現代ではインターネットの普及とプライバシーの観点から、このようなファンサービスはまず不可能と考えられる)。

観覧スペースはほぼ毎回満杯の観客で埋まっていたが、大学の試験シーズンに当たる1月中旬~下旬だけは普段よりも相当閑散としており、男性客も前列で収録を観ることができた。なお、最終回の収録では最終的に1600人もの観覧希望者が詰め掛け、収録に使用した第1スタジオに入りきれなかった観客は第2スタジオ及びロビーに設置した巨大スクリーンで収録の様子を見るという処置が施された、という話がある。

よみうりテレビ旧社屋で収録が行われていた時代、観客は基本的にカメラの後方で観覧することになっていた(1988年新春スペシャル、1988年6月3日放送分を除く)。そのため、番組のエンディングの際に、鶴瓶・上岡両名が通称「鶴瓶ダンス」をしながら番組セットからカメラの方へ飛び出したり(1987年7月14日放送分)、「浜寺の水練学校」をテーマにした即興漫才が行われた際に、鶴瓶がオチとして「後は任したー!」と叫びながらカメラの方へ泳ぐようにしてフレームアウト(1988年7月8日放送分)というようなことがたびたび行われていた。新社屋移転後は、観客が番組セットの目の前に座って観覧するようになったため、前述のようなことは一切無くなった(例外として、第176回と第370回放送で無観客による収録が行われた際には、昔を懐かしむ形で前述の行為を再現していた)。

番組開始当初から中期頃までは両名のスケジュールの関係で2、3週分のまとめ撮りとなる場合も複数回分の収録を続けて観覧できたが、冬場に2徹した(月曜の収録を見るために土曜の深夜から並んで整理券の順番待ちをした)ファンが出現し「このままでは死者が出る恐れがある」と言う現象が起きた。この事件が起きてしばらくしてから1本目は収録当日の受付、2本目については葉書による事前申し込みで当選した者が観覧できるシステムに変更された。このシステムは朝から並べない京阪神地区以外のファンやサラリーマン、OLに対する救済措置にもなった。

新春スペシャルの収録が終わった後は、よみうりテレビ1階のロビーに観覧客を集め、その前で鶴瓶、上岡、ノック、及び白岩プロデューサーらが挨拶し、缶ジュースで乾杯して一年を締めくくる(新春スペシャルではあるが収録は年末に行われるため)のが恒例となっていた。また、新春スペシャルでは録画放送であるにも関らず「生放送」と嘘をつき、それを聞いた観客が笑うと鶴瓶が「何がおかしいんや」とツッコミを入れるシーンが毎年恒例となっていた。その際は、かならず「住吉神社」にみんなで行く、という設定になっていた。ジェットヘリで鶴瓶が東京から急いでやってきた、という設定も。また、大晦日の夜にフジテレビ系で鶴瓶と上岡のコンビが司会の特番が放送された年度の新春スペシャルは、日本テレビのスタジオから生中継という設定で放送された(もちろんウソ)。

[編集] 番組企画・イベント

番組のイベントとして、大阪・梅田のダイヤモンドプラザで開催した「パペポシアター」(1988年3月21日~27日)、大阪城ホールで2回(1989年10月3日・1992年5月13日)、日本武道館(1992年5月25日。武道館でこういったトーク・イベントは初だった)・ニューヨークでトーク・イベント(1996年9月28日)を開催した。

さらに1990年3月25日、番組で「2人が相撲をとったらどちらが勝つ?」という話から「嵐の春場所」と称し長居公園でイベントを開催し2万人を集め、客の押し合いで5人が怪我するというハプニングもあった(このときのある新聞の見出しには「救急車ピーポーパーペーポー」と書かれていた)。なお、この時の勝敗は収録で東京に行った上岡の代理で弟子のテントが、鶴瓶に5回とも倒されている(この「長居パニック」は、後の武道館イベントにつながる)。同日に行われた大相撲大阪場所の千秋楽よりも人が入ったという。

また、番組人気が最高潮の時に番宣ポスターを制作したことがある。鶴瓶・上岡両名が上半身はタキシード姿も下半身丸出し(当然モザイク処理されている)で写っており、糸井重里が考案した『見てるあんたも同罪じゃ。』というキャッチコピーがつけられたシロモノであった。(当時はヘアヌードの解禁が話題となっていたこともあり、それに便乗したアイデアと言われている)番組最後で葉書が読まれた視聴者にプレゼントされたが、中には「こんなもの受け取れません」と番組に送り返した視聴者もいたが、強制的に再び番組から送り返された(らしい)。パペポシアターの時も、ポスターを録っている。上岡は、(上下)タキシード。鶴瓶は、上だけタキシード。ただあの部分は、前張りを張っていた。が、ポスターが完成したら、その部分が白くボヤケ、鶴瓶にポスターにサインを頼むとその部分にサインをしていた。

パペポシアターに関しては、1988年6月10日に開催3日目のトーク(合計90分)を収録した音源が50ページ冊子付きのカセットブックとして東芝EMIから発売された。

[編集] スポンサーと番組プレゼント

番組スポンサーは、第1回~第102回放送分までが郵便局(近畿郵政局)単独(第8回放送分のみ降板)、第103回~第250回までが郵便局を含む複数スポンサー、第251回から番組終了までが民間企業の複数スポンサーであった。このため、郵便局がスポンサーであった時代(第1回~第250回)は、番組最後に視聴者からのハガキを読むコーナーで、採用された人にゆうパックによる地方特産品(ふるさと小包)がプレゼントされていた(途中から、関西を中心に活伊勢海老を中心とした海鮮料理店の経営で知られる中納言がメインスポンサーになったこともあり、第251回~第290回まではお食事券もしくは伊勢海老1匹をプレゼントしていたこともある。中納言の降板後は、第291回~第301回まで番組特製のパペポ時計、第349回~番組終了まで番組特製オリジナルテレホンカードをハガキを読まれた視聴者らにプレゼントしていた)。

なお、郵便局がスポンサーの時代には、ふるさと小包のプレゼントを提供した郵便局の位置を記した日本地図のフリップを出していたが、スポンサーが中納言に変わってから「日本地図のフリップがなくなって寂しい」という理由で、当選者の住所と氏名を記した日本地図のフリップを作成し提示するようになった。その後しばらく経ってから、ある応募者(関西の大手放送局、朝日放送中邨雄二アナの妻)が自分の写真を応募封筒に同封してきたのがきっかけで、途中から当選者の顔写真を日本地図の周囲に貼り付けだしたが、半年ほどで日本地図が応募者の顔写真でいっぱいになり、収拾がつかなくなったため取りやめた、という経緯もある。

初期の頃は「御見事で御座います」ステッカーや禁煙パペポバッジなど度々番組グッズを視聴者プレゼントしていたが、応募に関しては放送日翌日(厳密には当日)午前8時から12時の消印のあるハガキのみ有効というビデオ視聴者泣かせの応募ルールを設定していた。

[編集] 無観客による放送

公開録画が原則の番組であったが、収録当日のトラブルや意図的な理由などで観客を入れずに放送した回が5回あった。

1回目(1990年9月21日放送)
収録時に近畿地方を台風が直撃したため、収録直前に観客を帰らせた。
2回目(1990年10月19日放送)
観客なしの放送が新鮮であったため、もう一度やってみたいという鶴瓶・上岡の申し出による。なお、この回では特別に、普段ではコマーシャルのためにカットされる部分のトークが放送された。
3回目(1994年8月26日放送)
2本撮りの予定であった日に鶴瓶が食中毒で倒れて出演できなくなり、上岡が1人で出演して1時間喋った回があった。この影響で、その日は1本しか収録が出来ず、その翌々週も2本撮りのスケジュールが組まれていたため、翌々週が3本撮りに変更された。しかし3本目の収録が夜遅くになるため、家に帰れなくなる人が出てしまう恐れがあるという問題が発生し、3本目の収録が無観客で行われることとなった。なお、この放送のオープニングトークで、上岡がちょっとしたことで笑う番組スタッフに対し、「我慢するとか、遠慮するとか、空気を考えるとか、周りのムードを読むっちゅうことがでけんのか、お前には!」と本気で激怒した。スタッフの笑い声が入るような、いわゆる「内輪だけの笑い」は、視聴者が見ていて一番不快で面白くないというのが理由であった。
4回目(1995年1月27日放送)
阪神・淡路大震災の影響によるもの。俗に言う「怒りのパペポ」。27日放送分(23日収録)は阪神・淡路大震災直後で「笑わすことができない」ということで二人だけの収録となった。以下に示す二人が発した主な発言の通り、被災者(鶴瓶)として、またはテレビを見ていたもの(上岡)として、後手に回り人間的かつ柔軟な対応ができないタテ割り行政や、人間としての資質を疑うような言動をするマスメディア(特にテレビメディア)への怒りをあらわにした。なお、オープニンゲテーマもエンディングテーマも流れず、放映の最後にはよみうりテレビの親局である日本テレビ制作の24時間テレビへの批判まで出た。
この回で流れた主な名言
  • テレビには何の期待もできない
  • テレビ局には芸能レポーターしかいない(つまり報道機関としての資格がない)
  • 報道陣のヘリの音で救出(上岡の息子が実際に神戸でボランティアによる救出活動をした)がままならなかった、報道陣が何百人殺してる
  • 政治家は国民を怒らせるのが得意だ
  • 行政は現場は一生懸命やっているが、その上が全くダメ
  • 保険会社は自然災害は別だと言い張り、こういう時でさえビタ一文出そうともしない(皮肉だが、この震災以降地震保険がようやく商品として扱われるようになった)
  • 大学は被災地でボランティア活動をしたものに大学で履修したのと同様の資格を与えるべきだ(単位を保証せよ)
  • 24時間テレビをこういうときになぜやらない?(鶴瓶)結局テレビは芸能である(上岡)。
5回目(1997年4月4日放送)
500回記念生放送。詳細は「番組史に残るエピソード ・出来事」の項目を参照。

なお、通常の放送ではオープニング~最初のCMまでの間とCM明けの座りトークの冒頭約2分間、そしてエンディングの場面でBGMが挿入されるが、無観客の回に限り全編BGMなし(1,2,4回目)、またはオープニングのみ挿入(3,5回目)という形で放送された。

[編集] DVD化について

以前からファンの間で「パペポ」のDVD化を望む声が根強くあるが、上岡・鶴瓶共に反対している。鶴瓶曰く「あれはおっさん二人の『喫茶店での会話』に過ぎない。『記録』として残すものではない」としている。このため現在のところDVD化される予定は無い。

[編集] 東西人気深夜番組の雄

「PAPEPO」と人気を二分していたのが「北野ファンクラブ」(フジテレビ)である。両番組は放送日も同じ金曜日となり、放送時間も僅かながら重なってしまう(関東地区の場合、「北野ファンクラブ」終了10分前に「PAPEPO」が始まる。)両番組は東西人気深夜番組の雄として比較されることもよくあった。

[編集] 番組史に残るエピソード ・出来事

鶴瓶は「通常あまり遭遇しない事態」に巻き込まれる(一説には自分から巻き込まれていく)ことが多く、数多くのエピソードがある人物である。この番組が始まる以前から、上岡に会うたびに「何かおもしろいことはなかったか?」と聞かれて話をしていたという(その雑談がパペポTVの原型といわれる)。従って、主に鶴瓶のエピソードが番組内のトークの骨格となっていると言っても過言ではない(番組後期では上岡のひとり話も目立ったが)。 ただ、鶴瓶のエピソード(鶴瓶噺にも通じる)だけではパペポTVとはいえず、上岡がうまく話を整理したり、あおったり、断固否定したり、理不尽な対応をしたり、時には自説をねじ込んだりすることで鶴瓶のトークにおもしろさが生まれ、やがてパペポTVのエピソードとなったものも多い。下記のエピソード・出来事は、やはり鶴瓶・上岡両人が揃ってはじめて成り立っていたものといえる。

「場内騒然鶴瓶尻出し事件」
1988年11月25日放送。この日はいつにも増して観客が拍手と歓声で大騒ぎしていた。これに対し、鶴瓶が「高校時代、自らの指揮の下に全校生徒がベランダの壁を叩いて音を出し、最後に尻を出すとそれがピタっと止んだ」という話をしたところ、上岡が「今日ここでやってみい。(観客に対し)尻出したら(大騒ぎを)やめるんやで。」と観客を煽り立てた。尻出しを期待して異常な盛り上がりを見せる観客に困窮する鶴瓶であったが、結局、数分も経たない内にズボンとパンツを一気に脱ぎ、観客に向かってその真っ白なお尻を露出した。ちなみにこの模様は、1994年1月1日放送の新春スペシャル・名作復活祭で再放送された。
「ものまねタクシー運転手」
1989年7月14日放送。仕事柄タクシーに乗る機会の多い鶴瓶だが、ある日乗ったタクシーの運転手は、いきなりものまね、しかも動物のものまねという、聞いているのが苦痛となるような芸を始めてしまった。これだけでもあまり遭遇しない事態といえるが、収録時に話をしても信用してもらえなかったので、スタジオ内に電話を用意してもらい、その運転手に直接電話をかけて確認してみようということになった。運良く運転手がつかまり、鶴瓶の好リードで運転手のものまねを引き出すことに成功した。スタジオも大爆笑となり、鶴瓶の話が事実であるということが証明された。
「怒りのバンクーバー事件・通訳しなはれ」
1989年8月25日放送。上岡に「一流スターの証明」と冷やかされるほどの長期夏休みをとった鶴瓶は、1989年の夏にバンクーバーを訪れた。帰路につく際、空港のカウンターで手荷物が出てこないことを空港職員に訴えたが、ぞんざいな対応をされてしまった。それだけならよかったが、次の訪問地であるハワイ行きのCP(当時のカナディアンパシフィック航空)便に乗り込んだところ異常が発生し出発しない。
それまでの応対に立腹していた鶴瓶は、日本語での案内がないとCPの担当者に食ってかかるが、当然通じないので、近くにいた日本人に同時通訳を頼み、猛烈に抗議した。通じるはずもない大阪弁でまくしたて、ひととおり啖呵を切ると「通訳しなはれ!」とその日本人に通訳をさせた。はじめは穏やかだったその日本人も、鶴瓶の勢いに押されて激しい調子で通訳した。結局その飛行機は飛び立てず、代わりの便をファーストクラスに振り替えさせて中継地のロサンゼルスに向かった鶴瓶だったが、ここでも次のハワイ行き便に異常が出たため足止めをくらうなど散々であった。
話はこれだけでは終わらず、ハワイからの帰りの便の飛行中、警告音が鳴り響いた。乗務員に訳を聞くと、はじめは重量オーバーとのことだったが、よく聞くとエンジンの半分が不調だということがわかった。恐怖の中で「二度あることは三度ある」という言葉を身にしみて体験した鶴瓶だったが、ハワイからの飛行中に無線らしきものを使っている若者がいたので、降りる際にとがめると、ふてくされた態度をされたり、叱る様子を写真に撮られたりした。あまりに自分の思いが通じていないことに憤った鶴瓶は、「通訳しなはれ!」と言い放った(この部分のみ鶴瓶の「まとめ」である)。
「餃子二重発送事件」
1990年1月12日放送。鶴瓶は上岡に、前年のお歳暮として大阪地区で有名な点天の餃子を贈った。事前に確認してから送ったにもかかわらず、上岡が「届いていない」と言うため、鶴瓶は弟子や夫人まで巻き込んで点天に発送を確認するなど大わらわとなった。しかたなく点天側も再発送したところ、結局先に送ったものも届いており、二重発送の事態となった。
上岡に言わせれば「自分が美味しいと思ったものを他人も美味しいと思うというのが間違い」ということで、あまり関心がなかったものと思われ、事実食べきれないので近所に配って回ったらしい(ただし鶴瓶も一口餃子とはいえ一度に200個分送ったらしく、上岡家で食べきれなくて近所に配るのも不思議ではない)。これを聞いた鶴瓶は「人間性疑いますわ」と大いに憤慨していた。これ以降、ひどい仕打ちを受けるたびにこの話題を持ち出していた。
「健さん登場」
1991年1月1日放送。このころすでに「あまりに話ができすぎているので事実をねじ曲げているのでは」との疑いをもたれていた鶴瓶は、とにかく通常では体験できない事態に遭遇することを証明しようとしていた。1990年の暮れ、打ち合わせでよみうりテレビ内のレストランを訪れた鶴瓶は、近くの席に疲労困憊して突っ伏しているコックを見つける。その人の名札を見ると、「健(すこやか)」さんという珍しい苗字の人だった。
「名前が健やかなのに健やかやあらへん!」という、鶴瓶噺におあつらえ向きのケースだったが、誰も信じようとしないので、1991年の新春スペシャル収録中、わざわざ健さんを呼び、「わたし、健です!」と叫ばせた。(テレビで取り上げられてしまった為か、後に健さんは転勤させられたとされる)これで一同鶴瓶の話に納得したが、観客の一人が「大した話ではない」というので、聞いてみるとその人は「黒丸」という珍しい苗字だった。
「阪急苦楽園口駅・電話ボックス破壊事件」
1991年5月31日放送。ある日鶴瓶が自宅に戻ると、家族がいなかったので、行きつけのうどん店に行っているものと考え、このころのマイカー・日産ローレル(ゴルフコンペの景品)で後を追うことにした。阪急電車苦楽園口駅の近辺にあるうどん店を目指したが、なかなか車を停めるところがなく、ようやく縦列駐車できそうなポイントが見つかった。しかし、まだ免許を取って時間が経っていなかった鶴瓶は、縦列駐車に慣れていなかった。斜めにバックしたときに、「ガンッ」という衝撃を感じたが、縁石に擦ったものと考え、「ここは合わない」ということで他の場所を探してそこから走り去った。
近くに駐車してうどん屋を目指すと、さきほど駐車しようとしたところに人だかりができているので、近寄ってみると電話ボックスのガラスがメチャメチャに破壊されていた。目撃者もいたので鶴瓶は逃げることもできず、交番に行って事故処理を依頼した。事故状況としてはガラスが割れただけだったが、交番の巡査は「電話ボックスに車が飛び込んだ」と指令を出し、大がかりな処理班が来てしまう事態となった。
鶴瓶は「カレーうどん」が食べたいだけだったが、事故を起こした人間がその場を離れて「カレーうどん」を食べるわけにも行かず、しかたなくガラスの掃除などをしながら処理班の到着を待った。しばらくして大勢の処理班が到着したが、NTTの担当によると「この程度なら2人で済む」ようなものだった。鶴瓶は陳謝したが、NTTの担当者は「あぁ〜鶴瓶さんですか。やすしときますわー(安くしておきます)」と拍子抜けな対応だった。それならまだしも、「これを機にひとつよろしく」と、逆に営業をかけられる始末であった(もちろんこれはNTT担当者の茶目っ気である)。
鶴瓶の運転歴の中では、人身事故ではないものの、かなりの騒動となったため、この事件によって「運転が下手」という印象がかなり強いものとなった。
「昆布の味 涙の抗議」
1992年1月17日放送。先の餃子事件のあとも、味覚に関する話題は終わらなかった。ある時上岡が「塩昆布は安物がうまい」と発言した。どちらかというと下品な味がよいということだったので、その道の味にうるさい鶴瓶は姉から聞いていた奈良の昆布屋(いわゆる高級品ではないとされる)に塩昆布を手配して贈り、上岡をうならせようとした。しかし1992年の年明け1回目の収録前、上岡は弟子に対して「君の贈ってくれた昆布はうまかった」と話した。そこには鶴瓶も同席しており、鶴瓶にとっては当てつけのように感じられた。
前々年の餃子事件に続き、前年に牛肉を贈った際も大して喜ばれず、3年続けて自分の味覚・善意(自身の生い立ちが色濃く反映されている)を否定されたと感じた鶴瓶は、番組開始直後から猛烈に上岡に食ってかかり、弁解をも許さないほどであった。その回は過去に論破された話題を次々持ち出して大激論となるなど荒れた回となった。
後日鶴瓶には当の昆布屋から「さらに精進します」という手紙が届いたので、番組内で紹介して上岡の非道ぶりを印象づけようとしたが、逆に返り討ちに遭い、他の嗜好に関しても完膚無きまでに「下品」と指摘された(たとえばピロシキ好きを下品・粗野などと決めつけられるなど)ため、両手を振り回して大暴れするなど、鶴瓶の暴走ぶりが目立った時期でもあった。
「鶴瓶の暗証番号公開される」
1995年6月2日放送。この回は2本録りの2回目で、ハワイ帰りの鶴瓶は時差ボケで苦しんでいた。収録のしばらく前のある日、鶴瓶は名古屋に行く用事があったが、所持金が少ししかなく、しかも祝日でATMが使えなかったため、カードキャッシングを使うことになったらしい。トーク中に現金を下ろす話をはじめたとたん、上岡が「暗証番号を当ててやる」といってある番号を口にした。すると鶴瓶は大笑いしつつも狼狽し、なんとかして否定しようとする。しかしその様子からは番号が図星であることが丸わかりだった。上岡があまりにしつこく番号を言うので、「ええ加減にしなはれ!」とつかみかかり制止しようとするシーンもあった。
実はその日、2本録りの1本目に怖そうな二人組が来ており、1本目の回ではほとんど笑わなかったので、「怖い人」と思って鶴瓶は気にかけていた。1本目は先着順なので、やれやれ2本目は大丈夫と思っていると、2本目にもその二人組がいた。鶴瓶にとっては睡眠不足と恐怖感の中でのトークであり、そんな中で暗証番号が公開されたとあっては狼狽するのも当然である。ほとんど笑わなかった二人組が暗証番号の話になると大笑いをはじめたので、何度も「この番号じゃないですよ!」と念を押していた。あとで聞くと、特に「怖い人」ではなかったらしい。
この公開を機に、番組視聴者を中心に「鶴瓶の暗証番号は○○○○」という認識が生まれ、後日鶴瓶がATMに並んでいると、どこかの女性が「暗証番号、○○○○ですね?」などと話しかけたりした。
類似のケースとしては、後年鶴瓶の携帯電話の番号が公開された(というより誰かが公衆電話にいたずら書きした)というものがあり、この時は見ず知らずの一般人から電話がかかってくるなど大変だったようである。しかし、鶴瓶もあまり怒ることなく話を聞くこともあり、そんなときはかけた方がかえって狼狽してしまうこともあったようだ。
「PAPEPO TV in New York」
1996年9月28日開催。それまでに大阪城ホール日本武道館での講演が成功し、前年に上岡が独演会を開催した時に失敗の連続だったこともあり、リベンジもかねてパペポ公演としてのニューヨーク遠征が計画された。9月28日、タウンホールにて開催、入場料は20ドル。全編のテレビ放映はなく、1997年元旦スペシャルと、日本テレビとの共同制作で放送された報道番組「スーパーテレビ情報最前線[1]で紹介されたのみである。ただし日本テレビ「スーパーテレビ」の撮影スタッフは鶴瓶と上岡の密着取材と、イベント制作に至るまでの舞台裏を紹介する内容が大半を占めており、ニューヨークの舞台上でのトークは終盤にほんの僅か(1分程度)映し出されただけであった。現地在住の邦人を中心に入場者数は1475名、入場できなかった人も約200名に達する人気であった(人数は番組で発表された数値)。
「500回記念生放送」
1997年4月4日放送。番組500回目を記念して観客を入れずに生放送が行われた。番組の終盤で上岡が鶴瓶をそそのかし、生放送であるにもかかわらず放送禁止用語(関西弁で女性器の意味を表す俗語)を鶴瓶が言ってしまったところで提供に入り、生放送が終了した。ただし日本テレビを始め同時ネットされていない局では上からピー音でかぶせられていた。翌々週の放送(翌週の放送分は500回記念生放送前に収録されたため)で鶴瓶はその発言に対し謝罪した。
「大阪スポーツ・パペポ打ち切り報道」
パペポ人気が最高潮に達したある日、大阪スポーツ(東京スポーツの大阪版)に鶴瓶・上岡一触即発ケンカ状態、上岡よ、俺の恩忘れたか!という記事が掲載された。この記事を発見した上岡はすぐさま番組内でネタにした。両名はあたかも本当のようにトークしたが、その記事は東スポ特有のネタ記事であった。(実際、「その二人の共演番組(パペポ)は来年3月で打ち切りになる模様。」と記事には書かれていたが、その後も延々と番組が続いたのは言うまでもない。)

[編集] 番組内で流行した言葉

「お見事でございます」
〜第6回の放送で乱入した黒木香が発言した言葉。わいせつな言葉を連発する黒木に向かって上岡が「そんなヴァギナ!」とツッコミを入れた後に黒木が返したこのフレーズが番組の流行語となり、後に「お見事でございますステッカー」などが作られた。
「たべに」
鶴瓶の家に住み着いている妖怪と噂された、謎の存在。元々は「ために」という、壁に書かれた謎の落書きから始まった。その後、たべにから謎の郵便物が届いたり、鶴瓶の知らないところで悪戯が繰り返される事件に発展したが、後に悪戯の正体は息子の太郎であることが判った(「勝手に倒れてくる鏡台」の裏にいた。ただし、「異常にでかい大便」などのように、当時の太郎ができたのか?と思える内容もある)。
「抜け殻」
鶴瓶は当時腹の立つことや相手を見た際に、頭の中で相手に殴る蹴るの暴行を加えたつもりになって気持ちを静めていたという。その際によく「オレの抜け殻が殴りに行って…」という表現をし、両鼻に指を突っ込んで片手で往復ビンタをするポーズをよくしていた(後に、視聴者のハガキによって、殴りに行くのは魂の方で抜け殻は動けないと指摘され、「抜け殻」が「魂」に取って代わられた)。
「晴れたら満月」
鶴瓶は月の満ち欠けが地球と月の位置関係ではなく、雲の影響によるものと思い込んでいたため、番組内でこのような発言を本気でしたことがある。鶴瓶は別の回の放送で「地球の自転は横回転、公転は縦回転」という間違いを犯したこともある。
「へまゆげ妖怪」
いわゆる「オバタリアン」のひどい人の俗称で、鶴瓶の造語。この手の人は皆まゆげが「へ」の字をしている(と鶴瓶が思っていた)ため、このような呼び名をつけた。
「塚本7km」
「意に反して平時よりよい結果が出ている」ことを「口に出す」と、よくない結果が「必ず起きる」という鶴瓶の口癖の一つの経験談として、以下の事を「言葉足らずで」説明した。
鶴瓶が伊丹空港から大阪中心部へタクシーで移動中、よく混む阪神高速11号線の途中の電光掲示板に「塚本7km」「環状線まで25分」の渋滞情報が出ていた。ところが道路は空いていて早々に塚本ランプを通過、10分で1号環状線に入線。この段階で鶴瓶が「混んでる書いてあったけど、空いてまんな(この表現が争いの原因となる)」と運転手に言った。ところが入線後ほどなく混み始める。混んでるさなかにあった電光掲示板の表示にあったのは「道頓堀事故3km」。これが恐らく実際のところである。
上岡が話の途中で入り込み、これに反論した。「例えば『空いてるな』と思ったのが塚本から8km(上岡が仮定した数字)手前であり、その途端混みだした。『塚本7km』という情報に間違いないのでは?」。ここでの上岡の示した数字は全て実距離として説明している。そして上岡の頭の中ではまだ塚本を通過していない(そのときはそこまで説明されていない)。
鶴瓶の説明で上岡に与えた誤解は、「塚本7km」と表示していた電光掲示板が実際に塚本から7kmに建っている、と解釈できる説明をしたこと。そして「混んでるはずなのに空いてまんな」と、塚本ランプを通過してない段階での言葉を言ったこと。実際は、空いてると感じたときはもう通過していたのだから「空いてましたな」となるはず。
このズレの結果、番組史上1、2を争う大激論となった。以降、同様の事象で話が込み入りそうになったとき、「塚本7km」が用いられるようになった。
「歯付きタン」
世界の料理でどこが優れているかという話題の中で、鶴瓶がはやのCM収録の際のセリフである「骨付きカルビ」を持ち出したところ、「なぜ骨付きなのか」ということになり、上岡が「骨付き」の必要性のなさを問いかけ、例として持ち出したものが「歯付きタン」である。その後番組末尾のはがきコーナーで読まれた視聴者からのはがきに、「歯付きタンがあるなら、肛門付きテールがあってもおかしくないのでは」という内容のものがあり、鶴瓶・上岡とも大変ウケた。
「やんにゃったらいつでもやったるで」
鶴瓶は「普通なら起こりもしないことに遭遇する」といわれるが、その分「普通ならあり得ないほど失礼な人々」に遭遇するケースも多い。声をかけられたので愛嬌を振りまくと別れ際に罵倒されたり、桂文珍に間違えられるなど多岐にわたる。これらは鶴瓶が「いい人」に見えることから来る(文珍のケースは除く)ものと思われるが、本当なら怒り狂うであろうことをなんとか抑えて小声(あるいは心の中)で表現する際にこの文句を頻繁に使っていた。そののち、さらにエスカレートして上記の「抜け殻」に発展した。
「切ってくれ!」
いわゆるマル禁は上岡の発言に対してのものが多いという印象があるが、鶴瓶もそそのかされて危険な発言をする場合があった。しかしそのような場合、比較的マル禁となるケースが少なく、鶴瓶が発言後我に返ってカットを懇願するシーンが多々見られた。両手の指で×印を作り、「切ってくれ!」と叫ぶのが基本形である。しかし番組後期になると事前にカットされるケースが多くなり、あまり見られなくなった。
「吸ってくれ!」
鶴瓶が相原コージのマンガ「コージ苑」を読み、毒ヘビに陰部を噛まれた兵隊のコマにあったこのセリフに強い印象を受けた。鶴瓶は「噛まれたので吸ってもらう→陰部」という設定そのものを面白がったようだが、実際の文脈はもっとシュールで、セリフも「吸ってくれ!」ではない。しかし鶴瓶の解釈はかなりウケたようで、番組を見た中学生が「吸ってくれ!」と叫びながら走ったり、女優奈良岡朋子がこの件に関して鶴瓶に「大阪で流行っているの?」と確認したりした。
「ありもせんことで時間をとるな!」
鶴瓶の十八番である「ノリ」で押しまくる作り話に対し、頃合いを見計らって上岡が突っ込む際の決まり文句である。理性的な役どころである上岡の面目躍如と思われがちだが、上岡自身がボケ気味に鶴瓶のノリを引き出しているともいえ、ある程度は鶴瓶もそれをわかった上でノっていた。
「うまいもんはうまい」
大阪地区の焼肉店「はや」(堺市)のTVCMで鶴瓶が発したセリフ。もともと鶴瓶は、同店のCMで割烹着を着たおかん(おふくろ)衣装で腹をたたきながら「ぽーんぽん!」と発言したり、子供たちとともに電車ごっこをしながら「ぽっぽっぽー はやぽっぽー」と歌うなど「はやの顔」として関係が深かった。1990年頃のCMから、講演で大汗をかきながらはやのうまさを力説した上で「うまいもんはうまい!」と締めくくるバージョンに切り替わる。しかしこのCM、鶴瓶が思い描いていた「モノローグで展開し、最後に民芸肉料理・はやで締めくくるシンプルでかっこいいもの」とは趣向が違った上、撮影当日は約1時間にわたって力の入った講演を行い、そのどこかが使われるものと思っていたら、講演とは全く関係ない別撮りのセリフだけ使われ、「あの1時間の力説はなんやったんや!ほんなら端から「うまいもんはうまい」だけにせぇ!」と大いに吠えていた。その後も直接関係のない上岡にのみはやから進物が届くなど、鶴瓶が「気ィ悪いことすんな!」と思うような出来事が多く、どちらかというと地味なこのCMも、CM放映がない地方の視聴者を中心に、鶴瓶の思惑とは関係なく常に関心の的であった。鶴瓶はこのCMを自分が嫌いなCMのひとつに挙げている。
「日本一感じ良いタレント」(初出時期を現在調査中)
もともと、「僕は感じいいですよ」と番組中で冗談交じりに話していたが、明石家さんまなど、自分の身近にいる芸人・芸能人がタレント好感度などの人気アンケートで上位に連なっていくにも関わらず、鶴瓶は長らく圏外~下位にいることが目立つようになり、それをやっかむ、という形で使われ始めた。
「リーポロポロ」または「メキシコの歌」
初出1992年元旦SP。各国のマフィアの行状をジェスチャーで解説するうち、メキシコのマフィアの話となり、とっさに上岡が思い出して歌ったもの。曲のタイトルは「マラゲーニャ」(番組内で上岡が語っていた)。実は漫画トリオ時代、ギターに熱中した際に身につけたものらしい。その後、番組中歌の話になるとたいてい「リーポロポロ歌って!」「メキシコの歌は?」などと鶴瓶がけしかけ、上岡がギターをつま弾くジェスチャーと共に歌い出していた。鶴瓶やゲスト参加時の横山ノックも真似していたが、聞きかじりなので歌詞は支離滅裂であった。同様の例に「イタリアの歌」もあるがこれはあまり使われなかった。
「抜本的」
放送当時、ちょうど政治改革が叫ばれている中であった。「抜本的政治改革」から「抜本的」(⇒)を鶴瓶が好んで使っていた。特に当時の日本社会党委員長、土井たか子の鬼気迫る顔が印象に残ったらしく、演説時の様子を参考にしたものと思われる。
「土管の中から~」
1995年の放送中、昔は土管の中によく人が住んでいたという話になり、突然上岡が歌い出した歌の一節(小坂一也の歌とのこと)。あまりに唐突かつ節回しが哀愁を帯びていたので鶴瓶が気味悪がり、それ以降上岡が変わったことを口走ると、決まって鶴瓶がこのセリフを引き合いに出していた。鶴瓶は冒頭部分しか覚えておらず、その後引き合いに出すときに決まっていいかげんな引用だったので、上岡によく指摘されていた。
「まーちゃーん、今帰りかー」
流行というほどではないが、番組後期に頻回登場した。鶴瓶の学童時代、近所のおじさんがよくこのように声をかけたらしい。鶴瓶は自分自身でこの物真似が完璧だと思っているらしく、「近所の人が聞いたら大爆笑」とよく言っていた。知人が聞けば大爆笑というネタは「青木先生の物真似」など多数あるが、学童時代から他人のおもしろさを細部にわたって観察していたことがよくわかり、鶴瓶の芸の原点とも言える。
「ラーマ法王」「トーマス・エジソ」
世界の偉人でしりとりをしよう、ということになったとき、上岡が答えた。上岡はこれらを「現地読み」であると強弁し、鶴瓶は通してしまう。他の回でも何度かしりとり合戦は見られ、上岡を「知識人」と見る鶴瓶は、なんとか打ち負かそうとして比較的善戦する。それに対して上岡は、もちろんネタとは思われるが珍回答をひねり出すことが多かった。「げ」の場合に「げん・ぎけい(源義経を音読み)」、「り」の場合に「りんたろう・かつ(勝麟太郎をアメリカに渡航したため姓名逆読み)」などが挙げられ、「トーマス・エジソ」も「ん」が付いて終わりのところ、トーマス・エジソンとは別に存在すると無理矢理言い張った。
「もう、ええわ」
鶴瓶自身が持っている諦めの基準=少年時代、いたずらで人差し指に差し込んだ竹棒がどんなにやっても抜けなかったとき。これを表現するときに、人差し指から竹棒を抜くジェスチャーとともに「もう、ええわ」と言う。これは鶴瓶の入門当初、師匠の落語会で下足番をしていたときに、あまりに失礼な新聞記者がいたのでとがめると、さらに無礼な仕打ちを受けたので、「ここまで我慢したならもうどうなってもええわ」と思って、せっかく入門を許可されたのにそれがムダになるかもしれないのを顧みず、その記者に啖呵を切った話の喩えとして使われた。この気性の激しさは、のちに「やんにゃったらいつでもやったるで」「抜け殻」に発展していく。
「おこゆび」
陰部は隠すからいやらしい、と言う話が発展し、新しい陰部を作ろう→小指を隠すことになった。話はさらに発展し、大阪3文字東京4文字の替わりにこれがいやらしくなる、ということになった。
「下ネタ嫌いや」
下ネタが盛り上がると上岡が自分のことを棚にあげて鶴瓶につっこむ言葉。上岡も盛り上がっていたはずだが、自分の話は「人間の本質について話している。下ネタではない」とあくまでも正当化する。番組を通じて、上岡は相当下ネタに反応している。特に鶴瓶が「大便を漏らしそうになる」という類の話ではかなり自分でウケていることも見て取れる。テレビ芸が下ネタに走りすぎるとあまりに下品という昔ながらの感覚ももちろんあるだろうが、自らの下ネタ好きがテレビを通してさとられるのを嫌う心理が働いていたものと思われる。事実、話の展開においては相当部分まで鶴瓶が進めたところで突っ込んでいるので、ネタとしては使いつつ、適当なところで切り盛りしていたようである。もともと上岡は少年時代から、鴨川の河原に落ちていたエロ本の内容を級友に解説していたといい(本人の発言による)、下ネタ嫌いのわけがないのである(勿論、年齢と共に変遷するかもしれない)。
「おめこぼし」
いつものよう下ネタトークで盛り上がっていたとき、「男性器放送禁止用語ではないのに、なぜ女性器は放送禁止用語なのでしょうか?」といった投書が以前あったこともあり、上岡が「じゃあ『おめこぼし』はどうなんや?」と発したことから、鶴瓶が面白がってカメラに向かって股を開き「おめこぼし(おめこ干し)!!」と盛んに叫んだ。ここでの『おめこぼし』は『目溢し』に接頭語『お』を付けただけであるが、これで堂々と放送コードに引っかかることなく放送禁止用語を声高々に叫ぶことが出来た。
「“おめこぼし”って何でんねん?こぼすんでっか?」という鶴瓶の問いに、「いや、ムシロに並べて干すんや」とジェスチャーを交えて嬉しそうに上岡も答えていた。

[編集] 主なスタッフ

構成
  • 疋田哲夫
  • 鹿児島俊光(番組初期)
  • 藤本多賀雄(番組後期)
プロデューサー(1993年1月まで1人、1993年2月より2人体制)
  • 岡島英次(番組開始~90年7月)
  • 池田智(1990年8月~1992年9月・1993年2月~1996年7月)
  • 白岩久弥(1992年10月~番組終了まで)
  • 西村良雄(1996年7月~1997年2月)
  • 松下泰紀(1997年2月~番組終了まで)
ディレクター(1991年1月まで及び1993年1~3月は1人、1991年2月~1992年12月及び1993年4月以降は2人体制)
  • 白岩久弥(番組開始~1992年12月、1993年4月~1996年4月。1991年2月よりチーフディレクター。1992年10月以降はプロデューサーを兼務)
  • 武野一起(1991年2月~1993年3月。番組開始から1991年1月まではADとしてエンドロールに表記されていた)
  • 高津英泰(1993年4月~番組終了まで。1996年5月よりチーフディレクター)
  • 内海博久(1996年5月~1997年6月)
  • 西川義嗣(1997年7月~番組終了まで)

[編集] テーマ曲とセット

テーマ曲は番組開始~提供までの立ちトークの間とエンドロール時に使用。立ちトークがいつ終わるかわからないため、エンドレスに加工して使用していた。選曲はすべて白岩プロデューサーが行い、番組の雰囲気に合う最新洋楽ナンバーを中心に選曲されていたが、一部例外として邦楽の英語詞ヴァージョンや、CD化されて再発売されたクラシックヒットナンバーの中から選曲されたケースもあった。

スタジオ内のセットは、低予算番組が多い関西発深夜番組の割にしっかりした造りのものが用意され、全国ネット化後もほぼ2年おきにかなりの予算をかけたと思われるセットが用意された。全国ネット化に伴う予算アップもあったと思われるが、当時上岡龍太郎が「関西制作の番組は安っぽいセットのものが多くて、東京で見ていても在阪局制作の番組だとすぐわかってしまう。東京の番組に負けないセットを用意してほしい」としばしば口にしていたことが影響していたと思われる。もっとも、上岡と鶴瓶のギャラ以外に金をかけるところがほとんど無かったため、このようなことが可能であったことも考えられる。 初期に設置されていたピンクの大砲は、藤山寛美が「柔らかく毒舌を吐く象徴」と絶賛していたとされる。

1代目セット時代(1987年4月~1989年3月)
正面背後にピンクの大砲を配置した、当番組の象徴ともいえるセット。関西ローカル時代に作られたもので、最もシンプルな雰囲気の造りであった。
2代目セット時代(1989年4月~1991年7月)
全国ネット化から半年後に、セットの模様替えを実施。1代目セットをベースに、「PAPEPO」の文字の電飾看板を配置するなどグレードアップしたもの。ピンクの大砲は舞台向かって左側奥に移設された。
  • HE AIN'T NO COMPETITION(BROTHER BEYOND)
  • IF I DON'T HAVE YOU(JASON DONOVAN)
  • CAN'T DENY A BROKEN HEART(ANNICA)
  • SECRET LOVE(ビージーズ
3代目セット時代(1991年8月~1993年5月)
全面模様替え。より大きな「PAPEPO」の文字の電飾や、背景ホリゾントに回転する「PAPEPO」の文字を映し出すライトを配置。茶色系配色を中心としたセットで、舞台背景全面に電飾を使用していた。
  • WHEN THE LIGHTS GO OUT(GERARDO)
  • GIVE ME JUST A LITTLE MORE TIME(MIC MURPHY)
  • ADDAMS GROOVE(ハマー
  • CHIC MYSTIQUE(シック
  • TAKE MY ADVICE(KIM SIMS)
  • GET LOVE~ENGLISH VERSION(横山輝一
  • FULL TERM LOVE~ボーナストラックREMIX(MONIE LOVE)
4代目セット時代(1993年6月~1995年12月)
回転する「PAPEPO」の文字のライトを除いて、全面模様替え。巨大な本や文具、スタンドなどを模したセットが置かれた机の上、背景は橋や高層ビルの町並みをイメージして造られたセットが用意された。
  • TWENTY-FIVE HOURS A DAY(THE HOOTERS)
  • TUESDAY MORNING(THE POGUES)
  • I ONLY WANT TO BE WITH YOU(BLIDGETTE WILSON)※オープニングのみ
  • STAY(ETERNAL)※エンディングのみ
  • GIVE IT UP(CUT'N'MOVE)
  • SWEETS FOR MY SWEET(C.J.LEWIS)
  • DAYDREAM BELIEVER(THE MONKEES)
  • WON'T WALK AWAY(NELSON)
  • TOTAL ECRIPSE OF THE HEART~ボーナストラックREMIX(NICKY FRENCH)
  • I'LL BE THERE FOR YOU(THE REMBRANDTS)
5代目セット時代(1996年1月~1997年9月)
4代目セットをベースに、より派手な電飾を施したセット。机の上を模した舞台は変わらず、「TK」の文字の形をした電飾ミラー、アーチ状の建物、受話器を天井から吊り下げたピンク色の巨大な電話のセットなどを配置。PAPEPOの文字の形をした謎の生物6体がペンキを塗ったりこぼしたりしている様子などを表現していた。
  • DUB-I-DUB(ME&MY)
  • THE RIGHT TIME~ディスコバージョン(ザ・コアーズ
  • LAST NIGHT(C.J.LEWIS)
  • SOONER OR LATER(THE GRASS ROOTS)
  • RING A LING(TIGGY)
  • MY OH MY(アクア
6代目セット時代(1997年10月~1998年3月)
全面模様替え。これまでの派手な電飾路線から一転して、砂漠を背景にした西部風の落ち着いたイメージのセットに変更されたが、僅か半年後に番組が終了することとなった。番組終了の背景には、白岩プロデューサーが1998年4月付で吉本興業系番組制作会社のワイズビジョンへ出向することとなり、松竹芸能系番組である当番組の制作に関わることが実質不可能となったことが大きく影響したと考えられている。
  • UNTOUCHABLE(RIALTO)
  • WHAM BAM(THE SCARLET)

[編集] 放送されたネット局

(91年8月発売のテーマ曲のCDジャケットには「全国17局ネット」と書かれており、途中から開始したり打ち切られる放送局はあったものの、概ね15~20局でネットされていたと考えられる)

[編集] LIVE PAPEPO 鶴+龍

パペポTVは1998年3月で一旦終了するが、同年7月7日から、「LIVE PAPEPO 鶴+龍」(らいぶぱぺぽ·つるとりゅう)と題し、30分番組として復活した。

放送時間は当初火曜深夜24:50 - 25:20で、1999年4月から「DO-YA」枠の土曜深夜24:55 - 25:25に枠移動した。関東・日本テレビでは「パペポTV」と同じ金曜深夜26:15 - 26:45の枠で放送された。なお、パペポTVをネットしていた局がすべてこちらもネットした訳ではなかった。

こちらはスタジオ収録ではなく、スタジオを飛び出して全国各地の観光地などでのゲリラ的収録を敢行した(ただ「いつ、どこで収録します」という告知は番組でなされていた)。収録会場は主に京阪神地区の中から選ばれ、1回で2本分(60分)収録するスタイルが基本となっていたが、数回に1回の割合で関東や中部、その他地域への遠征も行われていた。また、ごく稀に3週に分けて放送された回もあった。

関西地区以外のロケ地、遠征先

2000年の春、上岡の引退に伴い「LIVE PAPEPO 鶴+龍」としての最終回を迎える(「パペポTV」も、これが実質の最終回である)。
最終回は2部構成で、第1部(通常枠・30分)では「パペポTV」時代の名場面集をまとめた総集編とファイナルライブのオープニング立ちトークを、第2部(10分間のニュースを挟んだ後の特番枠・90分)では讀賣テレビ放送本社第1スタジオに組まれた、「パペポTV」の初代セットをほぼ忠実に再現したスタジオセットから、上岡と鶴瓶が座りトークを繰り広げていった。途中で島田紳助が乱入。その後しばらくは3人でトークを展開していくが、上岡に渡すための花束を抱えた明石家さんま間寛平村上ショージも乱入し、最終的には6人でトークをした。特に紳助とさんまは、この番組で短時間ではあったが、久しぶりの共演を果たした。
こちらの最終回は地域によって放送内容が変えられており、関西地区ではおよそ120分のスペシャル(1部の30分間は総集編、2部の90分間が本編)だったにもかかわらず、関東地区を始めその他の地域などでは30分(1部はカット、2部も30分)に編集されていた。よって、関西地区で放送された最終回がオリジナルであり、番組アーカイブとしては希少価値が高いと思われる。

スタッフ
  • 構成 疋田哲夫 藤本多賀雄
  • ディレクター 前西和成 小金澤ゆき
  • プロデューサー 荻原武博 佐藤恭仁子
  • チーフプロデューサー 松下泰紀→松本芳久
  • 制作協力 松竹芸能 上岡プロモーション

[編集] 脚注

  1. ^ この時、ニューヨークでの公演の模様を取材しようと、あたり構わず撮影を繰り返す日本テレビ側のスタッフに対し、激怒した上岡が「ニューヨークまで来たからといって、何でも撮ってええと思うな! カメラは暴力や!!」と怒りを露にした。またこの時はシーンはカメラで撮ったままのものを放送せずに、上岡が言った文言をそのまま字幕化して放送していた。

[編集] 関連項目

読売テレビ(ytv) 火曜深夜24時50分枠
前番組 番組名 次番組
?
鶴瓶上岡パペポTV
?
読売テレビ(ytv) DO-YA
LIVE PAPEPO 鶴+龍
読売テレビ(ytv) 笑福亭鶴瓶出演のバラエティ番組
?
鶴瓶上岡パペポTV

LIVE PAPEPO 鶴+龍
最後の晩餐

最終更新 2009年10月29日 (木) 14:38 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【鶴瓶上岡パペポTV】変更履歴

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