黄蓋

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黄 蓋(こう がい、? - 215年?)、(あざな)は公覆荊州零陵郡の人。郡の役人から孫堅に従い、孫策孫権に仕えた宿将である。子は黄柄。

[編集] 経歴

若い頃に父が亡くなり、貧しい生活をしていたが、常に大志を抱き、上表文の書き方や兵法の勉強に勤しんでいた。郡の役人になったあと、孝廉に推挙された。やがて孫堅が挙兵するとこれに従い、荊州南部の反乱や董卓討伐に活躍し、別部司馬に任命される。

孫堅の死後、一時的に袁術の配下に属するが、孫策の挙兵に伴ってその配下に加わり、程普らと共に再び孫軍団の中核を構成する。孫策の江東制覇に従い、彼の早世で跡を継いだ孫権にも仕えて若い主君を支え、各地の反乱などを鎮圧した。 統治が困難な地域には黄蓋が長官として任じられ、法令に厳格な処罰をおこないつつも、強きを抑えて弱きを助ける統治を行ったため、どの地も無事に平定され、土着民族たる山越までもが信服し、人々は平穏に暮らした。

208年曹操が江南に進軍して赤壁の戦いが始まると、黄蓋は周瑜の指揮下で従軍し、曹操軍の艦船を焼き討ちすることを進言し、偽りの投降を用いた火攻めで曹操軍を攻め立て、曹操軍の艦船と岸辺の軍営を焼き払った。この火攻めの際、黄蓋は流れ矢に当たって長江に落ちてしまい、救い上げられたものの黄蓋とわからなかったために負傷したまま厠に放置されてしまった。しかし、同僚である韓当が見つけて手当てさせたため、九死に一生を得たという。

その後、武鋒中郎将に任命され、武陵蛮が反乱を起こすと500人程の兵を従えて鎮圧に向かい、賊軍を城門に誘い込んで撃退し反乱を鎮圧した。さらに、山賊に長沙郡益陽県を攻められるとそれも平定し、偏将軍に昇進する。しかしまもなく黄蓋は病に伏せり、そのまま病没した。 呉の人々は彼を偲び、肖像画を描いて季節ごとにお祭をしたという。住民に相当慕われていたことがわかる。

死後、その配下の軍勢は孫皎が兄孫瑜の軍と共に指揮をしたと史書にあり、孫瑜が亡くなった215年頃に黄蓋もまた生涯を閉じたと思われる。

[編集] 演義での黄蓋

小説『三国志演義』では「鉄鞭」を愛用武器としていた。赤壁に戦いにおいて衆寡敵せずと見た黄蓋は、周瑜に奇策を提案する。曹操に対し偽りの書簡を送り、先鋒となる自分が時期を計って裏切る旨を伝えた。その際に、偽りの投降を曹操に信じさせるため、諸将の前で周瑜との不和を演じ、また周瑜から棒たたきの刑を受けている。孫軍に潜んでいた間者である蒋幹が曹操にこれを報告し、曹操は黄蓋の投降が偽りではなく、周瑜に対する不満によるものと信じた。自らを傷つけることで敵に偽りを信用させ、起死回生の策を行ったこの黄蓋の行為が、苦肉の策の語源となった。

合戦が始まると、黄蓋の部隊は投降を装って曹操軍に近づき、自軍の軍船に積んだ薪や油に火を放って曹操軍の船団に突入させた。龐統の連環の計によって船同士を鎖でつないでいた曹操軍はたちまち炎に包まれ、大打撃をこうむる事となった。その際、逃亡する曹操を見つけ追撃するものの、曹操配下の張遼から矢を受け負傷し撤退した。

最終更新 2009年10月16日 (金) 13:05 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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