フィデル・カストロ

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フィデル・カストロ
Fidel Alejandro Castro Ruz
フィデル・カストロ

キューバ共和国
初代国家評議会議長(元首)
兼 閣僚評議会議長(首相)
任期: 1976年12月3日2008年2月24日

出生: 1926年8月13日
ビラン
政党: キューバ共産党

フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルスFidel Castro, Dr. Fidel Alejandro Castro Ruz1926年8月13日 - )は、キューバの前国家元首国家評議会議長)兼閣僚評議会議長(首相)で政治家革命家、軍人、弁護士、元アマチュア野球選手、社会主義者、キューバ共産党第一書記1965年 - )。アメリカ合衆国の事実上の傀儡政権であったフルヘンシオ・バティスタ政権を武力で倒し、キューバを社会主義国家に変えた。日本国内においてはカストロ前議長と 呼称されることが多い[1]

以後、本項では本人を指す場合は原則として「フィデル」の表記を用いる。これは弟で後継者のラウル・カストロの存在があるためで、ラウルについても本項では原則として「ラウル」の表記を用いる。

目次

[編集] 生い立ち

[編集] 少年-青年時代

フィデルはスペインガリシア人移民で裕福な農場主アンヘル・カストロ・イ・アルギスの息子としてマヤリの近くのビランで生まれた。ハバナの私立小学校コレヒオ・ベレンを始めとするイエズス会の学校で教育を受け、野球に熱中した。1944年には最優秀高校スポーツ選手に選ばれ、1945年にはハバナ大学に入学し法律を学んだ。

大学では政治活動に参加、革命反乱同盟(UTR)に加入する。1948年にラテンアメリカの学生運動の連合を図り、コロンビアを訪れたが、次期大統領候補だった自由党の指導者ホルヘ・エリエセル・ガイタンとの会談を予定していたその日にガイタンが暗殺され、コロンビアはボゴタソ(ボゴタ暴動)に突入した。フィデルもボゴタソに参加し、政府軍との衝突に加わった[2]。投手としてメジャーリーグ選抜と対戦、3安打無得点に抑える。1950年に大学を卒業した。

[編集] 弁護士時代

卒業後、1950年から1952年の間に弁護士として貧困者のために活動。その後フィデルはオルトドクソ(保守)党から1952年議会選挙に立候補したが、フルヘンシオ・バティスタ将軍の率いるクーデターはカルロス・プリオ・ソカラスの政府を倒し、選挙の結果は無効となった。その後、フィデルは憲法裁判所にバティスタを告発した。請願は拒絶され、フィデルは裁判所を糾弾した。

[編集] 武装闘争

7月26日運動も参照のこと

[編集] モンカダ襲撃

フィデル(左端)とゲバラ(右端)

この後フィデルは武装勢力を組織し、1953年7月26日に、130名の同志とともにモンカダ兵営サンティアーゴ・デ・クーバ)に対する攻撃を行った。攻撃者の80人以上が死に、フィデルは逮捕され裁判で、カトリック司教の仲裁で死刑は免れたが、懲役15年が宣告され投獄される。獄中ではホセ・マルティなどを愛読、「歴史は私に無罪を宣告するだろう」を発刊する。1955年5月に恩赦によって釈放され、2ヶ月後にメキシコに亡命、後にアメリカに移り活動を続けた。メキシコ亡命時代にはバティスタの意向を受けたメキシコ警察によって逮捕されたが、フィデルを見込んだメキシコ革命の大成者だったラサロ・カルデナス元大統領の歎願によって釈放された[3]

[編集] 「グランマ号」

1956年12月2日、60フィートのプレジャーヨット、グランマ号でトゥスパン(ベラクルス州, メキシコ)から他の「7月26日運動」のメンバー、総勢82名とともに、マンサニヨ(グランマ州, キューバ)へ上陸。その時点でフィデルはまだ共産主義者あるいは社会主義者ではなかった。キューバ革命後の1959年後半にフィデルはアメリカの新聞に「どんな産業も国有化する意図はなかった」と語った。フィデルが明確にソビエト連邦を中心とする東側諸国への接近を企図するのは、1961年4月のピッグス湾事件の後である。

しかし日中の上陸であった為にキューバ空軍により攻撃され、激しい戦闘で当初の82人のうちの18人だけが生き残りマエストラ山脈へ退き、そこからバティスタ政府とのゲリラ戦を再開した。生存者の中には革命後に閣僚となるチェ・ゲバラ、ラウル、またカミロ・シエンフェゴスが含まれていた。フィデルの運動は民衆の支援を獲得し、800人以上の勢力に成長した。

[編集] 勝利

1958年5月24日にバティスタはフィデルの軍に対して17の大隊を送り出した。数字の上で圧倒されていたにもかかわらず、フィデルの軍隊は政府軍兵士の多くの軍務放棄によって、一連の勝利を成し遂げた。

1959年の元日、フィデルの軍隊は首都ハバナ近郊に迫り、バティスタと次期大統領カルロス・リベロ・アグエロは国外逃亡し、フィデルの軍はハバナを指揮下に置いた。

[編集] 国家元首として

革命後は一党独裁体制を敷き、自ら首相(その後国家評議会議長と閣僚評議会議長)を務め、長い間事実上の独裁者として君臨した。しかし他の社会主義政権の元首に見られるような、自身の巨大な肖像写真や銅像を一切作らせていない。これは、前政権の独裁者バティスタと同一視されるのを忌避するためと言われている。

[編集] 経済政策

キューバ革命後直後はアメリカとも友好的な関係を維持しようと努力したが、フィデルを「容共的」と避けたアメリカとの関係を見限りソ連と接近し、同時にユナイテッド・フルーツ(現:チキータ)などの大企業の農園やハバナに立ち並ぶカジノホテル(その多くがアメリカ政府と密接な関係を持つマフィアの持ち物であった)などのアメリカ企業の資産の接収と国営化を推し進めたために、アメリカはキューバとの断交と経済制裁を発動し、それに対抗するようにソ連はサトウキビ石油バーター貿易(事実上の経済支援)などを通じてキューバ支援を行った。

その関係は1991年のソ連崩壊まで続いたものの、ソ連崩壊により冷戦が終結したことでバーター貿易も経済支援もストップしたため近年は深刻な経済状態が続いており、その為にいかだ等を使用して経済亡命する事件が後を絶たず、カストロ兄弟のみならず国家全体の悩みの種となっている。この様な経済面での失政から、「革命家は年金をもらってまで生きるようなことはしない。私はマルクスエンゲルスレーニンと一緒に地獄に落ちるだろう。地獄の熱さなど、実現することのない理想を持ち続けた苦痛に較べれば何でもない」と語ったこともある[4]

なお、革命後に土地の国有化を推進し、その一環として実家の農園も取り上げたため実母から絶縁された。唯一の娘もカストロ体制を嫌うキューバ人の多くが亡命し、反カストロ派の海外における一大拠点となっているアメリカのマイアミに亡命している。

[編集] 人権問題

[編集] 亡命者問題

1980年3月28日に、カストロ体制を嫌う亡命希望者を乗せたバスがハバナのペルー大使館の門を突破した。続く48時間に10,000人以上のキューバ人が大使館に逃げ込んだ。フィデルは4月20日にマリエルの港からボートで出国できることを発表する。亡命希望者達はマリエルからボートで出国を始め、彼らは「自由小艦隊 freedom flotilla」として知られるようになる。アメリカ沿岸警備隊によると、9月26日にマリエルが閉鎖されるまで、124,776人のキューバ人が出国したとされる。

マリエルから出国したキューバ人の大多数は自主的な亡命希望者であったが、フィデルはおよそ20,000人の犯罪者および精神障害者を出国させる機会としてこの事件を利用したとされる[要出典]

[編集] 宗教政策

キューバはスペインの植民地だったこともあり、国民の大半はもともとキリスト教徒(カトリック)であったが、社会主義革命を標榜するフィデルは頑なな無神論者で、キリスト教会を取り壊し、教徒を矯正キャンプに入れるなどの宗教弾圧政策を行った。ローマ教皇ヨハネ23世は1962年1月3日にフィデルを破門した。これは1949年にピウス12世が発した法令によるものであったが、カトリック信徒たりつづけることを以前から放棄していたフィデルにとってこの破門は重要な出来事ではなく、カトリック教徒によるフィデルへの支援を妨害するために行われたと予想されたが、そうであったとする証拠はほとんど無い。

ヨハネ・パウロ2世とフィデルの関係は以前の教皇との関係と比べると多少よかった。1992年にフィデルはキリスト教徒に対する融和策を導入した。ヨハネ・パウロ2世はアメリカによるキューバへの通商停止に対して「不正で、倫理的に承諾しがたい」と非難を行い、その後バチカンとフィデルの関係は改善する。フィデルは1996年11月にはバチカンを表敬訪問しヨハネ・パウロ2世に謁見。事実上宗教弾圧政策を放棄した。1998年になるとヨハネ・パウロ2世がキューバを訪問する。これはローマ教皇による初めてのキューバ訪問であった。教皇は訪問がキューバにおけるカトリック教会の建設促進が目的であったと強調し、政治的問題への関係を避けたが、カトリック学校の開設許可のために政府による教育規制の撤廃と、キューバ国内の病院で行われている妊娠中絶を批判した[3]。教皇の訪問後、キューバ政府はクリスマスを再び休日とし、宗教的行事の公然実施を認めた。

2005年4月のヨハネ・パウロ2世の死去時には、フィデルはハバナ大聖堂でのミサに参列した。それは1959年に妹の結婚式に出席して以来46年ぶりのことであった。ミサを指揮した枢機卿ジャイム・オルテガはダーク・スーツを着たフィデルを歓迎し、「私たちの教皇ヨハネ・パウロ2世の死がキューバで心より悼まれた」ことに対して謝意を表した[4]

[編集] 外交政策

[編集] アメリカとの対立とソ連との友好関係

1959年にアメリカを訪れたフィデル
フルシチョフとフィデル
プーチンを迎えるフィデル

1959年1月の革命により全権を掌握すると、アメリカ合衆国は直ちにこれを承認、フィデルは2月に首相に就任する。しかし新政府がアメリカ企業の資産没収と国有化を実施すると、アメリカとの関係は日増しに悪化する。フィデルは4月にホワイトハウスを訪れ、副大統領リチャード・ニクソンと会談する。ドワイト・D・アイゼンハワー大統領は「ゴルフ中」であったという弁解を行ったことからも、当時アメリカがフィデルを軽視していたことが窺える。

同年12月に、アメリカ国家安全保障会議は「容共的かつアメリカにとって不利益をもたらす」としてカストロ政権転覆を決定。シーザー暗殺に因んで「ブルータス作戦」と呼ばれた。いわゆる「ピッグス湾事件」もこれに含まれる。その後もパティー作戦、リボリオ作戦、AM-LASH作戦と次々に暗殺計画が立案されるが、全て失敗に終わった。1961年4月のピッグス湾事件がアメリカ合衆国によって訓練された侵攻軍の敗退に終わると、同年5月1日にフィデルはキューバ革命が社会主義革命であることを宣言した。

キューバ国内のアメリカ系石油精製所が石油の供給を拒否し、キューバは1960年2月にソ連から石油を購入する協定に署名した。アメリカはキューバと国交断絶し、アイゼンハワー政権の間にキューバはソ連との関係を深める。フィデルとニキータ・フルシチョフ首相との間で様々な協定が調印され、キューバはソ連から大量の経済・軍事援助を受け取り始めた。

フルシチョフの回想録によると、1962年の春にクリミア半島で休暇をすごしている間に、アメリカの攻撃に対する抑止力としてキューバにミサイルを配置するという考えを思いついた。フルシチョフはこの考えを現実化するためにラウル率いるキューバの代表団と会談し、ソ連製核ミサイルがキューバに配備されはじめた。アメリカのU-2偵察機が1962年10月15日にミサイル発射装置の建設を発見し、ジョン・F・ケネディ政権率いるアメリカ政府は1962年10月22日にその事実を公表、キューバに向かう船舶の臨検を行い海上封鎖を実行した。

詳細は「キューバ危機」を参照

フルシチョフはアメリカがトルコからミサイルを撤去するのと引き替えにキューバからミサイルを撤去することに合意した。緊張が緩和された後もキューバとアメリカの対立は決定的なものとなった。フィデルは、アメリカを敵視する一方で、アメリカと妥協したソ連に対しても不信感を募らせた。ただしソ連との友好関係は、キューバの重要な政策であったから、断交にまでは至らず、フルシチョフ失脚後のチェコ事件によるソ連軍侵攻に理解を示し、フィデルはソ連に対する不信感を解消した。しかし、このような中途半端なソ連への態度が、チェ・ゲバラとの決別の大きな要因になった。

その後1990年代に入りソ連が崩壊し、ソ連を継いだロシアとの関係は冷戦が終結したことによって以前に比べて薄れた。また、アメリカとの関係についてはキューバ側が積極的に関係改善を目指している[要出典]が、フロリダ州などを中心に大きな影響力を持っているキューバ系アメリカ人財団など、反カストロ派ロビイストの影響を受けているアメリカの保守派は経済制裁の解除に反対している。

なおロシアは、ウラジミール・プーチン政権下において、アメリカを牽制する意味から、キューバとの関係を再び強化しており、元首同士の訪問や海軍艦隊の寄港を立て続けに行っている。

現在でもキューバはアメリカから経済制裁中であり、キューバ国内では反ブッシュ的なプロパンダが提示しているが[5]、アメリカはキューバのハリケーンなどの被害に対する人道的支援は例外的に行う姿勢を見せ、アメリカの申し出に感謝を表しながらもし真の協力の意志があるなら、「キューバに不可欠の輸出を許可し、米国企業による信用供与を妨害すべきではない」と拒否した。

[編集] ラテンアメリカ諸国との関係

1971年には米州機構の慣例にもかかわらず、社会主義者のサルバドール・アジェンデが大統領となったチリがキューバと外交関係を再確立する。フィデルはチリへの1ヶ月にもわたる訪問を行った。訪問中にアジェンデ大統領との大きな関係と公的な助言を与え、西側諸国からは「チリの社会主義化への道」と見なされた。1972年7月にはチリに続き、「軍部革命政権」を標榜していたペルーフアン・ベラスコ・アルバラード将軍の軍事政権がキューバと国交を回復した[6]。しかしその後アジェンデは、1973年にチリ軍部と野党が計画し、CIAが後援したアウグスト・ピノチェト将軍のクーデターにより失脚、殺害される(チリ・クーデター)。

その後1990年代初頭の冷戦終結まで、アメリカの後押しを受けた反共的な軍事独裁政権がその大勢を占めた殆どのラテンアメリカ諸国と関係が悪かったものの(メキシコなど一部の国としか交流がなかった)、冷戦終結に伴う軍事独裁政権の崩壊後は、ブラジルベネズエラなど多くの国と国交を回復した。特に近年は、反米的政策を取るベネズエラウゴ・チャベスボリビアエボ・モラレスと親しい関係を築き、南アメリカにおける「反米同盟」の盟主的な存在となった。

また、ラテンアメリカ諸国に対し、まるで宗主国さながらに振る舞い続けるアメリカの外交政策と、冷戦下のアメリカによる軍事独裁政権へのあからさまな後援を嫌う多くのラテンアメリカの多くの国民からは、フィデルのアメリカへかたくなに対抗する姿が、容共、保守の別を問わず、内外で高い共感を得ているといわれている。

[編集] 中華人民共和国との関係

毛沢東と会談するゲバラ

革命直後は、同じ社会主義国家である中華人民共和国との友好を図り、ゲバラらが中華人民共和国を訪問し毛沢東らと会見しているが、中ソ論争が激しくなると中華人民共和国との関係は悪化し、さらに中華人民共和国は貿易問題と政治問題を結びつけてきたため、フィデルは中華人民共和国政府を「強盗」と批判し、以後は対立関係にあった。

1970年代に起きたアンゴラ内戦ではキューバとソ連が政府側(MPLA)を支援して多数の軍隊を派兵したのに対し、中華人民共和国は関係を回復しつつあったアメリカ合衆国、及びアパルトヘイトを敷いていた南アフリカ共和国と共同で反政府側(UNITAFNLA)を支援した。

しかし近年キューバは中国との関係を再強化し、胡錦涛国家主席はカストロの元に見舞いに来た。中国は軍事面・資金面でキューバを援助し「今、新しい動力が現われた。それは中国とベネズエラだ。」と述べ、中国、ベネズエラとの通商関係に謝意を表した。中国はキューバにとって第2の貿易相手国(貿易総額27億ドル・約2600億円)で、米国の対キューバ経済制裁が続く中で、中国は食料・経済支援などを頼る事が出来る欠かせない相手である。また四川大地震の際にキューバ医療チームの活動に対し胡主席は「中国の党、政府、人民は永遠にこれ(医療チームの活動)を心に刻む」と感謝の意を表した。また有人宇宙船「神舟7号」の打ち上げに成功した事を祝福した[7][8]。2008年に起きたハリケーンの際には、キューバ政府はアメリカからの人道支援は断っているが、中国政府代表団はキューバに対する貿易債務繰り延べに加えて、港湾・病院などの近代化支援やハリケーン被害の復興支援などに総額7000万ドルの支援を行うと約束した。

このように冷戦終結後はキューバと中国との関係は良好化しており、反米左傾化の国と友好を深める中国の覇権主義が影響していると思われる。

[編集] ヨーロッパ諸国・カナダとの関係

1976年に、当時のカナダ首相ピエール・トルドーはアメリカによる経済封鎖にもかかわらず西側諸国の政治的指導者として初のキューバ公式訪問を行い、フィデルと抱擁を交わした。トルドーはカナダからの支援として400万ドルを提供し、1,000万ドルの融資を行った。トルドーはそのスピーチで「フィデル・カストロ国家評議会議長の長命と、キューバ、カナダ両国民の友情を祈る」と話した。

トルドーとフィデルの友情はその後も続き、トルドーは退任後も1980年代から1990年代にかけてキューバを数度訪れている。フィデルは2000年のトルドー死去時、葬儀に参列するためモントリオールを訪れている。

[編集] 引退、その後

2000年代に入り、さすがに高齢となってきたことがあってか、長時間の演説が徐々に短くなってきており、時に倒れこむ場面も見られるようになった。

2006年7月31日、フィデルは「腸に急性の問題が発生、出血が続いているため外科手術を受けた」との声明を発表し、同時に数週間程度の期間、ラウルに権限を暫定移譲するとも発表した。しかし、その後回復が思わしくなかったようで、暫定移譲期間は長期化していた。そのさなかの2008年2月19日、共産党の機関紙グランマ上で、国家評議会議長と軍最高司令官を引退する意向を示した。そして2008年2月24日、ハバナの国際会議場で開催された人民権力全国会議で国家評議会議長の退任と、後任にラウルが就任することが決まった。

国家元首引退後は論評を執筆して党の機関紙に投稿する生活を送っている。時々ラウルからの求めに応じて助言もしているようである(ラウルが重要事項はフィデルへ助言を求めると表明していることから)。その後、2008年12月16日を最後に1月18日現在までの1ヶ月論評を掲載されていないことからフィデルの病状悪化説が浮上。これに対してベネズエラのチャベス大統領は健康悪化説を否定。その後2009年2月19日、ハバナでチリの大統領ミシェル・バチェレと会見した際の写真をチリ政府が発表し、AP通信経由で公開されている[9]。 2009年8月24日のBBCワールドニュースで、1年振りに地元テレビにカストロの映像が流れたことを報じた。 (http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/8217422.stm)

[編集] 一般的なイメージとエピソード

長年の間事実上の独裁体制を敷いてきていた上、経済政策面などでは決して評価が高いとは言えない面はあるが、個人崇拝を嫌い、私利私欲に安易に振り回されない強固な信念の持ち主として、他の共産主義国家の独裁者たちとは違って、今なお賛否両論が別れる珍しい人物である。

[編集] 暗殺計画

CIA等によるフィデル暗殺計画は147回計画されたといわれる。 アメリカ人ジャーナリストのジョン・アルパートの「ニューヨークにはあなたを殺したいと思っている人がたくさんいますが?」という問いかけにフィデルは「人は死ぬときは死ぬんだよ。それが運命だ。」と答え、「あなたはいつも防弾チョッキを着ていると聞いていますが?」という問いかけには、フィデルはシャツのボタンを外し、肌を露出させ防弾チョッキを着ていないことを見せて「着ていないよ。モラルってチョッキは着てるけどね。これがあれば強い。」と答えている。

[編集] 共産主義指導者としての批評

革命広場(ハバナ)にあるホセ・マルティ記念碑の前で演説するフィデル
ブラジリアを訪れ歓迎を受けるフィデル

2006年に、アメリカのワシントン・ポスト紙の付録誌「パレード」の『世界最悪の独裁者』という特集記事で、第15位に選出されるなど、アメリカやラテンアメリカ諸国においては「社会主義かぶれの独裁者」として批判を受けることも多いものの、「ラテンアメリカを植民地のように扱うアメリカにかたくなに抵抗し続けるヒーロー的な存在」として、容共的な人々のみならず反共産主義者の間においても心理的な支持者が多いと言われている。

特にベネズエラウゴ・チャベスは、フィデルを師匠のように敬愛している他、ボリビアエボ・モラレス大統領とも友好関係にある。政治家以外ではサッカー選手のディエゴ・マラドーナと親交があり、同国出身のチェ・ゲバラと共に彼の左派発言の土台を作ったとされている。国内においても、独裁者として君臨しているにもかかわらず同様な理由からカリスマ的な人気が根強くある。 ちなみにフィデルは中華人民共和国毛沢東のことを「クソ野郎」と呼び、キューバ危機の際自分にまったく相談せずにミサイル撤去に応じたニキータ・フルシチョフが失脚したのを聞き、鏡を叩き割って罵ったと言われているが、実際にはキューバ危機後にフィデルは2回フルシチョフをソ連に訪問し、2人で事件を冷静に振り返った上で、自己批判までしている[10]

独裁ゆえに権力に依存してしまいがちな他の独裁国家の指導者と違い、血族であるものの自らの政治指導が困難とみなすと潔く権力の移譲を表明する柔軟さを高く評価されることもある(血族で唯一政治家であるラウルはモンカダ兵営襲撃事件からの仲間であり、フィデルの主義からして血族という観点からの評価でラウルに移譲したとは考えにくい)。事実、彼は非常に自分が美化されることに神経質で独裁国家によくある公共の場における指導者賛美のプロパガンダが一切存在せず、むしろ自分がTシャツのプリントや絵画に描かれることを嫌っている。また、キューバでは特定の政治指導者が偶像化するのを避けるため、存命中の人物のモニュメントを公共の場所に飾ることを法律で禁じているため、既に死亡したゲバラを讃えるモニュメントはあっても、カストロ兄弟をはじめとする存命中の人物のモニュメントは存在しない[11]

共産主義に対して極めて真摯な考えを持ち、自身がアメリカのフォーブス世界長者番付、君主・独裁者部門に9億ドルの財産を持つとして7位にランクインされたことに激怒し、「気分が悪くなる報道だ。なぜ、こんなバカバカしい記事に対して、自分を弁護しなければならないのか」「もし誰かが、私の口座が国外にあって1ドルでも預けてあると証明するなら、私は議長を辞める」と発言した。アメリカのメディアはほぼすべてが反(フィデル・)カストロであるためたびたび大病を患った、大怪我をしたなどと書かれることがある。

[編集] 葉巻と長時間演説

キューバの最大の特産物で、自らの好物でもある高級葉巻を革命闘争時代から常に欠かさなかったことから、葉巻愛好家の間では象徴的な存在であった。葉巻はゲリラ戦時に寄ってくるハエやアブなどから顔を守る為に始めた。又、革命の主役である者たちのトレードマークである髭も同様の理由からである。しかし、自身の健康と、国民に禁煙の重要さを説くため、1986年に禁煙宣言を出し自ら禁煙している。

フィデルは長時間の演説をすることでも有名で、数時間に及ぶスピーチも一般的だという。かつて党大会で10時間以上に及ぶ政治報告を行ったこともある。本人も自分の演説が長いことを自覚している模様で、とあるパーティでスピーチに立った際、冒頭で「大丈夫、今日は早く終わらせるから」とジョークを言い、出席者を笑わせたことがある。

[編集] 親日家・野球人として

フィデルは親日家として知られている。2003年に来日した際には、外国の要人としては珍しく原爆ドームを視察、慰霊碑に献花・黙祷して「人類の一人としてこの場所を訪れて慰霊する責務がある」とのコメントを残している。ちなみに、チェ・ゲバラも1959年に広島を訪れている。

また、野球人として日本の野球に対して尊敬をもって接している。2006年3月のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の決勝戦、日本と戦う事になったキューバだが、フィデルは試合前、キューバ選手団に「試合に“勝て”とは言っていない。“ベストを尽くせ”と言っている」という名言を残す。そして試合当日、キューバは善戦したが、結局は日本に敗れ、日本が優勝、キューバは準優勝という結果に終わったが、フィデルはキューバ選手団を空港まで出迎え、その後に首都ハバナで開かれた政府主催の式典で「金でも銀でもいいじゃないか!決勝に行けた事が素晴らしいんだ!」と自国選手を称えた上で、「藤田宗一選手からホームランを打った事は、素晴らしかった(要約)」「日本人選手の名前の読み方がよく分からない。マスコミに聞いてくれ(要約)」と積極的に日本人選手について発言している。

2009年のWBCではテレビ朝日系列のスーパーJチャンネルの2009年3月12日の放送にて、日本チームを批判する発言をしたとも報じられたが、これは番組側の誤訳であり、翌13日の放送で謝罪をしている[12]。日本が連覇を達成すると、原辰徳監督の投手起用法を高く評価、決勝打を放ったイチローを「世界最高の打者」と述べるなど、その偉業を最高の賛辞で讃えた[13]

また元日本野球連盟会長の山本英一郎と大変親しく、常々「彼は私の大切な親友だ」と公言していた。山本の死の際には、自ら弔電を打って哀悼の意を表した。

[編集] カストロ政権でのオリンピック選手団

フィデルが政権を握って以降オリンピックキューバ選手団はかなり列強であり、東側寄りである。

1976年モントリオールオリンピックでは8位に輝き、ソ連のアフガン侵攻でアメリカや日本など西側がボイコットした1980年モスクワオリンピックでは4位に輝いたが、1984年ロサンゼルスオリンピックではソ連と共にアメリカにボイコットしており、1988年ソウルオリンピックも不参加であった。冷戦後の1992年バルセロナオリンピックでは5位に、1996年のアトランタオリンピックは8位に、2000年シドニー・オリンピックでは9位に輝いた。2008年北京オリンピックでは関係修復した中国に対して「中国が並外れて素晴らしいオリンピックとパラリンピックの開催に成功した」と祝福した。

[編集] 家族

ラウル・カストロ

[編集] 兄弟

フィデルは3人兄弟で、うち1人に同じ軍人・革命家の弟で、自らの後継となった現国家評議会議長ラウル・カストロがいる。しかしアメリカ等の報道では、高齢なこともあり現在パーキンソン病を罹っていると伝えられている。

[編集] 結婚歴

1948年に同窓のミルタ・ディアス・バラルトと結婚。しかし1950年代に高名な医師の妻のナタリア・リベルタと不倫し、ミルタは離婚届を役所に出した。1980年には、トリニダード・トバゴ出身のダリア・ソト・デル・バジュと不倫の後結婚した。

[編集] 子女

4男1女の父。うち唯一の女子とされる(アリーナ・フェルナンデス・リベルタ)(ただし、アリーナ・フェルナンデスの母親は、フィデルとの関係は認めているが、アリーナの父親がフィデルであることを否定しており、アリーナがフィデルの娘であるというのは、自称に過ぎない)はアメリカに亡命しており、残る4男は皆キューバに居住しているが、政治的には高い地位には就いておらず無名に近い状態である。これはフィデルの思想が世襲とは無縁である事の表れといえる。

[編集] 補足

CNN9月13日の報道によると、フィデルはアメリカ同時多発テロは単なるテロではなく陰謀から起ったものであると側近に述べていたことが明らかになった[要出典]

[編集] 脚注

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  1. ^ 日本のマスコミ、特に新聞報道では、フィデルが元首に就任して以降も長年の慣例からか1993年あたりまで肩書を元首呼称である 「カストロ議長」ではなく「カストロ首相」と呼称していた。ただし、首相にあたる役職を兼務していたため誤りではない。
  2. ^ 後藤政子/樋口聡:編著『キューバを知るための52章』 明石書店 2002/12 pp.68-69
  3. ^ 後藤政子/樋口聡:編著『キューバを知るための52章』 明石書店 2002/12 pp.70-71
  4. ^ 宮本信生「カストロ 民族主義と社会主義の狭間で」 中公新書1996年
  5. ^ 広告の内容は『ブッシュはヒトラーに並ぶ殺人者』『ブッシュに騙されるな明日の幸せを失う』『アメリカに亡命する奴はテロリストだ』という極端な反米プロパガンダであった
  6. ^ 増田義郎/柳田利夫『ペルー 太平洋とアンデスの国 近代史と日系社会』中央公論新社 1999 p.210
  7. ^ [1]
  8. ^ [2]
  9. ^ Fidel Castro smiling in photos with Chilean leader @ AP
  10. ^ ニキータ・フルシチョフ「フルシチョフ 封印されていた証言」 草思社1991年
  11. ^ 戸井十月「カストロ 銅像無き権力者」 新潮社2003年
  12. ^ この報道のもととなった政府系サイトとはCubaDebateのことである。原文はここから参照できる(スペイン語)。英語翻訳版のReflections by Comrade Fidel: A FAIR AND CONSTRUCTIVE CRITICISMもあわせて示す。
  13. ^ Reflections by Comrade Fidel: EVERYTHING WAS SAIDスペイン語原文)。

[編集] 関連映画

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ
先代:
ホセ・ミロ・カルドナ
キューバの首相
1959年 - 1976年
次代:
-
先代:
オスバルド・ドルティコス・トラド
キューバの国家元首
1976年 - 2008年
次代:
ラウル・カストロ

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