張学良

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張学良
青年期の張学良
プロフィール
出生: 1901年6月3日
光緒27年4月17日)
死去: 2001年10月14日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ハワイ州ホノルル
出身地: 25x22px 清国盛京将軍管轄区(現在の台安県桑林鎮)
職業: 軍人政治家
各種表記
繁体字 張學良
簡体字 张学良
ピン音 Zhāng Xuéliáng
通用ピン音 Jhang Syuéliáng
注音符号 ㄓㄤ ㄒㄩㄝˊ ㄌㄧㄤˊ
注音二式: Jāng Shiuéliáng
和名表記: ちょう がくりょう
発音転記: ジャン シュエリャン
ラテン字 Chang Hsüeh-liang
英語名 Peter Hsueh Liang Chang
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張 学良(ちょう がくりょう)は、中華民国軍人政治家張作霖の長男である。漢卿

目次

[編集] 人物

[編集] 青年時代

1901年、張学良は当時満州地方(現地名:遼寧省台安県)の馬賊であった張作霖の長男として生まれた。母親(趙春桂)のことはよく分かっていないが、張学良が11歳の時に亡くなったようである。張作霖に可愛がられ、大勢の家庭教師が付き高い教養を身につけた。16歳からは英会話も身につけさせ、張学良は後に中国の軍閥の頭領としてはただ一人の英語の使い手となる。16歳の時に最初の結婚をさせられ、17歳の時に第一子ができ、19歳の時には、父によって早くも陸軍少将に任じられてる。

1919年3月、父の創設した軍幹部養成学校である東三省講武学堂の一期生として入学。若い頃から記憶力が良く、300名以上の学生の姓名、出身地、字を暗記していた。また、試験で一番を取ったので父親との関係(当時張作霖は事実上の満州王であり、学良はいわば王子様)で不正をしていると疑われたが、生徒の席同士を離してカンニングが出来ないようにしてから試験を行った結果、ようやく実力を認められたという。また、昭和天皇と同年生まれで、20歳の時来日したが、当時皇太子であった昭和天皇と容姿が似ていると周囲に驚かれたという。初めは人を救う医者になりたいと思っていたが、結局は人を殺す軍人になってしまったと後のNHKの取材で述べている。

[編集] 武官時代

1920年、東三省講武学堂を卒業し、軍人としての道を歩み始める。張学良は父親の張作霖が設置した軍人教育施設である講武学堂を卒業するとすぐに旅団長に任ぜられている。わずか19歳の若さだった。しかもその年の末には陸軍少将に昇格した。西安事変の際は張は36歳、その時には陸軍一級上将になっていた。これは蒋介石に次ぐ中国の最高軍事指導者の地位である。満州の奉天軍閥、張作霖の長子として父と共に大日本帝国に協力的であった。1920年に安直戦争が勃発すると19歳の張学良は軍を率いて直隷派の救援に向かい、側近の郭松齢の補佐のもと、安徽派軍を大破し彼の名声は大いに上がった。その後、1922年第一次奉直戦争1924年第二次奉直戦争でも活躍し奉天軍閥内で強い影響力を持つようになった。当時、奉天軍閥には2つの派閥があった、一つは楊宇霆ら馬賊時代からの側近からなる派閥であり、もう一つは張学良、郭松齢ら東三省講武学堂を卒業した若手の派閥である。両者は対日政策などをめぐり対立していた。やがて郭松齢が処刑されると彼の軍も張作霖直轄軍に加わり張学良は名実共に張作霖に次ぐ実力者となった。

[編集] 奉天軍閥

張作霖爆殺事件により破壊された車両

1928年6月4日関東軍河本大作による張作霖爆殺事件により、張作霖が死亡すると張学良は側近達の支持を取り付け奉天軍閥を掌握し、亡父の支配地域・満州を継承した。当時、蒋介石率いる北伐軍が北京に駐留し奉天軍閥との間に緊張が走っていたが、易幟青天白日旗を掲げ、国民政府への服属を表明すること)することを条件に満州への軍事政治への不干渉を認めさせ、独立状態を保つことに成功する。日本は林権助を派遣して張の翻意を試みたが失敗した。ただし張は日本との決定的な対立を避け、日本を軟化させた。1929年1月には、以前より対立していた楊宇霆ら旧臣たちを反逆者として処刑し権力と地位を不動のものにした。

27歳の張学良は父の満州における全権力及び巨額の財産を承継した。父が殺された日が張学良の誕生日であったため、それ以降彼は生涯にわたって誕生日を一ヶ月繰り上げて祝った。

張学良は富国強兵策を採り軍事、金融教育などの近代化を進めた。彼は次第に自信を深め、1929年7月にはソビエト連邦が保持していた中東鉄路を接収したことをきっかけに武力衝突を起こし大敗した(中ソ紛争)が、国民党系軍閥らの争いに介入して勢力を伸張し河北省を制圧、蒋介石に次ぐ実力者と目されるようになった。

[編集] 満州事変

1931年に入ると満州でも左派勢力に煽られた抗日運動が活発化し関東軍や在満邦人の強い反発をかっていた。関東軍が満州への武力侵攻を決め、軍を続々と集結させているときはいつもの軍事演習だと思い、何の対策も取らなかったと言う。

満州事変が勃発した時、彼は北京にいたが、日本軍侵攻の報告を受けると日本軍への不抵抗を指示した。応戦すれば日本の挑発に乗ることになると判断したことや平和解決を望んだということ、日本にとって国際的な非難を浴びるなど好ましくない結果をもたらすだろうと考えたということを当人はNHKの取材で述べている。

いずれにせよ、日本と積極的に戦わず退いたこと自体は国民政府の方針通りであった(この時期蒋介石は下野していたが、蒋の意向も同じであった)。これは国共内戦のため対日戦に兵を割く余裕が無かったことと、日本が全面戦争に踏み切るとは予期していなかった為である。ところが、日本は満州全域を占領したので、抗戦を主張した汪兆銘は張を批判し、「不抵抗将軍」と内外で蔑まれた。その後、アヘン中毒の治療もかねてヨーロッパを歴訪し、イタリアムッソリーニドイツゲーリングに面会し、ファシズムの影響を受け、中国も強い指導者が必要と思うようになった。

当時張作霖・学良軍閥とは満州を支配したものの「政府」を樹立せず、軍隊は私兵であり、行政官・外交官も家臣であったため税収は全て学良個人の財産となった。また、関東軍は満州事変を引き起こしたが、陸戦規定を守り掠奪を働く事なく、学良の個人資産には手をつけなかった。つまり、満州国の建国とは従来政府の資産・負債を引き継いだものではなく、純然たる日本の財政により賄われたのである。この結果、張学良の手元には莫大な外貨・貴金属がそのまま残され、当時の張学良は途方もない金持ちであった。

[編集] 抗日演説

張学良は以下のような抗日演説を行っていた[1]

「日本は元々中国の統一と経済発展に反対しており、其の為対外宣伝では『東三省は中国の一部ではない』と言っていますが、東三省は本来中国の一部です。歴史的に見てもそうです。ニューイングランドがアメリカの一部であるのと同じ事です。現在三千万の人民がおりますが、東三省は彼らの故郷です。彼ら三千万人民は99%中国人です。彼らも故郷のために奮闘する事を望んでおります。一人残らず全ての人々がそれを望んでおります。現在日本はこれらの暴力を用いて、全満州の領土を占領しております。これらの暴力の下で、数千万の財産と数千万の平民が犠牲となっております。現在これらの暴力の下で国際条約を破壊され、とりわけ三千万人民の生命が努力してきた国際連盟が破壊されているのです。そこで私は日本が独断専行を辞めることを心より望みます。世界をして重大な犠牲を止めるべきなのです。」

[編集] 西安事件

1934年張学良は帰国すると共産軍討伐副司令官に任命された。彼は河北省に残っていた旧奉天軍閥の残党を呼び寄せて軍を整えた。1935年西安に駐留して9月から11月にかけて共産党の根拠地を攻撃したが、戦力では勝っていたものの士気の高い紅軍に連敗し多くの将兵を失った。11月末、共産党は張学良に抗日共闘を訴えるようになり、これに同調して極秘に周恩来と会見し両軍は停戦することになった。この時、既に対蒋介石クーデターの構想などが練られていたと言われる。1936年、蒋介石が張学良を督戦するために西安へやってきた。蒋介石は、「東北軍頼むに足らず」と知り、東北軍を福建に移し、代りに30万人の軍隊と100機の軍用機を集める計画を開始した。このことは、共産党鎮圧政策の強化にとどまらず、東北軍への懲罰、張学良への警告であった。12月4日、蒋介石は再び西安に赴き、共産党・紅軍絶滅の最終決戦態勢をととのえ、東北軍・西北軍を督戦するために、陳緘・衛文煌など多くの軍首脳を招集した。12月10日、蒋介石主導の会議で、張学良の現職を解任し、東北軍とともに福建に移動させることを決定。これによって、中央軍が主力となる。11日夜の蒋張会談の際も蒋は張の提言を拒否する。12月12日、張学良と楊虎城西安事件を起こして蒋介石を拘束し第二次国共合作を認めさせた。西安事件の前年の1935年、張学良は「中共は山賊にほかならない。やつらの大方のところは既に片付けた。残ったわずかな連中が小山賊団となってあちこちに散らばっているだけの事だ。」と吐き捨てるように語っていたが、私恨のために西安事件を起こした。共産党員は、これまで非常に長い間、蒋に追われ、皆殺しの対象(周恩来の首は高額の賞金がかけられていた)になっていたが、西安事件により蒋介石の生殺与奪を握った。

[編集] 長い晩年

1937年に反逆罪により逮捕された。西安事件は蒋介石暗殺の危険性があった重大事件であり、国民党は張学良を軍法会議にかける事に異議はなく、傅斯年などは張を極刑に処すべしと主張していた。胡適は張学良にあてて電報を発している。胡適は、中国では全国的な指導者の出現が非常に困難である事、もし蒋介石に不幸があれば中国は20年あと戻りする事になるだろうという旨を述べたのち、こう言う。「まさに国難家仇を念い、懸崖で馬を勒すべし」。蒋介石を護送して南京へみずから来たうえで国民に謝罪せよ、張のこのたびの挙は“敵に抗する名目でその実自ら長城を破壊する”行いであり、張学良は“国家と民族の罪人”である。胡適は厳しい語気で張学良に警告している。しかし張学良は極刑もしくは国民党から永久除名にされず軍法会議により懲役10年の刑を受けた。このように極刑にされなかったのは蒋介石の寛大さと張は述べている。

1938年特赦を受けたがそのまま軟禁状態に置かれた。その後日中戦争期間を通じて軟禁状態に置かれ続けた。1945年第二次世界大戦に日本が敗北した後の国共内戦において、国民政府は中国共産党との内戦に敗れ、1949年台湾島に逃れたが、この際に張学良も台湾に移され50年以上も軟禁され続けた。この間、1955年キリスト教に改宗した。

1975年の蒋介石の死後、次第に行動の自由が許されるようになる。1980年代後半には、李登輝によって戒厳令が解かれた中華民国の民主化を象徴する形で対外メディアとの接触が許され、事実上軟禁状態が解かれた形となった。

1990年にはNHKの取材を受けたが「西安事件の真相については証言はできない」とする態度を崩さなかった。日本については「私は一生を日本によって台無しにされました」、「日本ははっきりと中国に謝罪すべきだ」と述べ、靖国神社問題については、「日本はなぜ東條のような人を靖国神社に祀っているのか。靖国神社に祀られる人は英雄である。戦犯を祀るのは彼らを英雄と認めたからなのか」と批判している。一方で「中国が日本より遅れているのは事実だから、中国を兄とは見なくても弟分と見て、その物資を用いるために力を貸してくれればよかった。しかし昔の日本は、中国を力で併合することしか頭になかった」と主張している。同時に青年期にアヘン中毒であった事実も隠していない。「父を殺され故郷を踏みにじられた怒りにより、禁断症状の苦しみを克服できた」と振返っている。張学良は中国から余生を送るよう丁重に招請されるが、これを拒絶した。

その後1991年アメリカハワイ州ホノルル市に移住した。1994年の陸鏗のインタビューに対して、張は「(事件に関して)私がすべての責任を負っています。しかしまったく後悔はしていない」と断言している。そのままホノルル市に隠棲し2001年に生涯を終えた。100歳であった。

[編集] 評価

[編集] 肯定的な評価

中華人民共和国内では、張学良は「第二次国共合作」の立役者であり、抗日統一戦線結成のきっかけを作った人物である事から、非常に高く評価されており、「千古の功臣」「民族の英雄」と呼ばれ、張学良氏を主人公とする映画が作られたりもしている[1]。共産党側からすれば、西安事変によって国共両勢力が再度手を結び大陸の内部まで攻めこんだ日本軍と戦ったが、それよりも蒋介石に追い詰められていた窮境から脱出する事ができた事が数年後の蒋介石率いる国民党を台湾に追い出し、政権を奪還する事にもつながったのである。ある意味で、張学良は逆境にあった共産党の救い主とも言える。張学良は西安事件の責任で、50年以上軟禁される事によって人生を狂わせたが、共産党にとっては自分を犠牲にして共産党に天下を取らせた功臣であるのには間違いない。

2001年の張学良の死去の際に中国の江沢民国家主席は、張学良遺族への弔電で張学良を「偉大な愛国者」、「中華民族の永遠の功臣」と称え、「65年前の民族滅亡の危機に際して、楊虎城将軍と共に愛国精神、抗日と民族滅亡阻止の大義を掲げ、西安事変を発動し旧日本軍に対して中国共産党との共同抗戦を訴えた。更に10年にわたる内戦を集結させ、第2次国共合作を促し、全民族の抗戦に歴史的貢献をした」と絶賛した。

[編集] 否定的な評価

中華民国内では、張学良は満州事変後も自分を庇護してくれた国民党に対して国共合作を認めさせるために蒋介石を脅迫して反共戦を頓挫させ、国民党が取った対日戦略の「安内攘外」を破綻させ[2]、結果として抗日戦争を早め[3][4]、十分な対抗力がないまま勢いづく日本軍と正面衝突したために計り知れない犠牲を強いられたと西安事件を否定する意見も強い。当時、莫大な軍事援助を提供したの三ヶ国は日本軍の中国侵略に対しては傍観的な態度をとっていたため、中国は国際的にも事実上孤立無援だった(米国の本格的な参戦は4年半後の真珠湾事件が勃発してからだった)。従って、彼は中華民族の功臣ではなく、罪人だと言う者も多い。そしてこの様な見方をする者には、同時に反共産主義者も多い。9年がかりの国共内戦の勝利を目前に支那統一の五分前の絶好の位置につけソ連顧問団と毛沢東は脱出の準備し、深謀遠慮な蒋介石は対日戦よりも反共戦を優先し、延安総攻撃準備を張学良に命令したが、共産主義への警戒心が薄い張学良が西安事件を起こした事で挫折し、力を蓄えた共産党により最終的に国民党が大陸を追われたために国民党関係者からの評価は非常に厳しい[5]胡適は「西安事変がなければ共産党はほどなく消滅していたであろう。・・西安事変が我々の国家に与えた損失は取り返しのつかないものだった」と述べている。

張学良の人生について、よく「波乱万丈の100年」という表現が用いられているが、むしろ36歳から50年以上の軟禁生活を余儀なくされ、自由を得た後も全く政治的な活動をしなかったという「人生の空白」の時間の方が長かった。そして、青春時代も満州に割拠した軍閥の父張作霖の七光りで若くして将軍になったものの美女狩りや麻薬吸引に余念のない放蕩息子であり、政治でも軍事でもさほど重要な役割を果たした事はなかった。張学良の東北軍は、ソ連軍と戦火を交えて敗北、五個師団が壊滅、陝北での剿共戦では直羅鎮・楡林の戦闘で紅軍に敗北、二個師団が壊滅というていたらくであり、このように彼が多くの戦闘で負け続けた事は厳しく指摘を受けている。また指揮官としての能力は著しく低く「(張は)宋子文とともに前線に赴く途中、15キロごとに乗っている車を止めさせてモルヒネを注射した。彼は毎日100本注射した。通常の人間なら10本で死ぬ量である。ある作戦会議で、彼はオーバーのポケットのなかの命令書を出すのを忘れて、その命令を下さなかった。また、張は自分の部隊がどこにいるのか知らないと言った。これでどうやって軍を指揮するというのか」と述べられている[6]。郭冠英は「満州事変までの張は麻薬と女色にうつつをぬかし、彼に対する世間の印象はきわめて悪かった」と述べ、満州事変後の奉天市長趙欣伯は「昼は眠り、夜は女遊びと賭博、阿片に凝っていて精神不安定だった」と述べた。

張は西安事件の当事者であるにも拘らず、蒋の釈放後に蒋夫妻の飛行機に乗り込み随行し、宋美齢の庇護を受けながら生涯を終え、共産党政権の中国に戻る事はなかった。

しかし、蒋介石自身が張学良を殺さずに台湾へ帯同し軟禁状態に留めた事や、軟禁が解かれた後に蒋介石夫人の宋美齢ホノルルで再会している事など、国民党中枢からの張学良への評価は一般人のそれとは異なっており、これが張学良への歴史的評価を複雑にしている。

黄文雄 (評論家)は、張学良を強く批判して「千古の罪人」と呼んだ。郭冠英は「お坊ちゃん気質丸出しで、こらえ性がなく、後先を考えずに行動する。このような人間と事を共にするのは、まさに『上司には頭痛の種、部下には不幸』というものである」と評している。

[編集] 参考文献

  • 臼井勝美:NHK取材班『張学良の昭和史最後の証言』(1991/8 角川書店 ISBN 4048210416、1995/5 角川文庫 ISBN 4041954029、いずれも絶版
  • 松本一男:『張学良と中国・西安事変立役者の運命』(サイマル出版会)
  • 澁谷由里『「漢奸」と英雄の満洲』 (講談社選書メチエ、2008年)
  • 儀我壮一郎『張学良少帥と日本』(専修大学社会科学年報第44号)[2]

[編集] 脚注

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  1. ^ レコードチャイナ:張学良旧居を訪れ学ぶ大学院生―遼寧省瀋陽市
  2. ^ 蒋介石は日中全面戦争を回避するために日本の要求を受け入れており、西安事件までは妥協的だった。国民政府は日本側からの要求である梅津・何応欽協定土肥原・秦徳純協定を締結、さらに「治安維持緊急治罪法」を発布して抗日運動を厳しく抑圧し全国各界連合会の七人を「民国に危害を加えた」との罪名で逮捕した(小島晋治・丸山松幸「中国近現代史」)。胡適は「華北保存的重要」という文章を発表して現今の中国は日本と戦える状態ではないと指摘し、「戦えば必ず大敗するが、和すればすなわち大乱に至るとはかぎらない」かゆえに“停戦謀和”すべしと唱え、「日本が華北から撤退し停戦に応じるのであれば、中国としては満洲国を承認してもよい」とさえ主張している(曹長青評論邦訳集 張学良論2.なぜ蒋介石は抗日に同意しなかったのか)。蒋は満州国周辺に「冀察政務委員会」と言う国民党政権で有りながらも日本人顧問が採用されている緩衝地帯を作り日本と妥協し、盧溝橋事件の際に宋哲元張自忠秦徳純は人脈を生かして現地解決を努めた。
  3. ^ 盧溝橋事件の際に現地軍が妥協し、日本政府は中国に停戦協定に中国軍幹部の陳謝と更迭を要求し、支那駐屯軍橋本群は7月20日には内地軍派兵に反対意見を起草し「29軍(宗哲元軍)は全面的に支那駐屯軍の要求を容れ、逐次実行に移しつつあり」と打電するなど、日本は中国に対し一貫として武力行使を行おうとしていなかった。しかし蒋介石の政治的な理由から妥協は出来なかった。
  4. ^ 「中国の抗日開始は早すぎた。もしもう五年遅ければ状況はまったくことなっていたはずだ」許倬念(シカゴ大学歴史学博士)の言葉である。
  5. ^ 西安事変 張学良の功罪 サーチナ
  6. ^ (畢万富「新発見によって張学良の抗日の主張を論ずる」四の二、米国『世界日報』、1996年1月16日)

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2012年5月7日 (月) 03:19 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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