F-1支援戦闘機
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三菱 F-1
F-1 支援戦闘機(えふわん しえんせんとうき)は日本の航空自衛隊で使用された支援戦闘機、または戦闘爆撃機である。量産1号機の初飛行は1977年(昭和52年)で、同年より部隊は配備を開始した。後継機であるF-2支援戦闘機の配備が進み、2006年(平成18)3月9日に全機が退役した。愛称は特にない。
目次 |
[編集] 概要
三菱重工業が製造したT-2高等練習機を基に、第二次世界大戦終結後に日本が初めて独自開発した超音速飛行が可能な戦闘機である。支援戦闘機[1]はF-104の第一線配備に伴い陳腐化した米国製のF86を戦闘爆撃機として配備し、支援戦闘機(隊)としたが、1947年初飛行のF-86の機体では老朽化が迫りすぐにも代替機が求められた。そこで次期支援戦闘機の研究を防衛庁技術研究本部で開始した。その後原型となるT-2の開発が完了した直後に、「次期支援戦闘機(FS-X)開発計画」[2]を具体化させた。日本という四方を海に囲まれた島国の防衛のため、開発当初から対艦ミサイルとの組み合わせによる対艦攻撃を想定し、国産の空対艦ミサイル「ASM-1」の搭載能力を有していた。原型試作機である「FS-T2改(T-2特別仕様機)」が1975年6月3日、量産型1号機が1977年6月16日にそれぞれ初飛行を行った。
総計77機が製造され、三沢基地の第3航空団第3飛行隊と第8飛行隊、築城基地の第8航空団第6飛行隊に編成されている支援戦闘機部隊に配備がなされた。F-1の有する対艦ミサイルによる対艦攻撃という運用方法は特筆すべきものがある一方で、機動性の低さから空中戦(要撃任務)での不安も抱えていた。
2006年(平成18年)に築城基地の第6飛行隊に配備されていたF-1がF-2の配備により退役し、航空自衛隊で配備・運用されていた全機が正式に退役した。
[編集] 開発経緯
日本では、それまで支援戦闘機として使用していたF-86Fは、航続距離が短く兵装搭載量も不足して対地・対艦攻撃能力が低かったことや、そもそも機体の老朽化で用途廃止になる機体が出てくることから、後継機を超音速高等練習機とその派生型である攻撃機型で充てる計画を立てた。
同時期にイギリスとフランスの共同で超音速練習機/攻撃機、後のジャギュアを開発し、高い費用対効果を上げようという試みが国内開発へのはずみにもなったものの、前回のF-X候補のひとつで、F-104に敗れたノースロップ N-156F(後のF-5、T-38)が、航空自衛隊の超音速練習機採用に合わせて再び売り込みを掛けてきていた[3]。
防衛庁(現防衛省)内には米国製のT-38練習機とF-5戦闘機を導入すべきだと強力に主張する勢力があり、また制服組からも純技術的経済的問題から国内開発を疑問視する声があがっていた。新規開発する費用を含めた経済性だけで見ればT-38/F-5が優勢であったが「国内の航空産業と若い技術者の育成、飛躍を目的とする」とした意見が通り、国内開発が決定された。
これにより、超音速高等練習機T-2は支援戦闘機への転用を前提として開発され、T-2開発完了直後から次期支援戦闘機(FS-X)開発計画を開始し、T-2からFS-Xを改造開発することとなった[4]。このため、FS-XはFS-T2改と呼ばれ、まず2機のT-2を改造して原型機を試作することとなった。この改造に使われたT-2はT-2特別仕様機と呼ばれた。
T-2からFS-T2改への改造点として、以下が挙げられる。
- 後席を廃止して複座から単座へ変更し、空いた後席部に電子機器を追加搭載する[5]
- 火器管制装置(FCS)の更新(T-2後期型で搭載したものを発展させる)
- 兵装投下コンピュータの搭載
- 慣性航法装置の搭載
- レーダー警戒警報装置(RHAWS)の搭載
- 電波高度計の搭載
1972年(昭和47年)2月7日の国防会議で策定した第四次防衛力整備計画によって、次期支援戦闘機FS-T2改を68機調達することとなり、開発が決定した。翌年には1974年(昭和49年)度予算に2機分すでの試作が認められたため、三菱重工業は生産ラインにあったT-2の6号機(#59-5106)と7号機(#59-5107)を特別仕様機として改造を開始した。この年からFS-T2改の主兵器となるXASM-1の開発も開始された。1975年(昭和50年)6月3日に火器管制装置等の電子機器の実験機である#107が初飛行、6月7日に性能試験、飛行特性試験、フラッター試験機の#106が飛行した。機体システムに支出された予算は4億2000万円、電子装置には7億6300万円であり、機体改造は最小限にとどめて、開発は電子機器類を中心に行なわれた。
機体自体に大きな変更を加えられておらず、基本データはXT-2の時に取得済みだったので、#106の試験は早々と終了し、2機による電子機器の試験が行われた。翌7月から飛行実験団(現在の飛行開発実験団)と防衛庁技術研究本部(TRDI)による技術試験が行われ、翌1976年(昭和51年)3月に終了した。さらに8か月にわたって実用試験が行われた後、11月12日に部隊使用が認可され、FS-T2改にはF-1の制式名称が与えられた。試験に使用された2機のT-2特別仕様機は、量産化改造されずに飛行実験団に残され、新兵器開発に利用された。
1975年(昭和50年)に18機分の取得予算が計上され、量産1号機(#70-8201)は1977年(昭和52年)2月25日にロールアウト、6月16日に初飛行し、9月16日に納入された。その後、10年に渡って量産され、1987年(昭和62年)3月9日に最終77号機が納入され、生産が終了した[6]。
防衛庁は最初に126機導入を予定したが、最終的には77機の調達となり3個飛行隊が三沢基地と築城基地に配属された。戦闘機の配備数としては決して多くはないが、T-2とほぼ同一の機体であることから、96機生産されたT-2と合わせれば173機の生産となり、大量生産による価格低減は達成されている。開発費用の超過は当初予定の数パーセントに抑えられており、F-1の平均コストは1機当たり26億円程度である。
F-1の発表の際、イギリスの航空雑誌は、かつて零式艦上戦闘機(ゼロ戦)を開発した三菱が、再び戦闘機を開発したと言うことで、「ゼロから1へ」と紹介していた。
[編集] 運用
[編集] 調達数の変遷
第4次防衛力整備計画(4次防 昭和47年-51年)原案では4個飛行隊126機を予定していたが、決定案では68機に削減され、残りは次期の防衛力整備計画に先送りされた。しかし実際にはオイルショックによる財政難により、4次防中の調達は26機にとどまった。また1976年(昭和51年)10月に閣議了承された「防衛計画の大綱」(防衛大綱)において戦闘機の配備は「要撃戦闘飛行隊10個・所要機数約250機、支援戦闘機隊3個・所要機数約100機(1個飛行隊25機の3個飛行隊+予備機)」とされたが、最終的には、昭和54年に承認された中期業務見積もり(53中業 昭和55年-59年)の中で、1個飛行隊18機の3個飛行隊+予備機の77機配備とされた(53中業での調達は13機、他に昭和52年-54年で38機の調達)。
[編集] 配属飛行隊
- 第3航空団第3飛行隊(三沢基地)1977年(昭和52年)9月 - 1978年(昭和53年)3月31日配備完了。
- 第3航空団第8飛行隊(三沢基地)1979年(昭和54年)6月 - 1980年(昭和55年)2月29日配備完了。
- 第8航空団第6飛行隊(築城基地)1980年(昭和55年)3月 - 1981年(昭和56年)2月28日配備完了。
[編集] 退役
当初は1990年(平成2年)度より最初の飛行隊の更新が必要とされ、56年度中期業務見積もり(昭和58年-62年)では次期支援戦闘機(FS-X)の調達が計画されたが、強度再検討による疲労耐用時間の延長と、当初予定より年間飛行時間が少なかったことより、更新は1997年(平成9年)度からとされ、FS-X国産開発のための時間が得られることになった。しかし、FS-X(現F-2A/B)は開発の遅れによって1997年からの配備が不可能になったため、用途廃止の発生する1997年より、小松基地第306飛行隊(要撃戦闘機飛行隊)のF-4EJ改を支援戦闘機に転用し、新・第8飛行隊を編成した(また、その分の要撃戦闘機飛行隊の定数を補完するため、F-15J/DJの追加調達が行われた)。
第3飛行隊を更新するF-2は、2000年(平成12年)10月2日に設置された「臨時F-2飛行隊」に配備が始まり、2001年(平成13年)2月27日に臨時飛行隊が第3飛行隊となり、F-2へ転換された。築城基地第8航空団第6飛行隊では2003年(平成15年)11月、60-8274号機のF-1に最後のIRAN(製造企業による定期修理)が行われ、最後まで残った7機は2006年(平成18年)3月9日に退役、F-2へ転換された。この退役機のうちの1機は基地展示用に保存される。
その後、量産1号機(#70-8201)は入間基地に保管されていて、航空祭の時に他機と並んで地上展示されている。
[編集] 事故
[編集] 機体
[編集] 概要
機体は、後部座席を取り外して電子機器を搭載した点以外T-2からの大きな変化は無く、特性はT-2のものをほぼそのまま受け継いでいる。主翼は非常に小さく、また厚みも薄い超音速飛行に重点を置いた形状。水平尾翼は下方向に15度の角がついている全遊動式で、前縁はエンジン排気やミサイル火炎からの耐熱のためチタニウム合金が用いられている。
機体後部下にはT-2同様ベントラルフィンが付く。車輪はコストダウンのため、F-104J/DJと同じものを使用している。ただし、コックピット風防は低空侵攻任務が多くなることからバードストライク(鳥の衝突)対策として運用途中から一体強化型に変更されている。T-2もブルーインパルス専用機などは同種のワンピースタイプを装備していた。
塗装は、上空から発見されにくくするために機体上面と側面は緑の濃淡と茶の迷彩、下面は地上から発見されにくい空と交じり合う明るい灰色という配色である。なおT-2との識別点は機体塗装の他、後席の有無、垂直尾翼上端の変化(F-1ではJ/APR-3レーダー警戒装置を収めるフェアリングが付く)等である。
[編集] 武装
- 固定武装
- 20mmバルカン砲JM61を機体左側下部に一基搭載する。装弾数は750発であった。
- 携行可能兵装
- ハードポイントは胴体下部中央に1つ、両翼下に2つずつ、両翼端に1つずつ計7箇所にあり、ここに以下の兵装を最大2.72tまで搭載可能であった。
- 空対艦ミサイル
- F-1の主任務である対艦戦闘時には、F-1と同時開発した国産の空対艦ミサイル(対艦誘導弾)ASM-1を両翼下に各1発ずつ、合計2発を装備する。ASM-1は中間誘導をF-1からの慣性誘導、終端誘導のアクティブレーダー誘導にて行い、ロケット推進によって約50kmの射程を得た。
- 後にASM-2も搭載可能な様に一部の機体は改修されたが、基本的にはF-1では運用できなかった[出典 1]。ASM-2は終端誘導を画像赤外線誘導に変更し、ロケット推進からターボジェット推進に変更することで射程を延長した。
- 爆弾
- 対地攻撃用には、JM117 750ポンド爆弾を5発、Mk.82 500ポンド爆弾を胴体下に4発、両翼下に各4発ずつ、合計12発を搭載可能である[7]。ただしこのように兵装でハードポイントを使い尽くせば増槽を搭載できないので、攻撃任務の飛行距離にもよるが実際に5発+12発という爆弾だけを満載する組合せは少ないと考えられた。Mk.82 は弾体に赤外線誘導装置 GCS-1 を付加すれば赤外線式の精密誘導爆弾となる。
- CBU-87/B クラスター爆弾も JM117 同様に、最大で5発の搭載が可能であった[8]。
- 空対空ミサイル
- 赤外線誘導方式の短距離空対空ミサイルであるAIM-9サイドワインダーまたはAAM-3を両翼端と両翼下1箇所にそれぞれ1発ずつ、合計で4発まで搭載可能であった。F-1は対地/対艦戦闘に主眼を置いて開発されており、対空戦闘能力は決して高いものではないが、アラート任務に就くことも可能と考えられた。
- なおAIM-7 スパロー等のセミアクティブ・レーダー誘導方式のミサイルの運用能力は無い。
- ロケット弾ポッド
- ロケット弾ポッドは、70ミリ×19発を収めるJLAU-3や、127ミリ×4発のLR-4、70ミリ×7発のLR-7のいずれかを翼下に4基搭載できた。またこれらを混載することも可能であった。
[編集] 形状
F-1(またはT-2)の形状はしばしば「英仏共同開発の攻撃機ジャギュアに似ている」と言われる[9]。 T-2/F-1の横操縦には三菱重工製航空機独自のものである全スポイラー方式が用いられ、低速から高速、大迎え角まで良好な舵の利きを確保しているが、その反面、高速時の旋回に難があり、翼端流の発生により旋回をすると速度が低下してしまう。またT-2の主翼は優れた超音速性能を狙って小さく、断面も非常に薄いものとなっており、翼の面積拡大を行わない方針であるため、F-1では主翼内に燃料タンクを設置していないので[10]、ドロップ式の増槽 220ガロン(833リッター)のものを胴体下に1個、左右両翼下に各1個の最大3個の機外搭載によって対応した[出典 1]。
欧州と日本の航空機開発における練習機と戦闘爆撃機の開発優先度の違いは、運動特性や座席配置から読み取れる。日本ではまず練習機であるT-2を開発してから後席を除いた単座型の戦闘爆撃機としたのに対して、英仏では練習型ジャギュア開発に際し単座型の機首に前席を追加している。しかし、そのことからF-1は、キャノピー部分が水滴型ではなく座席後部で区切られ、後部の視界が悪くなってしまった。このことは配備当初から問題となっていたが改善されることはなかった。
[編集] 電子機器
T-2に追加して搭載された電子機器を以下に挙げる。
- J/AWG-12 火器管制レーダー
- J/ASQ-1 兵装投下管制コンピュータ
- J/ASN-1 慣性航法装置(INS)
- J/AWA-1 対艦ミサイル管制装置(ASM-1対応)
- J-APN-44 電波高度計
- J/A24G-3 エアデータコンピュータ
- J/APR-3 レーダー警戒警報装置(RHAWS)
すべてが国産で開発された火器管制装置(FCS)は、J/AWG-12とJ/ASQ-1を中心に構成され、INSや電波高度計などから入力情報を受けて演算処理を行い、攻撃を含む操縦に必要な情報をヘッドアップディスプレイ(HUD)に表示する。これらによって、地上からの航法支援が無くとも敵レーダー領域をかいくぐっての攻撃が可能であった。1985年からは自動操縦装置が順次全機に搭載された。
1980年代に実用とされた世界中の戦闘機の中でも特に珍しい点は、F-1が自己防御用の電子機器を一切備えていなかったことである。世界的に戦闘機に自己防御電子機器が必要不可欠となったのは1980年代前半であり、F-1の開発と生産が始まった1970年代には当時の最新電子装置であったレーダー警戒警報装置の搭載によって十分に高性能機となっていたが、その後、対空兵器の技術進歩に対応して多くの戦闘機が最低でもチャフやフレアを備え、多くが電子妨害装置を外装できるようになっても、F-1は2006年の退役まで終始無防備なままであった。
[編集] エンジン
F-1の最大の問題点とされるのは、エンジンの非力さである。元のT-2に比べると、電子機器の搭載をはじめ各種改造によって自重は6,197kgから6,550kgへ、全備重量は11,464kgから13,700kgに増加した。また武装や機外搭載物の無いクリーン状態ではT-2と重量差は少ないが、兵装を満載したF-1はT-2に比べて極端に重量が増す。しかし予算の制約からエンジン推力増強を含む改修は初期生産型の登場後も一切行われず、爆装時のF-1の運動性能はかなり劣り、離陸時においてもアフターバーナーの使用が不可欠になったままだった[11]。
エンジンは斜め下方に向けて取り付けられていた。エンジン整備のための搭載卸下時には整備員に熟練技術が求められ、余分な時間も掛かった。駐機エプロンのアスファルトは高温のエンジン排気で溶けるため、耐熱舗装に改修された。メンテナンス用機材やボルト類の種類と数が他機に比べて多く必要で整備性が悪かった。
エンジンはT-2開発当初からロールス・ロイス/チュルボメカ製「アドーア(Adour)」[12]ターボファンエンジンが最有力候補とされていた。これはアドーアの燃費が優れていたためであるが、米ジェネラル・エレクトリック社はGE1/J1A1と呼ばれるエンジンを提案して対抗した。しかしGE社のエンジンは開発途上でありその後に計画は中止されたために検討対象とならず、結局1968年2月15日にロールスロイス/チュルボメカ アドーア RT.172 Mk102の日本国内ライセンス生産品がXT-2用エンジンとして採用され、この航空自衛隊発のターボファン・エンジンがT-2用となり、そのままF-1にも引き継がれた[13]。
[編集] 能力上の課題
当機は北海道に上陸が想定されるソ連軍を撃滅するために青森県の三沢基地に配備されたが、ソ連の新型機MiG-23は航続距離が長く、三沢基地を攻撃圏内に収めていた。F-1の開発中は、航続距離の短いMiG-21しか念頭に無かった。有事の際は遠方の基地に配備することになるが、その場合は兵装を犠牲にして増槽を取り付けなければならず、増槽を付けると重くなり運動能力がさらに低下することになった。
電子機器室にした元の後席部分にキャノピーを残す案は、コスト高に繋がると採用が見送られたため、T-2に比べて極端に後部の視界が悪く、これが独特な旋回特性と共に戦闘機としての能力を削いだ。また、就役当時は世界屈指の性能を持つレーダーFCSもアップデートが行われないことから陳腐化が進み、昭和50年代後半のFSX論議の際には「性能が悪いから後継機を開発するという支援戦闘機が、(FSXを国産化するため、F-1を延命して開発の時間を稼ぐことに対して)能力の向上なく整備点検方法の見直しだけで機体の延命をはかるのはどういうことか」と国会での追及も受けた。
同時開発の国産空対艦ミサイルであるASM-1とF-1の組み合わせは「航空機による対艦ミサイル攻撃」という戦術において、米国とフランスともほぼ同時期でのものであり、世界の最先端であると言えた。高翼面荷重による高い機動性と低空侵攻能力の高さは機体設計の優秀さを示していた。三沢基地に当時の最新鋭機であるF-16が配備された後であっても、その対艦攻撃力は、米海軍は有していたが米空軍では有しないものであり、東西冷戦期において対ソ抑止力となる重要な戦力であったと言える。しかし、戦闘機としての能力の陳腐化は避けられなかった[14]。
[編集] 仕様
- 乗員: 1名
- 全長: 17.85m(ピトー管含む)
- 全幅: 7.88m(翼端ランチャー含まず)
- 全高: 4.45m
- 主翼面積: 21.17m²
- 主翼前縁後退角: 42.29度
- 下反角: 9度
- 基本運用重量: 6,550kg
- 最大離陸重量: 13,700kg(30,140ポンド)
- 燃料搭載量
- エンジン: IHI TF40-IHI-801A ×2基
- 推力: アフターバーナー使用時 32.5kN(3.31t) / 非使用時(ミリタリー) 22.8kN(2.32t、4,710ポンド=2.1tという情報もある)
- 最大速度: M1.6
- 失速速度: 117ノット(フラップと脚を下げた状態)
- 航続距離: 機内燃料のみで150海里、3個の増槽を加えたフェリーで約1,400海里
- 戦闘行動半径
- 要撃戦闘時(AAM×2、機内燃料のみ): 150海里
- 対地攻撃時(500ポンド爆弾×8、増槽×2): 190海里
- 対艦攻撃時(Hi-Lo-Hi飛行、ASM×2、増槽×1): 300海里
- 荷重制限: +7.33〜-3G
- 実用上昇限度: 約5万フィート(1,5240m)
- 固定武装: JM61バルカン砲×1門(750発)[出典 1]
- 兵装類最大搭載重量: 2720kg
[編集] その他
[編集] F-1の評価
F-1は開発当初から織り込まれたいくつかの能力に秀でることで、敵対勢力の侵攻抑止という点で日本の国防に寄与した。それは、ASM-1との組み合わせによる優れた対艦攻撃能力と、アドーアエンジンの良好な燃費がもたらす優れた低空侵攻性能である。燃費の悪いエンジンでは空気抵抗の大きな低空では航続距離が短くなり、低空侵攻作戦に使用する機体では燃費向上が重要な要素である。
この方針に効果があったことは後継機であるF-2が、更なる対艦攻撃能力と航続距離を付与されたことからも見て取れる。また、機体の稼働率も高かったとされている。 T2 練習機を基に開発したことで、他国の同種の機体開発計画のように当初予算が数倍といった大きさに膨らむこともなく、開発は計画通りに進んで実戦配備まで行えたことは特筆に価する。その後のF-2開発に向けた航空工学の技術力蓄積と航空産業の涵養に繋がったという点で大きな意義があった。
[編集] 参考文献
- 月刊『Jwings』誌 - イカロス出版
- 月刊『航空ファン』誌 - 文林堂
- 月刊『航空情報』誌 - 酣燈社
- 『戦闘機年鑑』2005-2006年度版(イカロス出版)ISBN 4-87149-632-5
- 『日本はなぜ旅客機を作れないのか』 - 前間孝則(草思社)ISBN 4-7942-1165-1
[編集] 脚注
- ^ 「支援戦闘機」は、「戦闘爆撃機」と一般に呼ばれる軍用機の種別の航空自衛隊での呼称である。
- ^ 防衛研究会編「防衛庁・自衛隊」1992年改訂版280頁。かや書房。以下引用。技本(防衛庁技術研究本部)の技術陣は、我が国初の対地支援戦闘機F-1の開発に着手した。昭和五十年度から量産がはじまった。こうして国産初の超音速戦闘機F-1は誕生したのであるが、航空自衛隊に「支援戦闘機」という新しいジャンルを確立した。といってもべつに変ったものを作ったわけではなく、我が国の場合「戦闘爆撃機」という言葉を使用してはいけない(と思ってるらしい)ので、支援戦闘機とした。本来なら戦闘爆撃機とすべきものである。
- ^ N-156F は後に米空軍で練習機・軽戦闘機として採用される機体であるが、これは1960年代当時に米空軍で主流であった「戦闘機パイロットの養成には超音速高等練習機が必要である」と言う考え方が働いていた。超音速飛行そのものが特殊であるとされた時代の認識を引きずったものであり、米空軍ではせっかく採用したT-38を用いての訓練でも、ほとんど超音速を用いなかったが、この論そのものは日本の航空機開発と戦闘機搭乗員養成に大きな影響を与えた。
- ^ T-2の開発当初から複座式のT-2から単座式の新型支援戦闘機を派生開発する計画であり、改造が最小限に済むように考慮された。
- ^ T-2特別仕様機では後席のキャノピーを残したまま、代わりに鉄板を用いて搭載機器を覆い隠している。また、試験用に各種の計測機器が設置された。
- ^ T-2はF-1より1年長く、1988年まで生産された。
- ^ 胴体下ハードポイントに4射出架を介し、主翼下各2箇所ずつのハードポイントにそれぞれ2射出架を介する。
- ^ 西側の先進工業国の空軍では、クラスター爆弾禁止条約のように国際世論の反発によってクラスター爆弾を配備から外す傾向があり、日本でも2009年に国会で本条約の承認が完了しているため、航空自衛隊はこれらを破棄すると考えられる。
- ^ ジャギュアに似ている」と言われることについては、単にジャギュアの真似をしただけとする意見もあるものの、一方でF-1とジャギュアは共に同一のエンジンを用いる双発機であり、更に速度等の要求も似ているため、そこから導き出される機体形状が両者共に似てくることも事実である。ただしT-2/F-1の場合、形状こそジャギュアに似ているが、その機体設計に際してはむしろF-4 ファントムIIの手法を多く用いているとされる。エアインテーク、元になったT-2のキャノピーのデザインはF-4に近い。また当時の重いエンジンを重心に配置したままテイルブームを伸ばして尾翼との距離をとり、排気ノズル後方でいわゆるペン・ニブ型の処理を行うという方式は、かつてF-4で採られた手法を援用している。この点はT-2/F-1もジャギュアも同様だと言える。ちなみに、日本ではまず始めに高等練習機としてT-2を求めた上で、そこから支援戦闘機型のF-1を派生させたのに対し、英仏ではイギリス空軍、フランス空軍、フランス海軍各型合わせて200機の攻撃型のジャギュアを求め、その上で高等練習機型を派生させており、対照的といえる。
- ^ ジャギュアの機内搭載燃料4,200Lに対してF-1は3,823Lであった。
- ^ ただし、アドーア自体はF-1開発当時でも優れたエンジンのひとつであり、F-1やジャギュア以外にもイギリスのホーク練習機にも採用され、2,500基以上が生産されている。初期型のRT172 Mk102(T-2/F-1のTF40-IHI-801Aと同型)はアフターバーナー時推力7,303ポンドだが、最新版のRT.172Mk871は11,249ポンドに達している。
- ^ ロールスロイス/チュルボメカはロールスロイスとフランスの小型タービンメーカー、チュルボメカとの合弁企業。アドーアはフランス北西部の川の名前で、国際共同開発にあたってエンジンに河川名をつけるロールスロイスの流儀にフランスが合わせたもの。基本設計はロールスロイスであり、米国、インド、オマーン、エクアドル、ナイジェリアなどに輸出されている。
- ^ 島国の日本で攻撃してくる敵を迎撃しようとすれば洋上に出るしかなく、ジェット戦闘機の発着できる滑走路が軍用、民間を合わせても限られる国情から、航空自衛隊の運用における安全性への要求は艦上機のそれに近い。また、単発のF-104Jの墜落事故が多発したこともあり、防衛庁では双発を望む声が強かった。
- ^ 戦闘機能力の陳腐化は当初より折込済みとはいえ、対領空侵犯措置任務まで付与されるだけのものがあったかといえば疑問である。三沢基地にF-16が配備されて以降、同じく三沢に展開するF-1とのあいだでDACT(異機種航空格闘訓練)が繰り返されたが、高速旋回時の失速が空戦時には決定的なハンデとなり、結果は惨憺たるものであった。仮に実戦になり、侵攻した敵の上陸地点に多数の地対空ミサイルや対空火器が配備され濃密な防空網を張られている状態や、敵艦船上空に要撃戦闘機を配備されているような場合、これらを排除して目的を達することは到底難しかったと思われる。戦術電波妨害(ECM)機や敵防空網制圧(SEAD)任務機等によるサポート体制が整わない、あるいは能力向上を殆ど行わない事等、防衛庁の運用思想にも問題があると言われることがあるが、それでもスタンドオフ性の高いASM-1を使用した対艦船攻撃能力にF-1の支援戦闘機としての唯一の戦略的価値を見出すことができる。
[編集] 出典
[編集] 関連項目
- T-1 (練習機)
- F-2支援戦闘機
- 類似する航空機
- SEPECAT ジャギュア
- Soko J-22
- Q-5
- 日本製航空機の一覧
- 航空自衛隊の装備品一覧
- T-2 (航空機・日本)
- F-1/T-2に関連する作品の一覧
[編集] 外部リンク
最終更新 2009年11月2日 (月) 09:04 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【F-1支援戦闘機】変更履歴









