F-104 (戦闘機)
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F-104 スターファイター
F-104 は、ロッキード社が開発した超音速ジェット戦闘機。愛称はスターファイター (Starfighter)。
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[編集] 概要
アメリカ合衆国初のマッハ2級のジェット戦闘機であり、F-100 スーパーセイバーを起点とするセンチュリーシリーズに含まれる一機種である。第2世代ジェット戦闘機に位置付けられる。初飛行は1954年2月。
細い胴体に短い矩形の主翼を有し、切り詰められた小型軽量の機体に強力なJ79型エンジンを一基搭載した機体である。その特異な外観から「最後の有人戦闘機」とも称された。
アメリカ空軍では短い期間の運用に終わったが、冷戦下において日本やイタリア、中華民国や西ドイツなど世界15ヵ国で供与・運用された。高度な操縦・整備技術を要し、高価であった事もあり、発展途上国への供与はF-5A/Bへ譲られたが、ライセンス生産を含め2,578機が生産された。2004年にイタリア空軍のF-104Sの退役を最後に、全機が退役した。
[編集] 開発の経緯
ロッキード社の設計者であったクラレンス(ケリー)・ジョンソンは、朝鮮戦争の最中の1951年12月に韓国を訪問した。目的は、実戦を経験した戦闘機パイロットたちが、どんな戦闘機を望んでいるかについて意見を聞く為であった。当時、アメリカ空軍のF-86を駆るパイロットの前には、ソ連の援助により投入されていたソ連製のMiG-15戦闘機が出現していた。ジョンソンは、パイロットたちが求めているのは、構造が複雑で大型の機体ではなく、Mig-15の様な軽量化され、装備なども必要最小限なものとした機体と結論付けた[2]。
アメリカに帰国後、ジョンソンは早速航空機のデザイン作成に取り掛かった。1952年3月にジョンソン率いる開発チームは、数種類の航空機スケッチを描いた。デザインを重ねるごとに機体スタイルは洗練され、重量が50,000lb(23t)の大型のものから、8,000lb(3.6t)という小型機のデザインに変わっていった。
同時期、アメリカ空軍もMiG-15 との戦訓から、出来る限りの軽量な機体に強力なジェットエンジンを搭載し機動力と高速性を高めた戦闘機を欲していた。そして、迎撃戦闘機の開発要求を1952年5月に国内のメーカーに提示し、ジョンソン率いる設計チームスカンクワークスは小型軽量機の開発計画案を1952年11月にアメリカ空軍に提出した。ロッキード社の案にアメリカ空軍は大変興味を示し、他社の開発案との比較の結果、ロッキード社が1953年3月12日に開発の契約を結び、2機の原型機発注が行われた。
エンジンには当初、J79型エンジンの搭載が予定されていた。しかし、開発が間に合わなかったため、J65-B-3型エンジンが搭載される事となった。試作1号機であるXF-104(53-7786)の製造は、ロッキード社カリフォルニア工場で1953年より開始された。1954年に機体が完成し、3月4日に初飛行を行った。試作2号機(53-7787)の製造は、1953年秋に始まっている。
1954年3月30日にはエンジンをYJ79-GE-3に換装し、強化したYF-104が17機発注されている。なお、YF-104は1955年4月27日にマッハ2を記録している。
[編集] 特徴
[編集] 基本構造
F-104の胴体はとても細く、切り詰められた小型軽量の機体に強力なエンジンを搭載した機体となっている。限られた機体内部に操縦席を配置し、機首部分にレーダー、操縦席下部に機関砲を搭載する。これら、エンジンを包んだだけの胴体から短い矩形の主翼が伸びる。空気取入口は胴体脇にショックコーンとともについており、尾翼はT字尾翼となっている。なお、内部スペースが限られる故に搭載可能な燃料が少なく、航続距離も短かった。増槽は、双方の主翼先端部に各一本ずつ備える事が出来る[3]。
射出座席は胴体下への発火射出座席となっている。これは操縦士が脱出後に後部にあるT字型の尾翼への衝突が懸念されたためだった。しかし、低高度での脱出において問題となったため、従来通り機体の上方向へ脱出する方式に変更し、同時に尾翼も吹き飛ばす構造へと変更された。
複座型については余剰空間の問題から後部座席を配置する代わりに機関砲は搭載されず、また、各部の形状も若干変更された。
[編集] 電子装備
機首にはAN/ASG-14Tレーダーを搭載され、操縦席には赤外線レーダーやLN-3慣性航法装置などが配置された。セミアクティブホーミング方式のAIM-7運用のため、後に移動標的表示器や電波照射機などの追加改修も行われている。
[編集] エンジン
F-104はその当初から、ゼネラル・エレクトリック社製J79ターボジェットエンジンを搭載する事の前提に設計されている。F-104Aに搭載されたJ79-GE-3A型エンジンは、アフターバーナー時の推力が6,715kgと、当時としては群を抜く推力を有していた。それに加え、超音速飛行を可能とするために、細長く超音速飛行に適した機体形状と相まって、実用戦闘機としては世界ではじめてマッハ2に到達した機体となった。なお、マッハ2の最大速度はエンジンの耐熱限界によるものであり、推力自体は最高速度域においてもまだ余裕があったとされ、やや遅れて登場した他のマッハ2級戦闘機よりも高速性能においては優れていたと言われる。耐熱限界を向上させたJ79の改良型を搭載したイタリア空軍のF-104Sにおいては、最高速度はマッハ2.4に達している。
[編集] 主翼
F-104の主翼は、極めてアスペクト比の小さい直線翼を採用している。これはロッキードがX-7実験機において探求していた翼形である。同時代の亜音速・超音速機に採用された後退翼は、臨界マッハ数を下げ、いわゆる音の壁の発生を遅らせ、巡航速度を音速付近に高める事ができる。しかしF-104はマッハ2級を目指した事から、逆に音の壁を早々に突破してしまう設計を行ったのである。また機体の軽量小型化を狙った事から、主翼を可能な限り小型に設計したのである。一方でその構造上、揚力を発生しにくい形状のために低速飛行が困難であり、90ノット(170km/h)以下での飛行ができないとされた。
[編集] 兵装
機体内に固定武装としてM61機関砲一門(装弾数725発)を備える。M61の口径は20mmで、毎分6,000発の射撃能力があった。弾丸はパイロット座席の後方に備わっている。主翼下には計4ヵ所のハードポイントがあり、AIM-9を4発搭載できる。また、核兵器の運用能力も有していた。
[編集] 記録
1958年5月18日にF-104Aが2,260km/hの速度記録を、1959年12月14日にF-104Cが31,500mの高度記録を作った。
[編集] 配備と運用
アメリカ空軍をはじめ、F-104Cの改良型であるF-104Gは西ドイツを中心に北大西洋条約機構各国で大量に採用された。なお、F-104を最も長く運用したのはイタリア空軍である。
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アメリカ合衆国
- アメリカ空軍では、1958年2月に防空軍団において部隊運用が開始された。しかし、1959年に同じマッハ2級の戦闘機であるF-106の部隊配備が開始され、公式には「SAGE(半自動地上管制迎撃システム)との連携機材が搭載できない」という理由で早くも防空軍団では1960年には退役し、機体は空軍州兵や海外供与に回された。1963年に一時現役復帰するが、1970年以降にまた退役した。
- 実際の所、F-106のMA-1はともかく、F-102に搭載されたものであれば充分に搭載可能な機体内空間は存在していたが、航続距離の短さや装備可能な空対空ミサイルがサイドワインダー4発だけという武装の貧弱さが嫌われたのでは無いかと言われている。また戦術航空軍団においても、搭載力や航続距離の不足が問題視され、同じくごく少数の配備で終わっている。戦術航空軍団では1969年まで使用された。
- ただし、これらの欠点は軽量戦闘機である以上はやむを得ないものであり、基本的には昼間制空戦闘機であるF-104を全天候迎撃機や戦闘爆撃機として使う事自体が、上述の「軽快なMiG戦闘機に対抗する」という本来の開発目的からは外れている。この時期のアメリカ空軍が、制空戦闘機というカテゴリを軽視していた事の表れである。開発目的から見てのF-104の欠点は、高翼面荷重とT字尾翼による運動性の低さである。
- 1965年にベトナム戦争においてMiG戦闘機が出現した時、それに対抗するために南ベトナムに派遣されたのが、アメリカ空軍において唯一、本来の目的に使われた例である。ただし北ベトナム戦闘機との空戦の機会は無く、ミスにより中華人民共和国領空に入った機体が撃墜されたりしている。なお、装備部隊は1年で本国に帰還している。
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ベルギー
- ベルギー空軍は1963年2月14日からF-104Gを101機とTF-104Gを12機の、計113機運用していた。運用中に事故でF-104Gを38機とTF-104Gを3機失っている。退役は1983年9月19日。退役に伴い、23機が台湾へ、18機がトルコへ引き渡された。
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カナダ
- カナダ空軍は1962年から1986年の期間、カナディア(現:ボンバルディア・エアロスペース)がライセンス生産したCF-104 200機と、38機のCF-104D(ロッキード社製造)を導入している。運用中に110機が事故で失われた。F/A-18の導入に伴って全機が退役したが、余剰となったCF-104/とCF-104Dは、デンマーク空軍、ノルウェー空軍、トルコ空軍へと引き渡された[4]。うち3機がアクロバットチームStarfighters(スターファイターズ)によって再整備が行われ、民間で飛行可能状態にある。[5]
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中華民国
- 中華民国は1960年代より、阿里山計画に基づいてF-104を装備した。総計で282機を保有。当初はアメリカ空軍で使用していた中古機を輸入していたが、アメリカにおける在庫がなくなった後は、航空自衛隊やドイツ空軍、デンマーク空軍等、他国で使用されていたものを導入・配備していた。最終的に導入したF-104は、F-104A/B/D/G/J/DJ、RF-104G、TF-104Gの8種類となる。1997年に全機退役。
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デンマーク
- デンマーク空軍は、当初25機のライセンス生産したF-104Gと、ロッキードで組み立てられた4機のTF-104Gsを受領・運用した。1972年と1974年には、カナダ空軍で余剰となったCF-104 15機とCF-104D 7機を追加で導入する。
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ドイツ
- 西ドイツにおいては、916機が運用された。西ドイツ空軍のほか、西ドイツ海軍航空隊でも2個航空団に配備された。これらは北海などにおける対艦攻撃任務、に用いられ、コルモラン対艦ミサイルを装備していた。また低空侵攻用の戦闘爆撃機としても用いられ、近接支援任務のほか核攻撃任務が付与され、アメリカ軍管理の核爆弾250発と作戦機が分散配置された。
- 上述の通り、搭載量が小さく戦闘爆撃機としては不適とされる事も多いが、高翼面荷重による突風への耐性の強さによる低空での安定性、海面高度でマッハ1.15の高速、機体規模の小ささからくる低被発見率など、その長所を生かしての運用がなされた。
- 天候の良いアメリカでの訓練を受けて帰国したパイロットが、欧州の悪天候に不慣れなまま起こす事故が相次いだこともあって、パイロットの死亡例が多い機種であった。そのため、「空飛ぶ棺桶」「縁起の悪いジェット機」「未亡人作成(製造)機(ウィドーメーカー)」などと呼ばれていた。西ドイツ空軍においては、916機中292機が失われた。後にヨーロッパ化と呼ばれる訓練プログラムを追加している。
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ギリシャ
- ギリシャ空軍は、45機のF-104Gと6機のTF-104を導入した。これらに加え、ドイツ空軍から79機、オランダ空軍から7機、スペイン空軍9機を受領している[6]。
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イタリア
- イタリア空軍向けの F-104S は、FCSの交換とハードポイントの追加により AIM-7E スパローの運用能力を持ち、またエンジンの換装により最高速度はマッハ2.4に向上している。これは耐熱限界が向上したためで、パワー自体はもとより余裕があった。
- 1981年に計画された近代化改修によりAIM-9Lが、1997年の近代化改修でAMRAAM同様アクティブ誘導が可能なAIM-7Eベースのイタリア国産ミサイル、Aspide mkIIがそれぞれ運用可能となっている。F-104Sは、ユーロファイター タイフーンが導入される2005年まで運用されていた。
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日本
- 概要
- 航空自衛隊は、G型を基に日本での要撃任務用途にあわせて火器管制装置などを改良したF-104J、および複座の練習機F-104DJを採用した。日本にとっては、独自で機体選考を実施した最初のジェット戦闘機ともなった。航空自衛隊では栄光という愛称を持つほか、日本のファンの間では「マルヨン」の愛称で親しまれる。三菱重工業がライセンス生産を担当し、細い胴体に極端に小さな主翼という形状から、空自の現場では「三菱鉛筆」の愛称もある[7]。F-15Jの配備に伴い、1986年に全機が退役した。
- 導入経緯
- T-33A導入で日本への足がかりを築いたロッキードは、アメリカ空軍での採用以降、空軍からデータが公表されると共に、防衛庁に対して売り込み始めた。アメリカにおける多量採用の目が無くなったものの、F-86の後継としてF-100の採用を狙うノースアメリカン社との販売競争が行われていた。
- 防衛庁は1957年(昭和32年)に次期戦闘機(F-X)調査団を米国へ派遣した。
- 増強が進むソビエト空軍の爆撃機を意識し、以下の要求を満たす戦闘機の選定を行った。日本としては初めての機体選定作業となった。
- マッハ2クラスの速度
- 高度15,500mまで約8分以内に到達
- 最大上昇限度が18,000m
- 戦闘行動範囲約380km
- 以上の要求に当てはまる戦闘機はF-104、F-100、N-156F(後のF-5)、F-102の4種となった。F-104は実機が完成し初飛行を成功させてはいたが、アメリカ空軍での配備はまだであった。F-100は当時のアメリカ空軍主力戦闘機、N-156Fは計画機、F-102はもっとも高価な機体であった。これらに加え、米国防総省から予定に無かったグラマンG-98J-11(F11Fタイガーの発展型)の紹介を受け、調査に追加した。当時、最も有力視されていたのが、三菱重工と親密であったノースアメリカン社のF-100で、機首にレーダーを搭載した日本向けF-100Jの発表もなされた。
- 1958年1月に佐薙毅航空幕僚長が渡米しF-X次期戦闘機の選定を実施し、帰国後に報告書を提出。報告書で候補機はF-104とG-98に絞られたが、米空軍に配備されたばかりのF-104の事故と、同機が3000メートル級滑走路を必要とする事、データリンクの容量不足等から、翌1958年(昭和33年)に防衛庁はG-98J-11の採用を決定[8]、国防会議で内定した。同時に佐薙航空幕僚長らが訪米し、国防総省及び空軍と交渉したが、どちらを採用しても良いとの承認を得た。
- だが、G-98の内定に対して批判が起き(第1次FX問題)、関係者からの事情聴取や証人喚問にまで発展した。1959年(昭和34年)の国防会議において、内定の撤回と再調査が決定。「乗ってみなければわからない」の名台詞を残した源田実航空幕僚長を団長とする官民合同の調査団が再び訪米した。二ヵ月半にわたる調査の結果提出された報告書に基づき、「F-104Gを日本向けに改装した型を採用する事を承認する。機数は180機、ほかに訓練用20機を昭和40年を目処として国産する」と決定した。
- これらの機体の導入にあたっては、総経費968億円のうち7500万ドル(270億円)をアメリカ政府による資金援助(無償供与)を受けて配備される事となった。日米の分担比率は72対28である。
- 生産
- J型1号機は1961年(昭和36年)6月30日に米国で初飛行、フライングタイガーライン(貨物航空会社 フライング・タイガース)のCL-44により空輸された。3号機までは完成機として輸入され、国内で再組み立てされた。続いて17機が三菱重工業でノックダウン生産、160機がライセンス生産された。DJ型は20機全てが完成品輸入で、国内で再組み立てされた。
- 1963年から1966年にかけて、第201から第207までの7個飛行隊が新編された。1964年(昭和37年)10月から第202飛行隊がアラート待機を開始、1965年(昭和40年)には所要飛行隊を維持することが難しいとして、J型30機のライセンス生産による追加調達が決定。1967年(昭和42年)度に計230機が配備された。
- 機体
- F-104J は要撃機という日本の要求にあわせてM-2爆撃コンピュータを取り外しており、NASARR F15Jも、F-104Gの搭載したF15Aと異なり対地攻撃の機能を持たない。空中給油については、C型以降は給油口が一点加圧式であるため、空中給油プローブを取り付ければ可能だが航空自衛隊は装備していない。なお、給油口の位置自体は左エアインテイク前方で自衛隊機もその他の空軍機も同じである。諸外国のF-104もプローブは着脱が可能で、装着したときの最大速度はマッハ1.75に制限された。
- 武装はM61 バルカン 20mm ガトリング砲とAIM-9B/Eサイドワインダー空対空ミサイル、2.75in FFARロケット弾を装備できる。ロケット弾の装備は、当時のサイドワインダーでは全天候戦闘を行う事ができなかったからである。バルカン砲は当初装備の予定はなく、C-1契約の180機は未装備で引き渡されている。後にバルカン砲が搭載されたが、F-104J計210機のうち、装備した機体は160機前後に留まった。未装備機の機体の銃口はふさがれ、空きスペースには予備の燃料タンクを有していた。
- 単発エンジンで故障も多く、1969年2月8日に金沢市で落雷を受け民家に墜落し、住民4名が死亡し民家17戸が全焼するという墜落事故を契機に、自衛隊戦闘機の選考にも影響を及ぼした。22年間での大事故は24件とされている。
- 最後の有人戦闘機
- 登場時はミサイル万能論の影響もあり、将来的には航空自衛隊の戦闘機は全て地対空ミサイルに置き換えられると予想されていた。そのためか、日本では最後の有人戦闘機とも呼ばれた。ちなみに地対空ミサイルは1970年の地対空誘導弾ナイキJの導入によって実現したが、同時期にF-4戦闘機も導入しており、ミサイルによって全ての有人戦闘機が置き換えられる事態には至っていない。
- ちなみに最後の有人戦闘機の呼び名はultimate manned fighterを訳したものだと言われているが、正しい和訳は究極の有人戦闘機である。日本ではかなり有名な表現だが、英語圏ではこのような表現はほとんどされていないらしく、少なくとも、英語版wikipediaのF-104にはそのような表現はない[9]。
- これはロッキード社の副社長が来日したおりの記者会見で「これ以上のものは有人では無理である」との発言を捉えたものだと云われる。誰しもにそう思わせるようなラジカルな姿態の戦闘機だった[10]。
- 退役
- F-4EJ、さらにはF-15Jの配備が進むと減数となり、1986年(昭和61年)に207飛行隊の解隊をもって実戦部隊から退役した。このとき多くの機体が用途廃止となり、書類上のみでアメリカに援助相当分を返却したことにして直接廃棄したものもあるが、36機(F-104J:30機、F-104DJ:6機)は実際にアメリカに返却された後に中華民国空軍(台湾)に再供与された。また、アメリカに返還された機体の他に39機が飛行可能な状態だったため、航空実験団に残す4機を除いて35機がモスボール化された。
- 1986年から無人化研究の予算が付き、その中から2機を試作機である有人飛行可能なUF-104Jとして試改修を行い、1992年より臨時無人機運用隊にて試験運用が開始された。1994年に正式に発足した無人機運用隊は、試作機2機、量産型の完全無人標的機UF-104JAを12機の計14機を無人標的機UF-104J/JAに改修して使用した。航空自衛隊最後の「マルヨン」でもあったUF-104J(46-3600)は1997年(平成9年)3月11日に標的として撃墜され、これをもって航空自衛隊から全機姿を消した。
- 評価
- 上記の通り、F-104は元来は軽量戦闘機であり「触らせてももらえなかった」と訪米調査団が残したアメリカ防空軍団(ADC)の全天候要撃機F-106デルタダートのような充実した電子兵装や重武装、大航続距離を求める事は出来ない。しかしF-106が戦闘機単体での能力ではなくSAGE(半自動防空システム)とのデータリンクで成り立つ兵器である以上、それも含めて導入しないと意味は無い。SAGEは当時の最新鋭のコンピュータシステムで、特注で作られた一品物というおもむきのシステムであり、当然ながらアメリカが輸出を許す訳がなく、仮に許したとしても当時の日本の経済力・技術力では購入・導入・運用は不可能だった。
- 日本における防空システムであるBADGE(自動防空警戒管制組織)が運用を開始したのは1969年(昭和44年)であり、これと組み合わせる戦闘機は1969年(昭和44年)の国防会議で採用が決定されたF-4である。航空自衛隊がF-104を採用したのは、当時としてはベストの選択だったと言える。その上昇能力は要撃機として一流のものであった。またバルカン砲の装備方法の違いからF-4EJと比較して弾道が非常に安定していた(機体に抱え込むような装備方法のF-104に対して、F-4E/EJは機首を延長して弾倉を搭載し、機銃そのものは機首にぶら下がる形になるため「落ち着きが無い」と評される事もあった)。そのため、F-4戦闘機よりも優れているとして、絶賛したパイロットもいた。また、格闘戦においては旋回半径が2キロと大きい事から不利と言われていたが、実際には機体が小さいため、低視認性や旋回時間が短い事などを生かして、独自の戦法(フラップモードを固定するなど)を編み出している。これは、当時、航空自衛隊の各マルヨン部隊が精力的に研究を重ねた成果で、ACM(対戦闘機戦闘)に不向きとされたマルヨンでそれを可能にしたのである。その結果、岩崎貴弘は204飛行隊時代、日米共同訓練において、米空軍のF-15を「撃墜」している。アメリカ空軍は本来の目的である制空戦闘機としてF-104を使用しなかったが、航空自衛隊がそれに成功した事になり、ある意味ケリー・ジョンソンの設計の正しさを立証したと言える。
- F-104採用後、小笠原諸島と沖縄がアメリカから返還されると、日本は広大な領海を抱える事となり、航続距離の不足が問題になりつづけた。アメリカ空軍ではF-101戦闘機も要撃機として採用しており、広大な北極海のパトロールのため長い航続距離を要するアラスカの部隊で使用された。こちらはカナダにも輸出されている。その事を考えるに、全くの後知恵ではあるが、むしろ選考の際候補にすらあがらなかったF-101の方が自衛隊で使うには相応しかったとする意見もある。ただしF-101はF-104に輪をかけて運動性能が悪く、360度ロールすら出来ず、なおかつ大型・重量級の機体であり、部隊がいくら研究を重ねても、F-104のように格闘戦を行う事を可能にはできなかったであろう。
- 配備部隊
-
- 第2航空団 - 第201飛行隊(F-15に改変)・第203飛行隊(F-15に改変)
- 第5航空団 - 第202飛行隊(F-15に改変後解隊)・第204飛行隊(F-15に改変と同時に第7航空団傘下へ移動)
- 第6航空団 - 第205飛行隊(解隊)
- 第7航空団 - 第206飛行隊(解隊)・第207飛行隊(後に第83航空隊傘下へ移動、解隊)
- 実験航空隊(航空実験団を経て現在の飛行開発実験団)
- 無人機運用隊
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ヨルダン
- 1967年に29機のF-104Aと4機のF-104Bをアメリカから供与された。
- アメリカからの供与時に「対イスラエル作戦には使用しない」という条件が付されたため、中東戦争ではイスラエルの攻撃を避けるためトルコに避難した。第2・3次印パ戦争においては飛行隊の一部がパキスタンに派遣され、戦後、アメリカの禁輸措置後には保有機の一部が部品取り用に同国に転売されたという。
- 1983年までにF-5とミラージュF1との置き換えに伴って全機が退役。
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オランダ
- オランダ王室空軍は、138機のF-104を導入した。退役後、余剰となった機体の多くはトルコへ引き渡された[11]。
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ノルウェー
- 1963年に19機のF-104Gと4機のTF-104Gを導入。1974年にはカナダ空軍から余剰となったCF-104 18機と、CF-104D 4機を導入・運用した。1982年に退役。
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パキスタン
- パキスタンは複座型を含む12機を供与されている。第2・3次印パ戦争にF-86、ミラージュIIIと共に実戦投入された。第3次印パ戦争では7機を失う大損害を被り、終戦後アメリカの禁輸措置によって部品供給を絶たれて退役した。
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スペイン
- スペイン空軍では21機のF-104を導入した。
- 1972年にF-4の導入により、余剰となった機体はギリシャ空軍とトルコ空軍に引き渡された。
- なお、スペイン空軍では17,000時間以上運用されたものの、事故等で失われる事はなかった。[12]
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トルコ
- トルコ空軍は、ロッキード社で新造された48機のF-104Gと6機のTF-104Gを受領した[12]。後に各国で余剰となったF-104を導入し、1970年代から1980年代にかけて総計400機以上を保有するに至った。しかし、引き渡された機体のほとんどがスペア部品取りの為に解体された。1995年に全機が退役[13]。
[編集] 型式および派生型
総生産機数はライセンス生産も含め2,578機にも及び、派生型も数多い。
- XF-104
- 試作機。ライトJ65エンジンを搭載した2機が製作された。
- YF-104A
- 前量産型機として17機が各種試験用に製作された。
- F-104A
- 初期生産型として153機が生産された。米空軍では1958年から1960年にかけて防空軍団(Air Defense Command)において運用され、さらに空軍州兵に移管されて1969年まで使用された。一部は、ヨルダンやパキスタン、台湾へ輸出され、実戦に投入された。
- NF-104A
- 宇宙飛行士訓練用の機体。3機が改造された。武装を降ろし、LR121/AR-2-NA-1ロケットエンジン(推力:26.7kN)1基を垂直尾翼基部に追加搭載している。36,830m(120,800 ft)の高高度までの上昇能力がある。1963年12月10日、当時テストパイロットスクールの校長をしていたチャック・イェーガーがこの機体に搭乗中に事故に遭遇したことは良く知られており、映画「ライトスタッフ」にも描かれている。
- QF-104A
- 無人標的機。22機がF-104Aより改造された。
- F-104B
- A型の複座訓練型。26機製造。機銃を降ろし、機内燃料が減少している。数機がパキスタンと台湾に供与された。
- F-104C
- 改良型火器管制レーダー(AN/ASG-14T-2)を搭載した戦闘爆撃機型。米空軍戦術空軍(Tactical Air Command)向けに71機が製造された。機体中心線と翼下各2ヶ所の計5ヶ所のパイロンを持ち、機体中心線のパイロンにはMk28かMk43核爆弾を搭載できる。一個飛行隊(第476戦術戦闘飛行隊)は1965年から1967年の短期間、ベトナムに駐留し、F-105「サンダーチーフ」戦闘爆撃機の爆撃行の護衛を行っていた。APR-25/26レーダー警戒装置を装備していたのにも関わらず、撃墜戦果は無く、9機が撃墜された。
- F-104D
- C型の複座訓練型。21機製造。
- F-104DJ
- 日本向けのD型(複座訓練型)。20機が完成機輸入され、航空自衛隊で運用された。
- F-104F
- G型の複座訓練型。G型と同じエンジンを搭載しているが、レーダーや武装は搭載していない。30機が暫定的な訓練機としてドイツ空軍に使われた。
- F-104G
- 戦闘爆撃機型。1,122機が製造・輸出された。胴体と主翼および主脚を強化し、垂直尾翼を拡大、フラップを改良、さらには機内燃料タンクの容量を増加させている。空対空モードのほか空対地モードを備えたNASARR F15A-41Bレーダー、LN-3慣性航法装置を備えている。
- RF-104G
- 戦術偵察型。189機がG型を基に製造された。通常は機銃の搭載箇所である胴体前部に、通常3基のKS-67Aカメラを搭載している。
- TF-104G
- G型の複座型。機銃もしくは機体中心線のパイロンが無く、機内燃料が減少しているが、戦闘は行える。これには、民間所有の機体(L104L)があり、Jacqueline Cochranによって1964年に女性の世界速度記録を出している。
- F-104J
- 日本の航空自衛隊向けの迎撃戦闘機型。1962年から178機が三菱重工業によりライセンス生産された。機銃は、後期の機体は最初から装備しているものの、実は当初は標準装備でなかったようだ。初期の機体は装備しておらず、後に全機ではないものの改修で取り付けた。装備しなかった機体はその搭載スペースを増設タンクという燃料タンクに当てていた。そのほか、4発のサイドワインダー空対空ミサイルを搭載できるが、爆撃能力は持っていない。一部の機体は米国経由で台湾でも使用された。1995年退役。
- F-104N
- NASAの高速試験飛行チェイス機。G型の3機が提供され、1963年より使われている。
- F-104S
- イタリア空軍向けの迎撃戦闘機型で、従来のF-104の改良発展型である。246機がFIATにより製造された。後述するロッキードの提案による改良型の、CL-1200ランサーのプランを取り入れたもの。一番の改良点はNASARR R-21G/Hレーダーに換装した事により、セミアクティブレーダーホーミングミサイルのAIM-7スパロー空対空ミサイルの運用を可能とした事である。但しその他の点では、垂直尾翼の若干の拡大、エンジンをJ79-GE-19(推力52.80 kN)に換装、ハードポイントが2ヶ所増加と、比較的小規模の改良に留まっている。最高速度はマッハ2.4に達し、F-104のバリエーションとしては最速であるが、これはエンジンの耐熱限界の向上によるものである。なお、機銃は装備していない。
- F-104S-ASA
- イタリアの性能向上型。147機が改修された。周波数跳躍など対電子妨害能力、ルックダウン・シュートダウン能力が向上したフィアットFiat R21G/M1レーダー、新型のIFF(敵味方識別装置)、新型の火器管制装置(AIM-9Lサイドワインダーミサイル・セレニア Aspide ミサイルの使用可能)を搭載、また電子装置の小型化により機銃装備が復活している。
- F-104S-ASA/M
- F-104S-ASAの改修型。1998年より49機(単座)および15機(TF-104Gより改修)が改修された。航法装置としてGPS、TACAN、Litton LN-30A2 INSが装備され、操縦席の計器が改良されている。機銃および爆撃関係の装備は取り外された。
- CF-104
- カナダで使用されたタイプ。200機がカナディア(現ボンバルディア・エアロスペース)でライセンス生産された。空対地モードのみを備えたNASARR R-24Aレーダーを搭載し、機銃を装備していない。ただし、機銃装備は1972年に復活。また、機内燃料が増加しており、カナディアJ79-OEL-7エンジン(推力:44.48kN/アフターバーナー時70.28kN)を搭載している。後に数機がデンマーク、ノルウェー、トルコに送られた。
- CF-104D
- CF-104の複座訓練型。ロッキードが38機生産し、カナディアのJ79-OEL-7エンジンを搭載している。後に数機がデンマーク、ノルウェー、トルコに送られた。
- その他発展型
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- CL-1200ランサー
- エンジンを F-111やF-14 にも搭載されたTF-30ターボファンエンジンに換装、主翼面積を2倍以上に拡大、問題があった水平尾翼のT字配置の改正、レーダーFCSを換装しAIM-7スパロー空対空ミサイルを運用可能にするなど、内容にはかなり変化があり、実質上は機首部分だけを流用した別機と呼んでよい。F-5 フリーダムファイター後継機となる海外供与機や、空軍の軽量戦闘機(LWF)計画に応募するも、前者はF-5E/FタイガーII、後者はF-16 が採用され、いずれも不採用となっている。また、航空自衛隊を始めとするF-104を採用した国に対して後継機として売り込みを図ったが、ほとんど不採用に終わった。F-204とも呼ばれているが、上述の通りアメリカ軍で戦闘機として制式採用された実績は無く、これは正規の命名ではなく俗称であり、アメリカ軍から制式の命名はX-27という実験機としての番号であった。
- 戦略偵察機
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詳細は「U-2 (航空機)」を参照
- 型番、および一見しただけの外観は全く違うが、U-2は本機をベースとして開発された戦略偵察機である。
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[編集] 仕様
- 全長:16.7 m(ピトー管含まず)
- 全幅:6.69 m
- 全高:4.11 m
- 最高速度:Mach 2.2
- 発動機:GE製 J79-GE-7 ×1基
- 推力:A/B 7170 kgf
- 最大離陸重量:12,490 kg
- 固定武装:M61 バルカン 20mm ガトリング砲1門
- 搭載兵装:AIM-9サイドワインダー空対空ミサイル×4発、ロケット弾ポッド、無誘導爆弾など
- 生産数:(F-104A:153機 F-104B:26機 F-104C:77機 F-104D:21機)
[編集] 登場作品
昭和時代の特撮映画には、F-86やF-4と共によく登場する。しかし、怪獣映画の代名詞でもあるゴジラシリーズには一度も登場していない[14]。
- 『今日もわれ大空にあり』
- 『地球防衛軍』
- 米軍機として登場。自衛隊のF-86と共にミステリアンドームを攻撃。
- 『対バイラス』『対ギロン』以外の全ての作品に登場。第1作で米軍機が捜索に登場した以外は全て航空自衛隊機がガメラの敵怪獣の攻撃に出動。
- 『ウルトラQ』
- 第30話「2020年の挑戦」に登場。謎の飛行物体を追跡したが、逆に撃墜された。ウルトラシリーズに登場したのはこのときだけである。
- 『宇宙大怪獣ギララ』
- ギララの攻撃に大挙押し寄せて波状攻撃を加えたが、複数機が接近しすぎて撃墜された。ラストでは第6航空団所属機がギララニウムを搭載したミサイルでギララを攻撃。
- 『大巨獣ガッパ』
- 熱海城を襲撃したガッパをサイドワインダーで攻撃したが、ガッパの熱線で壊滅。
- 『東京湾炎上』
- 喜山CTS爆破の特別放送に実機が登場。
- 『ブルークリスマス』
- 原田の回想で実機が登場。
- 『大鉄人17』
- 初期オープニングに登場。劇中でも実機映像で登場するが、ミニチュアは全てF-4になっている。
- 『ULTRAMAN』
- 主人公の回想で登場。
- 『鉄人28号』
- 日本の航空戦力として登場。
- 『ライトスタッフ』
- チャック・イェーガーがNF-104でソ連の持つ高度記録に挑むエピソードが登場する。
- 『ゴルゴ13』
- 作品「ミステリーの女王」で、ゴルゴを題材にした小説を書く女流作家が潜む米空軍基地の襲撃に使用。
- 『エリア88』
- 西ドイツ空軍所属のF-104Gが登場する。
- 『なるたる』
- 航空自衛隊にアグレッサー部隊業務を提供する民間の航空会社の機材として登場する。
- 『スタートレック』
- エピソード「宇宙暦元年7.21」にて、オマハ基地所属ジョン・クリストファー大尉が使用した。
- 『不毛地帯』
- ラッキード社の戦闘機として登場。
[編集] 脚注・参考
- ^ Knaack 1978.
- ^ Bowman 2000, p. 26.
- ^ AIM-9の装備も可能
- ^ Stachiw and Tattersall 2007, p. 47.
- ^ http://www.starfighters.net/F-104_Demo_Team_Home_Page.html
- ^ Fricker and Jackson 1996, p. 93
- ^ 世界の傑作機 (No.104) 「ロッキード F-104J/DJ “栄光"」
- ^ J79-GE-7エンジンを搭載し、小型レーダーと火器管制装置を搭載するとした。
- ^ なお、the last of the day fighters//最後の「昼間戦闘機」との表現はある。
- ^ 「最初の無人戦闘機F-99ボマークと対をなして呼ばれた」との説もある。また、当時製作された記録映画には『F-104J 人間が乗る最後の戦闘機』というタイトルがつけられている。
- ^ Baugher's F-104 to the Netherlands Retrieved: 6 February 2008
- ^ Fricker and Jackson 1996, p.98
- ^ Fricker and Jackson 1996, p.99
- ^ ただし、『怪獣王ゴジラ』の日本版ポスターの中にはF-104が写っているものもある。
[編集] 関連項目
- 航空機 — 戦闘機 — 戦闘機一覧
- 航空機メーカーの一覧 — ロッキード — ロッキード・マーティン
- 航空自衛隊の装備品一覧
- 三島由紀夫 - 1967年12月5日に航空自衛隊百里基地でF-104に体験搭乗し、その際の経験を元にして1968年2月に「F104」と題した短編を著している。
- ロッキード事件 - オランダでの売りこみをめぐってベルンハルト(ユリアナ女王の王配)に資金工作が行われている。
[編集] 外部リンク
- Lockheed XF-104 to F-104A, F-104B/D, F-104C, and F-104G pages on USAF National Museum site
- Baugher's F-104 Index Page variants and operators
- Photos from F-104N Joe Walker crash site
- Site of Chuck Yeager NF-104A crash
- List of F-104s on display and list of Canadair CF-104 Starfighters on display in Canada from Aero-Web.org
- F-104F Starfighter at the Deutsches Museum, Munich
- Mach madness
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最終更新 2009年11月20日 (金) 18:09 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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