FMA I.Ae. 33 プルキー II

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FMA I.Ae. 33 プルキー II

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FMA I.Ae. 33 プルキー II

後部胴体を外し、エンジンを露出したプルキー II

FMA I.Ae. 33 プルキー II(FMA I.Ae. 33 Pulqui II)は、1950年から1953年にかけてペロン政権下のアルゼンチンで開発されたジェット戦闘機である。本機は試作段階以上には進まなかったが、プルキー II 開発プログラムは第二次世界大戦後に出てきた第1世代ジェット戦闘機の1つである。

目次

[編集] 設計と開発

第二次世界大戦、アルゼンチンは色々なドイツの科学者達に接近し、彼らにフランスアメリカ合衆国ソビエト連邦のような国々でさせられるのとは違うかたちで彼らの専門分野を活かせる機会を提供しようと申し出た。この科学者の中の1人にほぼ間違いなく最も才能ある航空技術者で設計者であるとみなされていたクルト・タンクがいた。

フォッケウルフ Fw190Ta152シリーズの戦闘機で有名なタンクは、早急にフォッケウルフ社の航空機設計部から大規模なチ-ムを編成して1947年コルドバで業務を始めた。

タンクの任務はアルゼンチン初の国産戦闘機の I.Ae. 27 プルキー I 試作機より遥かに優れた航空機を設計することだった。最初から新しい戦闘機の名称はプルキー II(プルキーは)に決まっていた。彼のこの仕事のための準備は万全だった。1944年遅くからタンクの設計チームは Ta 183 フッケバインというドイツ空軍向けの第2世代ジェット戦闘機の設計作業をしていた。この機は先進的でサイズは非常に小型、空力的に洗練された機体に32°の後退翼を持ち、ハインケルヒルトHeS011ジェットエンジンを装備して計算上では高度7,000 mを967 km/hの速度で飛行できた。

同時期にソビエト連邦で開発されていたミコヤン=グレビッチ MiG-15と同様に、プルキー II 用の動力源にはロールス・ロイス ニーン II が選ばれた。ニーンはヒルトHeS011より強力ではあったが、HeS011 の軸流式圧縮機に対し遠心式圧縮機のためにより大きな胴体断面の機体に再設計が必要であった。この結果がI.Ae. 33 プルキー II となった。[1]

プルキー II はTa 183よりも強い40°の後退翼に下反角をつけて高翼配置としていた。長い胴体のエンジンを搭載した重心の中心に近い位置は円形断面で、後部は後退翼のついたT字尾翼になっていた。操縦席は涙滴型キャノピーで覆われ与圧されていた。武装は胴体に4門の20 mm 機関砲を装備することになっていた。前のエミール・ドボアチン(Émile Dewoitine)が設計したプルキー I とは対照的に、プルキー II で具現化された多くの設計要素は航空機製造分野においては新しいものであり、アルゼンチンの航空機製造業を当時の航空技術の先端を行くものに押し上げた。

[編集] テストと評価

I.Ae. 33 プルキー II の試作2号機の初飛行はオズヴァルド・ヴァイス(Osvaldo Weiss)の操縦で1950年6月16日に行われた。第2回目の飛行は3日後に元フォッケウルフ社のテストパイロットのオットー・ベーレンス(Otto Behrens)の操縦で行われた。クルト・タンクは続く数週間に相当数の飛行テストも実施した。この新しい航空機は幾つかの点ではうまくいったが、飛行運用範囲内の幾つかの点(特に攻撃時の急上昇での深刻なストール)において厳しい操縦性の困難さを示した。ベーレンスは個人的にはプルキー II の操縦特性を「テストパイロットとして経験した中で最悪」と評したが、事実プルキー II はテスト中に2機が致命的な墜落事故を起こし(その内の1機ではベーレンスが命を落とした)そのことを証明した。作戦行動半径の短さはもう1つの問題で、これは試作5号機まで解決されなかった。

他方では、1953年始めにアルゼンチンを襲った経済危機により軍事開発プログラムは停滞し、高コストのプルキー IIの開発プロジェクトは中断した。当初はこの中断は1時的なものとされていたが、1955年にペロン政権が下野したことはこのプロジェクトが2度と復活しないことを意味していた。

最終的にプルキー II を葬り去ったのは、高価で問題の多いアルゼンチン製の航空機に対し安価で実戦で実力の証明されている余剰品のF-86 セイバー朝鮮戦争の終了により入手可能になったことだった。クルト・タンクは最初西ドイツに帰ろうとしたが、その後インドへ移り他のプロジェクトに転じた。彼の開発チームのメンバーの多くは最終的にアルゼンチンを離れ、アメリカ合衆国や他の国々で仕事を見つけた。クルト・タンク自身は1970年代まで西ドイツへ戻ることも、そこで仕事をすることも無かった。 クルト・タンクは1983年に西ドイツで死去した。

現在、唯一のプルキー I とプルキー II 試作5号機はモロン(Morón)のアルゼンチン空軍(Fuerza Aérea Argentina)航空博物館(Museo Nacional de Aeronáutica)に展示されている。

[編集] 要目

(FMA I.Ae. 33 プルキー II)

  • 乗員:1名
  • 全長:11.68 m (38 ft 4 in)
  • 全幅:10.6 m (34 ft 9 in)
  • 全高:3.5 m (11 ft 6 in)
  • 翼面積:25.10 m²
  • 空虚重量:3,600 kg (7,937 lb)
  • 運用重量:5,500 kg (12,125 lb)
  • エンジン:ロールス・ロイス ニーン II ターボジェット  4,998 lbf (22.23 kN)
  • 最大速度:1,050 km/h

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 出典

[編集] 脚注

[編集] 書籍

  • Myhra, David. Focke-Wulf Ta 183 (X Planes of the Third Reich). Atglen, PA: Schiffer Publishing, 1999. ISBN 978-0-7643-0907-6. (Book has an extensive section on the IAe 33 Pulqui II project.)

[編集] 外部リンク


最終更新 2009年9月15日 (火) 15:39 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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