J.J.レート

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J.J.レート
F1での経歴
国籍 フィンランド フィンランド
所属チーム '89-'90オニクス
'91-'92スクーデリア・イタリア
'93,'94ザウバー
'94ベネトン
活動時期 1989 - 1994
出走回数 62
優勝回数 0
通算獲得ポイント 10
表彰台(3位以内)回数 1
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1989年ポルトガルGP
初勝利 -
最終勝利 -
最終戦 1994年オーストラリアGP
タイトル -
  

J.J.レートJJ Lehto , 1966年1月31日 - )は、フィンランドの元F1ドライバー。1988年イギリスF3チャンピオン。

本名:イルキ・ユハニ・ヤルビレートJyrki Juhani Järvilehto)。

目次

[編集] プロフィール

[編集] F1前

母国フィンランドで活動し、ミカ・ハッキネンミカ・サロらとはジュニアカート時代からのライバルだった。その後、スカンジナビアFF1600を経て、同胞の元F1チャンピオン、ケケ・ロズベルグに見出されマネージメントされるようになる。マールボロのスポンサードも受けるようになり、イギリスF3に参戦を開始、1988年にはチャンピオンを獲得した。

1989年からは国際F3000選手権へとステップアップ、F3までは順調に結果を出しつづけていたが、このF3000参戦時は時折速さを見せるにとどまった。しかし、この年の後半からは師匠であるケケと、チームをスポンサードしていたマールボロのプッシュもあり、F1新興チーム・オニクスに加入、F1へと出走する運びとなった。

このオニクスチームのF1マシンを、先にテストで体験していたのはF3000でのチームメイト、エディ・アーバインであったが(アーバインもマールボロ・ドライバーだった)、実際にシートを獲得したのはレートになったという経緯があった。

[編集] F1

[編集] オニクス時代

1989年第13戦ポルトガルGPで、ベルトラン・ガショーの後任として、オニクスからF1に初めてエントリーしたが、このレースでは予備予選落ちを喫した。F1デビュー(初の決勝進出)は続くスペインGPで、このときはギアボックストラブルによりレース前半にリタイヤした。その後第15戦日本GPでは予備予選落ち、最終戦オーストラリアGPでは電気系トラブルによるリタイヤに終わり、デビューイヤーの完走はならなかった。

開幕から参戦した翌1990年は、第3戦サンマリノGPで初完走(12位)。しかし、これが唯一の完走となり、後は5度の予選落ちと4度のリタイアという状況の中、第10戦ハンガリーGPをもってチームが消滅。レートは最終戦までグランプリを戦うことが出来なかった。

[編集] スクーデリア・イタリア時代

1991年はスクーデリア・イタリアに移籍、初のフル参戦を果たした。第3戦サンマリノGPでは、マクラーレン以外の上位チームが総崩れとなる展開の中、予選16位から3位に入りキャリア唯一の表彰台に立つ。同様に上位チームが多数リタイヤした第5戦カナダGPでも、一時4位を走行するが、このレースではリタイヤに終わっている。このようにサバイバルレースで見せ場が無かった訳ではなかったが、シーズンを通じてマシンの競争力の低さに苦しみ、全16戦中10回のリタイヤを喫している。

翌1992年も残留するが、完走は増えたものの、引き続き競争力の低いマシンに苦しんだ。チームメイトのピエルルイジ・マルティニは2ポイントを獲得したが、レートはノーポイントに終わった。

[編集] ザウバー時代

1993年は新鋭チームのザウバーに抜擢され、開幕前のテストで四強の一角だったフェラーリ、ベネトンを上回るタイムを叩き出すなど、好調をアピール。迎えた開幕戦南アフリカGPでも予選6位から5位入賞。また第4戦サンマリノGPでも、4位に入賞している。

しかし、マシンは信頼性に欠けており、チームメイトのカール・ヴェンドリンガー共々、予選では上位に付けるものの、決勝ではリタイヤとなるパターンが目立った。最終的にはヴェンドリンガーと同数の、半数を超える9回のリタイヤを喫している。

[編集] ベネトン時代

1994年は、ベネトンのセカンド・ドライバーに抜擢され活躍が期待されたが、開幕前のテストにおいて大クラッシュを起こし頚骨を骨折し、開幕2戦を欠場した。復帰初戦となった第3戦サンマリノGPでは、スタート時にエンストし、ペドロ・ラミーに追突され0周リタイヤ。この際、壊れたマシンの破片が観客席まで飛び、観客が負傷するという事態も発生した。その後も、開幕前の事故の影響か精彩を欠く走りに終始。第6戦カナダGPで6位に入賞するも、結局このレースをもって、レートの代役として開幕2戦に出場したヨス・フェルスタッペンに、正規シートを奪われる結果となった。

その後、ミハエル・シューマッハが出場停止となった第12戦イタリアGP・第13戦ポルトガルGPに再びベネトンから出走するも、それぞれ9位・リタイヤと目立った成績は残せず。また、終盤の2戦はアンドレア・デ・チェザリスの後任としてザウバーから出走したが、それぞれリタイヤと10位に終わり、この年をもってF1でのキャリアを終えることとなった。

[編集] F1後

F1を離れた1996年 - 1997年は、ロズベルグがチームを組織して参戦していたDTMITCオペル・カリブラを駆って参戦。また、1998年には再びフォーミュラカーでのレースを望み、CARTワールドシリーズにホーガン・レーシングからフル参戦したが、この年がフォーミュラーカーでの最後の年となる。

その後はスポーツカーレースに活動の場を移し、1995年2005年にはル・マン24時間耐久レースで優勝している。またALMSなどでは、F1参戦時代から親交のあったステファン・ヨハンソンジョニー・ハーバートとコンビを組んで参戦することもあった。

[編集] 補足

  • 「JJ」は、本名がヨーロッパ圏では発音が難しいものだった為、ロズベルグが「覚えやすいように」との理由で名乗るよう指示したというエピソードがある。また、これは愛称でもある。
  • 先述の通り、1994年開幕前のテストでクラッシュし頚骨を骨折。腰部の骨の一部を頚部に移植するという大掛かりな手術を受けるも、開幕直前にテストに復帰する脅威の回復振りを見せた(結果としては、首が縦方向の振動に対して痛むことが分かり、欠場を決断した)。しかし、シーズン中の精彩の欠いた走りは、「怪我をしっかりと治さぬまま、無理にレース復帰した影響があったのでは」との指摘もある。

[編集] 関連項目

最終更新 2009年7月19日 (日) 10:46 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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