PYG

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PYG(ピッグ)は、1971年に結成され、当時はニューロックと呼ばれた日本のロックバンド

グループ名の由来は「豚のように蔑まれても生きてゆく」であり、本来のpigを同じ渡辺プロダクション所属だったアラン・メリルのアイディアによってPYGとなったものである。

目次

[編集] メンバー

[編集] 来歴

ザ・タイガース解散後はソロシンガー/タレントとしての活動を目論む所属事務所の意に反し、沢田はバンドとしての活動に執着する(この姿勢は、後々まで専属バンドと共に活動するという沢田のポリシーになっていく)。このため、欧米で流行していたスーパーバンドを模した形で、1971年1月11日ザ・テンプターズのショーケンこと萩原健一(ヴォーカル)と大口広司(ドラムス)、ザ・スパイダースの井上堯之(ギター)と大野克夫(オルガン)、それにザ・タイガースの岸部一徳(ベースギター)と沢田(ヴォーカル)が参加してPYGを結成し2月1日にデビュー。井上堯之をリーダーとして、本格的ロック・バンドを目指した。

1971年3月に京都大学西部講堂で行われたロック・フェスティバル 第1回 MOJO WEST でのデビュー・アクトでは、聴衆から猛烈な罵声を浴び会場は大混乱(内田裕也が聴衆を説得し、収拾した)。4月に日比谷野外音楽堂で開催された 日比谷ロック・フェスティバルでも、「帰れ」コールを浴びせられ、ステージに物が投げられるなどの騒ぎとなる。こうして暗中模索ともいえる船出の中、4月10日にファースト・シングル『花・太陽・雨』(作詞:岸部修三、作曲:井上堯之)、8月10日にファースト・アルバム『PYG!』を発売する運びとなる。

1971年9月、ドラムスが大口広司から「ミッキーカーチス&サムライ」のメンバーだった原田祐臣に交替。

1971年11月1日、「萩原健一+PYG」のクレジットでサード・シングル『もどらない日々』(作詞:岸部修三、作曲:井上堯之、ファースト・アルバムからのシングルカット)が発売された同日、沢田は初のソロ・シングル『君をのせて』(作詞:岩谷時子、作曲:宮川泰、演奏はケニー・ウッドオーケストラ)を発売。さらに12月にはセカンド・アルバム『JULIE II IN LONDON』発売。

1972年萩原健一主演のテレビドラマ『太陽にほえろ!』がヒットし萩原の俳優としての評価が徐々に高まると、萩原が参加できるときはPYGとして、参加できないときには「沢田研二と井上堯之バンド(または井上堯之グループ)として活動するようになってゆく。

1972年3月11日発売のセカンド・シングル『許されない愛』(作詞:山上路夫、作曲:加瀬邦彦)がヒットし、第14回日本レコード大賞歌唱賞、第5回日本有線大賞優秀賞を受賞すると、PYGとしての活動はさらに形骸化していく。結局、1972年11月21日発売のラスト・シングル『初めての涙』(作詞:大橋一枝、作曲:大野克夫)を最後にPYGは自然消滅の形で終焉を迎えた。

[編集] その後

沢田研二は本格的にソロ歌手へ、萩原健一は『ブルージンの子守唄』をリリースする傍ら俳優へ、そして残りのメンバーはそのまま「井上堯之バンド」へ移行する。

しかしながら、これはこのシングル『初めての涙』以降、一度も「PYG」名義でのレコード発売がなされていないのと、1972年夏の「日劇ウエスタン・カーニバル」を最後に「PYG」としての主だった活動がない(1972年12月の「日劇ウエスタン・カーニバル」には「沢田研二と井上堯之グループ」として出演)ことを根拠に、結果論的に「消滅」あるいは「解散」となったものであり、正式に解散が発表されたわけではない。1975年頃までは、PYGのオリジナル曲やレパートリーを積極的にコンサートに取り上げていたり、雑誌インタビュー記事などで沢田が井上堯之バンドのことを「PYGの仲間」と表現し「一人の歌手として、またPYGの一員として…」などと自分の抱負を語っているのが散見される。このことから、仲間内での意識は1973年以降もしばらく「PYG」のままであり、特にオリジナルメンバーの岸部一徳が脱退し俳優に転向する頃までは、萩原が一緒に参加できれば「PYG」としての活動も継続していく意向があったようである。

実際、1974年5月27日放送の『夜のヒットスタジオ』では久々に沢田と萩原という同バンドのツインボーカルがそろったジョイント企画が行われ、最初は「沢田研二と井上堯之バンド」として登場するものの、途中で萩原が加わった時点でテロップが「PYG」と変わり、ラストシングルとなった「初めての涙」などを演奏した。

以降、PYGとしての再結成は行われていないが、萩原健一、沢田研二共にソロになってからのコンサートで度々PYGの楽曲を取り上げている。1978年には、名古屋で行われていた萩原健一のコンサートに沢田研二が、また翌日、同じく名古屋で行われていた沢田研二のコンサートに萩原健一が飛び入り参加し、共に「自由に歩いて愛して」を歌い、大口、岸部、原田を除くPYGのメンバー4人揃っての共演が実現している。また沢田研二がヒットシングル『勝手にしやがれ』で第19回日本レコード大賞を受賞した際の授賞式には、萩原健一と岸部一徳がザ・タイガースの元メンバーらとともにステージに上がり沢田研二を胴上げ。バックを担当した井上堯之バンドの井上堯之、大野克夫とともにPYGのメンバー中5人が揃ってステージに上がった。

[編集] 評価

「ジュリーとショーケン2大アイドルスターによるツインヴォーカル」というコンセプトは大きく話題となり、それなりにコンサートも盛り上がったものの、実際の客席においては、それぞれのファンでの熾烈な争いが頻繁に勃発している。また、従来のGSファンから、本格的ロックを志向するスーパーバンド PYG の存在は違和感をもたれた。また、日比谷野音をはじめ各種ロックフェスティバルにも出演するが当時の硬派なロック・ファンには ロック=反体制の音楽 という図式があり、芸能業界最大手(当時)である渡辺プロダクション所属のPYGは、体制的商業主義と見なされて受け入れられず、その嫌悪感から猛烈な非難を受浴び、「GSの残党」「商業主義」と徹底的に嫌われ、空き缶やトマトが投げつけられる事があった。

ベースギターの岸部一徳が作詞をしたデビュー曲『花・太陽・雨』は、商業的なヒットこそしなかったものの、哲学的な詞や印象的なサウンドで今でも名曲として名高く、『帰ってきたウルトラマン』の劇中歌にも採用されるなど、楽曲面でもとても影響力が高かった(シングルバージョンとアルバムバージョンの2種類が存在)。

ヒット曲『自由に歩いて愛して』は、数々のアーティスト等がカバーしている。

[編集] ライブ

ロックが文化として確立した現在とは違い、当時はまだ、例えロックコンサートであっても2~3部構成であったり合間にゲスト演奏やトークコーナーが挟まったりと、それまでの「リサイタル」形式のステージ構成が当たり前のように行われることも多かった。PYGのコンサートは渡辺プロダクションが取り仕切っていたため特にその傾向が強く、合間に「ジュリーコーナー」「ショーケンコーナー」が設けられ、それぞれが持ち歌を続けて披露する場面があった。そのため、ボーカルが沢田のみというスタイルもそれほど違和感無く受け入れられていたが、ザ・テンプターズ時代からの萩原のファンはこの頃までには大幅に姿を消し、客席のほとんどが沢田のファンで占められていた。

ライブでは『ブラック・ナイト』(日本で初めてテレビでライブ演奏した)、『ブラッドサッカー』、『アイ・ゴナ・リーヴ・ユー』、『ギミー・シェルター』など、ディープ・パープルレッド・ツェッペリンフリーローリング・ストーンズなどのハードロック志向の選曲を好んで演奏していた(2枚組ライブアルバム『FREE WITH PYG』で聴くことができる)。また、キング・クリムゾンの『エピタフ』など、プログレのレパートリーや、ヘビー・メタル風のブラック・サバスパラノイド』なども演奏していた。

[編集] ディスコグラフィー

[編集] シングル

  • 花・太陽・雨/やすらぎを求めて(1971/4/10)
  • 自由に歩いて愛して/淋しさをわかりかけた時(1971/7/21)
  • 何もない部屋/もどらない日々(1971/11/1、「萩原健一+PYG」名義)
  • 遠いふるさとへ/おもいでの恋(1972/8/21)
  • 初めての涙/お前と俺(1972/11/21)

[編集] アルバム

  • PYG! オリジナル・ファースト・アルバム(1971/8/10発売、オリコン最高位10位)
  • FREE WITH PYG(1971/11/10発売、1971/8/16田園コロシアムライヴ盤、2枚組)

[編集] 関連項目

  • 帰ってきたウルトラマン - 第34話「許されざるいのち」にて『花・太陽・雨』が使われた。
  • ザ・ガードマン - 第336話「セクシー娘・お色気捕物帖」にて『自由に歩いて愛して』が使われた。
  • 刑事くん - 1971年および1972年 楽曲使用
  • 太陽にほえろ - 第1話 マカロニ張込みシーンにて『ブルージンの子守唄』が使われた。

最終更新 2009年12月4日 (金) 08:14 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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