TEE
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Trans Europ Express, 略称TEEは、1957年から西ヨーロッパで運行されていた列車の種別である。すべて一等車からなる昼行の国際列車で一定の条件を満たしたものがTEEとされたが、後に西ドイツ、フランス、イタリアでは国内発着の最優等列車もTEEとなった。TEEには原則として一往復ごとに個別の列車名がつけられていた。一等国際列車としてのTEEは1988年に全廃され、国内列車のTEEも1991年に廃止された。1993年に二等車を含む列車として復活するものの、これも1995年に廃止された。
日本語では「欧州特急」[1]、「ヨーロッパ横断特急」[2]、「ヨーロッパ国際特急」[3]等と訳される。
目次 |
[編集] 特徴
TEEは本来、国際的に活動するビジネス客を主な対象として設定された列車である。また第二次世界大戦後に急速に発達した航空機や自動車に対抗できる速度や利便性、快適性を追求した列車でもある[1][4]。
TEEでは出入国管理や税関検査などの手続きは原則として車内で走行中に行なえるようになっており、国境駅での長時間停車は不要になった。また食堂車を連結するか、もしくは車内の厨房からケータリングサービスが行なわれた[4]。列車によっては車内からの電話や秘書によるタイプセットなどのサービスが行なわれるものもあった[5][6]。
ほとんどの系統でTEEは1日に1往復から2往復程度であり、早朝に始発駅を出て昼頃に終着駅に着き、逆向きの列車は夕方に発車して深夜に到着するというダイヤが組まれた。これはビジネス客の出張利用を想定し午後を目的地での仕事に使えるようにしたためであり、昼間を列車の中で過ごすことはあまり想定されていない[4][1]。
TEEの利用には各国鉄の一等運賃を合算したものに加え、TEE用の特急料金が必要であった[1][7]。その額は1957年当時では1kmあたり1.47金サンチーム[注釈 1][8]と定められており、実際にはこれを各国の通貨に換算した料金表が適用された。例えば西ドイツで発券される場合は225km以下を4ドイツマルクとし、226kmから275kmまでは5マルクのように50kmごとに1マルク加算された[9]。なおビジネス客を主な対象としていたこともあり、小人料金の設定はなく各種の割引制度もほとんどが適用されなかった[10]。ただしユーレイルパスは利用可能であり、この場合特別料金も不要であった[11]。
TEEは全車指定席であり、利用には予約が必要だった[1]。予約業務のため、列車名や駅名、その他必要な用語について各国共通の電報略号と通信手順が定められていた[12]。
[編集] 歴史
[編集] TEE以前の国際列車
ヨーロッパにおける国際列車の運行が本格化するのは1872年に国際寝台車会社(ワゴン・リ)が設立されてからである。1880年代から1890年代にはオリエント急行、北急行など多くの国際列車が生まれた[13]。これらは主にワゴン・リ社の一等寝台車と食堂車で編成され、国境や主要駅で機関車や客車をつなぎ変えながら運行された[14]。
第一次世界大戦後の1920年代には、こうした寝台列車のほか、サロン車(プルマン車)による昼行の国際列車も登場した。ワゴン・リ社によるエトワール・デュ・ノールやエーデルヴァイス、そのライバルであるミトローパ車によるラインゴルトなどが代表例であり、これらはTEEの時代まで名を残した。これらの列車は一等および二等の客車のみ(当時のヨーロッパは三等級制)で編成されていた[13]。また、1930年代になるとドイツやイタリア、フランスでは、従来の蒸気機関車牽引の列車よりも高速な気動車や電車による優等列車も現れた[13][15]。
第二次世界大戦によってヨーロッパの鉄道は壊滅的な打撃を受けたが、1950年代には戦前を上回る優等列車網が復活した。1953年、西ドイツでは12往復からなる気動車特急列車(Fernzug, F-Zug)網が誕生した[16]。同じ年イタリアではETR300形特急電車(通称セッテベロ)が運行を始めた[17]。
一方で、このころには鉄道は航空機や自動車との競争に晒されるようになった。また特急列車の利用客も変わり、ごく限られた上流階級のための列車に代わって、国際的に活動するビジネス客のための列車が求められるようになっていた[4]。
[編集] TEEの構想
TEEの構想を提案したのはオランダ国鉄の総裁であったF.Q.デン・ホランダー(Frans den Hollander)である。彼は1953年10月30日の記者会見で、Europa Express(ヨーロッパ急行)という新たな国際列車を提唱した。これはすべて一等車からなる高速の気動車列車で、当時の旅客機と同等以上の内装を有し、国境で乗務員を交代することなく運行されるべきものとされた[8]。
デン・ホランダーは、300kmから500km程度の距離では列車は航空機に所要時間の面で優位に立てると考えた[4]。また彼はこのころ国営航空会社KLMの役員も兼ねており、当時急速に発展していた航空業界のサービスを鉄道に取り入れようという意図もあった[8]。
ホランダーの提案は国際鉄道連合で検討され、翌1954年10月にはヨーロッパ時刻表会議の議題となった[8]。当初は国際寝台車会社をモデルに列車運行のための新会社を設立し、オランダの気動車を元にした共通車両を製作して使用するという構想であった[12]。しかし各国間の調整がうまく行かず、以下の基準を満たした車両を各国鉄が製作し、共同運行することとした[18][7][19]。
- 最高速度は140km/h(平坦線)、また16パーミルの登り勾配でも70km/h以上で走行可能であること。
- 軸重は18t以下。
- 共通のブレーキシステムを備える。
- 乗り心地は最高の水準のものとし、客席の騒音も可能な限り抑える。
- 客席は一等車[注釈 2]のみとし、座席は最大で横3列(コンパートメント席の場合は1室6名、開放座席(中央通路)車の場合は通路を挟んで2列+1列)。
- 編成定員は100名から120名。
- 車内で温かい食事をとれること(食堂車を連結するか、客席へのケータリングサービスが可能)。
- 塗装はクリーム色ないしベージュ地に赤帯とし、前頭部に "TEE" のエンブレムを付ける。
また新列車の種別名はTrans Europ Express, 略称TEEと定められた[8]。1954年時点で共同運行に参加を表明したのは以下の7か国の国鉄である[7]。
これらの国鉄によりTEE委員会が組織された。その本部はデン・ハーグに置かれ、その下に技術、時刻表、営業の3つの専門委員会が設置された[12]。TEE委員会の初代委員長にはデン・ホランダーが就任し、その後もオランダ国鉄の総裁がTEE委員長を兼任した[7][4]。
オランダ国鉄とスイス国鉄はTEE用の気動車を共同で製作した。ベルギー国鉄とルクセンブルク国鉄はTEEのメンバーではあったが、車両は提供していない[12]。
1956年のヨーロッパ時刻表会議において、翌1957年6月2日夏ダイヤ改正からTEEの運行を始めることが決まり、そのダイヤが承認された。またこの時までにオーストリア連邦鉄道(オーストリア国鉄)がTEEのメンバーに加わった[7]。
[編集] 初期の列車
1956年の時刻表会議で翌1957年の運行開始が決まったTEEは以下の12往復である[20][21]。
| 列車名 | 区間 | 沿線国 | 距離 | 車両担当 |
|---|---|---|---|---|
| アルバレート Arbalète |
パリ(東駅) - チューリッヒ | フランス、スイス | 615km | フランス国鉄 |
| エーデルヴァイス Edelweiss |
アムステルダム - チューリッヒ | オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランス、スイス | 1004km | オランダ国鉄・スイス国鉄 |
| エトワール・デュ・ノール Étoile du Nord |
パリ(北駅) - アムステルダム | フランス、ベルギー、オランダ | 542km | オランダ国鉄・スイス国鉄 |
| ヘルヴェティア Helvetia |
チューリッヒ - ハンブルク(アルトナ駅) | スイス、西ドイツ | 959km | 西ドイツ国鉄 |
| イル・ド・フランス Ile de France |
パリ(北駅) - アムステルダム | フランス、ベルギー、オランダ | 542km | フランス国鉄 |
| モン・スニ Mont Cenis |
リヨン - ミラノ | フランス、イタリア | 498km | フランス国鉄 |
| パリ・ルール Paris-Ruhr |
パリ(北駅) - ドルトムント | フランス、ベルギー、西ドイツ | 615km | 西ドイツ国鉄 |
| オワゾ・ブルー Oiseau Bleu |
パリ(北駅) - ブリュッセル | フランス、ベルギー | 542km | オランダ国鉄・スイス国鉄 |
| ライン・マイン Rhein-Main |
フランクフルト・アム・マイン - アムステルダム | 西ドイツ、オランダ | 499km | 西ドイツ国鉄 |
| サフィール Saphir |
ドルトムント - オーステンデ | 西ドイツ、ベルギー | 470km | 西ドイツ国鉄 |
| リーグレ Ligure |
ミラノ - マルセイユ | イタリア、フランス、モナコ[注釈 3] | 553km | イタリア国鉄 |
| メディオラヌム Mediolanum |
ミラノ - ミュンヘン | イタリア、オーストリア、西ドイツ | 579km | イタリア国鉄 |
ただし、イタリア国鉄の気動車は製造が遅れてダイヤ改正に間に合わないため[22]、リーグレ、メディオラヌムの2本については冬ダイヤ改正(9月29日)時まで運行開始を遅らせることとされた[20]。このため6月2日に運行を始めたのは10往復である。実際にはリーグレは8月12日、メディオラヌムは10月15日に運行を始めた[23]。また西ドイツ国鉄のTEE用気動車も製造が遅れ、当初は前世代の気動車による代走となった[24]。
これらの列車のダイヤは、エーデルヴァイス、エトワール・デュ・ノール[注釈 4]、ヘルヴェティアを除いては、一方向が早朝に発車し、逆向きの列車は夕方に発車するというものであり、「日帰り」利用が可能なように設定されていた[20]。
これらに加え、1957年10月3日にはTEEパルジファル(パリ - ドルトムント、フランス国鉄車)が、1958年6月1日にはTEEレマノ(ミラノ - ジュネーヴ、イタリア国鉄車)が新設された[21]。
[編集] 動力の変遷
TEEは当初すべての列車が気動車列車であった。しかしスイス国鉄では、アルプス山脈やジュラ山脈の急勾配区間を越える列車では気動車では出力不足であり、強力な電車が必要であると考え、1957年以来国際列車用の電車の研究を行なっていた[25][26]。一方で、西ヨーロッパでは主に以下の4通りの電化方式が混在していた[27]。
- 直流 1500V : フランス(パリ以南)、オランダ
- 直流 3000V : ベルギー、イタリア
- 交流 15kV 16 2/3Hz : スイス、西ドイツ、オーストリア
- 交流 25kV 50Hz : フランス(1950年代以降の電化路線)
1961年、スイス国鉄はこれら4方式すべてに対応したRAe TEE II形電車を投入し、ゴッタルド、ティチノ(ともにチューリッヒ - ミラノ)、シザルパン(パリ - ミラノ)の3往復の電車TEEが新設された[28][21]。
1960年代には西ヨーロッパの主要幹線の電化が進み、スイス以外の各国鉄もTEEに電気動力を用いようとした[27]。しかし構造が複雑で取り扱いの難しい交直両用電車は受け入れられず、電気機関車牽引の客車列車とし、必要に応じて機関車を交換しながら運行する方法が選ばれた[28]。また国境付近など電化されていない区間ではディーゼル機関車が用いられることもあった[29]。
1963年9月1日、パリ - ブリュッセル間のTEEブラバントが初の電気機関車牽引のTEEとなった[30][31]。
1964年以降フランス国鉄とベルギー国鉄は共同で開発したTEE用客車をパリ・ブリュッセル・アムステルダム系統のTEEに用いるようになった[28]。後にスイス国鉄もフランスと同型の客車を保有するようになり、フランス国鉄所有車と混結してフランス・スイス間などのTEEに用いた[32]。
西ドイツ国鉄では1962年にラインゴルト用に製造したのと同型の客車を増備し、TEEにも使用した[33]。1965年3月1日にTEEヘルヴェティアが初の西ドイツ客車によるTEEとなった[34]。
イタリア国鉄ではTEEに気動車を用い続けていたが、1960年代末になるとイタリアのTEE用気動車は冷房がないなど他国のTEE用客車と比べ見劣りし、もはやTEEにはふさわしくないとされるようになった。そこでイタリア国鉄も1969年にTEE客車の開発に着手した。1972年5月28日にTEEレマノが客車列車化され、1972年中にイタリア国鉄担当のTEEはすべて客車化された[35]。
オランダ、ルクセンブルク、オーストリア、デンマークの各国鉄の客車はTEEには用いられていない。ただしルクセンブルクを除く各国の機関車はTEEの牽引に用いられた[36][37]。
なお客車化によって余ったTEE用気動車を用いることにより、新たにTEEに格上げされた列車にディアマント(ドルトムント - アントウェルペン、西ドイツ国鉄車、1965年昇格)とバヴァリア(チューリッヒ - ミュンヘン、オランダ国鉄・スイス国鉄車、1969年昇格)がある。ただしこれらも後に客車列車化されている[38][39]。
最後まで気動車列車として残ったTEEはエーデルヴァイスであるが、これも1974年5月26日に電車化され、気動車TEEは消滅した[40]。
[編集] 国内列車としてのTEE
TEEは本来すべて国際列車であるが、1965年5月30日からは西ドイツとフランスでそれぞれの国内のみを走る列車もTEEとされるようになった。このきっかけは国際特急列車(F-Zug)であったラインゴルトを新たにTEEにしようとしたことである。ラインゴルトはオランダ、西ドイツ、スイスの3ヶ国を走る国際列車で、一等車のみの編成であり、1962年以来使用されている車両もTEEに十分ふさわしいものであった。そこで1964年のTEE委員会で、西ドイツ、オランダ、スイスの3国鉄はラインゴルトをTEEとすることを提案した。ところが、ラインゴルトは途中のデュースブルクで西ドイツの国内特急列車ラインプファイル(ドルトムント - ミュンヘン)と客車のほぼ半数を入れ替えていた。そこで西ドイツ国鉄はラインプファイルも同時にTEEに加えられるべきであると主張した。これに対してフランス国鉄はル・ミストラル(パリ - ニース)もラインゴルトなどと同等の客車を用いており、TEEとされるべきであると主張した。委員会での交渉の結果、ラインプファイル、ル・ミストラルのほか、ラインゴルトと同型の客車が使われているブラウアー・エンツィアン(ハンブルク - ミュンヘン)もTEEに昇格することになり、3往復の国内TEEが誕生した[41][42]。
その後1970年にブラウアー・エンツィアンはオーストリアまで延長されて国際列車となった[43]。また1971年9月27日のダイヤ改正で、西ドイツ国鉄はTEEと同等の客車を用いた国内優等列車であるインターシティを新設した(後述)。これによりラインプファイルはインターシティに種別を変更し、西ドイツ国内列車のTEEは一旦姿を消した[44]。
フランスでは、1969年にル・ミストラルを補完する国内TEEとしてル・リヨネ(パリ - リヨン)が新設され、1970年からはそのほかの幹線にも国内TEEが次々と誕生した。最盛期には、国際TEEと合わせると、パリを起点に放射状に広がる幹線のほぼ全てにTEEが運行されていた[45]。
またイタリアでも、1973年から国内の優等列車の一部がTEEとされるようになった[45]。これらは前年に国際TEEに投入した客車を改良した新型客車「グラン・コンフォルト」を用いていた[35]。1974年には1953年以来の歴史を持つ電車特急セッテベロがTEEになった[17][46]。
[編集] 高速化
TEEの最高速度は1957年当時はすべて140km/hであったが、電車や電気機関車を用いることにより1960年代には160km/h程度まで向上した[31]。
1960年代後半には日本の新幹線の影響を受けてヨーロッパでも鉄道の高速化に関心が高まった。ヨーロッパ初の200km/h運転は1965年に西ドイツ国鉄が試験的に行なったものであるが、恒久的に行なわれたものとしては1967年のル・キャピトール(パリ - トゥールーズ)からとなる。この列車は1970年にTEEに昇格した[47]。
1970年代にはフランスや西ドイツの多くの路線でTEEの最高速度が200km/hに引き上げられた。中でもパリ - ボルドー間のTEEアキテーヌ、エタンダールは表定速度が151.5kmに達し、TGV以前のヨーロッパでは最も速い列車であった[48][47]。
[編集] ネットワークの拡大
1969年6月1日のTEEカタラン・タルゴ(バルセロナ - ジュネーヴ)の運行開始により、レンフェ(スペイン国鉄)が新たにTEEの運営に加わった[49]。また1974年5月26日にはシュトゥットガルトとコペンハーゲンを渡り鳥コース経由で結ぶTEEメルクールが誕生し、デンマーク国鉄もTEEに加わった[50]。これによりTEEの走る国は11ヶ国(モナコを含む)となった。
なお1971年5月23日からヨーロッパでの列車番号の付け方に関する規則が改められ、1から99までの2桁以下の番号はTEE専用となった[45]。また西ドイツを経由するTEEの中には、このとき列車番号が奇数の向きと偶数の向きが反転したものもある[51]。
TEEの列車数が最大に達したのは1974年-75年の冬ダイヤ期間である。この時期は45往復(臨時列車を除く)のTEEが運行されていた。うち30往復が国際列車、15往復がフランスとイタリアの国内列車であった[52][53]。
[編集] インターシティの登場
1971年9月26日、西ドイツ国鉄はインターシティという新たな優等列車を導入した。インターシティは全て一等車からなり、車両はTEE用の客車あるいは気動車と同一のもので、停車駅や速度も同区間のTEEと同等のものである。その意味では「国内版TEE」とも呼べるものであった[54][55]。
しかしダイヤの設定に関する思想は従来のTEEとは大きく異なっていた。TEEは一つの系統につき一日一往復か二往復程度しか運行されておらず、「日帰り利用」を意識したために早朝や夕方以降の時間に偏る傾向があった。これに対しインターシティは4つの系統で約2時間間隔のパターンダイヤを採用した。また主要駅では異系統のインターシティを相互に乗り換えられるようになっていた[54][55]。
国際列車であるTEEも、西ドイツ国内のインターシティ路線と重複する部分ではインターシティ網の一部を担うものと位置づけられた。このため一部のTEEでは2時間間隔のパターンに合わせるため時刻や経路が修正された[56]。また西ドイツ国鉄の客車・気動車を使うTEEは原則としてインターシティと共通の車両とされ、一日の走行距離を均等にするために複数のTEEやインターシティを組み合わせた複雑な運用が行なわれた[57]。
[編集] 一二等列車への転換
1970年代になると国際列車の利用者も大衆化し、二等車の需要が増えるのと引き替えに、一等車のみのTEEは利用が衰え始めた[54]。このため1975年のTEEゲーテ(パリ - フランクフルト・アム・マイン)の廃止[注釈 5]以降、廃止あるいは二等車を含む特急・急行に格下げされるTEEが現れた[45]。
西ドイツのインターシティも1976年以降一部の列車に二等車を連結するようになり、1979年5月27日から全てのインターシティが二等車を含むようになった。この影響でインターシティ網の一部を担っていたTEEの多くも、1978年から1979年にかけて二等車を連結してTEEでなくなった。一方で、少数ながら残った西ドイツ国内の一等車専用の優等列車が新たにTEEに加わり、7往復の西ドイツ国内TEE(国際列車から国内列車に変更されたローラントを含む)が生まれた[58][59]。これにより西ドイツ、フランス、イタリアの国内TEEの総数が国際TEEの数を上回るようになった[52]。ただし西ドイツの国内TEEは数年以内に全て廃止あるいは二等車を含むインターシティに変更された[60]。
1980年6月1日からは西ヨーロッパの国際列車に対してもインターシティという種別が用いられることになり、二等車を含むようになっていた元TEEの多くが国際TEEとなった[61]。その後もTEEの廃止やインターシティへの変更は続いた[60]。
1978年のメルクールのインターシティ化によりデンマークに乗り入れるTEEがなくなり、1981年にはルクセンブルク、1982年にはスペインおよびモナコから、さらに1984年にはオーストリアからもTEEが姿を消した[58][60]。
[編集] 終焉
1987年5月31日、ヨーロッパの国際列車の新たな種別としてユーロシティが誕生し、元TEEであった国際インターシティの多くはユーロシティとなった[62]。この時のダイヤ改正でTEEラインゴルト(アムステルダム - バーゼル)が廃止され、TEEイル・ド・フランス、ルーベンス(ともに パリ - ブリュッセル) はユーロシティに変更された[63]。なおユーロシティは二等車を含むのが原則であったが、イル・ド・フランスとルーベンスは1993年までTEE時代と同じ一等車のみの編成であった[64]。
また、イタリアの国内列車のTEEもこの時全てインターシティに置き換えられて廃止された。これによりTEEとして残っているのはゴッタルド(チューリッヒ - ミラノ)とフランス国内の4往復のみとなった[63]。
ゴッタルドは1988年9月25日のダイヤ改正をもってユーロシティに種別変更され、「一等車のみからなる国際列車」としてのTEEは消滅した。フランス国内のTEEも次々と二等車を含むコライユまたはTGVに置き換えられた[63]。
最後までTEEとして残ったのはパリとトゥールコワンをリール経由で結んでいた一往復(トゥールコワン行がフェデルブ、パリ行がヴァトー)であるが、これも1991年5月31日の運行を最後に廃止された[65]。
なお、1982年から1993年までフランクフルト国際空港とボン、ケルンおよびデュッセルドルフを結ぶルフトハンザ・エアポート・エクスプレスという列車が存在したた。この列車はTEEとして承認されたものではなく、ルフトハンザドイツ航空の利用者専用であり鉄道の時刻表には掲載されていなかった。しかし西ドイツ国鉄はこれにTEEとしての列車番号を付けて運行した[66]。使用した車両は一等車専用であった時代のインターシティ用電車、すなわちTEEと同等とされる設備を持ったものであり、2日のみではあるが正規のTEEに使用されたこともあった[67]。
[編集] ノンストップ列車としての復活
詳細は「パリ・ブリュッセル・アムステルダム間の列車#一二等TEE」を参照
1993年5月23日(LGV北線部分開業と同日)から、フランス国鉄とベルギー国鉄はパリ - ブリュッセル間を途中駅無停車で結ぶ列車4往復をTEEとし、列車種別としてのTEEが2年ぶりに復活した。ただしこれらのTEEはかつてと異なり、一等車と二等車の双方を連結していた。これらの列車にTEEの種別名を用いたのはマーケティング上の理由によるものである。当時パリ - ブリュッセル間の列車は航空機との競争にさらされていた。このころ「ユーロシティ」の種別は陳腐化してしまっていたため、よりイメージの良い"TEE"の名称を用いたのである[65]。
1995年1月23日、パリ - ブリュッセル間のTGV運転開始と引き替えにTEEのうち3往復が廃止され、ブリュッセル行イル・ド・フランス(TEE 85)とパリ行ヴァトー(TEE 88)のみが残った。この一往復も1995年5月26日の運行を最後に廃止された。この日20時01分にブリュッセル南駅に到着したイル・ド・フランスが史上最後のTEEとなった[68]。
[編集] TEEの功績と、21世紀のTEE
TEEが本来の目的を果たした期間は決して長くはなかったが、ビジネスユーザをターゲットとしたその上質のサービスは、鉄道におけるサービスレベルの向上に貢献した。また、各国が競ってサービス向上に努めたことも特筆されよう。これらの要素は、後のインターシティや、現在の高速鉄道にも引き継がれている。
そのため、ヨーロッパの鉄道趣味界では、TEEなき後も、それに対する思い入れが強い。2007年は、TEEが運転を開始してちょうど半世紀が経過した年であるが、既にTEEとして運転されている列車は皆無であるにも関わらず、当時の車輌によるイベント列車を初めとして、50周年記念行事や、出版物の発行が行われている。
一方、2000年には、中欧3カ国の鉄道事業者であるドイツ鉄道・スイス連邦鉄道・オーストリア連邦鉄道により、"TEE Rail Alliance" と呼ばれる組織が結成されている。20世紀末から急速に発展している航空連合に対抗する意味もあり、この3ヶ国を相互に結ぶ列車に対し、統合されたサービスを提供することを目標としている(類似の組織としては、欧州の高速鉄道事業者連合 "Railteam" がある)。
[編集] 年表
個別の列車の新設、廃止、区間変更等については後の#TEE列車一覧節および各列車の記事を参照。
- 1953年10月30日 : オランダ国鉄のデン・ホランダー総裁が"Europa Express"の構想を発表。
- 1954年 : TEEの基本構想がまとまる。
- 1957年6月2日 : TEE10往復の運行を開始。当初はオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランス、西ドイツ、スイス、イタリアの7ヶ国で運行。
- 1958年10月15日 : オーストリアを経由するTEEが新設される。
- 1961年7月1日 : 電車によるTEEの運行を開始。
- 1963年9月1日 : 電気機関車牽引の客車によるTEEの運行を開始。
- 1965年5月30日 : 西ドイツとフランスで国内TEEの運行を開始。
- 1969年6月1日 : スペインにTEEが乗り入れる。
- 1971年5月23日 : 列車番号の付番規則改訂により、1-99はTEE専用となる。
- 1971年9月26日 : 西ドイツでインターシティの運行開始。西ドイツの国内TEEが消滅。
- 1973年6月3日 : イタリアで国内TEEの運行開始。
- 1974年5月26日 : デンマークにTEEが乗り入れる。気動車TEE全廃。
- 1974年9月28日 : TEEの列車数が最大(45往復)に達する。
- 1978年5月28日 : 西ドイツの国内TEEが復活。デンマークからTEEが消滅。
- 1979年5月27日 : 西ドイツのインターシティがすべて二等車を連結するようになる。
- 1981年5月31日 : ルクセンブルクを経由するTEEがなくなる。
- 1982年5月23日 : スペインからTEEが消滅。
- 1983年5月28日 : 西ドイツの国内TEE全廃。
- 1984年6月3日 : オーストリアを経由するTEEがなくなる。
- 1987年5月31日 : ユーロシティ創設。オランダ、ベルギー、西ドイツからTEE全廃。またイタリアの国内TEE全廃。
- 1988年9月25日 : 国際TEE全廃。スイス、イタリアからTEEがなくなる。
- 1991年6月1日 : フランスの国内TEE廃止により、TEEが一旦全て廃止される。
- 1993年5月23日 : パリ - ブリュッセル間で二等車を含むTEEの運行を開始。
- 1995年5月27日 : 最後のTEEが廃止される。
[編集] 路線網の変遷
[編集] TEEに使用された主な車両
[編集] 内燃動車
[編集] VT11.5型→VT601型 (西ドイツ国鉄)
1957年のTEE運転開始時に製造された、液体式ディーゼル動車。7両編成、全長130.7mで両端の車両が動力車。出力は1,100PS×2 = 2,200PS。最高速度は140km/h。ボンネットスタイルが特徴。TEEには1973年まで使われ、一方1968年から1979年までは国内特急(F-Zug、インターシティ)に投入され、そして晩年は波動輸送用となる。インターシティでは160km/h運転を行うため、一部の動力車は2,200PSのガスタービンエンジンに換装されてVT602型となり、編成の片側の動力車に連結された(1982年廃車)。東西ドイツ統一直前の1990年8月から、わずか2ヶ月間ではあるが、ベルリンとハンブルクを結ぶインターシティ「マックス・リーバーマン」にも使用され、「フリーゲンダー・ハンブルガーの再来」とも言われた(運営は東ドイツ国鉄が実施。東ドイツ国鉄としては最初で最後のインターシティでもある)。現在はイベント用に保存。TEEでは「ライン・マイン」「サフィール」「ヘルヴェティア」「パリ-ルール」「パルジファル」「メディオラヌム」の各列車に使用された。
[編集] VT07.5型・VT08.5型 (西ドイツ国鉄)
1957年のTEE運転開始時には、前述のVT11.5型の落成が遅れ、必要編成数を確保できなかった。そのため、運転開始後の短期間ながら、1950年代に製造され、既に西ドイツ国内で運用されていた特急用気動車であるVT07.5型(1951年製)・T08.5型(1952年製、後の608型)がTEEとして運用された。VT11.5型の増備に伴い順次置き換えられたが、過渡期にはVT11.5型とVT08.5型の併結もあった。
[編集] X2700型 (RGP 825(RGP1))(フランス国鉄)
1957年のTEE運転開始時に製造された、825PSの液体式ディーゼル動車で、最高速度は140km/h。X2700型そのものは、在来型の長距離列車用の気動車 (600PS:RGP2) であったが、その一部編成 (2771 - 2781) をTEE仕様として製造し、営業運転に備えた。この気動車は動力車(流線型)と制御車(半流線型)の2両編成でユニットとなり、このユニットを2つ連結して4両編成で運用される場合が多く、制御車の先頭部分には貫通幌が内蔵され、運転台周りは非常に凝った造作となっていた。また、各編成でヘッドライトの位置や形状にバラエティがある。現在はすでに引退、車体は更新されて近郊型の気動車に生まれ変わっている。TEEでは「モン・スニ」「アルバレート」「パルジファル」「イル=ド=フランス」「パリ・ルール」に使用された。このTEE用編成には厨房が設置され供食サービスは行われたものの、食堂車の連結はなく、座席も他国の専用車両に比較してやや見劣りがしたためか、1965年までと比較的使用期間は短かった。
[編集] DE4 (1000) 型 (オランダ国鉄) / RAm型 (スイス国鉄)
1957年のTEE運転開始時に製造された、電気式ディーゼル動車。4両編成の一端が動力車で、他端は客車に運転台を付けた制御車。2ヶ国の国鉄で共同開発され、動力車をオランダが、客車をスイスが製造し、両国鉄が同一仕様の車両を所有、運用した。運行開始当初は「エーデルヴァイス」「エトワール・デュ・ノール」「オワゾ・ブルー」に使用された。
なおこの形式は事故で1編成が廃車されている[注釈 6]。1974年までTEEに使われて引退した後、カナダのオンタリオ・ノースランド鉄道に譲渡されてトロント - コクレーン間の特急列車「ノースランダー」に1977年から1992年まで使用された。その後さまざまな曲折を経て、制御車2両と中間車3両の計5両が2006年にオランダに里帰りしている。
[編集] ALn442+ALn448型(イタリア国鉄)
1957年のTEE運転開始時に製造された、電気式ディーゼル動車。2両編成ながら、1両の長さが約28mもあり、供食設備も有していた。この気動車はTEE車両としては唯一床下機関を持つ車両で、客室床も他の客車より高い設計だった。また、製造当初は空調装置がなかった。通常は2両で運用されたが、中間に付随車を連結し3両で運転されることもあった。1973年までTEEとして使用後、ALn442型は厨房を撤去してALn460型に改称し、国内特急列車に1982年まで使用された。現在は1編成が保存されている。現役当時は、「リーグレ(列車)」「レマノ」「メディオラヌム」「モン・スニ」に使用された。最高速度は140km/h。
[編集] 電車
[編集] RAe TEEII (1050) 型→RABe EC型 (スイス国鉄)
TEE専用として製造されたものとしては最初の電車で、1961年製。4電気方式(直流1.5kV、直流3kV、交流15kV16 2/3Hz、交流25kV50Hz)に対応。クリーム色と紅色のTEE色。6両編成(登場当時は5両編成)だが、中間の1両に動力や機器を集中させており、電源や架線の仕様の違いに対応した4つの集電装置を持つ。この中間電動車はいわば機関車といえるもので、出力は1,100kW×4 = 4,400kW、中空軸平行カルダン駆動で台車も3軸ボギー(中央軸は無動力車軸)となっており、日本の電車の感覚とは程遠いものがある。最高速度は160km/h。晩年はユーロシティ用となり、一部座席が2等車に改装され、灰色のツートンカラーとなった。既に営業運転からは引退したが、1編成は登場当時の姿に復元され、企画列車として主にかつての「ゴッタルド」のダイヤで運転されている。TEEでは、「シザルパン」「ゴッタルド」「ティチノ」「エーデルヴァイス」「イリス」の各列車に使用されていた。
[編集] ETR300型 (イタリア国鉄)
1953年に製造された曲線美あふれる優美な電車。車体はライトグレーと緑に塗装され、先頭スカート部の赤色がアクセントであった。それまでの特急用電車であったETR200型の発展型といえるこの電車は、2+3+2の3ユニットの7両編成で、カルダン駆動。各ユニットは連接構造になっている。運転席を2階に上げ、先頭部1階を展望スペースとした最初の本格的な長距離電車でもあった。このデザインは、その後日本の名鉄パノラマカーや、小田急3100形「NSE」に多大な影響を与えた。当初は2編成が製造され、その後第3編成が増備された。全3編成のうち第1・第3編成は引退後に解体されたが、第2編成のみは電車基地に留置されている。この電車は、日本には『ベスビアス特急』という文化映画で紹介され、イタリアを代表する電車として、日本にも知られることになった。ローマ - ミラノ間の運転で元々はTEE列車ではなかったが、国内列車もTEEに組み込まれるようになってからは、そのままTEE列車「セッテベロ」として運用された。この時点で台車の交換、ヘッドライトの強化などを行い200Km/h運転に対応した(試運転では240km/hを記録)。全長165.5m、定員160名(登場時)、自重301t、出力は180kW×12 = 2,160kW。
[編集] ET403型 (西ドイツ国鉄)
詳細は「西ドイツ国鉄ET403型電車」を参照
もともとは国内のインターシティ用として1973年に製造されたが、1982年からはルフトハンザ・エアポート・エクスプレス用に改装されて運用された。ルフトハンザ・エアポート・エクスプレスは航空機のチケットで乗車する列車で、正規のTEEではなかったが、TEEと同格に扱われた。またこの電車は、不定期ながらTEE列車にも使用された。4両編成で、その風貌から「ドナルドダック」と呼ばれた。このデザインは近鉄21000系電車「アーバンライナー」に影響を与えた。1993年運転終了。最高速度は200km/h。
[編集] 客車
[編集] TEE用客車 (西ドイツ国鉄)
1962年から製造されたTEE・特急用客車。この客車は、当初TEEではなくF-Zugであった「ラインゴルト」用に製造されたものであり、従来の急行用客車(UIC-X規格)をベースに大幅にグレードアップし、空調設備も備えた特急用客車として登場した。1等開放座席車 (Apmz)、1等区分座席車 (Avmz)、食堂車のほか、ドーム展望車も製造されたが、このドーム展望車は車両限界の関係から200km/h運転開始時にTEE運用から外され、入れ替わりにバー車が連結されるようになった。また塗装は、1962年の登場時はコバルトブルーとクリームの「ラインゴルト」専用塗装であったが、1967年に「ラインゴルト」がTEEの仲間入りしてから、TEEカラーであるクリーム色と紅色に塗り分けられた。現在も改装を重ね、一部はドイツ鉄道のIC用客車の1等車として現役である。2006年には北欧などに散逸していたドーム展望車がドイツに里帰りし、TEE全盛時代の姿に復元され、「ラインゴルト」の記念列車も運転された。ドーム部分の窓下側面に書かれていた文字が当初は"RHEINGOLD"となっていたので、このドーム展望車は「ラインゴルト」専用と思われがちだが、TEEに組み込まれてからこの文字は "DEUTSCHE BUNDESBAHN" に代わり、「ラインプファール」号にも使用された。
[編集] TEE Inox 客車 (フランス国鉄)
1950年代にフランス国鉄で製造されていた急行用ステンレス製客車(米国バッド社のライセンスで製造)を基本に、設備などをTEE仕様とした客車。いくつかの種類があるが、代表的なものでは、ベルギーやオランダ方面の系統に使用される "PBA" 型と、地中海方面の系統に使用される "Mistral 69" 型が存在する。ステンレス無塗装なので、クリームと赤のTEE塗装ではなく、屋根肩部にTEEレッドの帯がアクセントに入っている。前者はベルギー国鉄でも保有していた。すでに引退し、一部はキューバやセネガルに譲渡された。
[編集] TEE Grand Confort(グラン・コンフォール)客車 (フランス国鉄)
1970年から使用開始されたTEE専用客車で、ステンレス製ではなく、普通鋼製となっている。この客車は基本的にフランス国内のTEE用であった。グレーと赤のグラン・コンフォール塗装と呼ばれるフランスの特急塗装で、牽引機であるCC6500形やBB15000形などのゲンコツ形電気機関車も同じ塗装で編成美を見せていた。ストラスブール方面の系統(「クレベール」「スタニスラス」)と、ボルドー方面(「アキテーヌ」「エタンダール」)、トゥールーズ方面(「ル・キャピトール」)の系統に運用された。1998年引退。
[編集] Carrozza Gran Comfort(グラン・コンフォルト)客車 (イタリア国鉄)
1969年から1990年まで製造された1等客車。現在でも特急用の1等車として運用されている。フィアット社製。「アドリアティコ」「キュグヌス」「ヴェスヴィオ」「アンブロシアーノ」「アウロラ」などの国内TEEには当初TEEカラーでない青系の塗装の車両が使用されたが、「レマノ」「リギュール」「メディオラヌム」の国際TEEにはTEEカラーの車両が使用された。国内TEE用は1両ずつ柔軟に編成できるタイプの客車なのに対して、国際TEE用客車は「リギュール」「メディオラヌム」に使用された客車は電源装置の関係で6両固定編成になっていたが、「レマノ」は3 - 6両で弾力的に運用された。今も使われている客車は、現行のFSカラーであるXMPR塗装になっている。
[編集] Talgo III RD客車 (スペイン国鉄)
スペイン国鉄の低床連接式客車「タルゴ」の一種だが、軌間が異なるフランスに直通するため、軌間可変機構を備えた客車。以後「タルゴ」は、軌間可変客車の代名詞となった。「カタラン・タルゴ」のみに使用された。
[編集] 客車を牽引した主な電気機関車
[編集] CC40100型 (フランス国鉄) / 18型 (ベルギー国鉄)
詳細は「フランス国鉄CC40100形電気機関車」を参照
1964年から製造された、4電気方式のC-C機。客車と同じステンレス製のボディで統一美観を保っていた。出力3,850kW、最高速度240km/h。「オワゾ・ブルー」「イル=ド=フランス」「エトワール・デュ・ノール」等を牽引した。
[編集] CC6500型 (フランス国鉄)
CC40100型とともにその前面形状から「ゲンコツ」と呼ばれた、直流専用のC-C機。2次形を除き最高速度200km/h。「ミストラル」「アキテーヌ」「キャピトール」等を牽引した。
[編集] E03型→103型 (西ドイツ国鉄)
詳細は「西ドイツ国鉄103型電気機関車」を参照
1970年から量産化されたドイツの代表的C-C機。出力7,440kW、最高速度200km/h。「ブラウアー・エンツィアン」に初めて使用された。「ラインゴルト」をはじめ西ドイツ担当のTEEの多くを牽引し、一部は塗り替えられて「ルフトハンザ・エアポート・エクスプレス」専用機となった。
[編集] Re 4/4I形 (スイス国鉄)
詳細は「スイス国鉄Re410形電気機関車」を参照
スイスの電気機関車は整備されたTEE専用機がTEEカラーに塗装され使用されたが、この機関車は1946年から製造された小型のB-B機で最高速度125km/h。短編成(3 - 4両)の「ラインゴルト」専用で、TEE塗装機は10033、10034、10046、10050の4両(1950年 - 1951年製造)が在籍していた。すでに引退。
[編集] Re 4/4II形→Re420形 (スイス国鉄)
1963年から製造されたスイスの代表的電気機関車。14.8m、80tのB-B機ながら、4,875kWの出力を誇り、クイル式駆動で回生制動付き。TEE塗装機は11158 - 11161、11249 - 11253の9両が在籍。最高速度140km/h。「ヘルヴェティア」「ローランド」「レマノ」「シザルパン」等を牽引した。ドーム展望車を連結していたごく初期の「ラインゴルト」はこの機関車が牽引していた。現在も汎用機として使用されている。
[編集] E444型 (イタリア国鉄)
イタリアのすべての客車TEE列車を牽引したB-B機。"Tartaruga"(亀)と愛称され、車体にも小さく空を飛ぶ亀の絵が描かれていた。1985年以降、高速新線走行用に大規模修繕工事が実施され車体デザインも大幅に変更された。この改造により最高速度は200km/hに向上した。
[編集] 保存車両
現役時代に使用された主な車両のうち、ドイツ、イタリア、オランダの気動車は整備され保存されている。また、スイスのTEE電車は、動態保存でイベント列車に使用されている。イタリアのETR300型電車は1編成が動態保存されている。ドイツではVT602 003号車(旧形式名VT11.5)が、ドイツの鉄道発祥の地のニュルンベルク中央駅のすぐ西にあるニュルンベルク交通博物館 (Verkehrsmuseum Nürnberg) の本館に、ICE 3の1/1モデルや数々の貴重な車両とともに静態保存されている。
[編集] TEE列車一覧
- 列車名のABC順(定冠詞を除く)。
- 列車番号、運転経路は、各列車の運行最終日のものを示す。それ以前の主要な経路については備考欄に示す。
- 運用期間はTEEとしての運用期間であり、これ以前や以後にも別の種別の列車として存在していたものもある。
- 1993年以降のパリ - ブリュッセル間TEEを除く。
| 列車番号 | 列車名 | 運転経路 | 運用期間[69] | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| TEE 93/92 | アドリアティコ Adriatico |
ミラノ中央 - リミニ - アンコーナ - バーリ | 1973/06/03 - 1987/05/30 | |
| TEE 9/8 | アルベルト・シュバイツァー Albert Schweitzer |
ドルトムント - ボン - ケルン - ストラスブール | 1980/06/01 - 1983/05/27 | |
| TEE 79/78 | アンブロシアーノ Ambrosiano |
ミラノ中央 - ローマ・テルミニ | 1974/05/26 - 1987/05/30 | |
| TEE 1/2 | アキテーヌ Aquitaine |
パリ・オーステルリッツ - ボルドー | 1971/05/23 - 1984/05/30 | |
| TEE 65/64 | アルバレート L'Arbalète |
パリ東 - バーゼルSBB - チューリッヒ中央 | 1957/06/02 - 1979/05/26 | |
| TEE 89/88 | アウロラ Aurora |
ローマ・テルミニ - レッジョ・ディ・カラブリア | 1974/05/26 - 1975/05/31 | |
| TEE 15/14 | バッカス Bacchus |
ミュンヘン - ドルトムント | 1979/05/28 - 1980/05/31 | |
| TEE 67/66 | バヴァリア Bavaria |
チューリッヒ中央 - ミュンヘン | 1969/09/28 - 1977/05/21 | |
| TEE 83/84 | ブラバント Brabant |
パリ北 - ブリュッセル南 | 1963/05/26 - 1984/06/02 | |
| TEE 91/90 | ブラウアー・エンツィアン Blauer Enzian |
ハンブルク=アルトナ - ミュンヘン | 1965/05/30 - 1979/05/24 | 一時ミュンヘンからクラーゲンフルト、ツェル・アム・ゼーなどへ延長 |
| TEE 75/74, 77/76 | ル・キャピトール Le Capitole |
パリ(オーステルリッツ) - リモージュ - トゥールーズ・マタビオ | 1970/09/27 - 1984/09/30 | TEE75/74が午前、TEE77/76が夕方の列車。TEE75とTEE76は1982/05/22廃止。 |
| TEE 70/71-72/73 | カタラン・タルゴ Catalán Talgo |
バルセロナ - モンペリエ - ニーム - アヴィニョン - ジュネーヴ・コルナバン | 1969/06/01 - 1982/05/22 | |
| TEE 22/23 | シザルパン Cisalpin |
パリ・リヨン - ローザンヌ - ドモドッソラ - ミラノ中央 | 1971/07/01 - 1984/01/21 | 1974/05/26 - 1979/09/29 : パリ - ミラノ - ヴェネツィア・サンタ・ルチーア(夏ダイヤ期間のみ) |
| TEE 77/76 | コロッセウム (旧名: セッテベロ) Colloseum (ex Settebello) |
ローマ・テルミニ - ミラノ中央 | 1974/05/26 - 1987/05/30 | 1984/06/03 : 「セッテベロ」から改名 |
| TEE 37/36-35/34 | キクヌス Cycnus |
ミラノ中央 - ジェノヴァ - ヴェンティミーリア | 1973/09/30 - 1978/05/27 | |
| TEE 42/43 | ディアマント (初代) Diamant (I) |
ケルン中央 - ブリュッセル南 | 1965/05/30 - 1976/05/29 | 運行開始時はドルトムント - ケルン - ブリュッセル - アントウェルペン |
| TEE 81/80 | ディアマント (2代目) Diamant (II) |
ミュンヘン - ハンブルク=アルトナ | 1979/05/27 - 1981/05/30 | |
| TEE 90/93 | エーデルヴァイス L'Edelweiss |
ブリュッセル南 - ルクセンブルク - ストラスブール - バーゼルSBB - チューリッヒ中央 | 1957/06/02 - 1979/05/26 | 1976年5月25日まではアムステルダム中央 - ブリュッセル南 - チューリッヒ |
| TEE 27/26 | エラスムス Erasmus |
フランクフルト・アム・マイン中央 - ケルン - アムステルダム中央 | 1973/06/03 - 1980/05/31 | 1979/05/26まで : ミュンヘン - フランクフルト - ケルン - デン・ハーグ |
| TEE 5/4 | エタンダール L'Étendard |
パリ・オーステルリッツ - ボルドー | 1971/08/26 - 1984/05/30 | 一時ボルドーからアンダイエ、イルンまで延長。 |
| TEE 85/82 | エトワール・デュ・ノール L'Étoile du Nord |
パリ北 - ブリュッセル南 - アントウェルペン・ベルヘム - ロッテルダム中央 - デン・ハーグHS- アムステルダム中央 | 1957/06/02 - 1984/06/02 | |
| TEE 35/34 | フェデルブ Faidherbe |
パリ北 - リール - ルーベ - トゥールコワン | 1978/10/01 - 1991/05.31 | |
| TEE 17/16 | フリードリヒ・シラー Friedrich Schiller |
ドルトムント - シュトゥットガルト | 1979/05/27 - 1982/05/22 | |
| TEE 19/18 | ガンブリヌス Gambrinus |
ドルトムント - ケルン - シュツットガルト | 1978/05/28 - 1983/05/28 | 運行開始時は ハンブルク - ケルン - シュツットガルト - ミュンヘン。 |
| TEE 36 | ガヤン Gayant |
パリ北 - ドゥエ - リール - ルーベ - トゥールコワン | 1978/10/02 - 1986/05/30 | |
| TEE 51/50 | ゲーテ (初代) Goethe (I) |
フランクフルト・アム・マイン中央 - メス - パリ東 | 1970/05/31 - 1975/05/31 | |
| TEE 25/24 | ゲーテ (2代目) Goethe (II) |
フランクフルト・アム・マイン中央 - デュッセルドルフ | 1978/05/27 - 1983/05/28 | 1982/09/25までは フランクフルト - ドルトムント |
| TEE 57/58 | ゴッタルド Gottardo |
チューリッヒ空港 - チューリッヒ中央 - ミラノ中央 | 1961/07/01 - 1988/09/24 | 運行開始時はチューリッヒ中央 - ミラノ中央。その後バーゼル - チューリッヒ - ミラノ、バーゼル - ミラノ - ジェノヴァなど |
| TEE 29/28 | ハインリッヒ・ハイネ Heinrich Heine |
フランクフルト・アム・マイン中央 - ドルトムント | 1979/05/27 - 1983/05/27 | |
| TEE 73/72 | ヘルヴェティア Helvetia |
チューリッヒ中央 - フランクフルト・アム・マイン中央 - ハンブルク=アルトナ | 1957/06/02 - 1979/05/26 | |
| TEE 85/80 | イル=ド=フランス L'Ile de France |
パリ北 - ブリュッセル南 | 1957/06/02 - 1987/05/30 | 1984年6月2日まではパリ北 - ブリュッセル南 - アムステルダム中央 |
| TEE 91/92 | イリス Iris |
チューリッヒ - バーゼルSBB - ストラスブール - ルクセンブルク - ブリュッセル南 | 1974/05/26 - 1981/05/30 | |
| TEE 31/30 | ジュール・ヴェルヌ Jules Verne |
パリ(モンパルナス) - アンジェ - ナント | 1980/09/28 - 1989/09/22 | |
| TEE 61/62 | クレベール Kléber |
パリ東 - ナンシー - ストラスブール | 1971/05/23 - 1989/05/27 | |
| TEE 24/25 | レマノ Lemano |
ミラノ中央 - ジュネーヴ・コルナバン | 1958/06/01 - 1982/05/22 | |
| TEE 46/47 | リーグレ Ligure |
ミラノ中央 - モナコ - ニース - カンヌ - マルセイユ・サン・シャルル - アヴィニョン | 1957/09/12 - 1982/05/22 | 1969年5月31日まではミラノ - マルセイユ |
| TEE 13/12 | リヨネ Le Lyonais |
パリ・リヨン - リヨン・ペラーシュ | 1969/02/09 - 1976/09/25 | |
| TEE 84/85 | メディオラヌム Mediolanum |
ミラノ中央 - ミュンヘン中央 | 1957/10/15 - 1984/06/02 | |
| TEE 79/86 | メムリンク Memling |
パリ北 - ブリュッセル南 | 1974/09/29 - 1984/05/30 | |
| TEE 35/34 | メルクール Merkur |
シュトゥットガルト - ケルン - ハンブルク - コペンハーゲン | 1974/05/26 - 1978/05/27 | |
| TEE 11/10 | ル・ミストラル Le Mistral |
パリ・リヨン - リヨン・ペラーシュ - マルセイユ・サン・シャルル - カンヌ - ニース | 1965/05/30 - 1981/09/26 | |
| TEE 15/14 | モン・スニ Le Mont Cenis |
リヨン・ペラーシュ - トリノ・ポルタ・ヌオーヴァ - ミラノ中央 | 1957/06/02 - 1972/09/30 | |
| TEE 41/40 | モリエール (旧名: パリ-ルール) Molière (ex Paris-Ruhr) |
パリ北 - モーブージュ - リエージュ - ケルン中央 | 1957/06/02 - 1979/05/26 | 1973年6月3日「パリ-ルール」から改名 1975年5月31日まではパリ - ケルン - デュッセルドルフ |
| TEE 89/80 | オワゾ・ブルー L'Oiseau Bleu |
パリ北 - サン=カンタン - ブリュッセル南 - ブリュッセル北 | 1957/06/02 - 1984/06/02 | 1965年5月27日まではパリ北 - ブリュッセル南 |
| TEE 33/32 | パルジファル Parsifal |
パリ北 - ケルン - ドルトムント - ハンブルク=アルトナ | 1957/09/29 - 1979/05/26 | 1960/05/28まで : パリ - ドルトムント 1960/05/29 - : パリ - ハンブルク 1960年5月29日から1971年5月22日まではドルトムントを経由せず、同5月23日から1971年9月25日まではパリ行きのみドルトムント経由。 |
| TEE 27/26 | プリンツ・オイゲン Prinz Eugen (II) |
ハノーファー中央 - ケルン - フランクフルト・アム・マイン中央 - ウィーン西 | 1971/09/26 - 1978/05/27 | 1976/05/29まで : ブレーメン - ハノーファー - ウィーン |
| TEE 10/11 | レンブラント Rembrandt |
シュトゥットガルト - アムステルダム中央 | 1967/05/28 - 1983/05/27 | 1980年5月31日まではミュンヘン - シュツットガルト - アムステルダム |
| TEE 6/7 | ラインゴルト Rheingold |
アムステルダム中央 - バーゼルSBB - ジュネーヴ・コルナバン | 1965/05/30 - 1987/05/30 | 1979年5月26日まではフーク・ファン・ホラント発着編成を含む。 |
| TEE 16/17 | (アムステルダム -) マインツ中央 - シュツットガルト - ミュンヘン (多層建て列車) |
1982/05/23 - 1987/05/30 | 1985年9月28日まではマンハイムで分割、ミュンヘンまでの経路が異なる。一時ザルツブルクまで延長。 | |
| TEE 26/27 | ラインプファール Rheinpfeil |
ドルトムント - フランクフルト・アム・マイン中央 - ミュンヘン | 1965/05/30 - 1971/09/25 | |
| TEE 75/74 | ローラント (初代) Roland (I) |
ブレーメン - バーゼルSBB - ミラノ中央 | 1969/06/01 - 1979/05/26 | |
| TEE 91/90 | ローラント (2代目) Roland (II) |
ブレーメン - フランクフルト・アム・マイン中央 - シュトゥットガルト | 1979/05/28 - 1980/05/31 | |
| TEE 81/84 | ルーベンス Rubens |
パリ北 - ブリュッセル南 | 1974/09/29 - 1984/06/03 | |
| TEE 17/16 | ロダニアン Le Rhodanien |
パリ・リヨン - アヴィニョン - マルセイユ・サン・シャルル | 1971/05/23 - 1978/09/30 | |
| TEE 20/21 | サフィール Saphir |
フランクフルト・アム・マイン中央 - ブリュッセル南 | 1957/06/02 - 1979/05/26 | -1958/05/31 : ドルトムント - ケルン中央 - ブリュッセル南 - オーステンデ 1958/06/01-1966/05/21 : フランクフルト - ブリュッセル南 - オーステンデ |
| TEE 63/62 | スタニスラス Stanislas |
パリ東 - ナンシー - ストラスブール | 1971/05/24 - 1982/09/25 | |
| TEE 57/56 | ティチノ Ticino |
チューリッヒ中央 - ミラノ中央 | 1961/07/01 - 1974/05/25 | |
| TEE 22/23 | ヴァン・ベートーヴェン (旧名: ライン・マイン) Van Beethoven (ex Rhein-Main) |
フランクフルト・アム・マイン中央 - ケルン中央 - アムステルダム中央 | 1957/06/02 - 1979/05/26 | 1972年5月28日「ライン-マイン」から改名 |
| TEE 95/94 | ヴェスヴィオ Vesuvio |
ミラノ中央 - ローマ・テルミニ - ナポリ | 1973/09/30 - 1987/05/30 | |
| TEE 39/38 | ヴァトー Watteau |
パリ北 - リール - トゥールコワン | 1978/10/02 - 1991/05/31 | |
| TEE 1001/1002 | ルフトハンザ・エアポート・エクスプレス Lufthansa Airport Express LH 1001/2 |
フランクフルト・アム・マイン国際空港 - デュッセルドルフ国際空港 | 1982/03/27 - 1993/05/22 | |
| TEE 1003/1004 | ルフトハンザ・エアポート・エクスプレス LH 1003/4 |
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| TEE 1005/1006 | ルフトハンザ・エアポート・エクスプレス LH 1005/6 |
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| TEE 1007/1008 | ルフトハンザ・エアポート・エクスプレス LH 1007/8 |
- 「ルフトハンザ・エアポート・エクスプレス」は正式なTEEではなかったが、ダイヤ上ではTEEの列車番号が割り当てられていた。
[編集] 脚注
[編集] 注釈
- ^ 金サンチームは金フラン(金本位制時代のフランス・フラン)の100分の1
- ^ 西ヨーロッパの鉄道は1956年に三等級制から二等級制に移行しており、ここでの一等車は旧一等車と旧二等車を統合したものである(Koschinski 2007, p. 14)。なおデン・ホランダーの最初の提案では旧制度の二等車は連結しないことになっていた(Mertens & Malaspina 2007, p. 6)。
- ^ モナコには独自の鉄道組織がなくその鉄道はフランス国鉄が運営していた。
- ^ パリからアムステルダムへの日帰りはTEEイル・ド・フランスで行なうことができた。
- ^ これ以前のTEEの廃止、種別変更はラインプファイル(1971年)、モン・スニ(1972年)、ティチノ(1974年)の3例があるが、これらは新種別の設定や車両運用の都合などによるものであり、利用の低迷を主な理由として廃止されたのはゲーテが初である。
- ^ 1971年2月9日に、バヴァリア号として運転中、西ドイツ国内で制限速度80km/hのところを50km/h速度超過の130km/hで走行し、対向車線を走行していたレールバスに接触し、これを跳ね飛ばし、脱線転覆事故を起こした。死者28人、負傷者42人という大惨事であった。原因はブレーキ系統の凍結によるトラブルとされた。これ以後ブレーキ系統にヒーターを付けるなどして凍結防止の策が施された。
[編集] 出典
- ^ い ろ は に ほ 坂本 1958
- ^ 山之内 1981, p. 9
- ^ 植田 1978, p. 51
- ^ い ろ は に ほ へ 山之内 1981, pp. 9-15
- ^ 山之内 1981, pp. 20-24
- ^ Hanna-Daoud 2007
- ^ い ろ は に ほ Koschinski 2007, p. 22
- ^ い ろ は に ほ Mertens & Malaspina 2007, pp. 6-7
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 307
- ^ 窪田 1960.4
- ^ 植田 1978, p. 68
- ^ い ろ は に Mertens & Malaspina 2007, pp. 10-11
- ^ い ろ は Koschinski 2007, pp. 16-19
- ^ 植田 1978, pp. 50-53
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 67-68
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 187
- ^ い ろ 山之内 1981, pp. 31-36
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 44-45
- ^ Schönborn & Hanna-Daoud 2007
- ^ い ろ は Scharf & Ernst 1983, pp. 310-311
- ^ い ろ は Koschinski 2007, pp. 25-28
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 194-199
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 10-11
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 312
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 60-65
- ^ 窪田 1961
- ^ い ろ Mertens & Malaspina 2007, pp. 70-71
- ^ い ろ は Mertens & Malaspina 2007, pp. 16-17
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 86-91
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 228-233
- ^ い ろ Koschinski 2007, pp. 28-32
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 120-123
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 102-111
- ^ Mertens & Malaspina 2007, p. 162
- ^ い ろ Mertens & Malaspina 2007, p. 134
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 84-85
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 90-91
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 240-243
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 286-289
- ^ Koschinski 2007, pp. 43-44
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 18-19
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 250-253
- ^ Mertens & Malaspina 2007, p. 236
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 262-265
- ^ い ろ は に Mertens & Malaspina 2007, pp. 22-25
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 354-355
- ^ い ろ 山之内 1981, pp. 36-43
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 302-303
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 274-279
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 358-361
- ^ Scharf & Ernst 1983, p. 346
- ^ い ろ Mertens & Malaspina 2007, pp. 38-39
- ^ Koschinski 2007, p. 44
- ^ い ろ は 山之内 1981, pp. 48-51
- ^ い ろ Scharf & Ernst 1983, pp. 375-377
- ^ Scharf & Ernst 1983, pp. 346-348
- ^ Scharf & Ernst 1983, pp. 386-387
- ^ い ろ Mertens & Malaspina 2007, pp. 26-27
- ^ Koschinski 2007, pp. 48-50
- ^ い ろ は Mertens & Malaspina 2007, pp. 28-33
- ^ Malaspina 2006, pp. 16-19
- ^ Malaspina 2006, pp. 34-35
- ^ い ろ は Mertens & Malaspina 2007, pp. 34-35
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 170-171
- ^ い ろ Mertens & Malaspina 2007, pp. 36-37
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 398-399
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 68-69
- ^ Malaspina 2005, pp. 50-51
- ^ Mertens & Malaspina 2007, pp. 40-41
[編集] 参考文献
- Koschinski, Konrad (2007) (ドイツ語), Die TEE-Story (Eisenbahn Journal Sonder-Ausgabe 1/2007), Fürstenfeldbruck, Germany: Eisenbahn JOURNAL, ISBN 978-3-89610-170-9
- Malaspina, Jean-Pierre (2005) (フランス語), Train d'Europe Tome 1, La Vie du Rail, ISBN 2-915034-48-6
- Malaspina, Jean-Pierre (2006) (フランス語), Train d'Europe Tome 2, La Vie du Rail, ISBN 2-915034-49-4
- Mertens, Maurice; Malaspina, Jean-Pierre (2007) (フランス語), La légende des Trans-Europ-Express, LR Press, ISBN 978-2-903651-45-9
- Scharf, Hans-Wolfgang; Ernst, Friedhelm (1983) (ドイツ語), Vom Fernschnellzug nach Intercity, Eisenbahn-Kurier, ISBN 3-88255-751-6
- (Magazine) (2007). Mythos TEE - 50 Jahre Trans-Europ-Express -(BAHN EXTRA 2/2007 - März/April) (ドイツ語). München, Germany: GeraMond. ISBN 978-3-89724-189-3.
- Schönborn, H.-B.; Hanna-Daoud, T., “Der Weg Zum Trans-Europ-Express: die Jahre 1953-1957”, pp. 12 - 19
- Hanna-Daoud, Thomas, “Berufe im Trans-Europ-Express”, pp. 54 - 56
- 山之内秀一郎 『世界鉄道の旅』 大陸書房、1981年。ISBN 4-8033-0512-9。
- 『世界の鉄道 国際特急』 植田信行 監修、徳間書店〈カラーバックス〉、1978年。
- 坂本祐一 (1 1958), “欧州特急 TRANS EUROP EXPRESS”, 鉄道ピクトリアル (鉄道図書刊行会) 8 (1): 16-17
- 窪田太郎 (4 1960), “トランス・オイロープ・エクスプレス(TEE)印象記”, 鉄道ピクトリアル (鉄道図書刊行会) 10 (4): 55-57
- 窪田太郎 (5 1960), “トランス・オイロープ・エクスプレス(TEE)印象記(続)”, 鉄道ピクトリアル (鉄道図書刊行会) 10 (5): 28-29
- 窪田太郎 (11 1961), “トランス・オイロープ・エクスプレス(TEE)の交直両用電車”, 鉄道ピクトリアル (鉄道図書刊行会) 11 (11): 25-27
[編集] 関連項目
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