アール・エフ・ラジオ日本
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| アール・エフ・ラジオ日本 Radio Nippon Co.,LTD. |
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|---|---|
| 放送対象地域 | 神奈川県 |
| 系列 | 独立系 |
| 略称 | RF |
| 愛称 | ラジオ日本 |
| コールサイン | JORF |
| 開局日 | 1958年12月24日 |
| 本社 | 〒231-8611 神奈川県
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| 演奏所 |
本社及び東京支社 2丁目2番1号 麻布台ビル |
| 親局 / 出力 | 横浜(川崎幸放送局) 1422kHz / D50kW |
| 主な中継局 | 小田原 1485kHz |
| 公式サイト | http://www.jorf.co.jp/ |
| 特記事項:番組の殆どは東京支社から放送されている。 | |
| 種類 | 株式会社 |
|---|---|
| 略称 | RF |
| 本社所在地 | 〒231-8611 神奈川県横浜市中区長者町5丁目85番地 明治安田生命ラジオ日本ビル |
| 電話番号 | 045-231-1531 |
| 設立 | 1958年(昭和33年)8月15日 (株式会社ラジオ関東として設立) |
| 業種 | 情報・通信業 |
| 事業内容 | 一般放送事業など |
| 代表者 | 代表取締役社長 新井修一郎 |
| 資本金 | 1億円(2005年4月1日現在) |
| 従業員数 | 37人(2005年4月1日現在) |
| 主要株主 | 日本テレビ放送網、神奈川新聞社、三菱商事、東芝、東日本電信電話(NTT東日本)など |
| 主要子会社 | ラジオ日本クリエイト ラジオ日本音楽出版 |
| 関係する人物 | 河野一郎、遠山景久、小林與三次 |
| 外部リンク | http://www.jorf.co.jp/ |
| 特記事項:1981年10月1日に株式会社ラジオ関東から商号変更。 同局では、送信所・中継局を放送局と称する。 |
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株式会社アール・エフ・ラジオ日本(アール・エフ・ラジオにっぽん)は、神奈川県所在のラジオ放送局。通称ラジオ日本、旧局名ラジオ関東。長期にわたる聴取率低迷と経営の混乱から、日本テレビの資本参加を受け事実上同局の傘下に入った。日本テレビの公式サイトでも「日本テレビ系ラジオ中波放送」として紹介され、中堅アナウンサーが輪番制で当局に出向するなど、関係が強化されている。
目次 |
[編集] 概説
- 神奈川県の県域放送免許であるが、受信が困難な地域はあるものの、実際には関東平野一円に電波が届いており、事実上の本社・演奏所は東京都内にある。このため越境受信が政治的に問題化し、1971年・1981年の増力時に郵政省の行政指導を受け、川崎幸放送局から西側に指向性を持つように空中線を改造し、越境受信を難しくさせた。周波数が隣接するKBCラジオ(1413kHz)、ぎふチャン(1431kHz)などの放送区域では、夜間でも地元局が停波しない限り、ほぼ受信不可能である。
- 独立ラジオ局であるが、ラジオ関西、ぎふチャン(岐阜放送)と提携して番組を相互供給している。単一の新聞社グループに属さないながらも、実態はネットワークに近く、「名前のない(無名)ネット」ともいわれる。これら「無名ネット」3局は、いずれもAMステレオ放送開始の予定がない。かつては極東放送(現:FM沖縄)ともネットを組んでおり、この4地区(神奈川県・兵庫県・岐阜県・沖縄県)のみの天気予報を放送していた時期もある。
- 時報は電子音で「ソ・シ・ソ――ポーン」。1989年頃までは「ソ・シ・ソ」の部分がチューブラーベルの演奏であった(文化放送の1979年までの時報と同様)。時報広告は少なく、平日午前9時の宝くじや土曜・日曜の午後1時等、散発的に聞かれるのみである。時刻案内もまれに女性の声で「○時をお知らせします」とある程度で、多くはされない。
- 1958年から1964年まで、東急東横線の乗客向けに鉄道無線を使用して車内でニュースを放送していた。
- 1977年に読売新聞社と後楽園球場での巨人戦ラジオ中継独占契約を締結し、読売新聞や同社系列局の日本テレビとの関係が強化された結果、ニュース番組は、毎日夕方の「京浜ニュース」(神奈川新聞社配給、-2003年9月)を除き、読売新聞から配給を受けるようになった。それまでは毎日新聞社[1][2][3]からニュース提供を受けていた。
- 1980年代初頭まで、毎年夏休みに「夏だ!三浦だ!サマーフェスティバル」を、三浦海岸の特設会場で京浜急行と共催していた。7月下旬-8月初旬の期間中は、アイドルや演歌歌手の歌謡ステージが日替わりで催され、その模様を平日昼時に公開生中継していた。京浜急行は、品川発三浦海岸行臨時列車「ミュージックトレイン」(同局で同名の帯番組が存在)を運行した。会場に向かう出演者が、ファンサービスとして、その臨時列車に同乗する場合もあった。
- 1981年7月20日に小田原支局を開局、同年10月1日に本局の出力を30kWから50kWに増力したことに伴い、局名・社名を「ラジオ日本(ニッポン)」に変更する旨発表。局名公募はあくまで表向きで、実際には当時の遠山景久社長の強い意向だった。中吊り広告などで「決定的瞬間 ラジオ日本誕生」と広告していたが(10月以降、テレビCMも放送された)、長年NHKが国際放送に「ラジオ日本(ニッポン)」の名を用いており、世界的に知名度が高かったため、NHKが善処を申し入れたものの、遠山が拒否した。やむなくNHKは、「ラジオ日本(ニッポン)」を同年5月に商標登録出願し、遠山に「ラジオ日本(ニッポン)」の名称使用を禁じた。更にニッポン放送も、名称が酷似して聴取者を混乱させると不正競争防止法違反で告訴したため、苦肉の策として社名の頭にコールサインの一部である「アール・エフ(RF)」を付けざるを得なくなった(前述の広告でも、一部でニッポン放送の社名変更と勘違いされていた)。
- 小田原放送局では、平日日中に本局とは別内容のローカルワイド番組を放送(制作は横浜本社)している。
- フジサンケイグループ各紙(産経新聞、サンケイスポーツ、夕刊フジ)の番組欄では、名称を「RFラジオ日本」としている。同じフジサンケイグループのフジサンケイビジネスアイとSANKEI EXPRESSは、ラジオ・テレビ欄でアール・エフ・ラジオ日本を割愛している(他の在京民放ラジオ3局と、同じ県域放送局のテレビ神奈川を始め、東京・千葉・埼玉の独立UHF放送局は掲載)。 在京他紙は「ラジオ日本」、中日新聞の長野県版と静岡県版は「ラジオ日本RF」と記載。なお、新聞各紙の番組表に掲載されている問い合わせの電話番号は横浜本社ではなく、東京支社の番号である。
[編集] 「社会の木鐸」(ぼくたく)宣言
- ラジオ関東は、開局以来『洋楽のラジ関』の通称で親しまれ、洒脱た雰囲気、輸入レコード盤[4]による洋楽に関するオンエアー数から、団塊世代の若年層を中心に人気を博していた。
- その後も女性アイドル番組など幅広く扱っていたが[5]、創業に尽力した河野一郎の意を受けて経営にあたった遠山景久社長(当時)は、巨人戦ホームゲーム独占中継権獲得(1977年)を笠に着て、ワンマン体制を強化しており、1982年には、「社会の木鐸」宣言を行い、若者向け番組を敵視し大幅に削減。反共色の濃い論説や演歌を多く流す、中高齢層対象番組中心に編成を一変させ、職業運転手や一部保守的リスナー層に浸透した一方で、全体的には大幅な聴取率低下を招いたため、多くのスポンサーが撤退し、経営悪化が深刻になった。
- 神奈川の県域放送免許にもかかわらず、関東平野一円(特に東京都)で聴取できる実態があり、遠山時代には東京支社に社員の9割が配置されるなど、実質的な本社・演奏所として機能していた。1986年に横浜市土地開発公社が払い下げた、横浜市中区の公有地(現在の登記上の本社所在地)が、「地元の放送は防災公報等の公共性がある」ことを考慮して、実勢価格の半額以下で任意譲渡されたにも関わらず、建築計画には放送設備もアンテナ塔も無い、単なるテナントビルである事が暴露され、慌てて放送設備等を備えた計画に変更されるなど、社会的非難を浴びる問題も生じた。しかし会長として従前権勢を揮っていた遠山は、大喪の礼前後の歌舞音曲自粛を経た1989年4月以降、若者向け番組の完全排除に踏み切る。この影響で『林原めぐみのHeartful Station』が開始間もない1991年7月に突如打ち切り(制作局をラジオ関西に移し、ラジオ日本以外で番組を続行)になった。
- 遠山は、意に沿わぬ局員を徹底的に左遷・解雇し、アナウンサーをキーパンチャーに異動して告訴されたり、管理職研修を自衛隊で行ったり、最盛期には150名以上居た社員を30数名まで減じるなど、恐怖政治的な人事・労務策を敢行したが、長年の遠山独裁に不満を募らせていた遠山以外の同局幹部が諮って、1993年12月21日に取締役会全会一致で、遠山を「公共の電波を預かる放送会社の代表として相応しくない」という理由で電撃解任し、ワンマン体制に終止符が打たれた。本人が遅刻するにも関わらず、取締役会は定時に開催すべしとの遠山からの連絡を受け、その間に緊急発議で実現した解任劇だった。これに先立つ同年3月、同局は巨人戦ホームゲーム独占中継権を失って、遠山は主要提携先の読売新聞社から見放された形になっており、経営破綻は時間の問題だった。後任社長には、外部から解任劇を筋書きした小林與三次と同様に、読売新聞・日本テレビ出身の外山四郎が就いた。外山は遠山の負の遺産の整理を進め、翌年2月には乱脈経営で会社に損害を与えたとして遠山を告訴して遠山の土地・家屋を差し押さえ、また一族所有の同局株式を日本テレビに譲渡させて、事実上、日本テレビの傘下に納めたことで、混乱に一応の終息を見た。
[編集] 放送局概要
- 横浜本社 〒231-8611 神奈川県横浜市中区長者町5丁目85番地 明治安田生命ラジオ日本ビル
- 東京支社 〒106-8039 東京都港区麻布台二丁目2番1号 麻布台ビル
- 演奏所 東京支社、横浜本社 (廃止)小田原支局
- 代表取締役社長 新井修一郎
- 放送時間 05:00起点の24時間放送(放送機器メンテナンスのため、日曜深夜01:30-05:00は休止)
- 主要株主 日本テレビ放送網、三菱商事、東芝、東日本電信電話、横浜倉庫、神奈川新聞社、日本テレビ放送網文化事業団、日本テレビ系列愛の小鳩事業団 他
[編集] 送信所
- 同局では、送信所・中継局を放送局と称する。
- 川崎幸放送局 1422kHz 50kW JORF
- 小田原放送局 1485kHz 100W JORL
- 本局(川崎幸放送局)の電波が届きにくい県南西部を補完し、また特に海水浴シーズンの渋滞情報を伝える目的で、1981年7月20日に開局した。
- 「RADIO WEST」の通称を用い、平日午後に本局とは別のローカルワイド番組(小田原支局廃止後は横浜本社制作)を放送中。それ以外の時間帯は本局を中継している。
- 開局当初は小田原駅前にローカル番組用スタジオ(小田原支局)を擁していた。
- その後酒匂川河畔に送信所を独立させ、支局は廃止した。周波数、出力、コールサインは変わっていない。
- 野毛山放送局(野毛山無線基地=非常用予備送信所) 1422kHz 1kW JORF
[編集] 沿革
- 1958年8月15日 - 株式会社ラジオ関東 設立(ラジオ神奈川、湘南放送、神奈川放送の免許申請を一本化。河野一郎の政治力が強く働いた)。
- 1958年12月24日 - 放送開始(1480kc, 1kW) 全国40番目の開局 ※kc(キロサイクル)は現在のkHz(キロヘルツ)と同義
- 1959年10月 - 10kWに増力
- 1960年3月2日 - 市立横浜公園体育館で、ラジオ関東主催『歌謡曲ゴールデン・ヒット・ショー』公開録音の開門時に、将棋倒し事故発生。死者12名、重軽傷者14名。
- 1960年6月15日 - 安保反対デモを実況中の島碩弥アナウンサーが、鎮圧に投入された機動隊員に殴打される模様が生中継されたため、多くの聴取者に安保闘争の実態を知らしめた。
- 1964年 - 東京支社を中央区銀座から港区麻布台の麻布台ビルに移転。この頃から、実質的な本社機能を横浜から東京へ移転させる。
- 1965年9月18日 - 台風取材中のラジオカーが晴海埠頭から東京湾に転落。記者・アナウンサー6名水死
- 1966年10月3日 - 日本初の終夜番組『オールナイト・パートナー』放送開始
- 1968年4月 - 周波数を1420kcに変更
- 1971年12月 - 30kWに増力すると同時に、指向性アンテナに改造
- 1974年10月 - 『横浜音楽祭』開始(在京ラジオ局による歌謡賞レース序盤の重要な大会であった)。
- 1977年11月 - 読売新聞社と後楽園球場での巨人戦ラジオ中継独占契約を締結
- 1978年1月 - ニュース提供を毎日新聞社から読売新聞社に変更(神奈川新聞社の「京浜ニュース」を除く)
- 1978年11月23日 - 国際電気通信連合(ITU)の取り決めで周波数が9kHzステップへ移行。それに伴い、午前5時を以って周波数を1422kHzに変更。
- 1981年7月20日 - 小田原放送局(中継局、100W)開局
- 1981年10月1日 - 現社名に変更すると同時に、川崎幸放送局(送信所)を50kWに増力。郵政省の行政指導を受けアンテナの指向性を強めたため近距離不感地帯が拡大し、営業にも悪影響が及んだ。
- 1982年4月 - 「社会の木鐸」宣言(硬派路線に転向。アイドル、ポップス番組を削減)
- 1989年4月 - 若者向け番組を完全に排除
- 1990年 - 「大人の放送局」を編成の基本方針とし、50歳以上の聴取者をメインターゲットとする
- 1991年11月2日 - 落雷による停電で川崎幸放送局が停波したが、自家発電装置が自動起動せず、更に道路渋滞で技術部員の到着が遅れ、2時間近く停波。郵政省等の監督官庁から厳重注意処分を受ける。
- 1991年 - 大林雅美のレギュラー番組を予告なく突如打ち切る。舌禍が原因。
- 1993年3月 - 独占していた巨人戦ホームゲームの中継権がTBSラジオとニッポン放送にも開放されたため、聴取率低下が深刻化し経営を圧迫
- 1993年12月 - 遠山景久会長を解任(取締役会によるクーデター、小林與三次が主導)
- 1994年 - 遠山一族所有のラジオ日本株式を日本テレビが買い取り、連結会社とする。川崎幸放送局の送信機をフルデジタル化
- 1996年10月 - 明治生命ラジオ日本ビル落成に伴い、本社を横浜市西区老松町から現住所に移転。本社制作番組を増やしたが、一時的なものに終わった。キャッチコピーは「ハマって楽しくラジオ日本」
- 1998年 - 開局40周年。「WITH YOU 40」をキャッチコピーに展開(「WITH YOU」自体は2003年頃まで使用)。
- 1998年3月24日 - 『せんだ光雄の世紀末伝説』を予告なく突如打ち切る。
- 1999年6月27日 - 『日曜競馬実況中継』放送中に、川崎幸放送局が遠隔制御装置の故障で1時間半に亙って停波。担当者は社外の2000年問題対策研修会に全員出払っていたため、早急に復旧できなかった。一部で暴動・パニックも起き、抗議が殺到。郵政省等から再度厳重注意処分を受ける。
- 2000年12月1日 - BSデジタル放送開始に伴い、BS日テレラジオの制作を担当。ch.444にて「ヒーリングステーション」、445にて「衛星版ラジオ日本(地上波サイマル中心)」を制作。
- 2001年3月26日 - 開局日以来43年間続いていた平日夜の超長寿帯番組『京急ミュージックトレイン』が終了。
- 2001年9月12日 - アメリカ同時多発テロで各局が終夜特別報道体制を敷く中、唯一通常番組を録音放送。
- 2003年10月 - ターゲットを働き盛りの男性に絞り、「男のパワーステーション」のキャッチコピーを展開。
- 2003年12月9日 - 企業ロゴに日テレのマスコットなんだろうが加わった。
- コンビニのスリーエフと共同で「男のパワーアップ丼」などオリジナル商品を期間限定販売。
- 2005年10月 - ナイターオフの火曜-金曜19:30-21:30をラジ関RETURNSと題打ち、ラジオ関東時代に好評を博した「ポートジョッキー」、「全米トップ40」、「きのうの続き」の3番組を新装復活。
- 2005年-2008年 - 24時間テレビ 「愛は地球を救う」のチャリティーマラソンの様子を実況生中継。
- 2006年4月 - 千葉ロッテマリーンズホームゲーム(対巨人戦以外)の放送権獲得。「ラジオ日本ジャイアンツナイター」に加え、ラジオ日本マリーンズナイター開始。
- 2007年12月24日 - 開局50周年を前に、「ヒョッとして!?50年!」のキャッチコピーを展開、懐古番組を定期放送化。
- 2008年2月27日 - 日本クラウンと提携し「Radi-on(ラディ-オン)」レーベル設立。第一弾「パパス&ナチョス」デビュー。
- 2008年8月1日 - 緊急地震速報運用開始。在京ラジオ局各局から4ヶ月遅れての開始。
- 2008年12月23日 - 開局50周年となる12月24日を中心に50時間の連続特番を放送。
- 2009年8月4日 - ザ・ホットライン東京わがままモーニング担当だった片桐八千代が局との方針の違いを理由に突然降板。
[編集] 番組
いわゆる「社会の木鐸」宣言以降の異常さからは近年は落ち着いて来ているが、相変わらず毎月番組の突然の打ち切りや時間移動は絶えず「毎月が改編期」と言えるような不安定な編成が続いている。突然の打ち切りなどに関してはInter FMも同じような状況である。
極端なケースではタイムテーブルや公式サイト上の「本日の番組」並びに放送中番組名表示の変更が間に合わず、終了した番組名が表示されることもしばしばある。
なお、前述の通り、実質的な本社機能を東京支社が担っていることもあり、生ワイド番組を含め、自社制作の殆どの番組は東京支社スタジオからの送出となっている。横浜本社では、平日午前ワイド、小田原放送局向け平日午後ワイドの送出や、本社ビル1階に設けられたイベントホールでの公開録音などに限られている。
[編集] 所属アナウンサー
- 男性
- スポーツ実況・報道他全般(★…中央競馬実況中継は担当しない)
- 女性
(全て契約アナ)
[編集] 元アナウンサー
- 男性
- 窪田康夫(1958年-?、文化放送から移籍)
- 島碩弥(1958年-1995、山陰放送から移籍)
- 木島章夫(1958年-?、九州朝日放送から移籍)
- 永井敬二
- 加賀佑治
- 長崎節
- 大林晃(現 東京アナウンスアカデミー校長)
- 林洋右(1960年-?)
- 樋口忠正(1961年-1998年定年後も引き続き競馬中継に出演していたが、 2008年6月1日日本ダービー実況をもって競馬実況から引退。競輪実況は継続中)
- 田島喜男(-2003年、ラジオたんぱから移籍)
- 竹脇義果
- 内藤幸位(1962年-2000年)
- 早川建二(1964年-2002年)
- 橋本文雄(晴海埠頭への台風取材中に事故死)
- 浅木勝(1965年-2001年)
- 坂井隆夫(1965年-?)
- 工藤健策(1965年-?)
- 山田透(1975年-1983年、ニッポン放送へ移籍、後フリー、2000年-2003年一時復帰)
- 武田肇(1975年-?)
- 染谷恵二(1978年-2005年3月、フリー)
- 山本剛士(1984-1990年代、ニッポン放送へ移籍)
- 仙田和吉(1992年-2001年、毎日放送へ移籍)
- 浅見源司郎(1993年-?、日本テレビより出向)
- 若林健治(1995年-1998年、2002年10月-2006年6月、日本テレビより出向、2007年12月・日本テレビ退職・フリー)
- 小倉淳(1998年-2000年、日本テレビより出向、2006年8月・日本テレビ退職・フリー)
- 山下末則(2007年-2008年日本テレビより出向。営業職兼務。定年のため2008年3月で退社し、現在はスピーチコンサルティング会社経営)
- 吉田填一郎(2003年-日本テレビより出向。2008年6月ラジオ日本営業局へ異動。現・常務取締役営業局長。)
- 加藤裕介(ラジオ福島から移籍、2009年7月でアナウンサー職から離脱。現・営業編成本部業務担当部長。)
- 女性
- 清水明江
- 安藤八重子(1958年-1990年)
- 森純子
- 青津ナナ子(1959年-1992年)
- 井口保子(1960年-1995年、日本初の競馬実況女性アナウンサー)
- 岡本美紀(1962年-?)
- 石倉辰子(1964年-?)
- 竹内満佐美(1964年-?、大相撲力士・雅山の母、旧姓不明)
- 林紀子(元日本共産党参議院議員)
- 深澤美津子(1969年-1990年)
- 塚本美也子(→東京MXテレビ→フリー)
- 大島典子(1995年-1997年、日本テレビより出向、その後『午後は○○おもいッきりテレビ』プロデューサーを務めた)
- 山下美穂子(2003年-2005年3月、日本テレビより出向、後に同局に復帰)
- 延友陽子(2005年4月-2006年9月、日本テレビより出向、後に同局に復帰)
- 金丸幸代(ラジオたんぱ契約アナ→RFラジオ日本報道契約アナ→フリーアナ)
[編集] アナウンサー以外の過去の在籍者
[編集] その他の神奈川県の放送局
[編集] 関連放送事業者
[編集] 外部リンク
[編集] 註
- ^ 看板番組のプロ野球中継でも、一部の曜日で大阪の毎日放送(MBS)とネットワークを組んでいた(-1965年)。
- ^ 毎日新聞社は、1951年に『ラジオ日本』なる名称で民間放送の開局を目指していたが、読売放送(読売新聞社系)、朝日放送(朝日新聞社系、大阪に現存する同名の放送局とは別法人)、東京放送(電通系)の競願各社と行政指導で一本化され、『ラジオ東京』(後に東京放送、現在のTBSラジオ)として開局した。当然ながら計画頓挫したこの『ラジオ日本』と、現在のアール・エフ・ラジオ日本の間に関係は無い。
- ^ 毎日新聞社系列のRKB毎日放送(福岡県)が、東京支社に設置したスタジオの有効利用と関東地区への進出を目的に、神奈川県域放送での免許出願に向けて動いていた。結局、現在のアール・エフ・ラジオ日本に繋がる他社との競願に破れる形となり、RKBは関東地区進出を果たせずに終わってしまった。
- ^ イベントでラジオ日本が出展するブースには、決まって自慢の洋盤ジャケットコレクションが掲示される。
- ^ 「社会の木鐸」宣言以前は、愛川欽也、榊原郁恵、三橋美智也らがDJの、平日夜10時からの「電撃ワイド・ウルトラ放送局」がかなり話題になるなど、若年層向けの番組では、他局にひけをとらない人気があった。演歌歌手の三橋は初DJでノリ良い意外な一面を見せ、「フィーバー・フィーバー」の掛け声がカップラーメン「激めん」(東洋水産)CMにも用いられて”ミッチーブーム”を起こした。
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最終更新 2009年11月29日 (日) 11:48 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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