オースチン (自動車)

オースチン (自動車)の最新ニュースをまとめて検索!

Austin hood ornament

オースチンThe Austin Motor Company )はイギリスの自動車メーカー。傘下企業となったのちも自動車ブランドとして1987年まで使用された。現在、中華人民共和国の有力メーカー、南京汽車がその商標権を保持している。

目次

[編集] 歴史

[編集] ハーバート・オースチン時代(1905年-1941年)

1926 Austin 7 box saloon
1935 Austin 12 hp Ascot

ハーバート・オースチン(1866–1941)(のちハーバート卿)はウーズレー・ツール&モーター・カー・カンパニーの工場長で、ウーズレー社で1896年には自動車を製作していた。1905年にオースチン・モーター・カンパニー(The Austin Motor Company)をロングブリッジに設立し、のちウスターシャーに移る。(ロングブリッジは1911年にバーミンガムとなっている。) 最初の車は保守的な5リッター4気筒のチェーン駆動モデルで、5年間で約200台を生産した。第一次世界大戦中英国政府の調達を受け、大砲から飛行機まであらゆるものを製造し、2500人だった従業員は2万2000人へと増えた。これによりオースチンは大変な成長を遂げた。

戦後、ハーバート・オースチンは3620ccの20hp出力エンジンを中心としたワンモデル・ポリシーを掲げる。一つのエンジンで乗用車、商用車、そしてトラクターまでをも製作しようとした。しかし、膨れ上がった工場規模を満たすだけの需要は起きず、1921年に管財人の手に委ねられる。しかし、そこで金銭面を整理したのち会社は再び花開くことになる。1922年、1661ccトゥエルブ、続いてオースチン 7(セブン)が小型車市場に投入された。

「7(セブン)」は、低価格の小型で簡素な車で、かなり早い時代に大衆車市場を狙った車といえるものだ。この「7」は、ドイツのBMWの最初の自動車デキシー(Dixi)として、そして米国のバンタム(Bantam)、フランスのローザンギャール(Rosengart)がライセンス生産をした車でもある。日本のダット自動車が製作したダットソンは、ライセンスを受けていなかったが、「7」の車両デザインを使用し非常に似た車両となっている[1]。日産の社史では触れられていないがオースチンの社史では日産との関係があることが触れられている。[2]

1929年から1934年までは米国子会社がアメリカン・オースチン・カー・カンパニー(American Austin Car Company)として活動した。この会社は1937年から1941年にはアメリカン・バンタム(American Bantam)として再興している。

オースチン 7(セブン)により、最悪の恐慌時を切り抜け、1930年まで利益を確保し続けた。数多くのシリーズを生産し、順次オールスチールボディ、ガーリング製ブレーキ、シンクロメッシュ付きトランスミッションに切り替えられていった。エンジンだけがサイドバルブのままだった。1938年には、宿敵のモーリスからレナード・ロード(レナード卿:1896–1967)を役員に迎え入れる。1941年にハーバート・オースチンが亡くなるとロードは会長職に付く。

[編集] レナード・ロード時代(1941年-1967年)

第二次世界大戦中も、オースチンは車の製造を続ける一方で、トラックと飛行機も生産した。1944年には戦後型の車を発表し、1945年に生産を開始している。戦争直後のシリーズは1930年後半のものだったが、オースチン初の16hpOHVエンジンも搭載した。

1952年にナッフィールド・オーガニゼーションと合併しブリティッシュ・モーター・コーポレーション (BMC)となる。レオナルド・ロードがBMCでもトップとなり、オースチンは新会社での覇権を握った。ここでオースチン製エンジンがほとんどの車で使われるようになる。

[編集] 日産でのライセンス生産

また、1952年、日産自動車とオースチン車2000台をノックダウン生産しオースチン・ブランドで販売する契約を結ぶ。この契約には3年以内に部品すべてをローカライズ(日本国の視点では「国産化」)する条項も盛り込まれていた。A40にはデボン(Devon)、サマーセット(Somerset)、ケンブリッジ(Cambridge)の3世代があり、日産自動車はノックダウンでA40(サマーセット)を組立・販売した。

英国では1954年にA40サマーセットはモノコックボディ車となったケンブリッジで置き換えられていた。ケンブリッジはA40、A50、A55、A60と作られたが、日産自動車は1.5リットルエンジンのA50を選択、ノックダウン生産を継続し販売した。パーツは順次日本製に置き換えられ1956年からは全パーツ日本製となりA50は以後「完全国産化」されて販売されたが、当時の日本車としては超高級車だった。のちにセドリックが後継となる。

[編集] ミニ誕生

ミニ
モンテゴ

1956年、スエズ危機終結により石油の枯渇がささやかれると、ロードはアレック・イシゴニスに新車の開発を依頼、その結果、革命的といわれるMini(ミニ)が1959年に誕生する。

横置きエンジンでギアボックスをオイルパン内部に置きエンジンオイルで潤滑させる前輪駆動というMiniの考え方は1963年のオースチン・1100、1964年のオースチン・1800、1969年のオースチン・マキシ、1973年のオースチン・アレグロ、1980年のオースチン・メトロに至るまで貫かれている。

[編集] 混迷の時代(1968年-1995年)

1982年に、ブリティッシュ・レイランドオースチン・ローバー・グループと社名を変更。オースチンは「低価格ブランド」と位置づけられる。メトロ、マエストロ、モンテゴでのつくりの悪さと錆びの問題が悪評を呼び、オースチンのブランドは1987年に終息する。

なお1979年にオースチン・ローバー・グループは日本の本田技研と提携し、1980年代に入りトライアンフやローバーブランドでホンダのモデルをベースにしたバッジエンジニアリング車や共同開発車種を送り出した。

その後オースチン・ローバー・グループはローバー・グループへと名称を変更し、さらに1988年には経営権をブリティッシュ・エアロスペース・グループへと売り渡すこととなった。

[編集] BMW、南京汽車の傘下へ(1995年-)

オースチンの商標権は1995年に行われたローバー・グループの買収によりBMWに渡り、その後MGローバーに売却された。しかし、MGローバーの破綻により、現在では歴史的価値のあるロングブリッジの組立工場とともにオースチン・ブランドは、中華人民共和国南京汽車が所有するところとなっている。2006年5月の南京国際博覧会において、南京汽車のワン社長は「オースチンの名前はMGローバーモデルの改良版に使用するかもしれない、少なくとも中国国内市場では」と語っている。

[編集] 車種一覧

[編集] 参照

  1. ^ en:Austin 7
  2. ^ [1]1932年型ダットソン・クーペ

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年6月27日 (土) 15:46 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【オースチン (自動車)】変更履歴

ご利用上の注意