グループB

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グループBは、自動車レースのカテゴリーの1つ。1981年FIA(国際自動車連盟)の下部組織だったFISA(国際自動車スポーツ連盟)によって、それまで1から8の数字によって形成されていたレギュレーション(国際スポーツ法典・付則J項)を改正し、AからF・N・Tという8つのアルファベットへ簡略化されたものの1つである。

グループBは、それまでのグループ4の後継にあたるカテゴリーである。競技専用の自動車であるグループC車両とは異なり、一般の市販車として公認された自動車に大幅な改造を施せるものがグループB車両である。

目次

[編集] 概要

グループBは、WRC(世界ラリー選手権)のトップカテゴリーとして定められていた。1982年は移行期間としての試験導入が行われ、この年は新旧両レギュレーショングループが入り混じって選手権を競った。グループBが全面施行されたのは1983年からである。

グループBでは、連続する12か月間にベース車を200台製造することにより選手権への出走が認められる、すなわちホモロゲーションを受けられるというカテゴリーであった。これは従来のWRCのトップカテゴリーであったグループ4規定が連続する24か月間にベース車を400台生産することを義務付けていたことを考えると、マニュファクチャラーへの大幅な負担軽減措置である。
FISAによるこれらの規定変更は、1970年代の石油危機を契機に選手権参戦から遠ざかりつつあった各マニュファクチャラーに対して選手権への参戦を促す措置であったが、FISAの当初の目論見通り、各マニュファクチャラーがこぞってWRCに参戦することとなる。

後に明記された項目として、実際にワークスカーとして選手権に参戦する車両となるエボリューションモデル20台をラリーカーとして認める、という文章が追加された。
この規定を最大限広くとらえた各社ワークス、特にトップクラスの技術を持つワークスの手により、グループBでの選手権は実質限りなくプロトタイプスポーツカーに近い車両で行なわれることとなった。

[編集] グループBカーが活躍した当時のWRC史

[編集] 1982年

グループ4とグループBの混走となった移行期間の1982年シーズンの台風の目となったのは、WRCの世界にヨーロッパメーカーとしては初めてターボ過給エンジンと4WDを持ち込んだアウディ・クワトロであった。4WD車といえばジープのような車両という概念しかなかった当時、現在では当たり前となった4WD乗用車をアウディラリーの世界に持ち込んできた。アウディ・クワトロはグラベル(未舗装路)・アイスバーンでは圧倒的な強さを見せつけ、ハンヌ・ミッコラ、ミシェル・ムートン、スティグ・ブロンクビストのドライブで快進撃を見せた。特にミシェル・ムートンはこの年、ポルトガルラリー、アクロポリスラリー、ブラジルラリーで3勝を挙げ、ドライバーズタイトルにもあと1歩という好成績を挙げた。なお、モータースポーツの世界選手権で女性ドライバーとして優勝経験があるのは、現在においても彼女だけである。
この混沌とした移行期間を制したのは、マニュファクチャラーは4WD革命を引き起こしたアウディだったが、ドライバーはグループ4車両のオペル・アスコナ400を駆るワルター・ロールと、混走の年を象徴する結果となった。一方ランチアはいち早くグループB規定に合致させたランチア・ラリー037を投入した。

[編集] 1983年

真の意味でのグループB元年である1983年シーズンは、ランチアはアウディに対抗すべくドライバーに前年の世界チャンピオンであるワルター・ロールのほか、マルク・アレン、アッテリオ・ベッデガを起用し、アウディ・クワトロに挑んだ。1983年はアウディ・クワトロとランチア・ラリー037の一騎打ちとなる。
この年、ランチアチームとアウディチームはそれぞれ5勝を挙げ、文字通り互角の戦いを見せるが、わずか2ポイント差でマニュファクチャラーズタイトルはランチアが手中にした。ドライバーズタイトルはアウディのハンヌ・ミッコラが獲得し、まさに互角のシーズンを締めくくった。
互角の戦いではあったものの、ワルター・ロールをはじめ、ランチアチーム関係者はもはや4WDでなくては勝てない、という実感を持つこととなる。

[編集] 1984年

グループBの大きな転換期と言えるのが1984年シーズンだった。1983年-1984年のオフシーズンにランチアのエースドライバーであるワルター・ロールは、もはや後輪駆動では勝負にならないと判断し、ライバルのアウディに移籍して周囲を驚かせた。
前年はアウディ・クワトロと互角の戦いを演じたランチア・ラリー037であったが、熟成の進んだアウディの前には勝負にならず、序盤はアウディの独擅場であった。この年、ランチア・ラリー037はわずかにフルターマック(競技区間のすべてが舗装されているラリー)のツール・ド・コルスの1勝にとどまる。
アウディは順調に勝ち星を積み上げ、この年のマニュファクチャラーズタイトル、スティグ・ブロンクビストのドライバーズタイトルをシーズン半ばにしてほぼ決めてしまう。ツール・ド・コルスには進化型のショートホイールベースを有するアウディ・スポーツ・クワトロを投入し、もはやアウディにはラリーの世界では敵無しと思われたが、ツール・ド・コルスには新たなエントラントが名を連ねていた。
プジョー1985年シーズンから完全参戦を目指して送り込んできたのは、革新的なレイアウトを有するプジョー・205ターボ16であった。外見こそは1983年に発表された市販車であるプジョー・205の形をしていたが、ターボで過給されたエンジンをリアミッドシップに横置きし、車体はセミパイプフレームとケブラー樹脂で構成され、駆動は4WDと、全く別物の怪物マシンであった。初参戦となったツール・ド・コルスは、水溜りに足をすくわれてリタイヤするまでトップを快走し、周囲を驚かせた。
プジョーはドライバーに1981年の世界チャンピオンであるアリ・バタネンを起用したが、1984年シーズンは途中参戦ということもあり、データ収集のためのテスト参戦であった。しかし、アリ・バタネンは1000湖ラリー、サンレモラリー、RACラリーとシーズン後半を3連勝し、それまで圧倒的な強さを誇っていたアウディを全く寄せ付けなかった。

[編集] 1985年

1985年は、前年後半に快進撃を見せたプジョーが圧倒的な強さを見せて、シーズンを制した年であり、同時にグループBの危険性が表面化し始めた年でもあった。
この年、プジョー・205ターボ16は7勝を挙げて早々にチャンピオンシップを獲得し、ドライバーズタイトルも日産から移籍してきたティモ・サロネンが5勝を挙げて獲得。WRCを完全制覇した。

この年からワークスカーのエンジン出力が、従来の300馬力前後から450馬力-600馬力前後までにパワーアップし、空力特性を上げるためのさまざまなエアロパーツが付加されるようになり、まさに戦闘機という形容がふさわしいいでたちとなっていく。1tそこそこの車重に対し、450馬力-600馬力のパワーを持ったモンスターマシンが、あらゆる条件のコースを轟音を響かせて疾走する様は、観客を熱狂の渦に巻き込んでいく。が、同時に速さのみを追求していったグループBカーは制御不能の領域に陥り、数々の悲劇を生み出すこととなる。

第5戦ツール・ド・コルスではアッテリオ・ベッデガの運転するランチア・ラリー037が立ち木に激突し、ベッテガが死亡。第8戦のアルゼンチンラリーではアリ・バタネンが直線でコントロールを失い大クラッシュ、再起不能ともいわれた瀕死の重症を負ってしまう。相次ぐ重大事故が起きたにもかかわらず、グループBカーの危険性を指摘する声は表には出ず、熱狂的な観客たちの支持もあり、発展していくWRCの象徴としてグループBはさらに先鋭化していく。
この年の最終戦、RACラリーにはようやくホモロゲーションが認められたランチアが必勝を期してランチア・デルタS4を投入した。ツインチャージドエンジンをリアミッドシップに縦置きし、4輪を駆動する。プジョーが量販車に似た姿にすることを重要課題としていたのに対し、量販車とは名前以外ほとんど似てもいない、もはや勝つための装備が単に満載された異形のマシンであった。デビュー戦でデルタS4は圧倒的なパフォーマンスを見せ、ヘンリ・トイボネン、マルク・アレンのドライブで1-2フィニッシュを飾った。

[編集] 1986年

前年最終戦で圧倒的な勝ち方を収めたランチア・デルタS4は、開幕戦のモンテカルロラリーでもヘンリ・トイボネンが勝利し、誰もが1986年はランチアの年であると確信した。しかし、プジョーも翌戦のスウェディッシュラリーではプジョー・205ターボ16を駆るユハ・カンクネンが制し、前年チャンピオンとしての粘りを見せる。序盤2戦は、両車全く譲らない互角の滑り出しで、シーズンはランチア対プジョーの一騎打ちとなった。

しかし、第3戦のポルトガルラリーでまたもやグループBカーが関係する惨事が発生する。地元からフォード・RS200にてワークス参戦していたヨアキム・サントスが、コース上の観客を避けようとして観客席に時速200キロメートルで突っ込み、死者3名(一説には4名)を含む40人以上の死傷者を出す大惨事を引き起こした。ベッテガの事故死、バタネンの重傷事故、そして大勢の観客を死傷させる大惨事という警鐘があったにもかかわらず、関係者は主催者側の観客整理規則のまずさに事態の責任を求め、グループBカーの性能の暴走を認めなかった。結局ポルトガルラリーは全マニュファクチャラーが競技から撤退し、残りの日程はプライベーターのみで争われる異常事態となった。

そして、第5戦のツール・ド・コルスで決定的な事故が発生する。初日からトップを独走していたランチアのトイボネンが緩い左コーナーにノーブレーキで突っ込みコースオフ、崖から転落した直後に爆発炎上。トイボネンはコ・ドライバーのセルジオ・クレストとともに死亡した。ランチア・デルタS4はボディ下部に燃料タンクがあることと、マグネシウムホイールを装着していたことなどから、車両はスペースフレームとサスペンションを残して全焼するという凄惨さであった。
ヘンリ・トイボネンとセルジオ・クレストの死により、グループBカーそのものが危険だという事実は誰の目から見ても明らかとなった。

トイボネン/クレスト組の死亡事故を受け、FISAは緊急に会議を招集し2日という異例のスピードで声明を発表、以後のグループBのホモロゲーション申請を受け付けないこと、1986年限りでグループBによるWRCは中止し1987年以降は下位カテゴリーであるグループAにて選手権を行うと決定。よってグループBは、わずか5年でWRCの主役の座を追われることとなった。

ランチアはエースドライバーのトイボネンを失ったためか開幕当初の勢いを失い、この年わずか3勝するにとどまり、6勝を挙げたプジョーにマニュファクチャラーズタイトルを奪われてしまう。一方、ドライバーズタイトルは、ランチアのマルク・アレンとプジョーのユハ・カンクネンが最終戦オリンパスラリーにまでもつれるほどの激戦を繰り広げ、1度はアレンが手中にした。しかし、第10戦のサンレモラリーでの決定(プジョー・205ターボ16のレギュレーション違反による失格)に対し、プジョー側が無効を主張し提訴をしていた。これに対するFISAの裁定は「プジョーの失格を無効にし、それに伴いサンレモのレース結果を無効とする」というものであった。かくして、最終戦後11日にしてアレンとカンクネンの順位は入れ替わり、カンクネンが初タイトルを獲得した。

[編集] 1987年以降

選手権から締め出されたグループBカーではあるが、プライベーター達の抗議もあり、下位クラスの車両は選手権ポイント対象外ながら出走できた。グループB・クラス10のシトロエン・ビザ・ミルピステは1987年シーズンのヨーロッパ戦のほとんどに出走し、開幕戦モンテカルロでは総合7位という結果を残している。
これらの低馬力の「スモール」グループBカー達は、ホモロゲーションが切れる1990年代初頭までプライベーターの手により主にヨーロッパのラリーで姿を見ることができた。
一方、プジョー・205ターボ16はホイールベースなどの改造を施されパリ・ダカール・ラリーに参戦、バタネンとカンクネンの活躍で2勝を挙げた。

競技で使用できなくなった後は行方知れずになった車も多いが、ワークス(の母体となっているメーカー)で僅かに保管されている他、コレクターの手に渡り、ファンイベントでの展示やパフォーマンスなどに用いられている車両もある(中にはデルタS4等のように日本のナンバーを取得したものもある)。

[編集] グループBカーに残された逸話

軽量なものは1tを切る車体で、強力なエンジン、強力なダウンフォースを生む空力性能を生かしてグラベルやターマックを疾走する様は、残された映像でも当時の激しい競争をうかがい知ることができる。その加速力は0-100km/h加速は1.7秒-2.5秒ほどであったとされている。これは1,000馬力とも言われた当時のF1カーをも凌いだと言われる[1]なお、この加速性能はポルシェ962C、へネシー・ヴェノム1000の持つ1.7秒台という記録に並ぶ記録である。
1986年にヘンリ・トイボネンが、F1モナコGPが開催されるモンテカルロ市街地コースをランチア・デルタS4でエキシビジョン走行した際には、当時の予選グリッドで6位に相当するタイムを出したという逸話も残っている。

軽く大型空力パーツを装着した車体と強力なエンジンの組み合わせというコンセプト、見る者を圧倒する走りから、「公道を走るF1」と形容された。

[編集] グループBの主な車種

[編集] 参戦が少なかった車両・参戦しなかった車両

[編集] 生産の用意はあった、または生産されたがホモロゲーション取得には至らなかった車両

  • ポルシェ・959(生産されたのは申請受付停止後であったためグループBのホモロゲーションは取得しておらず、ダカール・ラリーに参戦。)
  • 三菱・スタリオン4WDラリー(WRC未参戦だがプロトタイプクラスで参戦した)
  • トヨタ 222D(MR-2ベースの4WD車。正式名称は不明。数台作られたが開発途中にグループSに変更、その後グループBが消滅したため公認も取れず実戦経験無し。)

[編集] 関連項目

[編集] リンク

[編集] 脚注

  1. ^ F1カーの低回転域のトルクは非常に薄く、停止状態からの加速性能は優れていなかった

最終更新 2009年11月24日 (火) 14:24 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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