チーム・ロータス

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ロータス
(コンストラクタ ロータスを含む)
エントリー名 Lotus F1 Team
チーム国籍 イギリス(1958 - 1994)
マレーシア(2010 -)
チーム本拠地 イギリスノーフォーク
チーム代表者 トニー・フェルナンデス
テクニカルディレクター マイク・ガスコイン
エンジン コスワースCA2010
タイヤ ブリヂストン
参戦年度 1958 - 1994
2010 -
出走回数 491
コンストラクターズ
タイトル
7 (1963, 1965, 1968,
1970, 1972, 1973, 1978)
ドライバーズタイトル 6 (1963, 1965, 1968,
1970, 1972, 1978)
優勝回数 79
通算獲得ポイント 1368
表彰台(3位以内)回数 172
ポールポジション 107
ファステストラップ 69
F1デビュー戦 1958年モナコGP
初勝利 1960年モナコGP
(記録は終了時)
  

チーム・ロータスTeam Lotus)は、1958年から1994年まで、2010年からF1に参戦するレーシングチーム。

目次

[編集] 歴史

[編集] チーム設立

コーリン・チャップマンにより設立されたロータス・エンジニアリングはF2で活躍していたが、1958年にはグラハム・ヒルらを擁してF1に参戦を開始。

1960年のモナコGPではスターリング・モスロブ・ウォーカー・レーシングに供給された「ロータス 18」を駆り、ロータスのシャシーとして初優勝。また、1961年アメリカGPではイネス・アイルランドがワークスチームとしても初優勝を果たした。

[編集] ジム・クラークの活躍

ロータス・25(1962年ドイツGP

1962年には、バスタブ型のモノコック構造を初めて取り入れた25を駆った新鋭のジム・クラークが、9戦中6回のポールポジション、3度の優勝という活躍を見せた。この年はマシンの熟成が進んでいなかった為に、BRMのグラハム・ヒルにチャンピオンを奪われるが、翌1963年になると、10戦中7回のポールポジション、7勝で開幕戦モナコGP以外は全て表彰台という圧倒的な強さで初のチャンピオンに輝く。同時にロータスも初のコンストラクターズチャンピオンを獲得した。

1964年はシーズン中盤のドイツGPから投入した33の信頼性が低かったことでリタイアを繰り返した。それでもクラークはフェラーリジョン・サーティースとチャンピオンを争い、最終戦メキシコGPでも最終ラップまでトップを走行し、2年連続チャンピオンはほぼ決定と思われていたが、ここでオイルパイプのトラブルでストップしてしまい、惜しくもチャンピオンを逃してしまった。

1965年はクラークとロータスがグランプリ界を席巻した年となった。何と開幕戦南アフリカGPから第7戦ドイツGPまで、インディ500に出場する為に欠場した第2戦モナコGPを除く全てのレースで優勝を果たし、3戦を残してチャンピオンが決定した。クラークはロータスとともに出場したインディ500でも優勝を果たした。

[編集] フォード・コスワース・DFVの登場

ロータス・49

1966年はBRMのH型16気筒という「珍品」を持ち出すなど、思わしくない成績に止まるも、翌1967年に向けて、フォードの支援の下、ひそかにフォード・コスワース・DFVエンジンを開発。ドライバーもクラークに加えてBRMのヒルを迎えるジョイント・ナンバーワン体制を敷いた。クラークは、DFVエンジンを搭載した新型49のデビュー戦、オランダGPなど4勝をあげ、チャンピオンの座こそブラバムデニス・ハルムに譲るが、通算勝利を24まで伸ばし、当時歴代1位のファン・マヌエル・ファンジオと並ぶタイ記録を達成した。(翌1968年の南アフリカGPでの勝利で単独1位となり、これは1973年オランダGPで同郷のジャッキー・スチュワートに破られるまで最多勝記録であった)

1968年シーズンまでには49とDFVエンジンの信頼性も向上し、クラークは開幕戦南アフリカGP(予選は1967年12月31日で決勝日は1月1日)をヒルとの1-2フィニッシュで飾って、この年のチャンピオン最有力候補と見られていたが、第2戦スペインGP(決勝日は5月12日)までのインターバルの間の4月7日にホッケンハイムで行われたF2レースで事故死してしまう。迎えたスペインGPでロータスは史上初めてスポンサーカラー(ゴールドリーフ・タバコ)を纏って現れ、このレースでヒルがクラークの死を弔うかのように優勝を果たすと、その後も活躍を続け、自身6年ぶりのチャンピオンを、コンストラクターとのダブルタイトルで飾ることとなった。

[編集] 名車ロータス72の登場

ロータス・72

1970年に、サイドラジエター形式を採用したクサビ型ボディーを持つ、72がデビューを果たす。現在では考えられないことであるが、後継車の開発失敗があったとは言え、このクルマはその後も長く活躍を続け、Fスペックまで進化を果たしながら1975年シーズンまでの長きに渡り使用された。この間20勝を記録し、1970年のヨッヘン・リント1972年エマーソン・フィッティパルディがチャンピオンとなり、この両年に加えて1973年にもロータスにコンストラクターズタイトルをもたらした。

ただし72の大きな特徴であるインボードブレーキのトラブルにより、リントが1970年のシーズン途中で事故死し、リントの事故に衝撃を受けた同僚のジョン・マイルズが直後にチームを去るという大きな代償もあった。

[編集] グラウンド・エフェクトカー時代

ロータス・78

1977年に登場した78はこれまでの常識を覆す、グラウンド・エフェクト・カーという新機軸を打ち出した。翌1978年にこれを発展させた79は圧倒的な速さを見せ、マリオ・アンドレッティをワールドチャンピオンに導いた。

しかし1979年以降は、他チームもグラウンドエフェクトカーのコンセプトをコピーするようになった。そしてロータスの優位性は徐々に崩れ、ダウンフォースをウイングではなくグラウンドエフェクトのみに頼る80の失敗による成績不振に苦しみなかなか勝てないシーズンが続くことになる。さらに「ツイン・シャシー」を搭載した88を投入しようとしたものの、これはFIAからレギュレーション違反とされて、お蔵入りとなる。その一方で他チームが使用するハイドロリックによる車高調整サスペンションは黙認された。この一件を境にしてオーナーのコーリン・チャップマンが徐々にF1に対するモチベーションを下げていくようになっていった。

1982年オーストリアGPエリオ・デ・アンジェリスがドライブするロータス・91ウィリアムズケケ・ロズベルグと激しいバトルの末チームに久々の勝利をもたらすものの、シーズン終了後にオーナーのチャップマンが心臓発作で急死するというアクシデントに見舞われる。

[編集] チャップマン亡き後・セナの活躍

1983年からはチーム監督として、長年ロータスに在籍していたピーター・ウォーが就任することになる。そしてこの年ルノー・ターボエンジンを獲得し、ターボ時代へ突入する。しかし、ルノーEF1を搭載した93Tは安定せず、シーズン前半はDFVを搭載し、画期的なアクティブサスペンション持つ92も使用していた。シーズン途中にアルファ・ロメオよりマシンデザイナーのジェラール・ドゥカルージュが加入し、彼の設計した94Tにより徐々に速さを取り戻していく。

1984年に投入した95Tは、エンジン供給元のルノーワークスを上回る速さを見せ、エリオ・デ・アンジェリスがシリーズ3位に入る。

1985年には、前年トールマンで新人ながら光る速さを見せていたアイルトン・セナを獲得する。ちなみにセナの加入に伴い、チーム離脱を余儀なくされたのが、後のワールドチャンピオン、ナイジェル・マンセルである。

セナを獲得したロータスはトップ集団に復帰する。中でも予選でのセナは速さは特筆ものであった。ルノーもワークス活動の縮小、撤退にともない、ロータスに全力を注ぐようになる。そのかいあって1986年には、四天王(ピケ・マンセル・プロスト・セナ)による激しいチャンピオン争いを繰り広げることになる。しかし、惜しくもチャンピオンには後一歩手が届かなかった。

[編集] ホンダエンジンの獲得とアクティブサスの開発

1987年よりホンダエンジンを搭載し、ダンフリースに代わるセナのチームメイトとして、日本人初のF1レギュラードライバーとなる中嶋悟が加入した。この年のマシン99Tは、完全なアクティブサスペンションを搭載した初のマシンである。出力の分散、重量の増加やアクティブサスの不具合などもあり同じホンダエンジンのウィリアムズと比較して戦闘力に劣り、公道コースで行われたモナコGPアメリカGP以外では勝つことができず、そしてこのアメリカGPの勝利がロータスにとっての最後の優勝となった。

この年まではまだ上位を争う戦闘力を保っており、第7戦イギリスGPシルバーストン)では3位(セナ)と4位(中嶋)を獲得し、ウィリアムズの2台と合わせ、ホンダエンジン車による1-2-3-4(1-4位独占)というホンダにとって初となる記録が達成された。

ロータス・100T

1988年には残留した中嶋のチームメイトに、3回のワールドチャンピオン経験者であるネルソン・ピケを迎えたが、前年を上回る成績は残せなかった。勝利はなく表彰台もピケの2回のみ。この年投入された100Tはマシンバランスが悪い上にトラブルによるリタイアが多かっただけでなく、同じエンジンを搭載するマクラーレンと比べエンジントラブルも多かった。この原因はガソリン/オイルメーカーの違いが影響したのではないかと言われている。シェルを使用するマクラーレンにほぼトラブルが無かったのに対し、ロータスはエルフを使用しており、エンジンがガソリンもしくはオイルとマッチングしなかったことによるものとされている。また、マクラーレンに比べてマシンの重心位置が高くハンドリング性能が劣っていたとされる(マクラーレン・MP4/4は低重心を徹底されたデザインだった。そして当時のホンダエンジンも低重心型であった)。

なお、ウィリアムズ時代にはピケの契約金はホンダが出していたが、ロータスに移ってからはそれもなく、キャメルからのスポンサー・フィーの半分近くがピケとの契約金となってしまうため、実質的な運営資金も潤沢とは言えなかった[要出典]。またピケのドライビングも冴えず、予選、決勝ともに、デビュー2年目の中嶋に先を行かれることもあった。

[編集] 冬の時代へ

1989年はピケと中嶋のドライバーラインナップはそのままであったが、ホンダエンジンを失い、カスタマーエンジンのジャッドCV90°V8エンジンを搭載する101を投入する。当初は5バルブ、3カムシャフト(吸気2、排気1)のティックフォード製5バルブヘッドを搭載したスペシャルチューンエンジンを使用する予定だったが、パワーと信頼性に欠けるためフランスGPで使用されたのみで、他のレースではベーシックな4バルブヘッドのカスタマーエンジンを使用した。モナコGP・カナダGPでは中嶋が予選通過に失敗し、ベルギーGPではピケ、中嶋両者ともに予選落ちを喫した。1台も予選を通過できなかったのはチーム史上初めてのことであった。このような成績低迷もあり、シーズン途中でチーム監督のピーター・ウォーが引退を発表、ピケと中嶋もこの年限りでチームから離脱する。最終戦オーストラリアGPでは中嶋が雨の中でファステストラップを記録したが、シーズンを通じて表彰台へ上がる事は無かった。最高位は4位(ピケ3回、中嶋1回)。

1990年にはジャッドV8からランボルギーニV12にエンジンをスイッチしたマシン102がデビュー、ドライバーもデレック・ワーウィックマーティン・ドネリーイギリス人コンビへと変更したが、チームの成績は向上しなかった。メインスポンサーのキャメルが翌年からはベネトンのメインスポンサーとなり、ロータスを離れる事をイタリアGPにて公表し、ランボルギーニが翌年のエンジン供給を行わないと決めたことや、スペインGPの予選中のクラッシュでドネリーが瀕死の重傷を負うなどの不運も重なり、チームは存続の危機に立つ。シーズン終了後、元ベネトン監督のピーター・コリンズを中心に翌年へ向けてのチームの再建を開始し、田宮模型コマツなど複数の日本企業スポンサーを獲得。ドライバーにはイギリスF3チャンピオンを獲得したフィンランド出身の新人ミカ・ハッキネンと契約する。

ロータス・102B(1991年)

1991年は、資金難のため前年のマシンにマイナーチェンジを加えたのみの、ジャッドEV76°V8エンジンを搭載した102Bで臨んだ。メインスポンサーは無く、ドライバーが持ち込んだスポンサーと田宮模型やコマツなどの前年末に獲得した各日本企業といった小口のスポンサーフィーでの参戦であり、マシン開発を進めるには資金的に不十分だった(ニューマシンの103もプランのみで終わる)。雨で混乱したサンマリノGPミカ・ハッキネンが5位、ジュリアン・ベイリーが6位とダブル入賞を果たしたが、それ以外の入賞はなかった。ベイリーのスポンサーフィーが終了した第5戦カナダGPからは、コリンズの子飼いであるジョニー・ハーバートを起用。彼の欠場時(全日本F3000に参戦していたため)に代役参戦したドイツ出身のミハエル・バルテルスは、参戦したすべてのレース(4戦)で予選落ちするなど結果を残せなかった。シーズン途中にいすゞ自動車製V12エンジンのテストをシルバーストーンサーキットで行ったものの、チームといすゞからはテスト走行について公式発表する事は無く、また、あくまでテストのみという位置づけだったため、V12エンジン自体もお蔵入りとなった。

1992年には前年フォードのワークス仕様だったコスワースHBエンジンを獲得。ハッキネンは残留し、チームメイトは前年スポット参戦だったハーバートと5年という長期契約を結んだ。エンジンを載せかえた暫定マシンである102Dでシーズンを迎え、第5戦サンマリノGPで登場した待望のニューマシン、107は1台しか用意できなかった為、ハーバートに与え、ハッキネンは第6戦モナコGPから乗ることができた。107にはアクティブサスペンションの簡易版とも言える車高調整装置(ロータス・サスペンション・ダイナミクス[1])が搭載される意欲作で、前年を大幅に上回る成績(コンストラクターズ5位)を残すが、トラブルでのリタイヤも多かった。シーズン中盤の第9戦イギリスGPからはカストロールがメインスポンサーとなり一時的に運営資金不足は解消するものの、じきに91年から不足する運営資金の長期貸し付けを受けていたランドハースト・リーシング(当時、ブラバムにも運営資金を貸していた)が倒産し、債権者から返済を迫られると再び資金不足へと陥った。思うように開発に資金を回せなかった影響は、107の信頼性を向上させることができないという悪循環となり、第15戦日本GPではハッキネン・ハーバートとも一時は3位を走行するものの、マシントラブルで両者ともリタイヤとなり入賞チャンスを逃すなど、時に速さを見せたが完走率を高められずにシーズン終了してしまった。

ロータスの将来に不安を抱いていたハッキネンは、ウィリアムズと契約してしまう。ところがフランク・ウィリアムズは自チームを、1993年シーズンにエントリー申請することを忘れていた。その為、ウィリアムズが参戦するには他の全チームの承認が必要となったが、コリンズはハッキネンを取り返したかった為、認めなかった。これでロータス残留かと思われたが、ハッキネンは結局マクラーレンと契約してしまい、ロータスを去っていった[2]

[編集] チーム消滅

1993年は本格的なフルアクティブサスを搭載した前年の熟成型マシン107Bを開幕から投入するが、アクティブサスの開発は多額の資金を必要とした上にセッティング作業は難航した。エンジンは前年に引き続きフォードHBエンジンではあったが、ベネトンマクラーレンが使用するものとは異なり、2バージョン落ちのカスタマーエンジンであった。そのため、ワークスエンジンを搭載しているチームとは最高速に隔たりがあったが、ハーバートが3度の4位入賞など力走。チームメイトのアレッサンドロ・ザナルディも時に速さを見せたが、ベルギーGPで大クラッシュを起こし以後療養が必要となり、スポンサーを持ち込んだ新人ペドロ・ラミーにシートを譲った。また、前年からのメインスポンサーのカストロールからの資金も決して潤沢とは言えず、アクティブサスの熟成作業とセッティングに終始苦労し続けるうちにシーズンが終了した。

1994年無限ホンダV10エンジンを新たに獲得し、シーズン中盤の第5戦スペインGPからは新車109を投入するも、カストロールが前年限りでスポンサーを降り、代わりとなる大口スポンサーの獲得も出来なかったため、深刻な資金難に陥っていた。この年は第3戦で起きたアイルトン・セナの死亡事故など度重なる重大なアクシデントによる影響で、シーズン途中にも関わらず大幅な車両レギュレーション改定が実施されたためにその対応に追われ、マシンを改良するためのテストも資金不足から十分に出来ず苦戦を強いられた。

ドライバーは、契約の残るハーバートは残留したが、もうひとつのシートはドライバーの持参金によって決まるような状況となり、この年にロータスより参戦したドライバーは延べ6人にのぼる。新スペックのエンジンが投入された第12戦イタリアGPでは、予選でハーバートが4位と奮闘したが、成績ではこれが唯一の光であった。109は決勝レースではシーズンを通して6位以内入賞を果たす事が出来ず、ロータスにとってF1参戦開始以後初となる年間ノーポイントに終わる。同年はこうした成績面だけでなく財政的にも重大局面を迎えており、シーズンも終盤になると参戦を継続するために裁判所破産申請を出し、イギリス高等法院の財産管理下に入った。負債返済のため第14戦ヨーロッパGP直前に管財人が "ロータスにとって最も高価な財産" であったエースドライバーのハーバートの契約をフラビオ・ブリアトーレが新オーナーとなっていたリジェチームへと売却してしまった[3]。第15戦日本GP開催中には、チームがアメリカ人実業家に売却され再建するプランが持ち上ったが、それも暗礁に乗り上げる。シーズンが終了すると11月に会社更生法の適用が発表され、債権者の一人としてデヴィッド・ハント(1976年F1チャンピオン・ジェームス・ハントの弟)が新オーナーの一人としてチーム入り。新たな出資者へのアプローチや、活動休止を避けるために当時F1に参戦していたパシフィックチームとの合併などの再建策が模索されたが、12月からはチームスタッフのレイオフが進行し主要エンジニアの他チームへの流出も本格化[4]、年が明けた1995年1月17日にはとうとう残っていた全従業員に解雇が通告されると同時に、F1参戦を断念することが発表された[5]

これによって1995年に向けてクリス・マーフィーがデザインしていたニューマシン112は幻のマシンとなってしまった。

1995年シーズンは、新オーナーとなったデヴィッド・ハントが、パシフィックチームに実質名義貸しを行い、「パシフィック・チーム・ロータス」としてエントリーシートに名前こそ残ったが、あくまで商標権が提供されただけであり、チームの実体にロータスの関わりは一切無かった。そのパシフィックも財政難を理由にこのシーズン限りで撤退してしまう。デヴィット・ハントは、F1休止を1年に留めて1996年から復帰すべくスポンサー獲得活動を継続すると声明を出していたが[6]、実現しなかった。再びモータースポーツに復帰するにはロータスに関する負債を完全に解消することが条件となっているようである。

[編集] 復活

2010年、バジェットキャップ制の導入に伴い、F1への復帰が報道された。チームは元ロータスのエンジニアで現在ライトスピードを運営するニーノ・ジャッジが代表を務め、運営される予定である。マシンはマイク・ガスコインによって設計され、エンジニアリング・ディレクターはスティーヴ・ケンチントンが務める。また、ドライバーのマネージャー兼広報として元ロータスのドライバー、ジョニー・ハーバートとも契約を結んだ[7]。しかし、エントリーリストに載ることはなかった。

その後、BMWザウバー2009年シーズン限りで撤退を発表した[8]。これにより、当初決まっていた13チームの枠がひとつ空き、その一枠には「ロータスF1チーム」がその枠を得た[9]

この「ロータスF1チーム」とは、「1Malaysia F1 Team (1マレーシアF1チーム)」と呼ばれる企業が主体となっている[9]。イギリスのノーフォークに本拠地を置き、エンジンはコスワースを搭載する予定[9]。また、エア・アジアCEOを務めているトニー・フェルナンデスがチームを率い、マイク・ガスコインがテクニカルディレクターに就任する[9]

Xトラック製のギヤボックスを搭載し、フォンドテックが空力開発を行う[10]

[編集] 先進技術や資金獲得への取り組み

ロータスはF1を含むレースに対して様々な試みを行っている。特にF1においては先進的な試みを次々と行っておりその後のレースシーンに重大な影響を与えている。このことは3000cc時代に入り登場したフォード・コスワース・DFVエンジンという極めて安定したエンジンが供給されていた時代があったことも影響している。

F1においてロータスが先駆けになった項目は次のようなものがある。

  • 1962年の25でバスタブ型のモノコック構造を導入した。アルミシートをリベット留めにより組み立てたモノコックシャーシは既に前例があったが、効果的なバルクヘッドの配置や断面2次モーメントを曲げモーメント線図に沿って徐変させる構成など、25はツインチューブ・モノコック構造の決定版と言え、その後シングルスキン・モノコック(77)が登場するまで、シングルシータのレース用シャシの基本構造として、多くのレーシングカーデザイナに模倣・改良され続けた。
  • 1967年のF1マシン43で、従来までのエンジンを車体(シャーシ)にのせるという常識を覆し、エンジン自体をシート後方のリヤバルクヘッドに直接固定し、モノコックシャーシの一部とする設計を採用した。1955年のランチアD50をはじめ、エンジンを車体の強度部材として用いる設計は、既に多くの前例があったが、エンジンのみを車体後部の強度部材とする設計は、この43が初めてであった。43に採用されたBRM H16気筒エンジンは1500ccのV型8気筒を180度 V型に直して2段積みしたものであり、ブロック剛性が十分に高かった点も、この設計を採用するきっかけとなった。
  • 車体の塗装はナショナルカラー(チームが所属する国別の塗装色)とされていたのだが、スポンサー・カラーを登場させた(ゴールドリーフ、JPS、キャメル)。このことがきっかけとなりF1は走る広告塔の異名をとるようにる。
  • 1969年の63において、4輪駆動を採用した。これは1968年のインディ500マイルレース用マシン、56の技術の応用である。56には72で完成するクサビ型ボディの萌芽も見られる。56ガスタービンエンジンの高出力もあってインディ優勝の寸前まで行ったが、63は重量の重さや癖の強い操縦性のため成功していない。
  • 1970年72は、車体の先端にラジエターを置く配置をやめて、サイドラジエター形式を採用した。また従来のフォーミュラカーがいわゆる葉巻型の円筒形ボディだったのに対し、ボディ全体でダウンフォースを生み出せるよう前方が尖ったクサビ型のデザインを採用した(サイドラジエターで可能になった)。
  • 1974年、76に於いて、電磁クラッチによるセミオートマチック変速を採用。1978年の79においてはロータス設計、ゲトラグ制作のクラッチレス変速ミッションを開発初期にトライ。ロータスは1957年の12の「Z型ゲート」以来、度々内製のシーケンシャルやクラッチレスなどの変速システムをトライして来たが、しかし一度も成功していない。これは組織内に変速機専門の研究・実験部門を持たなかった点が大きいと考えられている。12の変速機の改良作業担当エンジニアは、後にコスワース社を興し、「奇跡のエンジンデザイナー」と評される[要出典]事になるキース・ダックワース(当時は未だ大学生)である。
  • 1976年の77にシングルスキン・モノコック採用した。25で、完全なツインチューブ構造であればアルミの薄板でも十分な剛性が得られることを示したロータスが、77では更に異なる構造となった。それまで、ツインチューブの為に横に広がった平坦な断面形状であったシャシが、シングルスキン構造にすることで、より細い断面形状とすることが可能になった。実際には77は同時代のライバル車に対して剛性が不足していたが、ハニカムサンドイッチ材を用いた7879、そしてチタンシートを使った80に至り、ツインチューブモノコックは完全に過去のシャシ構造となった。今日のF1における極端に幅の狭いカーボン・シャーシは、例外無く全てシングルスキン構造である。
  • 1977年78で、グラウンド・エフェクト理論がF1に応用可能であることを示した。グラウンド・エフェクトを利用したマシンは「ウィングカー」とも呼ばれた。グラウンド・エフェクトの原型となるデザインは1960年代の後期にBRMでテストが行われ、1970年のマーチ・701で実戦に登場していた。このアイデアを成功させたのが、78である。78の設計チームには、BRMでグラウンド・エフェクトのテストを行っていたピーター・ライトとトニー・ラッドが所属していた。
  • 1978年の79にはスライディングスカートを採用し、大きな進歩を遂げた。以後、多くのマシンでグラウンド・エフェクトが採用された。
  • 1981年の88では、「ツイン・シャーシ」と呼ばれる構造を採用した。グラウンド・エフェクトカーの堅過ぎるサスペンションがドライバーの身体に影響を与えている問題を解決するためとの理由だったが、他のチームの抗議により、出走は認められなかった。ただし「ドライバーの負担を解決」は方便で、ツインシャシーはグラウンドエフェクトの効果を高めるため、とみなされている。
  • 1987年の99Tにおいて、アクティブサスペンションを採用した。

[編集] 変遷表

エントリー名 車体型番 タイヤ エンジン オイル ドライバー ランキング 優勝数
1958年 チーム・ロータス 12,16 D クライマックスFPF エッソ グラハム・ヒル
クリフ・ハリソン
6 0
1959年 チーム・ロータス 16 D クライマックスFPF エッソ グラハム・ヒル
イネス・アイルランド
4 0
1960年 チーム・ロータス
* Rob Walker Racing Team(18)
16,18 D クライマックスFPF エッソ ジム・クラーク
イネス・アイルランド
アラン・ステイシー
ジョン・サーティース
スターリング・モス
2 2
1961年 チーム・ロータス
* Rob Walker Racing Team(18,21)
18,21 D クライマックスFPF エッソ ジム・クラーク
イネス・アイルランド
スターリング・モス
2 3
1962年 チーム・ロータス
* Rob Walker Racing Team(24)
*UDT Laystall Racing Team(18,21,24)
24,25 D クライマックスFWMV エッソ ジム・クラーク
トレバー・テイラー
イネス・アイルランド
マステン・グレゴリー
2 3
1963年 チーム・ロータス
*Reg Parnell Racing(24)
25 D クライマックスFWMV エッソ ジム・クラーク
トレバー・テイラー
マイク・ヘイルウッド
1 7
1964年 チーム・ロータス・
*Reg Parnell Racing(25)
25,33 D クライマックスFWMV
BRM P16
エッソ ジム・クラーク
ピーター・アランデル
クリス・エイモン
マイク・ヘイルウッド
3 3
1965年 チーム・ロータス
*Reg Parnell Racing(25)
25,33 D クライマックスFWMV
BRM P16
エッソ ジム・クラーク
マイク・スペンス
イネス・アイルランド
リチャード・アトウッド
トニー・マッグス
1 6
1966年 チーム・ロータス
*Reg Parnell Racing(25,33)
33,43 F クライマックスFWMV
BRM P75(H16)
エッソ ジム・クラーク
ピーター・アランデル
マイク・スペンス
5 1
1967年 チーム・ロータス
*Reg Parnell Racing(25)
33,43,49 F クライマックスFWMV
BRM P75(H16)
フォードDFV
エッソ ジム・クラーク
グラハム・ヒル
ピアス・カレッジ
クリス・アーウィン
2 4
1968年 チーム・ロータス
ゴールド・リーフ・チーム・ロータス
*Rob Walker/Jack Durlacher Racing(49,49B)
49,49B F フォードDFV シェル,バルボリン ジム・クラーク
グラハム・ヒル
マリオ・アンドレッティ
ジャッキー・オリバー
1 5
1969年 ゴールド・リーフ・チーム・ロータス
*Rob Walker/Jack Durlacher Racing(49B)
*Pete Lovely Volkswagen Inc(49B)
*Team Gunston(49)
49B,63 F フォードDFV シェル,バルボリン ヨッヘン・リント
グラハム・ヒル
マリオ・アンドレッティ
ピート・ラブリー
ジョー・シフェール
ジョン・ラブ
3 2
1970年 ゴールド・リーフ・チーム・ロータス
*Brooke Bond Oxo Racing/Rob Walker(49C,72C)
*Rob Walker Racing Team(49C)
*Pete Lovely Volkswagen Inc(49B)
*Team Gunston(49)
49C,72,72B,72C F フォードDFV シェル ヨッヘン・リント
ジョン・マイルズ
グラハム・ヒル
エマーソン・フィッティパルディ
ピート・ラブリー
ジョン・ラブ
1 6
1971年 ゴールド・リーフ・チーム・ロータス
*Pete Lovely Volkswagen Inc(69)
72C,72D,56B F フォードDFV
P&W
シェル エマーソン・フィッティパルディ
ライン・ヴィンゼル
デイブ・ウォーカー
ピート・ラブリー
5 3
1972年 ジョン・プレイヤー ・チーム・ロータス 72D F フォードDFV テキサコ エマーソン・フィッティパルディ
デイブ・ウォーカー
1 4
1973年 ジョン・プレイヤー・チーム・ロータス 72D,72E G フォードDFV テキサコ エマーソン・フィッティパルディ
ロニー・ピーターソン
1 7
1974年 ジョン・プレイヤー・チーム・ロータス
*Team Gunston(72E)
76,72E G フォードDFV シェル,テキサコ,ダッカムス ロニー・ピーターソン
ジャッキー・イクス
イアン・シェクター
パディー・ドライバー
4 1
1975年 ジョン・プレイヤー・チーム・ロータス
*Team Gunston(72D)
72E,72F G フォードDFV シェル,ダッカムス ロニー・ピーターソン
ジャッキー・イクス
エディー・ケイザン
ギ・トゥンメル
7 0
1976年 ジョン・プレイヤー・チーム・ロータス 77 G フォードDFV シェル,テキサコ マリオ・アンドレッティ
グンナー・ニルソン
ロニー・ピーターソン
4 2
1977年 ジョン・プレイヤー・チーム・ロータス 78 G フォードDFV バルボリン マリオ・アンドレッティ
グンナー・ニルソン
2 3
1978年 ジョン・プレイヤー・チーム・ロータス
* Team Rebaque (78)
78,79 G フォードDFV バルボリン マリオ・アンドレッティ
ロニー・ピーターソン
ジャン=ピエール・ジャリエ
ヘクトール・レバーク
1 9
1979年 マルティニ・レーシング・チーム・ロータス
* Team Rebaque (79)
79,80 G フォードDFV バルボリン マリオ・アンドレッティ
カルロス・ロイテマン
ヘクトール・レバーク
4 0
1980年 チーム・エセックス・ロータス 81,81B G フォードDFV エセックス,バルボリン マリオ・アンドレッティ
エリオ・デ・アンジェリス
ナイジェル・マンセル
5 0
1981年 チーム・エセックス・ロータス
ジョン・プレイヤー・チーム・ロータス
81,87,88 M
G
フォードDFV エセックス,バルボリン エリオ・デ・アンジェリス
ナイジェル・マンセル
7 0
1982年 ジョン・プレイヤー・チーム・ロータス 91 G フォードDFV バルボリン エリオ・デ・アンジェリス
ナイジェル・マンセル
5 1
1983年 ジョン・プレイヤー・チーム・ロータス 92,93T,94T P フォードDFV
ルノーEF1
エルフ エリオ・デ・アンジェリス
ナイジェル・マンセル
8 0
1984年 ジョン・プレイヤー・チーム・ロータス 95T G ルノーEF4 エルフ エリオ・デ・アンジェリス
ナイジェル・マンセル
3 0
1985年 ジョン・プレイヤー・スペシャル・チーム・ロータス 97T G ルノーEF4B,EF15 エルフ エリオ・デ・アンジェリス
アイルトン・セナ
4 3
1986年 ジョン・プレイヤー・スペシャル・チーム・ロータス 98T G ルノーEF15 エルフ アイルトン・セナ
ジョニー・ダンフリーズ
3 2
1987年 キャメル・チーム・ロータス・ホンダ 99T G ホンダRA167E エルフ アイルトン・セナ
中嶋悟
3 2
1988年 キャメル・チーム・ロータス・ホンダ 100T G ホンダRA168E エルフ ネルソン・ピケ
中嶋悟
4 0
1989年 キャメル・チーム・ロータス 101 G ジャッドCV エルフ ネルソン・ピケ
中嶋悟
6 0
1990年 キャメル・チーム・ロータス 102 G ランボルギーニ3512 BP デレック・ワーウィック
マーティン・ドネリー
ジョニー・ハーバート
7 0
1991年 チーム・ロータス 102B G ジャッドEV BP,エルフ ミカ・ハッキネン
ジュリアン・ベイリー
ジョニー・ハーバート
ミハエル・バーテルス
9 0
1992年 チーム・ロータス
チーム・カストロール・ロータス
102D,107 G フォードHB-4 BP ミカ・ハッキネン
ジョニー・ハーバート
5 0
1993年 チーム・カストロール・ロータス 107B G フォードHB-6 BP ジョニー・ハーバート
アレッサンドロ・ザナルディ
ペドロ・ラミー
6 0
1994年 チーム・ロータス 107C,109 G 無限MF351HC,HD モービル,BP ジョニー・ハーバート
ペドロ・ラミー
アレッサンドロ・ザナルディ
フィリップ・アダムス
エリック・ベルナール
ミカ・サロ
- 0

*枝がついているチームに車体を供給(括弧内に供給した車体の型番を記載)
*斜体になっているドライバーはスポット参戦など

[編集] ロータスでワールドチャンピオンを獲得したドライバー

通算勝利は79で、ロータスは過去に下記の5人(6度)のチャンピオンを輩出している。

  • 1963年 : ジム・クラーク
  • 1965年 : ジム・クラーク
  • 1968年 : グラハム・ヒル
  • 1970年 : ヨッヘン・リント(死後にチャンピオンが決定した唯一の例)
  • 1972年 : エマーソン・フィッティパルディ
  • 1978年 : マリオ・アンドレッティ

[編集] 脚注

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  1. ^ ニューズ出版F1速報 1992F1GP総集編』p140
  2. ^ ニューズ出版『F1速報 1998年フランスGP号』p39
  3. ^ 三栄書房『AS+F』1994年ヨーロッパGP号 p14、山海堂GPX』1994年ヨーロッパGP号 p30
  4. ^ 山海堂『GPX』1995年カレンダー号 p7
  5. ^ 山海堂『GPX』'95シーズンオフ号 p8
  6. ^ 山海堂『GPX』'95シーズンオフ号 p8
  7. ^ The return of Team Lotus
  8. ^ [will quit F1 at the end of 2009”]. Autosport.com. (2009-07-29). http://www.autosport.com/news/report.php/id/77400 2009-09-15 閲覧。 
  9. ^ a b c d [[1]]. F1-Live.com. (2009-09-15). http://jp.f1-live.com/f1/jp/headlines/news/detail/090915144451.shtml 2009-09-15 閲覧。 
  10. ^ [[2]]. Gp Update. (2009-09-15). http://f1.gpupdate.net/ja/news/2009/09/15/219686/ 2009-09-16 閲覧。 

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 外部リンク


先代:

BRM
フェラーリ
ブラバム
マトラ
ティレル
フェラーリ
F1コンストラクターズチャンピオン
1963年
1965年
1968年
1970年
1972年-1973年
1978年
次代:

フェラーリ
ブラバム
マトラ
ティレル
マクラーレン
フェラーリ

最終更新 2009年9月16日 (水) 02:57 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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