トヨタ・パブリカ

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パブリカ (Publica) は、トヨタ自動車1961年から1978年まで生産した小型乗用車である。

1950年代の国民車構想の影響を受けて開発され、長年にわたってトヨタの生産・販売する最小車種として位置付けられた。後のスターレット、そして現在販売されているヴィッツへと連なる、トヨタのコンパクトカーの元祖的な車種である。

目次

[編集] 車名の由来

大衆車」を意味する英語「パブリック・カー」(Public car)を略した造語である。唐辛子の一種の「パプリカ」と誤表記されることが多いが、単に文字が似ているだけであり、パプリカとは何の関連もない。

[編集] 歴史

[編集] 初代(P10/20系 1961 - 1969年)

[編集] 国民車構想

初代パブリカ700(UP10型)
初代パブリカ700(UP10型)
初代パブリカ800(UP20型)
初代パブリカ800(UP20型)
初代パブリカ800コンバーチブル(UP20型)
初代パブリカ800コンバーチブル(UP20型)
初代パブリカトラック(UP20型)
初代パブリカトラック(UP20型)

パブリカの商品企画は、1955年に当時の通商産業省(通産省)で立案された国民車構想に遡ることができる。これは一定条件を満たす「国民車」の生産を国によって後援しようという「日本版フォルクスワーゲン計画」であったが、マスコミのスクープによって内部構想が明らかになっただけのもので、公式な政策とはならなかった。

この構想で通産省が想定した「国民車」の性能は、

  1. 最高時速100km以上。
  2. 乗車定員4名、または2名と100kg以上の貨物が積めること。
  3. 平らな道路で、時速60kmのとき、1リットルの燃料で30km以上走れること。
  4. 大がかりな修理をしなくても、10万km以上走れること。
価格は月産2000台の場合、最終販売価格は1台25万円以下でなければならない。
性能と価格から勘案されるエンジンの排気量は350~500cc、車重は400kg以下。

というものであった。大学教授などの助言も受けて自動車好きの若手官僚が立案したプランであったが、当時の自動車メーカー側の視点では、実現するとなると技術・コストの両面から困難が多く、現実味を欠くドリームプランである、というのが大方の批評であった。

それでもこの企画に刺激されていくつかのメーカーで小型車開発が行われることになった。

トヨタも国民車構想をそのまま実現するという考え方は持っていなかったが、技術開発推進の見地から、1956年7月より、従前の自社最小クラスである1000cc級(トヨタでは当時1500cc車への切り替えで生産が途絶えていたが、翌1957年に初代コロナが再発売されている)より更に小型の車の試作を開始した。

[編集] 試作過程の路線変更

当初の計画では、当時の専務で自身が技術者でもあった豊田英二の陣頭指揮の下、シトロエン・2CVに倣った前輪駆動(FF)方式を採用することとなり、一次試作車も完成したが、当時の技術的限界から駆動系にはトラブルが続出し、以後の開発は進捗しなかった。

後を受けた主査の長谷川龍雄は、オープン・プロペラシャフトを介したホチキスドライブ型の後輪駆動(FR)方式という平凡なレイアウトへの変更を断行した。トヨタと長谷川自身にとって過去に経験のない前輪駆動車開発は、与えられた僅か2年の開発期間では不可能であるとの判断からである。固定軸の後輪駆動なら設計自体は容易であり、重量対策などの駆動方式変更による問題点は設計の他の部分で補う方針が採られた。

また当時「500cc車には税制上の特典を設ける予定」という官公庁側からの不確かな触れ込みがあったものの、長谷川は「既に高速道路の建設が開始されている高速化時代にあって、500ccエンジンはあまりに非力で対応できないであろう」と判断し、より大型の700cc級エンジン搭載とした。開発にあたっては100km/h走行可能であることも考慮していたのである。500cc車優遇税制は結局実現せず、長谷川による大排気量化は実用上的確な判断となった。

[編集] 基本構造

完成したUP10は軽量なフル・モノコック構造のボディを採用した。全長3500mm余りの簡素なボディは、大きなプレス部材を用いて生産性を高める配慮が為されていたが、デザイン上やや華奢な印象があった。2ドア3ボックスの4窓セダン形ボディを標準とし、2130mmのホイールベースの中で、大人4人を載せる最低限のスペースを確保していた(それでも当時の軽乗用車よりはゆとりがあり、さらに独立したトランクスペースを設けていたのは長所であった)。

軽量エンジンをフロントにオーバーハングさせつつ、プロペラシャフト位置も極力低くし、後輪駆動のスペース面での不利さを克服する努力が為されていた。プロペラシャフトを持ちながら全体の軽量化は特筆すべき水準に達し、空車での総重量は前輪駆動で企画されていた当初計画を満たす580kgにまで抑えられていた。

サスペンションは前輪ダブルウィッシュボーン式サスペンション、後輪縦置き半楕円リーフ・リジッドの当時ごくコンベンショナルなレイアウトである。前輪サスペンションのスプリングには縦置きトーションバーを用いていたが、これは軽量化や省スペース目的もさることながら、上下アームの間にドライブシャフトを通していた、前輪駆動一次試作車の名残である。ステアリングは当時一般的だったウォーム&セクターで、車の軽量さも手伝い、中庸無難な操縦特性となっている。

新開発のエンジンは697cc、強制空冷2気筒OHV水平対向型のU型エンジンである。当初のボア/ストロークは78mm/73mmのオーバースクエア、水平対向2気筒で先例の多い、半球型燃焼室を持つクロスフロー弁配置となった。性能は最高出力28ps/4,300rpm、最大トルク5.4km-m/2,800rpmを達成、これによりセダンの軽量ボディを最高110km/hまで到達させた。

後年に至るまでトヨタ車史上唯一となったこの空冷エンジンは、シトロエン2CV同様の水平対向2気筒で、遠心式のシロッコファン(プロペラファンよりやや効率が劣るがコンパクトで騒音が少ない)とシュラウドを組み合わせた強制冷却という点は共通する。しかし2CVエンジンは日本の内燃機関の通例から乖離した特殊設計でもあったため(シリンダのコネクションロッド大端部を一体式とし、組立式クランクを窒素冷却して圧入する構造や、簡素化を狙った左右同時点火など、常道から外れた特徴が多かった)、より常識的なBMWやツュンダップなどのドイツオートバイ用水平対向2気筒エンジンをも参考とし、震動対策にも意を払った。経験の少ない空冷エンジンの設計で、開発陣は熱変形など冷却対策に苦慮したという。

吸排気バルブの隙間調整機構として、日本の乗用車としては初の油圧式ラッシュアジャスターを採用[1]し、メンテナンスフリーを実現したことが特徴である。軽量かつ簡潔、しかもコンパクトにまとめ上げられたこのエンジンの採用で、後輪駆動車ながらエンジンルームの前後長を詰めることができ、前輪駆動車と大差ない居住空間が得られたが、同時に、空冷エンジン故の騒音・震動など、ハンデキャップをも抱えることになった。

[編集] 発売と失敗

車名である「パブリカ」は、当時流行していた一般公募による。先述の如くパブリック・カー(Public car)からの造語であり、国民車に相応しい名であるとされた。

またトヨタは、パブリカ専売の新たな販売チャネルとして、既存の「トヨタ店」「トヨペット店」につづく第三の販売店網の構築に着手し、この新チャネルは「パブリカ店(現在のカローラ店)」と名づけられた。パブリカ店は既存の販売店網に対し、小規模の拠点を多数展開すること、地元資本の新たな参加を求めること、同一地域、同一都道府県内で複数の店舗・販売会社を競合させること、などを基本コンセプトとした。

1961年6月発売当時、セダン型の価格は38.9万円であった。広告コピーは「パブリカにはじまって、パブリカにつきる」であった。また、森永乳業とタイアップし、同社の販売する濃縮乳酸菌飲料「コーラス」のビンの栓(王冠)を集めると抽選でパブリカが当たるというキャンペーンを行った。パブリカの最初期型は現在トヨタ博物館で見ることができる。

しかし、発売時のパブリカは機能性とコストダウンを重んじて徹底した簡素化を図った結果、外装にはメッキ部品がほとんどなく、ラジオ・ヒーターなどの快適装備はもちろん、フェンダーミラーすら装備されていないという無い物づくしなありさまであった。性能や実用性には優れていたものの、そのあまりの質素さゆえに、発売当初から多くの大衆層には支持されず、販売台数は低迷した。当時は自家用車を購入することは大衆の「」のひとつであり、ゆえに自家用車には単なる実用性以上に、装飾などによる「高級感の演出」が求められていたからである。パブリカの発売に対抗して、軽自動車各車はデラックス化を進め、大衆は軽自動車へと流れた。

[編集] デラックス化・派生モデルの出現

トヨタは翌1962年バン、トヨグライド式のセミオートマチック仕様車を追加した。ライトバン仕様は当時大きかった商用車需要に応える形で販売強化を狙ったものであり、トヨグライド・モデルの投入は、イージードライブ性の向上による競合モデルとの差別化であったが、特に半自動変速機の後者を廉価な大衆車に導入したことは意欲的試みと言える。

同年の全日本自動車ショーで「パブリカスポーツ」を参考出品する。これはのち量産化改良され、1965年に「トヨタ・スポーツ800」として発売、空気抵抗の小さい軽量ボディによって高性能を発揮して「ヨタハチ」の愛称で親しまれることになる。

1963年、リクライニングシート装備やラジオ、ヒーターなどを搭載、クロームメッキ・モールなどの装飾を施した「デラックス」仕様(UP10D型)を追加する。東京地区の販売店がパブリカ販促の独自企画として、燃焼式ヒーターやラジオを装備し、メッキパーツをあしらった特別仕様車を売り出して好評であったことをうけて、全国展開したものである。デラックスの登場で、パブリカの売れ行きはようやく上向きとなった。

デラックスの発売により、基本モデルは「スタンダード」と呼ばれることになった。また同年には、セントラル自動車にボディ製造を委託したコンバーチブルを追加発売し、漸く月販3000 - 4000台の当初の予定台数に乗った。 1964年2月にはトラックモデルを発売、同年9月にはマイナーチェンジを行い、エンジン出力は32psにアップし、バンにもデラックス仕様が追加された。同時に「本格的ホーム・カー」と謳い、俳優の大坂志郎を起用したテレビCMも放映されている。

[編集] UP20系

1966年に、大規模なマイナーチェンジが行われた。排気量を800ccに拡大し、36psに出力が増した2U-C型エンジンに換装され(これと同時にバン、トラックもそれぞれ2U-B型エンジンに換装)、トルクチューブ・ドライブ化(操縦性・静粛性への配慮)やフロントノーズ形状およびリアデッキ形状の大幅変更など、同一車台ながらフルモデルチェンジに近い、大がかりな仕様変更を行った。

コンバーチブルモデルにはスポーツ800と同一のツインキャブ45psの2U型エンジンが搭載された。変更後の型式はUP20である。この年10月から、パブリカ店の名称は「トヨタパブリカ店」へと改められた。この間、数次にわたり販売価格が下げられ、1967年にはスタンダードの価格は35.9万円となった。トヨタは、当時1ドルが360円であったことにちなみ、パブリカを1000ドルカーと表現し、広告のキャッチコピーとした。

また、派生車種としてキャブオーバー型のミニエースが発売された。

この年、日野自動車と業務提携したトヨタは翌1968年、パブリカバンの生産を日野自動車に委託、バンは日野自動車羽村工場内の小型車ラインで製造されることになった。また同年は、コンバーチブルやスポーツ800と同様の高性能型エンジンを搭載したセダン、パブリカ・スーパーが追加された。

[編集] 2代目(P30/50系 セダン/バン・1969 - 1978年、ピックアップ・1969 - 1988年)

2代目パブリカセダン(後期型)
2代目パブリカセダン(後期型)
2代目パブリカピックアップ1300 DX(J-KP39)
2代目パブリカピックアップ
1300 DX(J-KP39)
同リア
同リア

1969年4月に二代目(UP/KP30型)へとモデルチェンジする。二代目にも2U-C型/2U-B型空冷800ccエンジンも残されたが(スタンダードのみ)、主力は初代カローラに搭載されていたK型エンジン(1100cc)を基本とする水冷直列4気筒1000ccの2K型エンジンとなる。

また、トラックモデルは「ピックアップ」に改称された。業務提携した日野自動車も、羽村工場内に小型車専用ラインを設け、商用モデルの組み立てに参加した。

初代の発売から8年が経過し、高度経済成長期にあった日本ではモータリゼーションが進展していた。自家用車の保有台数は毎年倍増する勢いであり、また、第二次世界大戦直後に生まれたいわゆるベビーブーマーたち(2009年現在でいう団塊の世代)が自動車運転免許取得年齢に達していた。トヨタは、パブリカを初代モデル発売以来の「大衆車」という位置づけから、「若者が最初に購入する新車=エントリーカー」へと商品企画を変更した。

「1000ドルカー」という初代後期型の直截的なキャッチコピーは消え、「ガッツ!パブリカ」「カモシカ」(ハイウェイの──、スタイリッシュなトヨタの──、──ルック、など)という、より抽象的なムードの表現に変化した。また、広告のイメージキャラクターには、大河ドラマへの出演などで人気が上昇中の若手俳優であった石坂浩二が起用された。

更にダイハツ工業との提携により、同社からはパブリカと同一ボディのコンソルテが発売された。コンソルテはパブリカと異なり、従来のダイハツ製乗用車であるコンパーノから転用された1000ccエンジンが搭載された。

新たに設けられたスポーティグレードのSLは、カローラSLと同一の1100ccのK-B型エンジンを搭載したが、同年10月、カローラがマイナーチェンジによって1200ccになると期を一にして、パブリカSLのエンジンもカローラ用の3K-Bエンジン(77ps/6600rpm)に変更された。同時に、トヨグライド式オートマチック仕様が1000ccに追加された。なおこの年、パブリカ店はカローラ店に改称され、パブリカは商用車を除いてオート店の取扱い車種となった。

1970年10月、マイナーチェンジが行われた。インストルメントパネルを変更し、1200ccモデルにシングルキャブレターハイ・デラックス仕様が登場、前輪ディスクブレーキが標準装備となった。これと同時に自動車排出ガス規制対策として、全エンジンにブローバイガス還元装置が設定された。

1972年1月に基本金型の変更を伴う大規模なマイナーチェンジを行い、エクステリアデザインを大幅に改め、前部をフラットデッキ化、後部をファストバック化する。この際、2U型空冷2気筒800ccエンジンを搭載するモデルは、乗用車排出ガス規制のクリアが困難との見通しから廃止されている(規制値の異なる商用版の2U-B型は1975年11月まで生産。パブリカの商用モデルのほか、同社のミニエースにも搭載されていた)。 1973年4月には、スポーティーな上級派生車としてパブリカ・スターレット(KP40系)が登場し、同年10月には新しい保安基準に適合させるためのマイナーチェンジを行った。

だが、この頃から人気は次第に下降線をたどる。この当時、市場の関心はカローラやサニーランサーシビックなどのクラスの大衆車に移っていったという経緯があったようである。

1976年2月には1200シリーズの51年排出ガス規制適合とともに最後のマイナーチェンジが行われ、適合モデルの型式が"B-KP50"となる。

同年9月にはATの復活もなされたが、1978年、二代目スターレット(KP60系)の登場を機に乗用車モデルの生産を終了した。

商用モデルは、バンが1978年10月の2代目スターレットバン登場まで生産・販売され、残ったピックアップは、エンジンを排出ガス規制適合の1300cc 4K-J型(型式はJ-KP39)に変更し、1988年まで生産された。

[編集] 注釈

  1. ^ 油圧ラッシュアジャスターの日本初採用例は、東洋工業(マツダ)が1950年に開発したCT型オート三輪用の空冷V型2気筒OHV・1157ccエンジンである。

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

最終更新 2009年10月19日 (月) 07:13 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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