ビング・クロスビー
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| Bing Crosby ビング・クロスビー |
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![]() 1940年 |
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| 本名 | ハリー・リリース・クロスビー | ||||||
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| 生年月日 | 1903年5月3日 | ||||||
| 没年月日 | 1977年10月14日(満74歳没) | ||||||
| 出生地 | |||||||
| 国籍 | アメリカ合衆国 | ||||||
| 職業 | 俳優、歌手、エンターテイナー | ||||||
| ジャンル | ジャズ、ポップス | ||||||
| 活動期間 | 1926年-1977年 | ||||||
| 活動内容 | 歌手、映画、ラジオ、テレビ | ||||||
| 配偶者 | あり | ||||||
| 主な作品 | |||||||
| 映画 『ホワイト・クリスマス』 『上流社会』 『駅馬車』 |
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ビング・クロスビー(Bing Crosby、1903年5月3日-1977年10月14日)は、アメリカ合衆国の歌手、俳優。アメリカ初のマルチエンターティナーのひとり。
目次 |
[編集] プロフィール
[編集] 生い立ち
ワシントン州タコマで、イングランド系とアイルランド系アメリカ人の両親のもとに生まれる。高校時代から演劇や音楽に関心を持ち、同州第2の都市のスポーケンでトップ私立大学のゴンザガ大学法学部に進学するが、友人のアル・リンカーらとジャズ・バンドを結成してほどなく大学中退、プロ・ミュージシャンとなる。後年にゴンザガ大学に私財を投じてビング・クロスビー・センターを建設し、現在も残っている。
[編集] プロデビュー
1926年には当時の人気オーケストラであるポール・ホワイトマン楽団に歌手として入団、翌1927年にはホワイトマン楽団内で結成された男性3人組コーラスグループ「リズム・ボーイズ」のメンバーとなる。のち「リズム・ボーイズ」はホワイトマン楽団から独立して人気グループとなった。
その後、ソロで歌唱した1931年の「アイ・サレンダー・ディア(I Surrender, Dear)」 などがヒットしたことから、ソロ歌手として独立する。この年、ラジオ普及が進んだ時代を背景に、CBSラジオで自らのラジオショー「ビング・クロスビー・ショー」を持つに至って、全米的な人気を獲得した。ラジオを媒体として人気を得た歌手の初期の代表例である。
[編集] クルーナー・スタイルの確立
クロスビーは1930年代当時、ラジオと共に普及し始めたマイクロフォンの増幅機能を活かして、声を張り上げず滑らかに発声する歌唱法「クルーナー・スタイル」を最初に確立した歌手としても知られる。
クルーナー・スタイルは、マイクロフォンとスピーカーを介することで発声の制約が生じることを逆手にとって編み出された歌唱法であったが、オペラなどと同様に肉声で大声を力強く出さなければならない在来の歌唱法を大きく革新したもので、歌唱にスマートに洗練されたイメージをも与え、広く大衆の支持を得ただけでなく、その後のポピュラー・ソングの曲作りにも大きな影響を与えた。
[編集] トップスター
その後は映画にも進出し、第二次世界大戦前後の全盛期を通じて生涯で57本の映画に出演した。映画興行でも最も観客動員力のある主演スターとして長年ハリウッドのトップに君臨した。また、『我が道を往く』では、アカデミー主演男優賞受賞、『喝采』では、同賞にノミネートされている。
なお、歌手として1940年以降、13曲の全米No.1ヒット(ビルボード誌)を持つ。「ホワイト・クリスマス」や「星にスイング」、「サイレント・ナイト」などの数々のヒット曲を世に出したこともあり、生涯のレコード売上は4億枚を超えるという。
[編集] 「ホワイト・クリスマス」
第二次世界大戦中の1942年に発売され、リメイク版を含めて全世界で4千500万枚を超える大ヒットとなった『ホワイト・クリスマス』(White Christmas)が有名。なお、この曲は発売以降ビルボードで14週間1位を記録した。
[編集] 晩年
死の直前までレコーディングを行い、晩年には『追憶』やコーラスラインから『愛の後悔』などもそのアルバムの中に残している。1977年11月に来日公演の予定だったが怪我のため翌年に延期。直後の10月14日にスペインのマドリード郊外モラレハにあるゴルフ場にてプロゴルファーのマヌエル・ピエロらとコースを回っている途中、17番ホールにて心臓麻痺で死去した。
[編集] 家族
最初の妻と死別後、女優のキャスリン・グラントと再婚。「ボブ・クロスビー楽団」で知られるボブ・クロスビーは弟、女優のメアリー・クロスビーは娘、映画『13日の金曜日』に出演したハリー・クロスビーは息子、俳優のデニース・クロスビーは孫。
1980年代に活躍し日本でも人気のあったヘビーメタル・バンド「ラット(RATT)」のギタリストであるロビン・クロスビーは遠縁の親戚である。
[編集] 映画
- 珍道中シリーズ -Road to...
- シンガポール珍道中 -Road to Singapore (1940)
- アフリカ珍道中 -Road to Zanzibar (1941)
- モロッコへの道 -Road To Morocco (1942)
- アラスカ珍道中 -Road to Utopia (1946)
- 南米珍道中 -Road to Rio (1947)
- バリ島珍道中 -Road to Bali (1952)
- ミサイル珍道中 -The Road to Hong Kong (1962)
- 我が道を往く-Going My Way (1944)
- 皇帝円舞曲 -The Emperor Waltz (1947)
- 喝采 -The Country Girl (1954)
- ホワイト・クリスマス -White Christmas (1954)
- 上流社会 -High Society (1956)
- 駅馬車 -Stagecoach (1965)
- ザッツ・エンターテインメント-That's Entertainment(1974)
[編集] 代表曲
- いつの日か君に(Where The Blue Of The Night (Meets The Gold Of The Day))
- サイレント・ナイト(きよしこの夜)(Silent Night)(1935年)
- 発売当時だけで600万枚を売り上げた。
- スイート・レイラニ(Sweet Leilani)(1937年)
- ミリオンセラーを記録。ハワイアン・ソングの古典となった。
- シエラ・スー(Sierra Sue)(1940年)
- オンリー・フォーエヴァー(Only Forever)(1940年)
- ホワイト・クリスマス(1942年)
- 映画「スイング・ホテル」の主題歌。アーヴィング・バーリンが作詞作曲した。ビルボードで14週間1位、1942~1962年まで1953年を除き20年間もクリスマスの季節になるとランクインし続け、トータルで86週ランクインした。1963年に「クリスマスソングは通常のチャートにはランクインさせない」という規定ができたため(1973年に規定解除)記録が途絶えるが、この年新設されたクリスマスチャートには1963年~1970年まで連続でチャートインし続けた。世界中で集計されている分だけでも4500万枚を(集計されていない枚数もかなりのものがあるといわれている)売り上げたとされ、これはギネス記録に認定されている。またカバー版やLPを含めると、北米だけでも1億枚以上が売れたとされる。
- アイ・ラヴ・ユー(I Love You)(1944年)
- サン・フェルナンド・ヴァレー(San Fernando Valley)(1944年)
- 星にスイング(Swinging on a Star)(1944年)
- 映画「我が道を往く」の主題歌。
- 僕は気ままに(Don't Fence Me In)(1944年)
- アイル・ビー・シーイング・ユー(I'll Be Seeing You)(1944年)
- イッツ・ビーン・ア・ロング・ロング・タイム(It's Been a Long, Long Time)(1945年)withレス・ポール
- 上記の2曲は、それぞれ「再会を期した別離」と「長い別離の末の再会」を象徴しており、直接は描写されないが、戦地に赴いた兵士たちを連想させる時代色の濃い歌である。戦時・終戦時の世相を象徴する曲で人気を博した。
- ホワイト・クリスマス(ニュー・ヴァージョン)(1947年)
- 今ぞ別れの時(Now Is The Hour)(1948年)
- トゥルー・ラブ(True Love)(1956年)グレース・ケリーとデュエット
- 映画「上流社会」の挿入曲。
- 世界一周(Around The World)(1957年)
[編集] ラジオ番組
- ビング・クロスビー・ショー(1931年)
[編集] テープレコーダー、ビデオ・テープレコーダーへの寄与
自らのラジオ番組を放送用に録音する見地から、第二次世界大戦中にドイツで開発されたテープレコーダーの技術をアメリカに移転することを目論み、テープレコーダー技術の開拓者であるアンペックス社設立に携わった。クロスビー自身、これに関連して自分の名前を冠した「Bing Crosby Enterprise Laboratories」という会社を起業している。
アンペックスは1952年に世界初のビデオ・テープ・レコーダー(VTR)を開発・実用化したが、これもまたテレビ時代に対応したクロスビーのニーズが一面にあっての開発である。
[編集] 競馬
クロスビーは熱心な競馬の愛好家でもあり、20世紀のアメリカ西海岸地区競馬の発展に大きく寄与した人物でもあった。クロスビーが最初に競走馬を手に入れたのが1935年のことで、以後多数の競走馬を所有していた。
1937年にはカリフォルニア州のデルマー競馬場の創設に寄与し、その共同取締役に就任した。競馬場のオープニングイベントではクロスビー自らが門の前に立って、詰めかけた客を出迎える演出を行っている。クロスビーの友人であったリンジー・ハワードの父チャールズ・スチュワート・ハワードも同競馬場の取締役の一人であり、この縁がきっかけで1938年8月12日に競馬のマッチレースイベントを開催することができた。クロスビー所有の競走馬リガロッティと、ハワード所有の競走馬シービスケットの対決は大いに注目を集め、デルマー競馬場の集客に多大な影響をもたらした。後の1946年にデルマー競馬場で創設された競走ビングクロスビーハンデキャップは、デルマーの発展に貢献したクロスビーの功績を記念して創設されたものである。
また、クロスビーはリンジー・ハワードとともにカリフォルニア州ヴェンチュラにビンギンステーブル(Binglin Stable)という名の牧場を開設し、サラブレッド競走馬の生産を始めた。またアルゼンチンにも牧場を作り、アメリカに輸入するほか、現地のパレルモ競馬場にも競走馬を送りこんでいた。ビンギンステーブルの主な生産馬に、1943年のサバーバンハンデキャップを制したドンビンゴ(Don Bingo)などがいたが、後の1953年にクロスビー夫人の死去に伴う相続税の支払いのために、牧場は解散している。
騎手(のちに調教師)のジョニー・ロンデンとも親しく、彼の紹介でカナダの出版社主マックス・ベルと知り合い、ベルや他のカナダ人実業家らとともにイギリスでも競走馬を走らせている。1962年に生まれた牡馬メドウコート(Meadow Court)はその1頭で、1965年のアイリッシュダービーに優勝した。クロスビーはカラ競馬場のウィナーズサークルで"When Irish Eyes Are Smiling"を歌唱し、喜びを表したという。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- Bing Crosby's Official Site
- Bing Crosby - Internet Movie Database (英語)
- The International Club Crosby Fan Club
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最終更新 2009年11月26日 (木) 15:04 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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