フェルディナント・ピエヒ

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Ferdinand Karl Piëch

フェルディナント・ピエヒFerdinand Karl Piëch, 1937年4月17日 - )は、ドイツの技術者、経営者。オーストリアウイーン生まれ。

ポルシェ、アウディで活動の後、フォルクスワーゲンAGの取締役会会長を経て、現在は同社監査役会長。ポルシェの大株主として、またオーストリアにおけるフォルクスワーゲン販売会社の大株主として、両社株式のそれぞれ10%以上を保有している。

目次

[編集] 人物

母は、名作フォルクスワーゲン・ビートル等を手掛け、戦後ポルシェを創業したフェルディナント・ポルシェの娘、ルイーズ・ピエヒ。父は、フェルディナントのビジネス・パートナーだった、弁護士のアントン・ピエヒ(Anton Piëch)。

技術者・経営者として精力的に活動するが、性格は風変わりで刺々しく、自動車一族であるポルシェ家の他のメンバーとの関係も良好ではないとされる[1]。私生活では、4人の女性との間に13人の子供を持つ。

極端なマスコミ嫌いで、華々しく活躍した経営者でありながら、大手メディアには殆ど登場しない。日本で単独インタビューに成功したのは、自動車専門誌のカーグラフィック(2000年10月号)と日刊工業新聞(2001年3月27日付)だけとされている。

[編集] 経歴

1963年、一族が支配するポルシェに入社しエンジニアとして活躍していたが、同族経営の弊害を防ぐため、一族を役員から排除する内規が制定されたことに伴い、退社した(従兄弟のブッツィ・ポルシェポルシェデザインを設立し独立したのも、同じ理由から)。

1975年、系列のアウディに開発担当重役として移籍し、4WDシステム『クワトロ』の開発や、WRC総合優勝などの業績を残した。また直列5気筒ターボエンジン、空力重視のデザイン、アルミボディの開発など、他のメーカーが二の足を踏む中で強烈な独自性を発揮し、同社を躍進させた結果、1988年に同社取締役会長に就任した。

アウディと同じ直列5気筒エンジン縦置きの前輪駆動車ホンダ・インスパイアの登場時(1989年)には、同車に試乗する目的のみで来日。トラクション性能を確かめるために、ホテルの広大な駐車場で急発進を繰り返し、「分かった。」と一言述べただけでその場を後にした。

1993年フォルクスワーゲングループの中核企業で、アウディの親会社に当るフォルクスワーゲンAGの会長に就任し、2002年まで同職を務めた。その間、ベントレーランボルギーニブガッティといった高級スポーツカーメーカーを次々と買収。これと併行して、後に大いに批判されることになる、フォルクスワーゲンの高級化路線を推し進めた。

2002年ベルント・ピシェッツリーダーに取締役会会長を譲り、監査役会長に退いた。同職には2012年までの留任が決定しているが、フォルクスワーゲンの筆頭株主でポルシェの大株主でもあるピエヒが、両社の監査役を兼任することに対する批判も聞かれる。

ピシェッツリーダーは1973年からBMWの技術畑を歩み、1991年から社長を務めていたが、1999年から子会社セアト会長としてフォルクスワーゲングループに招き下地を均していた。しかし業績不振から2006年末で退任に追い込まれた。

[編集] 自動車一族

ピエヒ家はポルシェ家の女系の傍流にあたり、両家併せてポルシェAGとフォルクスワーゲン・グループを支配している。総資産は4000億米ドル以上[2]とされる。


[編集] 批判

性急に過ぎた高級・高度化戦略は、本来小型で経済的な”国民車”として期待されていた大衆車に背を向け、大型に、華美に、高価にし過ぎたと批判されたのみならず、大型ハイテク高級セダンフェートンや、W型12気筒エンジンの開発難航、無人工場への傾倒など、技術至上主義に走った結果、製造原価を押し上げ、商業上も明らかな失敗であった[要出典]。また、かつてはドル箱だった北米市場では、ブランド力の低さと複雑化による信頼性低下、湾岸戦争以降の原油価格の高騰などに起因する販売不振が止まらず、赤字経営が恒常化している[要出典]

日本でも、例えば評論家の福野礼一郎は、ゴルフが肥大化・高額化していることを批判し、従来のフォルクスワーゲンらしさを味わいたければポロルポなど小さくて安い製品を選ぶべきであるとした[要出典]

最終更新 2009年9月8日 (火) 15:06 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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