ポーランド

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ポーランド共和国
Rzeczpospolita Polska
ポーランドの国旗 ポーランドの国章
国旗 (国章)
国の標語 : なし1
国歌 : ドンブロフスキのマズルカ
ポーランドの位置
公用語 ポーランド語
首都 ワルシャワ
最大の都市 ワルシャワ
政府
大統領 レフ・カチンスキ
首相 ドナルド・トゥスク
面積
総計 312,685km²68位
水面積率 2.6%
人口
総計(2008年 38,074,000人(34位
人口密度 124人/km²
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 1兆2,666億[1]ズウォティ
GDPMER
合計(2008年 5,257億[1]ドル(23位
GDPPPP
合計(2008年 6,660億[1]ドル(22位
1人当り 17,481[1]ドル
独立 ロシア帝国から
1918年11月11日
通貨 ズウォティPLN
時間帯 UTC +1(DST: +2)
ccTLD PL
国際電話番号 48
注1: ポーランドには公式な標語は存在しないが、過去、国家のシンボルに、Bóg, Honor, Ojczyzna(神、名誉、祖国)などの標語が書かれたことがあった。

ポーランド共和国(ポーランドきょうわこく)は、中央ヨーロッパに位置する共和制国家。

10世紀に国家として認知され、14世紀から17世紀にかけては大王国を形成した。その後衰退し、18世紀には3度にわたり国土が隣国に分割されて消滅した。第一次世界大戦後の1918年に独立したが、第二次世界大戦ではナチス・ドイツソ連の侵略を受けて再び国土が分割された。戦後の1952年に人民共和国として国家主権を復活、1989年民主化を果たして共和国となる。

冷戦時代はソ連の影響下に置かれ、共産主義政権が支配したため、政治的に東欧に含められてきたが、国内の民主化とソ連の崩壊を経て、その地理的文化的位置づけから中欧または中東欧として再び分類されるようになっている。首都はワルシャワ

ポーランドの北にはバルト海が広がり、北東ではロシア飛地であるカリーニングラード州リトアニア、東ではベラルーシウクライナ、南ではチェコスロバキア、西ではドイツと接する。

目次

[編集] 国名

ポーランド

正式名称はポーランド語で Rzeczpospolita Polska(ジェチュポスポリタ・ポルスカ)。通称 Polska。略称 RP。

公式の英語表記は Republic of Poland。通称 Poland。

日本語の表記はポーランド共和国。通称ポーランド(波蘭)、略語は

ポーランドの国名の「ポルスカ(Polska)」は野原を意味する「ポーレ (pole)」 が語源と言われている。最初にポーランドを建国した部族は「レフ/レック族(Lechici)」といい、また同時に「ポラン族(Polanie)」とも称した(「レフ/レック」Lechは古代ポラン族の伝説上の最初の族長の名前であるが、LechはPoleと同じく「野原」を原義とするともいわれる)。日本語に直訳すれば「ポラン」族は「原」族となる。

すなわちポルスカ(Polska)はこの「ポラン族(Polanie)の国」というのが元来の意味となる。

共和国」に相当する "Rzeczpospolita"(ジェチュポスポリタ)は、「公共のもの」を意味するラテン語の "res publica"(レス・プブリカ)の翻訳借用である。"res"(レス)には「物」や「財産」という意味があり、ポーランド語では"rzecz"(ジェチュ)がこれにあたる。"publica"(プブリカ)は「公共の」という意味で、ポーランド語では "pospolita"(ポスポリタ)にあたる。

[編集] 歴史

詳細は「ポーランドの歴史」、「ポーランド王国」をそれぞれ参照

[編集] ポーランド王国成立以前

プシェヴォルスク文化(黄緑)とザルビンツィ文化(赤)

ポーランド人の基幹部族となったレフ族/ポラン族(LechiciPolanie)については、古代ローマ時代の歴史家タキトゥスの本『ゲルマニア』の中で現在のポーランド南西部に住んでいたと書かれている「ルギイ族(Lugii)」との関連が指摘されている。彼らは「プシェヴォルスク文化(Przeworsk culture)」と呼ばれる、周辺のゲルマン諸部族とは異なる独特の文化を持つ集団で、プシェヴォルスク文化は、当時ゴート族のものと推定されるヴィェルバルク文化を挟んではるか東方にあった「ザルビンツィ文化(Zarubintsy culture)」と似通っていることが考古学調査で判明している。プシェヴォルスク文化とザルビンツィ文化は共通した文化圏で、もとは一つであり、ヴィスワ川河口付近からゴート族が入りこみ間に割って入って川を遡上しながら南下していったためこの文化圏が西方のプシェヴォルスク文化と東方のザルビンツィ文化に分裂したものと考えられる。


4世紀、プシェヴォルスク文化の担い手は、ゲルマン民族のブルグント族の隣、ヴィスワ川が大きく屈曲して作った平野の、当時は深いや入り組んだ湿原(現在はかなり縮小したとはいえいまだ広大な湿原が残っている)だった場所に住んでいた。その地理的な理由からフン族の侵入を免れ、ゲルマン民族の大移動の後に東方からやってきて中欧に定住した他のスラヴ諸部族と混交して拡大していったものが中世にレフ族(Lechici)あるいはポラン族(Polanie)としてヨーロッパの歴史書に再登場したとされる。この説ではルギイ(Lugii)はレフ/レック(Lech)のラテン語における転訛となる。なお、他のスラヴ語、たとえばロシア語では今でも「ルーク(Lug)」と「ポーレ(Pole)」はどちらも「野原」を原義とする言葉である。ロシア人を含む東スラヴ人はもともとポーランド人をリャキ(Lyakhi)と呼んでいた(現在はパリャキPalyakhiと呼ぶ)。リトアニア人はポーランド人をレンカイ(Lenkai)、ハンガリー人はポーランド人をレンジェレク(Lengyelek)と呼ぶ。

6世紀までには現在のポーランドの地にスラヴ民族が定住し、一種の環濠集落を多数建設した。遅くとも8世紀までには現在のポーランド人の基となる北西スラヴ系諸部族が異教(非キリスト教)の諸国家を築いていた。

8世紀、それまでレフ族/ポラン族(Lech/Polanie)とゴプラン族(Goplanie)を治めていた、後に「ポピェリド朝(Popielidzi)」と呼ばれることになった族長家の最後の当主ポピェリド(Popielid)が没し、「車大工のピャスト(Piast Kołodziej)」と呼ばれた人物(一説にはポピェリドの宮宰だったともされる)がレフ族/レック族の族長に選出され、「ピャスト朝」を創始した。

[編集] 王国の黎明期

建国の父ミェシュコ1世
初代国王ボレスワフ1世のキエフ入城

966年ピャスト朝レフ族/レック族(ポラン族/ポラニェ族)の5代目の族長ミェシュコが近隣のヴィスワ諸部族(Wisłanie)、ポモージェ諸部族(Pomorzanie)、マゾフシェ諸部族(Mazowszanie)などをレフ族に統合させ、自らキリスト教に改宗してミェシュコ1世公となり、国家はポーランド公国として西欧キリスト教世界に認知された。

992年にミェシュコ1世の息子ボレスワフ1世が後を継ぐと、この新しいポーランド公は西欧キリスト教世界におけるポーランド公国の領土を画定し、中央政府の権力を強め、武力によって国家を統合した。彼が確定したポーランド公国領は現在のポーランド領とほぼ一致する。彼はオットー3世ハインリヒ2世神聖ローマ帝国クヌーズ1世デンマークと積極的に外交した。1000年、オットー3世はポーランド公国の首都ポズナニ近郊のグニェズノへ自ら赴いてボレスワフ1世と会談し、そこに大司教座を置くことに合意した。ポーランド大司教座は以後現在に至るまでグニェズノにあり、グニェズノ大聖堂の扉はこの時代に製作されたものである。ボレスワフ1世は必ずしも神聖ローマ皇帝の権威を受け入れたわけではなかった。彼は神聖ローマ帝国領であった南のボヘミアへ軍を進めて1004年に自らボヘミア公となり、1018年に東へ軍を進めてキエフ・ルーシを攻略した同年こんどは西の神聖ローマ帝国領内に侵攻しバウツェン(ブジシン)の講和(Peace of Bautzen)によりマイセン(ポーランド語でミシニャ)とラウジッツ(ポーランド語でウジツェ)を獲得、その結果中欧に広大な新領土を確保した。その間、1015年には、若い友であり、また同時に妹の息子すなわち甥でもあったデンマーク王クヌーズ1世のイングランド遠征の援助をするため、自らの軍の一部を貸し出し、北海帝国の建設を援助した。1020年にはクラクフのヴァヴェル大聖堂の着工が開始されたとされる。

1025年、ボレスワフ1世の死の直前にローマ教皇ヨハネス19世によってポーランド公国王国として認知されポーランド王国となり、国境を確定した。王国領は西ポモージェ地方を除く現在のポーランド、チェコモラヴィア地方、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ドイツのラウジッツ地方、ウクライナの「赤ルーシ」地方となる。ボレスワフ1世が治めた属領も含めてすべてを合わせると西ポモージェ地方も含めた現在のポーランドのほぼ全域、チェコのほぼ全域、スロヴァキアのほぼ全域、オーストリアの一部、ハンガリーの一部、ウクライナ西部の赤ルーシ地方、ベラルーシ(白ルーシ)のブレスト地方、ドイツのラウジッツ地方とマイセン地方となる。

ポーランドが王国と認知されてまもなくボレスワフ1世が没したため、最初の戴冠式を受けたのは息子のミェシュコ2世である。しかし王国内の各地の諸侯は王権のこれ以上の拡大に危惧を抱いた。1034年、ミェシュコ2世は謎の死を遂げた。その後数年間は政治的な混乱の時代が続いた。

1038年、時のポーランド公カジミェシュ1世は政治が滞っていた首都ポズナニを離れ、クラクフへと事実上の遷都をした。正式な戴冠はしていなかったがポーランド王国の事実上の君主であった公は混乱を収拾し王国を再び纏め上げた。また、公はヴァヴェル大聖堂を大改築し、クラクフとヴロツワフ司教座を置いた。その長男で1058年に公位を継いだボレスワフ2世は神聖ローマ帝国皇帝とローマ教皇との間で起きていた叙任権闘争をうまく利用し、1076年にポーランド王位についた。

[編集] 長い分裂時代

1138年、ボレスワフ3世は王国の領土を7つに分割してそのうち5つを后と4人の息子たちにそれぞれ相続させ、そのうちの長男ヴワディスワフ2世にはさらにクラクフ大公領を与えてクラクフ大公とし、以後はクラクフ大公に就いた者がポーランドの王権を継ぐこととした。残りのポモージェ地方はポーランド王国の直轄領とし、現地の諸侯に実質的支配を任せた。1079年に大公位についたヴワディスワフ2世は国家の統一を画策し、大公の権力強化に反対するグニェズノの大司教と対立して大公支持派と大司教支持派の間で内戦となった。戦争は長引き、王国はどんどん小さな領邦に分裂していった。

1146年、時の大公ヴワディスワフ3世はフリードリヒ・バルバロッサ(のちの神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ1世)からの援助を得る見返りに当時の神聖ローマ皇帝ロタール3世に臣従し、これによってシロンスク公領の支配権を得た。「シロンスク・ピャスト朝」の始まりである。これによってシロンスク公領は当地のピャスト家が支配したままポーランド王国からは独立した状態となった。グニェズノ大司教をないがしろにしたうえシロンスク地方をポーランド王国から独立させたことがポーランド国内で大問題となり、ヴワディスワフ3世は大司教から破門され、神聖ローマ帝国へ亡命して後にフリードリヒ1世の居城で客死した。シロンスク公国は以後もシロンスク・ピャスト家の者が後を継いでいくことになり、そのうちの一族は17世紀まで続いた(庶子の系統は地方領主として18世紀まで続いた)。

以後もクラクフ大公の位は継続したがその権威は地に墜ち、ポーランド王国は王位を継ぐものがいないまま各地の領邦にどんどん分裂していった。

当時のドイツ騎士団長ヘルマン・フォン・ザルツァ(マルボルク/マリエンブルク城)

1226年、時のマゾフシェ公コンラートは北方のバルト海沿岸に住むプルシ(プルーセン)人の来襲に悩まされたあげく、ドイツ騎士団にプルシへの十字軍遠征を許可した。ドイツ騎士団は神聖ローマ皇帝の勅書を得て北方に向かい、以後50年の間バルト海沿岸地方で活動し、キリスト教の洗礼を受けないプルシ人は皆殺しにした。ドイツ騎士団はローマ教皇からの勅許を得たと主張してこの地に定住した。さらにドイツから入植者を呼び寄せてこの地を開拓させた。

レグニツァ/ワールシュタットの戦いに臨むヘンリク2世

1241年にはモンゴルのバトゥの軍の一部がポーランド南部に来襲し、サンドミェシュやクラクフなど南部の諸都市を襲ってシロンスクに侵攻した。時のシロンスク公でクラクフ公も兼ねていたヘンリク2世はポーランド人とドイツ人から編成された軍を率いてレグニツァでモンゴル軍を迎え撃った(ポーランド名レグニツァの戦い、ドイツ名ワールシュタットの戦い)。装備・物量で劣っていたヨーロッパの軍は果敢に戦ったが敗北し、ヘンリク2世も戦死した。まもなくモンゴル軍はアジアへ引き返したが、それまでにクラクフ公領とシロンスク公領の南部はモンゴル軍に略奪され、逃げ遅れた住民は殺され、これらの地方はほぼ無人となり荒廃してしまっていた。以後はモンゴル軍に襲われた地方の復興がこの地域の諸侯の最優先課題となった。モンゴル軍のいる間は疎開していたポーランド人住民もやっと戻ってきたが、それでは人手が全く足りなかった。侯たちはドイツや西欧から開拓民を呼び寄せた。この地域における本格的な東方殖民の始まりである。彼らは特にシロンスクとその周辺に定住し、多くの街を作った。これらの街では従来のポーランドの法律でなく、それまでドイツ人が故郷で慣れ親しんでいたマグデブルク法という都市法が適用された。これは当時の領主たちが西方からの植民者に与えたインセンティブであった。農村などその他の地域ではポーランド人の伝統法が使われた。以後は特にシロンスク地方を中心としたポーランド西南部にドイツ系住民が増え、原住民のポーランド人と混住していく。

ヴワディスワフ1世

ポーランド北部におけるドイツ騎士団の十字軍、そして南部におけるモンゴル襲来後のドイツ入植者の受け入れはこれらの地域の経済や文化の発展をもたらした反面、19世紀から20世紀にかけてのポーランド人とドイツ人との間の激しい民族紛争の遠因ともなった。

1295年プシェミスウ2世が全ポーランドの君主としてポーランド国王に即位、ポーランド王国はほぼ2世紀ぶりに名目的統一を果たしたが、この王は翌年何者かに暗殺されてしまった。この後同じくピャスト家のヴワディスワフが王権を求めて運動した。彼は農民、騎士、聖職者から支持されたが、ピャスト家の人物が王になると君主の権力が強化されて自分たちの自由が失われると恐れたクラクフの貴族たちによってプシェミスル朝のボヘミア王ヴァーツラフ2世がポーランド王に推挙されてしまい、ローマ教皇ボニファティウス8世の勅許が降りてヴァツワフ2世として即位した。ヴワディスワフは王位を巡ってこの新しい国王と争うのを避け、かわりにこの雌伏の期間に農民や騎士を率いて自らの軍を作り、ポーランドのほかの地域を武力で支配下に置く活動をした。将来のポーランドの真の統一へ向けての準備であった。ヴァツワフ2世の息子で1305年にポーランド王位を継いだヴァツワフ3世(ボヘミア王ヴァーツラフ3世)が翌年の1306年に何者かによって暗殺されると、ヴワディスワフがクラクフ大公に即位し、ヴワディスワフ1世としてポーランド統一に向けてさらに軍事行動を進めた。彼は1318年までにポーランド全土を自らの支配下に置いた。強力なポーランド君主が現れることを脅威と感じていたローマ教皇ヨハネス22世はヴワディスワフ1世への戴冠を渋ったが、しかしついには折れて国王即位の勅許を出した。1320年、ヴワディスワフ1世はポーランド王位に即位し、ポーランド再統一を完成させた。

[編集] 黄金時代

カジミェシュ3世「大王」

14世紀には西欧のペスト大流行で、ペストを流行させた犯人だというデマで特にドイツで迫害されたユダヤ人が、ポーランド王国の宗教的・民族的寛容さから、多数、移住してきた。以後、ポーランド王国は世界で最もユダヤ系住民の多い国家となった。当時は、ヴワディスワフ1世の子で、軍事、外交、内政に巧みな手腕を発揮したカジミェシュ3世「大王」がポーランド王国を治めており、彼の治世にポーランドは経済的な大発展をした。1364年、カジミェシュ3世はクラクフ大学(ヤギェウォ大学)を創立し、これ以後ポーランドの学術文化が華麗に開花していく。

グルンヴァルトの戦い

1385年、ポーランド女王ヤドヴィガとリトアニア大公ヨガイラ(ポーランド語名ヤギェウォ)が結婚し、ポーランド王国とリトアニア大公国人的同君連合と呼ばれる緩やかな国家連合であるポーランド=リトアニア連合を形成した(クレヴォの合同)。1399年にヤドヴィガ女王が没するとヤギェウォがポーランド王に即位し、以後ヤギェウォ朝がポーランドを統治することになった。1410年、ポーランド=リトアニア連合はグルンヴァルトの戦いドイツ騎士団を討ち、ドイツ騎士団領をポーランド王の支配下に置いた[3]。以後、ドイツ騎士団はポーランド王に忠誠を誓う封臣、ドイツ騎士団領はポーランド王国の封土となり、ドイツ騎士団領はポーランド=リトアニア連合に隷属する状態となった。

コペルニクス
ルブリン合同
ポーランド=リトアニア同君連合王国の誕生

1414年から開催されたコンスタンツ公会議ではグルンヴァルトの戦いの戦後処理について話し合われた。会議では当時異教徒の国であったリトアニアとキリスト教徒の国であるポーランド王国が同盟して、キリスト教徒のドイツ騎士団と戦争をした点が大問題となり、これについてポーランドに対してドイツ騎士団側からの激しい非難があった。ドイツ騎士団は「異教徒と同盟してキリスト教徒のドイツ騎士団を討伐したポーランドの行動は罪であり、この罪によって、ポーランド人は地上から絶滅されるべきである。」と主張した。ポーランド全権クラクフ大学校長であったパヴェウ・ヴウォトコヴィツ(Paweł Włodkowicラテン語名パウルス・ウラディーミリ)は画期的な主張をした。内容を簡単に要約すると、「リトアニア人のような異教徒であってもわれわれキリスト教徒と全く同じ人間である。したがって彼らは自らの政府を持つ権利(国家主権)、平和に暮らす権利(生存権)、自らの財産に対する権利(財産権)を生まれながらに保有する。よってリトアニア人がこの権利を行使し、自衛するの(自衛権)はまったく正当である。」というもので、これはまさに現代思想の基本的人権および国際法の理念の世界で初めての提唱であった。

1430年にリトアニア大公のヴィタウタス(ポーランド語名ヴィトルト)が没すると、ポーランド=リトアニア連合内はよりポーランド王の権威と権限を強め、事実上ポーランド王国の支配下に入り、全てのリトアニア貴族はポーランド語とポーランドの習慣を身につけてポーランド化していった。

ポーランド王国の最大版図

1543年、ミコワイ・コペルニク(ラテン語ニコラウス・コペルニクス)は著書『天球の回転について(De revoltionibus orbium coelestium)』を出版、地動説を提唱した。

1569年、ポーランドはリトアニアを併合(ルブリン合同)してポーランド王を統一君主とする物的同君連合の「ポーランド=リトアニア共和国」(第1共和国)となり、欧州最強最大の国家として君臨した。以後ポーランド=リトアニア国家は単に「ポーランド」とだけ呼ばれることも多くなった。

1572年、ヤギェウォ朝の唯一の男子であった時の国王ジグムント2世が男子を残さずに没し、ヤギェウォ家の「男系」の血筋は途絶えた。以後ポーランド=リトアニア連合王国は全てのシュラフタ(ポーランド貴族)が参加する選挙によって国王を決定する「選挙王政」を採る貴族共和国になった。ポーランド貴族の人数は常に人口の1割を超えておりその全てに平等に選挙権が付与されていた。アメリカ合衆国が18世紀末に独立してからしばらくの間選挙権を持つ者が合衆国全人口の1割に満たなかったことを考慮すると、当時のポーランド=リトアニア連合王国では後のアメリカ合衆国に比べ選挙権を持つ国民の割合が大きかったことになる。

[編集] 対外戦争の時代

ポーランド=リトアニア=スウェーデン同君連合
1619年のポーランド=リトアニア共和国の版図(赤い太線内の5色の地方)と現在の国々の国境線
ウイーン防衛を果たしローマ教皇に使者を送り出すヤン3世
5月3日憲法案の公布のため聖ヨハネ大聖堂へ入るポーランド国王スタニスワフ2世(帽子とマントの男性)

1592年、ポーランド=リトアニア共和国はスウェーデン王国同君連合となった。時の国王ジグムント3世(スウェーデン国王としての名はジギスムント)はスウェーデン生まれであるが、母がヤギェウォ家の血をひくポーランド人だったこともあって若いときからポーランドに住み、ポーランドの教育を受けていた。当初は当時の首都であったクラクフに居を構えた。1596年にはワルシャワ遷都した。以後現在までワルシャワがポーランドの首都となる。スウェーデンでは叔父で摂政を務めていたカールの反乱がおき、ジグムント3世はスウェーデンに軍を進めたが鎮圧に失敗し、1599年にスウェーデン王位を剥奪され、ポーランド=スウェーデン同君連合は解消した。

1611年、ジグムント3世はモスクワ大公国に侵攻しモスクワを占領した(ロシア・ポーランド戦争)。当初はポーランド=リトアニア=ロシア同君連合国家の実現は成功したと見られたが、占領中に「ロシア皇帝位にはカトリック教徒のポーランド国王あるいはその王太子のみが就く」という布告を出したことからロシア正教徒であるロシア人との間で宗教的対立を生じ、住民蜂起が起きたため1612年に撤退した。その後たび重なる戦争(ポーランド・スウェーデン戦争大洪水時代)によりポーランド=リトアニア連合王国の財政は急速に悪化していった。

1683年オスマン帝国による第二次ウィーン包囲を撃退し、全ヨーロッパの英雄となったヤン3世ソビエスキ王は以後、王国中央政府の権力を強めるため世襲王政を画策するなど王国再興を目指して奔走したが、志半ばで没した。その後王権は急速に弱まり、国庫は逼迫し、国力は衰退していった。

[編集] ポーランド分割

ポーランド分割
コシチューシュコ蜂起

18世紀後半にはポーランド=リトアニア共和国の国土が他国に分割占領(ポーランド分割)された。1772年に第一次ポーランド分割が行われた後、スタニスワフ2世王と支持者は、ポーランド=リトアニア連合王国の衰退を止めようと国内の大改革を断行しようとした。1791年、王はヨーロッパ初の成文憲法案を提出し、議会(セイム)はこれを可決した(「5月3日憲法」)。この憲法によって王権世襲制とともに、世界初の立憲君主制が成立し、ポーランド=リトアニア共和国は単一国家の「ポーランド王国」となった。1793年、議会によりワルシャワに国民教育委員会(Komisja Edukacji Narodowej, KEN)が設立された。これは貴族から平民まですべてのポーランド人を対象にしたものであり、人類史上初の教育省とされている。立憲君主制、すなわち民主主義に反対し貴族の既得権益を維持しようとする改革抵抗勢力はエカチェリーナ2世と結託した。ロシア帝国軍はポーランドに干渉戦争を起こした(ポーランド=ロシア戦争)。ポーランド軍は王の甥ユゼフ・ポニャトフスキと元アメリカ軍将軍でアメリカ独立戦争の英雄タデウシュ・コシチュシュコ(アメリカ名タディーアス・コシューシコ)が指揮を取った。戦局は一見ロシア軍優位に見えたが、実はポーランド側の戦術どおりに進んでいた。しかし抵抗勢力側に寝返った顧問から「勝利の望みは薄いので早期講和を」との助言を受けたスタニスワフ2世は抵抗勢力側と妥協して戦争を中止してしまった。この直後の1793年、第二次ポーランド分割が行われた。1793-94年、コシチューシュコが蜂起を起こしたが鎮圧された(「コシチューシュコ蜂起」)。1795年、第三次ポーランド分割が行われ、ポーランド国家は消滅した。ポーランドの大貴族(「マグナート」と呼ばれる)の広大な領地はそのほとんどがポーランド東部に集中しており、この地域はロシア帝国に組み込まれた。マグナートの領地は、各領主がロシア皇帝に臣従を誓うことを条件に守られた。

[編集] つかの間の再興

叙事詩『パン・タデウシュ』第三巻より「きのこ狩り」の場面

1807年ナポレオン戦争でポーランドはワルシャワ公国として再び独立した。しかし、ナポレオンロシア遠征に失敗して失脚すると、1815年ウィーン会議によって、ロシア皇帝を元首とするポーランド立憲王国となった。多くのポーランド人が国外、特にフランス亡命した。アダム・ミツキェヴィチの叙事詩『パン・タデウシュ』(これをもとにしてアンジェイ・ワイダ監督が製作した映画『パン・タデウシュ物語』)と、池田理代子の漫画『天の涯まで-ポーランド秘史』はこの時代を扱っている。

[編集] 独立運動の時代

ワルシャワのショパン像

ポーランド立憲王国における憲法はロシアによって無視された。フランスベルギーの革命にポーランド軍を派遣して介入ようとしたことにポーランド全土で反対運動が起こり、1830年、ロシア帝国からの独立を目指して「十一月蜂起」が起こったが、翌年鎮圧された。ポーランド出身の作曲家ショパンは国外にて蜂起発生の報を聞き、革命のエチュードを書いた。

1856年にロシア帝国がクリミア戦争に敗れて国力が弱体化すると、これを機にポーランド・リトアニア連合王国の復活を目指す人々が結集し、1863年、旧ポーランド王国領と、旧リトアニア大公国領で同時に「一月蜂起」を起こしたが、これもロシア帝国によって鎮圧された。数百人のポーランド貴族が絞首刑にされ、十数万人がシベリアイルクーツクなどに流刑となった[2]

ロシアに鎮圧された一月蜂起
擬人化されたポーランド(手前の女性)とリトアニア(奥の女性)

プロイセン王国内の旧ポーランド王国領であるポーゼン州(旧ポズナン大公国)では、1871年からはビスマルク文化闘争により、ポーランド人に対する抑圧政策が行われた。文化闘争はドイツ人も含めプロイセン王国内のすべてのカトリック教徒を対象としていたが、ポーランド人は圧倒的多数がカトリック教徒であったため、特に抑圧の対象になった。カトリック教徒に対する文化闘争は1878年に頓挫したが、ビスマルクはその後もポーランド人抑圧政策を続けた。ポーランド人は抑圧に対してポーランド文化をもって徹底抵抗した。抑圧政策によってかえってポーランド人の「連帯」とカトリック信仰は確固たるものになった。ポーランド人抑圧政策はヴィルヘルム2世がビスマルクを解任した後も続けられ、ドイツ帝国第一次世界大戦で敗北した1918年に終了した。

ポーランド王国の3人の摂政と衛兵

1916年、第一次世界大戦の最中にドイツ帝国によってその衛星国としてのポーランド王国が建国された。国王が決まるまでの間としてハンス・ハルトヴィヒ・フォン・ベセラーが総督となり、3人のポーランド人が摂政を務め、6人のポーランド人政治家が歴代首相となった。2人の娘がいずれもポーランドの名門大貴族に嫁いでおり、自らもポーランドのジヴィエツ(Żywiec)に住み流暢なポーランド語を話したオーストリア=ハンガリー帝国の皇族カール・シュテファン大公Karl Stephan, ポーランド名カロル・ステファン・ハプスブルク)がポーランド国王の最有力候補で、カール本人も積極的であった。しかしこの案にはオーストリア皇帝カール1世が乗り気でなく、結局最後までポーランド王国の国王となる人物はついに決まらなかった(カール・シュテファンは1918年にポーランドが独立した後もポーランドに帰化してジヴィエツに住み続け、1933年に当地で死去した。子孫はポーランド人として今もガリツィア地方に住んでいる[3]

[編集] 独立と第二共和国

1918年第一次世界大戦が終結すると、ヴェルサイユ条約民族自決の原則により、ドイツソビエト連邦から領土が割譲され、ユゼフ・ピウスツキ国家元首として共和制のポーランド国家が再生した。

ユゼフ・ピウスツキ

1920年にはソヴィエト連邦に対する干渉戦争の一環としてソヴィエトへ侵攻し、ポーランド・ソビエト戦争が発生した。緒戦にはウクライナのキエフ近郊まで迫ったが、トゥハチェフスキー率いる赤軍が反撃。逆にワルシャワ近郊まで攻め込まれた。しかしこれに驚いた欧米、とりわけフランスからの援助を受け、ポーランド軍は赤軍を押し返すことに成功、翌年に停戦した。

1922年に国家元首職を引退したピウスツキは、その後の政界の腐敗を憂い、1926年クーデターを起こして政権を奪取した。ピウスツキはポーランド国民の圧倒的支持のもと、開発独裁を主導した。この時期にポーランドの経済は急速に発展し、国力が強化された。国民のカリスマであったピウスツキが1935年に死亡すると、ユゼフ・ベックを中心としたピウスツキの部下たちが集団指導体制で政権を運営したが、内政・外交で失敗を繰り返し、その点をナチス・ドイツソヴィエト連邦につけ込まれるようになった。

[編集] 第二次世界大戦

ドイツ軍に攻撃されるワルシャワ王宮

1939年8月、ナチス・ドイツソヴィエト連邦が締結した独ソ不可侵条約の秘密条項によって、国土は再び両国に分割されることになる。1939年9月1日、グダニスク近郊のヴェステルプラッテのポーランド軍陣地への砲撃を手始めにドイツ軍とスロヴァキア軍が、9月17日にはソ連軍が東部国境を越えてポーランド侵攻を開始してポーランド軍を撃破し、ポーランド領土はドイツ、スロバキア、ソ連、リトアニアの四ヶ国で分割占領された。ポーランド亡命政府は当初パリ次いでロンドンに拠点を移し、戦中のポーランド人は国内外で様々な反独闘争を展開した。

[編集] 戦後

旧国境と新国境

1945年第二次世界大戦が終結するとポーランドは復活したが、その国の形は終戦前に行われた英・米・ソのヤルタ会談によって定められた。

ヤルタ会談#ポーランド問題」も参照

カティンの森事件などでソ連と敵対したポーランド亡命政府は帰国することが出来ず、ルブリンに置かれたソ連主導のルブリン政権が新たなポーランド国家となった。また領土が戦前と比べて大きく西方向に平行移動した。ソ連はポーランド侵攻以来占拠していたポーランド東部を正式に自国へ併合した代わりに、ドイツ東部をポーランドに与えた。これはスターリンが、992年ボレスワフ1世が確定したポーランド公国国境の回復に固執した結果である。事実、新しい国境線はボレスワフ1世時代のポーランド公国の国境線の位置に非常に近いものとなった。さらに軍事的理由から、ドイツとの国境線はほぼ最短となるように調整された。これにより、敗戦国ドイツは戦前の領土の25%を失うこととなった。現在の領土の西側3分の1近くが戦前のドイツ領である一方、この地域の大半は14世紀までポーランド王国領であり、その後も最終的にプロイセン王国に併合されるまでポーランドの影響が及ぶ地域もあったため、ポーランドの視点では数百年ぶりの領土回復となった。

この地域には100万人のポーランド人(原住民)とともに300万人のドイツ人が住んでいたが、赤軍の進攻を恐れて多くのドイツ人が西へ逃避してしまっていた。残ったドイツ人の多くも強制移住によりポーランド国外へ退去させられた(ドイツ人追放)。共産主義政権により民族を問わずポーランドに居住する住民すべてを対象に財産の国有化が行われ、これらドイツ人が残した不動産も国有化された。ただしソビエト連邦におけるような農業集団化はおこなわれなかった。

一方、ソ連に併合された旧ポーランド東部地域ではポーランド系住民が国境変更にともない、120万人が退去してポーランドに移住してきた。

ポーランドを訪問する教皇ヨハネ・パウロ2世

終戦後は、ソヴィエト連邦の強い影響下に置かれるとともに、ワルシャワ条約機構や、1949年1月ソヴィエト連邦によって、西側のマーシャル=プランに対抗するものとして設立されたコメコン(経済協力機構)に参加。社会主義国となり、東側陣営に組み込まれ、東西冷戦に巻き込まれた。

ワルシャワ大学前での「連帯」運動

しかしソヴィエト連邦の支配する体制による抑圧に抵抗する市民による民主化運動はこの期間に確固たるものとなり、運動は拡大していった。1979年6月にポーランド出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が故国ポーランドを訪れ、国民に熱狂的に迎えられた。これがポーランドの民主化運動、ひいては東欧全体の民主化運動に決定的な役割を果たすことになった。1980年9月17日には独立自主管理労働組合「連帯」が結成された。

[編集] 民主化から現在

レフ・ヴァウェンサ(ワレサ)元大統領

1989年円卓会議を経て民主化が完全に実現し、自由選挙が行われ、社会主義政権は下野した。

1990年11月14日には統一ドイツとの間で国境線を最終確認する条約が交わされ(旧西ドイツは、旧東ドイツとポーランドが1950年7月6日に交わした国境線画定条約の効力を認めていなかった)、ドイツとの領土問題は終了した。

1993年、第二次大戦からポーランドに駐留していたロシア軍(旧ソ連軍)、ポーランドから全面撤退。

1997年には憲法の大幅な改正が行われ、行政権が大統領から首相へ大幅に委譲され、首相が政治の実権を握ることとなった。

1999年NATOに加盟した。

2004年5月1日欧州連合(EU)に加盟した。

ドナルド・トゥスク
シェンゲン協定加盟国

2005年欧州連合(EU)に懐疑的で、経済における自国民の利益と社会におけるカトリック的価値を最優先に掲げたカトリック系保守政党「法と正義」が総選挙で勝利し、極右系小政党「自衛」「ポーランド家族連盟」とともに保守・極右連立政権を発足させたが、その極端な右翼政策と強硬外交はポーランド国民の失望と反発を買い、2007年9月7日に議会は解散した。

この解散を受けて2007年10月21日に行われた総選挙では、欧州連合(EU)の強化に積極的で、カトリック的価値観を尊重しながらも行政・経済・社会・司法の改革を標榜する中道右派政党「市民プラットフォーム」が勝利を収め、もう一つの中道右派政党「ポーランド国民党」とともに、「市民プラットフォーム」の若い党首ドナルド・トゥスク首相とする新政権を発足させた。

[編集] 西欧への回帰-欧州連合とシェンゲン協定

ヨーロッパ連合(EU)

2004年5月1日、ポーランドは欧州連合(EU)に加盟した。

2007年12月21日には国境審査が完全に撤廃されるシェンゲン協定に加盟し、他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間での陸路での国境審査が撤廃された。2008年3月30日には空路での国境審査が撤廃され、これで他のシェンゲン協定加盟諸国とポーランドの間でのすべての国境審査が撤廃されたことになる。

現在では、ポーランド人ならばパスポートなしでシェンゲン協定加盟国同士の往来が可能であり、シェンゲン協定加盟国に一度入国した旅行客はどのシェンゲン協定加盟国からでも国境審査なしでポーランドに自由に出入国をすることができる。

[編集] 政治

大統領宮殿
ポーランド下院(セイム)

政治体制共和制国家元首大統領(任期5年)であり、直接投票によって選出される。かつては大きな政治権力を託されていたが、1997年憲法改正により政治の実権は首相に移り、現在は外交の場で象徴的に出席する程度である。下院で可決した法案の拒否権があるが、下院が再度可決した場合にはその法案は成立する。軍の最高司令官でもあるが、これも象徴的な役職にすぎない。

行政首相が統率する閣僚会議(内閣)が担う。大統領は、議会の下院に当たるセイム (sejm) の大多数の連合から、首相の提案によって内閣を指名する。首相は強大な政治的権力を有している。現在の首相はドナルド・トゥスク

立法二院制議会(Zgromadzenie Narodowe)によって行われる。

下院(セイム、Sejm)
定数460名、比例代表制。議席獲得には全国投票の合計で政党が5%以上、選挙委員会(政党連合)は8%以上の得票が必要。少数民族の大半を占めるドイツ系住民の民族優先枠として、ドイツ民族政党は最高2議席まではこの最低得票率ルールから除外される(ドイツ民族政党は前回の総選挙で獲得票数が少なかったため、現在は1議席のみ確保している)。セイムは日本の衆議院に相当し、上院より優先される。
各党の議席数(定数430)
  • 市民プラットフォーム(Platforma Obywatelska, PO) - 209
  • 法と正義(Prawo i Sprawiedliwość, PiS) - 166
  • 左翼と民主(Lewica i Demokraci, LiD) - 53
  • ポーランド国民党(Polskie Stronnictwo Ludowe, PSL) - 31
  • ドイツ民族党(Mniejszość Niemiecka, MN) - 1
上院(セナト、Senat)
定数100名、中選挙区制
各党の議席数(定数100)
  • 市民プラットフォーム(Platforma Obywatelska, PO) - 60
  • 法と正義(Prawo i Sprawiedliwość, PiS) - 39
  • 無所属 - 1

[編集] 外交

国際連合(UN)、ヨーロッパ連合(EU)、シェンゲン協定シェンゲン情報システム(SIS)、北大西洋条約機構(NATO)、経済協力開発機構(OECD)、世界貿易機関(WTO)、欧州安全保障協力機構(OSCE)、欧州電気標準化委員会(CENELEC)に加盟している。

中欧の大国であり、ヨーロッパの東西・南北双方の中央に位置し、バルト海の南岸という要衝にあることから、ヴァイマール三角連合(Weimar Triangle)、ヴィシェグラード・グループ(V4)、環バルト海諸国評議会(CBSS)、中欧イニシアティヴ(CEI)、といった地域国際機関にも加盟している。

[編集] 地方行政区分

詳細は「ポーランドの地方行政区画」を参照

1999年に行われた県 (województwo) の大統合によって、ポーランドではそれまであった49県が16県にまでまとめられた。県の下位自治体として郡 (powiat) が合計373、グミナと呼ばれる地方自治体基礎組織 (gmina) が合計2489ある。

ポーランドの県区分図

(アルファベット順)


[編集] 主要都市

  都市 人口
1 ワルシャワ (Warszawa) マゾフシェ県 1,689,600
2 ウッチ (Łódź) ウッチ県 777,500
3 クラクフ (Kraków) マウォポルスカ県 756,757
4 ヴロツワフ (Wrocław) ドルヌィ・シロンスク県 633,000
5 ポズナン (Poznań) ヴィエルコポルスカ県 574 100


(アルファベット順)

[編集] 地理

マズールィ湖水地方
ヘル半島
ヴィエブジャ大湿地帯の風景
ポーランドはコウノトリの国
全世界のコウノトリの4分の1がポーランド国内で繁殖する
世界でもビャウォヴィエジャの森にのみ生息する野生のヨーロッパバイソン

西でドイツ、南でチェコスロヴァキア、東でウクライナベラルーシリトアニアと接していて、北東ではロシアカリーニングラード)とも国境を接している。北はバルト海 (Morze Bałtyckie) に面している。

南部を除き国土のほとんどが北ヨーロッパ平野であり、全体が非常にゆるやかな丘陵地帯となっていて独特の景観を有する。平均高度は173 mである。南部は山岳地帯で、タトラ山脈にはポーランドで最も高いリシ山(標高2499 m)がある。南部の国境近くにはカルパート山脈タトラ山脈を含む)やスデート山地(ポーランド語およびチェコ語でスデーティ (Sudety)、ベスキド山地を含む)がある。 深いが多く国立公園や県立公園として維持管理されている。東北部からベラルーシにかけて広がる「ビャウォヴィエジャの森」は「ヨーロッパ最後の原生林」とされる、北部ヨーロッパには珍しく全体に広葉樹が生い繁る巨大な森で、ヨーロッパバイソン(ポーランド語で「ジュブル」)やヘラジカ(ポーランド語で「ウォシ」)をはじめとした多数の大型野生動物が生息する。 ポーランドにある9300もののうち大きなもののほとんどは北部と中西部に集中している。北東部、北西部、中東部、中西部、南西部には特に湖が集中する湖水地方があり、美しい景観を有する。また湿原が特に多く、そのうち最大のものは「ヴィェブジャ大湿原」で、釧路湿原の10倍以上の面積がある。これらの湿原は国立公園や県立公園として維持管理されている。多くの水鳥が生息する。

西南部にはヨーロッパ最大の砂漠がある。

河川は以下の通り

  • ヴィスワ川(Wisła)
  • オドラ川(Odra)(オーデル川)
  • ヴァルタ川(Warta)
  • ブク川(Bug)
  • ナレフ川(Nalew)
  • サン川(San)
  • ノテチ川(Noteć)
  • ピリツァ川(Pilica)
  • ヴィェプシュ川(Wieprz)
  • ブブル川(Bóbr)
  • ウィナ川(Łyna)
  • ヌィサ・ウジツカ川/ナイセ川(Nysa Łużycka)
  • フクラ川(Wkra)
  • ドゥナイェツ川(Dunajec)
  • ブルダ川(Brda)
  • プロスナ川(Prosna)
  • ドゥルフェンツァ川(Drwęca)
  • ヴィスウォク川(Wisłok)
  • フタ/チャルナ・フタ川(Wda/Czarna Wda)
  • ドラヴァ川(Drawa)
  • ヌィサ・クウォヅカ川(Nysa Kłodzka)
  • ポプラト川(Poprad)
  • パスウェンカ川(Pasłęka)
  • レガ川(Rega)
  • ブズラ川(Bzura)
  • ヴィスウォカ川(Wisłoka)
  • オブラ川(Obra)
  • ビェブジャ川(Biebrza)
  • ニーダ川(Nida)

[編集] 地質

クラクフ=チェンストホヴァ高原のオイツフ国立公園

ポーランドの地質構造は、6000万年前に起きたヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の衝突と、北ヨーロッパの第四氷期によって形成された。このときスデート山地カルパティア山脈が形作られている。北部ポーランドのモレーンの景観は主にロームから成る土壌によるものである。氷河期に形成された南部の河川の谷は黄土を含んでいる。クラクフ=チェンストホヴァ高原ピェニヌィ山地西タトラ山地は石灰岩で構成される。高タトラ山地ベスキド山地カルコノシェ山地花崗岩玄武岩で構成される。クラクフ=チェンストホヴァ高原は地球上で最も古い山地帯の1つである。

[編集] 気候

バルト海に面した北西部は温帯気候であるが、東部や南部の山岳地帯では、冬季の間は河川が凍結する亜寒帯気候となる。降水量は平均しており、季節による変動が少ない。

[編集] 経済

[編集] 概況

詳細は「ポーランドの経済」を参照

ポーランド経済は若年人口の多さに支えられて、近年は毎年4~6%前後の高成長を見せていたが、世界的な金融危機の余波を受けたため、2009年の成長率は、欧州委員会(EC)の予測では-1.4%、国際通貨基金(IMF)の予測では-0.7%、欧州復興開発銀行(EBRD)の予測では0%、ロイター通信調査のポーランド国内外の民間金融機関の平均的な予測では+0.8%、ポーランド財務省の予測では+1%前後とされている。ヨーロッパ域内各国については軒並み大幅なマイナス成長が見込まれているが、GDPに対する対外債務残高や短期対外債務残高、金融機関の不良債権、個人の外貨建てローン残高が少なく(家計向けローンに占める外貨建のシェアは約40%、家計向け外貨建てローンは名目GDPの15%未満[4])、国内人口が大きいため輸出依存度が比較的低く国内需要が大きいという特徴があるポーランドは、通貨ズウォティの急落によって輸出競争力も回復してこの景気後退をうまく切り抜けると予想されており、ヨーロッパの国々のうちではもっとも高い数値の成長率予測をあらゆる調査で得ている国の一つである。

なお、上記の機関のうち国際通貨基金(IMF)はポーランドをはじめとした中東欧諸国についての外貨準備高に対する対外債務残高の割合を2009年4月に調査発表した際に、対外債務残高を二重に数えて過大に見積もってしまうという信じられないほどの重大ミスをしており、現在は急遽これらの数値の改正作業に入っている[5]。この改正の数値が発表されることよってポーランドの信用はさらに大きく回復するものと予想され、2009年4月にIMFが-0.7%とした経済成長率予測も上方修正されることが確実となった。IMFがこの誤りについて責任者の謝罪や関係者の処分などの引責を行うかどうかは不明。

2004年EU加盟当初は、ポーランドはEU内でも西欧諸国より低い賃金水準を持つことから、EU内の「工場」としての投資を受けていた。さらに、現在ではその高い教育水準を生かして研究開発施設をポーランドに設けようとする企業も多い。

また、EU加盟時に、ポーランドから多数の労働者がEU諸国に出稼ぎに出かけた。初めは、単純労働者としての雇用が先行したが、その後はホワイトカラーとしての雇用も増え、財を成すものも表れた。これまで本国経済の堅調に支えられてポーランドへ帰国する者が徐々に増加していたが、昨今の世界的な金融危機の余波で国内外の経済情勢が激変しているため、ポーランド本国でも就職の機会が少ないのではないか、職を得ても収入が低いのではないか、あるいはポーランド国内であっても自分の出身地とは離れた地方でないと求人していないのではないか、と考えて帰国をためらう動きも出てきた[6]。しかし、ポーランド政府は国内産業の長期的な発展を確実にするため道路や通信などといったインフラの整備を急ピッチで進めているため[7]、外国へ出ている出稼ぎのうち未熟練労働者の祖国へのUターンを積極的に奨励している。ポーランドにおけるインフラ整備や教育など経済発展の基礎作り事業は、規模が巨大であるにもかかわらず資金リスクがないのが特徴である。これは政府や民間からの資金調達に加えて、EUからインフラ整備や教育などポーランド事業を支援するために膨大な補助金が下りているからである。これまで9万のプロジェクトに86億ユーロの支援が行われ、13000もの一般企業、数千キロの道路建設、鉄道路線や各地の主要駅の改修や建て替え、無数の歴史的建造物や遺跡の整備といった事業がEUから潤沢な資金援助を受けている。また、61万人のポーランド人学生、260万人の一般のポーランド人がEU資金の恩恵を受けている。2007年から2013年にかけての間でポーランドがEUから補助金を受け取る事業の総数は、ドイツに次いでヨーロッパ第2位である[8]。このほかにEUからは農業補助金や行政補助金などがポーランドへ渡されている。ポーランド政府が、「ポーランドへ帰ろう!」キャンペーンを張って国外にいるポーランド人の帰国を熱心に促しているのは、これらの大事業のために膨大な人手が要るためである[9]

[編集] 税制

法人税は19%である。所得税は非常に簡単な2段階の累進課税方式で、課税所得に応じて18%あるいは32%となっている。付加価値税は22%を基本税率とした複数税率で、7%(一般の食品、医薬品、建築資材、観光サービス等)、3%(一部の食品)、0%(書籍)もある。

[編集] 工業

先進国として、EU内の「工場」として、非常に多岐にわたる第二次産業が行われている。特にパーソナルコンピュータテレビなどの情報家電の生産は盛んで、ヨーロッパのテレビ生産の3割をポーランドが占めている。

[編集] 農業

ポーランドの農業は伝統的に大規模化されておらず、約90%が個人農家であり、社会主義時代にも国有化・集団化の動きは無かった。国土面積のうち、農地の占める面積は42.1%である。

このような小規模農家はコスト効率が悪い反面、近年のオーガニックブームなどで、付加価値の高い作物を作るのに適しており、高品質の有機栽培作物が他のヨーロッパ諸国に盛んに輸出されている。

特筆すべき生産物としては、世界2位の生産量をほこるらい麦や、それぞれ高いシェアを持つフランス向けエスカルゴ、日本向け馬肉などがある。

[編集] 鉱業

ポーランドは鉱物資源が豊富であり、石炭を中心として多種多様の非鉄金属に恵まれている。

ヨーロッパではロシアに次いで豊富な石炭や、自国の消費量の2/3をまかなう天然ガスなどを有する。他にも重要な鉱物資源において世界シェアを有している。

[編集] 国民

民族構成(ポーランド)
ポーランド人
  
97%
ドイツ人
  
3%

2002年の国勢調査によると、人口は約3698万人で、そのうち約97%がポーランド人である。かつては多民族国家であったが、第二次世界大戦当時のポツダム会談の結果、領土全体が地理的に西側へ移動し、現在のようなほぼ単一民族国家となった。その他の少数派としては、ウクライナ人、リトアニア人、ベラルーシ人(主に東部に在住)、ドイツ人(主に旧ドイツ領の西部に在住)、ユダヤ人がいる。少数民族のなかではドイツ人が圧倒的に多く、国会の下院(セイム)において最高2議席の民族優先枠が設けられている(ただし前回の総選挙では獲得投票が少なかったため、現在は1議席のみ確保)。

[編集] 言語

国語はポーランド語。ポーランド語は印欧語のスラヴ語派西スラヴ語群に属する言語で、チェコ語スロヴァキア語上ソルブ語下ソルブ語などと共通のグループに属し、そのうち、カシューブ語などと共にレヒト諸語(レフ諸語)を構成する。表記はロシア等で用いられるキリル文字ではなく、ラテン式アルファベットでなされる。

冷戦時代に東側に組み込まれたため、現在でも多くの40代以上のポーランド人はロシア語を解すが、若い世代においては英語が圧倒的な人気を獲得している。英語は小学校1年からの履修科目となっている。また、第二外国語としてドイツ語やフランス語を学ぶ学生も多い。ロシア語の履修者数も最近徐々に回復してきた。

近年は日本語ブームであり国立大学の日本学科(ワルシャワ大学クラクフ大学ポズナニ大学)の入学および卒業は非常に狭き門となっている。そのほか、グダニスク大学など国内の多くの国立・私立の大学に日本語の講座があり選択科目として履修できる。

[編集] 宗教

聖マリア教会主祭壇(クラクフ)、1489年完成
リーヘン大聖堂(2004年完成)、世界最大級の教会建築

米国CIAの調査によると、国民の約95%がカトリック教徒であり、うち75%が敬虔な信者である。このように、ポーランド人の価値観や日常生活にカトリックの信仰が根付いており、ポーランド・カトリック教会が存在する。史上初のポーランド出身の教皇ヨハネ・パウロ二世は絶大な尊敬を集めた。そのほか、プロテスタント正教会ユダヤ教会イスラム教(中世からの伝統を持つリプカ・タタール人)、浄土真宗チベット仏教をはじめとした仏教の信者もわずかながら存在する。

[編集] 若者の国

経済協力開発機構(OCED)加盟国に共通する問題としてポーランドにも少子化の傾向がある。その反面、若者が非常に多いのもまたポーランドの特徴で、人口の50%が35歳以下、35%が25歳以下、20%が15歳以下である。また学生全体の87%が外国語を習得している[10]高等教育にも熱心な国民性で、大学進学率は約70%にものぼり[11]、19歳から24歳までの人口全体の55%が学生である[12]。学生の多くはインターンアルバイトなどの仕事と学生生活を掛け持ちしている。学生の間では日本のマンガの人気が高い[13]。一方、子供の貧困率が約20%(日本は約15%)で、これはアメリカ合衆国メキシコと同程度のため、これを引き下げることがポーランド政府の社会政策における最優先課題の一つとされている。

[編集] ポーランド人の苗字

ポーランド人の苗字は非常に多く、総数40万以上にのぼり[4]、世界的にもユニークといわれる。ポーランドの人口は3800万人程度であるから、同じ苗字を持つ人の数は平均すると100人を下回ることになる。NowakやKowalski(女性はKowalska)といった苗字を持つ人が最も多いとされるが、それでも絶対数は非常に少なく、これらの苗字を持つ人に出会うことは稀である。

ポーランド語の姓には-ski(/~スキ、女性は-ska/~スカ)という語尾が多い。この-skiというのは名詞形容詞のように「~の」という意味で使う場合に付く接尾辞である。英語の-ish(Polandに対するPolish)のドイツ語の-isch(Japanに対するJapanisch)などと同様、インド・ヨーロッパ語族の言語がもともと共有する用法。たとえばWiśnia(意味は「」)からWiśniow(意味は「桜村」)という村名が派生し、そこからWiśniewski(意味は「桜村の~」)という意味の姓が生まれる。Jan Wiśniewskiさんならば、意味は「桜村のジョンさん(Janは英語のJohn)」となる。

また、アメリカ合衆国など英語圏の国家に移住すると、しばしば苗字をそのまま英語に翻訳したものを登録して使うようになる(NowakをNewman、KrawczykをTaylorに改名など)。その結果、現地の社会に同化していく。

苗字人口上位20(2002年)は以下のとおり。

  1. Nowak (ノヴァク; 203,506人; 英語の"Newman")
  2. Kowalski (コヴァルスキ; 139,719人; 英語の"Smith")
  3. Wiśniewski (ヴィシニェフスキ; 109,855人; 英語の"Cherry")
  4. Wójcik (ヴイチク; 99,509人; 原義は「戦士」)
  5. Kowalczyk (コヴァルチュィク; 97,796人, 原義は「"Smith"の息子」)
  6. Kamiński (カミニスキ; 94,499人; 英語の"Stone")
  7. Lewandowski (レヴァンドフスキ; 92,449人; 英語の"Levantine")
  8. Zieliński (ジェリニスキ; 91,043人; 英語の"Green")
  9. Szymański (シュィマニスキ; 89,091人; 英語の"Simon")
  10. Woźniak (ヴォシニャク; 88,039人; 英語の"Cart")
  11. Dąbrowski (ドンブロフスキ; 86,132人; 英語の"Oak ")
  12. Kozłowski (コズウォフスキ; 75,962人; 原義は「雄ヤギ」)
  13. Jankowski (ヤンコフスキ; 68,514人; 英語の"John")
  14. Mazur (マズル; 66,773人; 原義は「マズーリ地方」)
  15. Wojciechowski (ヴォイチェホフスキ; 66,361人; 原義は聖アダルベルトの本名Wojciech)
  16. Kwiatkowski (クフャトコフスキ; 66,017人; 英語の"Flower")
  17. Krawczyk (クラフチュィク; 64,048人; 原義は「"Taylor"の息子」)
  18. Kaczmarek (カチュマレク; 61,816人; 英語の"Inn")
  19. Piotrowski (ピョトロフスキ; 61,380人; 英語の"Peter")
  20. Bagiński (バギニスキ; 60,492人; 英語の"Master")

[編集] 著名なポーランド人

詳細は「ポーランド人の一覧」を参照

以下の人々はそれぞれの分野で日本でもよく知られている。

[編集] 文化

[編集] 食文化

詳細は「ポーランドの食文化」を参照

ポーランド料理は、基本的に家庭料理である。しかし、歴史的に多くの民族が集う地域であったため、周辺のさまざまな民族の食習慣を取り入れてポーランド文化に同化しており、伝統料理のバラエティは非常に豊かである。

過去には、ポーランドでは一日に4回の食事をとっていたが、近年は3回の家庭が多い。基本的には昼食を正餐とし朝食夕食は軽く済ますのが伝統だが、都市部では男女とも外に出て働くことが多いことから、昼食を軽くし夕食を正餐とする場合も多くなっている。

[編集] 住居

田舎の木造住宅
ポーランドのアパート
地方の街の住居

ポーランド国内の都市の中心部は中世の街並みが保存維持されているが、外縁部の風景に共通するのは旧共産圏によく見られる四角いアパート群が多いことである。これは旧体制時代に建設されたもの。戦後、人口増加の対策として間に合わせに作られたものである。こぢんまりして使い勝手はいい。しかし一方、そういった近代アパートの存在がポーランドのよき文化的伝統に対する脅威となっているとの社会学的非難がある。地区のカトリック教会がある程度人々を結びつけている。

ワルシャワなどの大都市に関しては高度成長を背景に、複数の不動産開発業者がビジネス街に超高級マンションオフィスホテル複合施設を建設することになっており、今後数年の間に多数の超高層ビルが新たに出現することになっている[14]

一方、郊外および地方では、伝統建築の、あるいは伝統建築をモチーフにした美しい一戸建てが多く建てられてきており、古い建物も順次リフォームされ、こちらでは地域のコミュニティがよく発達している。

[編集] 教育

クラクフ大学コレギウム・マイウス(ラテン語:「大カレッジ」)、現在も使用されている15世紀の建築

詳細は「ポーランドの教育」を参照

1999年9月1日より、従来の社会主義時代からの8・4制を改め、6・3・3制に移行した。

[編集] 音楽

第二次世界大戦後のポーランド音楽の展開については「ポーランドの現代音楽」を参照

[編集] 世界遺産

詳細は「ポーランドの世界遺産」を参照

ポーランド国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が12件ある(そのうちドイツとにまたがっているものが1件)。また、ベラルーシとにまたがって1件の自然遺産が登録されている。したがって世界遺産は合計13件となる。

そのほかに現在、世界遺産の暫定リストに4件が登録されている(そのうち1件は現在登録されている自然遺産の拡張である)。

[編集] 観光

それぞれの観光地については「ポーランドの観光地」を参照

田舎のホテル
ヴィェルコポルスカ県ヴォルシュテュィン(Wolsztyn)の宮殿ホテル

1989年12月25日までポーランド全土は冷戦体制のもとで東側諸国の重要な軍事拠点となり外国人に門戸が閉ざされていた。冷戦が終わってポーランドに駐留していたソ連軍が全面撤退してから約20年たち、現在では国内観光は完全に自由化され、「ヨーロッパのハートランド」[5]として、欧米諸国ではバカンス客からバックパッカー客まで幅広い層の観光客の間で人気を得ている。2007年12月21日にはシェンゲン協定に加盟し、シェンゲン協定加盟国すべてとの往来がパスポートなしで可能となった。加盟国の間では国境のどこからでも出入りが自由となっている。 ポーランドには歴史的価値の高い街、建物、施設、景観が数多くある。とりわけ古都クラクフの旧市街にある中央広場(Rynek Głowny)は「世界で最も美しい広場」と評価されている[6]

前述のとおり世界遺産の数は全部で13件あり(中東欧地域で最多)、さらに4件が暫定リストに登録されている。また自然環境もよく保存され、国立公園や県立公園が多数あって保護されており、ユネスコ生物圏保護区が9か所ある。

また、国内のあらゆる地方に無数に存在する貴族宮殿は近年次々とリフォームされ美しいホテルとして営業しており、これら「宮殿ホテル」や「城館ホテル」に宿泊しても西欧諸国よりはるかに割安に贅沢な旅行ができる。また、農家に滞在して農業体験をしたりゆっくりと一日を過ごしたりする「アグロツーリズム」も近年は盛んである。

[編集] スポーツ

シュチェチン市世界帆船レース

詳細は「ポーランドのスポーツ」を参照

多くのヨーロッパ諸国同様サッカーの人気が高く、2012年にはウクライナと共催でUEFA欧州選手権2012が開催されることになっている。その他、陸上競技バスケットボールフェンシングハンドボールアイスホッケー水泳バレーボール重量挙げなどの競技が人気である。

[編集] 祝祭日・年間行事

日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月1日 元日 Nowy Rok 新年。ニューイヤーパーティーなどが盛大に行われる。(休)
1月6日 3人の博士の日 Trzech Króli 三人の博士がイエス・キリストに会いに来たのを記念する日。
1月21日1月22日 おばあちゃんの日・おじいちゃんの日 Dzień Babci・Dzień Dziadka 21日がおばあちゃんの日で22日がおじいちゃんの日
移動祝祭日 脂の木曜日 Tłusty Czwartek 脂っこいものを食べる日。
移動祝祭日 復活祭 Wielkanoc 春の満月後の最初の日曜日と翌日の月曜日。キリストの復活を祝う日。クリスマスと並ぶ大きな祭日。2007年は4月8日と9日。(休)
5月1日 メーデー Święto Pracy (休)
5月3日 5月3日憲法」記念日 Rocznica Konstytucji 3 maja 1791年に制定された憲法を記念する日。 ※ヨーロッパで初めての憲法 (休)
5月26日 母の日 Dzień Matki
移動祝祭日 聖霊降臨の祝日 Zielone Świątki 復活祭後の7回目の日曜日。聖霊が使徒たちの上に下ったことを記念。2007年は5月27日 (休)
6月1日 子供の日 Dzień Dziecka
移動祝祭日 聖体の祝日 Boże Ciało 聖霊降臨節の10日後の木曜日。最後の晩餐を記念する。2009年は6月11日(休)
6月23日 父の日 Dzień Ojca
8月15日 聖母被昇天の祝日 Wniebowzięcie Najświętszej Marii Panny チェンストホーヴァ(Częstochowa)にあるヤスナ・グラ寺院(Jasna Góra)へ、ポーランド各地から大規模な巡礼が行われる。(休)
11月1日 諸聖人の日 Wszystkich Świętych 聖人を祭る日。墓地で家族や親類の墓にろうそくを置く。(日本で言うお盆) (休)
11月2日 死者の日 Zaduszki 祖先の霊を供養する日
11月11日 独立記念日 Narodowe Święto Niepodległości ロシアドイツ,オーストリアからの独立を記念する日。(休)
12月6日 サンタクロースの日 Mikołajki Mikołaj(Nicolaus=サンタクロース)の日とされ、子供たちにプレゼントが与えられる。
12月24日 キリスト降誕祭前夜(クリスマス・イヴ Wigilia Bożego Narodzenia 教会でミサを行う。基本的に日本のクリスマス・イヴとは違い家族で過ごす。(日本のお正月のような雰囲気)この日は肉を食べてはいけないというならわしがあり、伝統的に鯉を食べる。
12月25日12月26日 キリスト降誕祭(クリスマス Boże Narodzenie クリスマスの日。親戚や家族で集まる。 (休)
12月31日 シルヴェスターの夜 Sylwester 大晦日にあたるが、日本のものとは異なる。家族や親戚、友人でパーティーを催したり、夜中の12時に花火を飛ばしたりする。

※(休)は休日

[編集] 書籍

  • 山本俊朗 井内敏夫 『ポーランド民族の歴史』 (三省堂選書)

[編集] 出典

  1. ^ IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. ^ http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h12/jog142.html
  3. ^ [2]
  4. ^ 渡違克義 「ポーランド固有名詞学序説」
  5. ^ http://www.airfrance.fr/US/en/local/guidevoyageur/destination/guidevoyage_pl.htm
  6. ^ http://www.pps.org/squares/info/squares_articles/international_squares

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ


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最終更新 2009年11月15日 (日) 11:28 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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