マーク I 戦車

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Mark I tank
ソンムに展開したMk.I
ソンムに展開したMk.I
用途 戦車
主要運用者 イギリス陸軍
設計者 ウィリアム・トリットン
ウォルター・ゴードン・ウィルソン
製造者 ウィリアム・フォスター社
運用期間 1916年から1931年

マークI戦車 (Mark I tank) はイギリスが開発した世界初の戦車で、第一次世界大戦中に実戦で使用された。西部戦線における塹壕機関銃の圧倒的優位を打破するために誕生した。

[編集] 前史

世界で最初に実戦投入された近代戦車は、陸軍でなく、海軍の主導により開発された。

第一次世界大戦時、飛行場警備などに装甲車を運用していたイギリス海軍航空隊が「陸上軍艦」(Landship)の提案を行い、1915年3月、当時海軍大臣であったウィンストン・チャーチルの肝いりにより、海軍設営長官を長とする「陸上軍艦委員会」が設立され、装軌式装甲車の開発が開始された。陸上軍艦委員会による幾つかのプロジェクトののち、フォスター・ダイムラー重砲牽引車なども参考にしつつ、1915年9月にリトルウィリー(LittleWille)を試作した。リトルウィリー自体は、塹壕などを越える能力が低かったことから実戦には使われなかったが、改良を加えられたマザー(Mother)が1916年1月の公開試験で好成績を残し、Mk.I戦車のもととなった。

[編集] 特徴

マークIは菱形の車体で、泥地の塹壕でも乗り越えられるだけの低い重心と履帯を備えた。車外の側面には張り出した銃座(スポンソン)があり、左右1門ずつQF 6ポンド砲と2丁のオチキス機関銃を装備した。他にも前後には取り外し可能なオチキス機関銃2丁があった。

マークIの操縦は非常に困難であったと言われている。針路の変更は、左右どちらかの履帯を止めるか速度を落とすかのいずれかによって行われた。乗員8名のうち4名は銃座につき、もう2名は操縦士で、操縦士のうち1名は指揮官の役割を担いブレーキを操作し、もう1名はプライマリー・ギアボックスの操作を行った。残りの2名はギアーズマン(gearsmen)と呼ばれるギア専門の操縦士で、左右の別々になっているセカンダリー・ギアボックスの操作をそれぞれ担当した。エンジンを動かしている間は騒音で耳を塞がれ、操縦士がプライマリー・ギアボックスを設定した後は手信号でギアーズマンに調整するよう伝えるが、車内が火器のフラッシュや硝煙で視界が悪い時にはスパナでエンジン部を叩くなどして注意をひくこともあった。エンジンがエンストを起こした場合、ギアーズマンがエンジンとギアボックスの間にある大きなクランクを回してエンジンを始動させるが、ほとんどのマークIは停止した状態に砲撃を受けて破壊された。わずかな針路変更であれば、車体の尾部に備え付けた大きな2つの車輪を使うことができた。この車輪は鋼鉄製のケーブルを引っぱっており、このケーブルによって他の戦車と同じ針路に進むことを避けた。

車体の内部は分割されておらず、乗員はエンジンと同じスペースに乗り込んでいた。換気を考慮されていない構造であったため、有毒な一酸化炭素、気化した燃料やオイルの臭気、火器から生じる硝煙などによって車内は劣悪な環境であった。その上、エンジンから発生する熱によって摂氏50度に達することもあった。乗員はこれらの問題に対応するため、ヘルメットとゴーグルを常備し、塹壕戦で一般化したガスマスクを装備することもあった。

側面の装甲厚は8mmで、小火器の攻撃に耐えられるようにしたものだが、同時期にドイツで開発された徹甲弾のK バレットが命中すると貫通されてしまった。また、歩兵に包囲されて制圧されたり、手榴弾で攻撃されたりする危険性もあった。イギリスは手榴弾の攻撃に対処するため、上記写真のように車体上部に切妻屋根状の構造物を載せ、改良型の装甲をより厚くさせた。それに対してドイツは対戦車専用の対戦車ライフルを開発し、手榴弾の威力を高めるため棒状の手榴弾を束ねた収束装薬 (Geballte Ladung) などを生み出している。

マークIは戦車としては未熟で、歩兵の連携を得られないなど、それに見合う戦果を残すことができなかったとされる。兵器として本格的に活躍できた初の戦車はフランスのルノー FT-17と言われている。

[編集] 関連項目

最終更新 2009年10月9日 (金) 09:08 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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