モデナ

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モデナ
Modena
[[ファイル:{{{panorama}}}|300px|モデナの風景]]
モデナ の紋章
イタリア
エミリア=ロマーニャ
モデナ
測地系 北緯: 44°39′0″ 東経: 10°56′0″
標高 海抜 34 m
面積 182 km²
人口 180,638 2005年8月31日 
人口密度 989 人/km²
分離集落 Albareto, Baggiovara, Ca' Fusara, Cognento, Cittanova, Collegara, Ganaceto, Lesignana, Marzaglia, Navicello, Portile, San Damaso, San Donnino, Tre Olmi, Villanova
隣接コムーネ バスティリアボンポルトカンポガッリアーノカルピカザルグランデ (RE)、 カステルフランコ・エミーリアカステルヌオーヴォ・ランゴーネフォルミージネノナントラルビエーラ (RE)、 サン・チェザーリオ・スル・パーナロソリエーラスピランベルト
CAP(郵便番号) 41100
市外局番 059
ISTATコード 036023
IDコード F257
住民の呼称 modenesi o geminiani
守護聖人 聖ジミニャーノ
祝祭日 1月31日
Comune
Posizione del comune nell'Italia
公式サイト

モデナModena)は、人口180,638人のイタリア共和国エミリア=ロマーニャ州モデナ県コムーネの一つで、モデナ県の県都である。アクセントが第一母音にあるのでモーデナと記すこともある(モデーナは誤り)。

郊外にフェラーリの本拠地マラネッロがあることや、特産品バルサミコ酢で有名である。

目次

[編集] 歴史

エトルリア人の定着、その後のガリア人紀元前183にはローマの植民地となった。当時は「ムティナ」(Mutina)と呼ばれ、紀元前2世紀に始まるエミリア街道の敷設の拠点となった。5世紀から7世紀にセッキア川とパーナロ川の氾濫が原因で、住民はより西のチッタノーヴァに移動した。 モデナは12世紀には自由都市として1288年からはフェラーラのエステ家の元で過ごした。司教区内の人口が徐々に回復し、町の指導者に就いたレオドイーノ司教は、891年に町の周囲に壁を作った。 司教によるシニョリーアの時期に、新たな大聖堂が建設された。司教の権力は1135年の自治コムーネにより終わったが、1249年のフォッサルタの戦いで、皇帝派のモデナは教皇派のボローニャに敗北し、1288年にはフェッラーラエステ家の手に渡った。しかし、モデナはチェーザレ・デステ公の時代の1598年以後に彼の公国の首都はフェッラーラからモデナに移された。イタリアとヨーロッパの権力争いによって国の運命は翻弄され外国の軍隊(1702年のフランス、1742年のオーストリア)の占領が繰り返されるも、唯一ナポレオン時代中断はあったものの、イタリアの統一まで抵抗を繰り返した。 18世紀の終わりと19世紀の始めにはエミーリア、特にモデナ県は当初は社会主義者の、後には共産主義者の砦となった。占領は激しかったがファシストの手当たり次第の暴力により少なくなった。 1940年代のモデナはドイツ占領軍とファシスト軍の作戦よる、破壊、虐殺、略奪、恥辱を受けることとなった。軍はこの地域に全力を再投入したにもかかわらず、市民の大多数の参加による非常に大きなレジスタンス活動により抑圧に成功しなかった。戦後から始まった共産主義政党は街の文化的特質となりつつあったこれらの闘争の遺産を集めた物だった。イタリアのどこよりもこの州において左派の協同組合が生まれるのも偶然ではない。

大聖堂、トッレ・チヴィカ(ギルランディーナ)、グランデ広場はユネスコ世界遺産に登録されている。

752年に設立されたノナントラの修道院は中世において学問の中心であった。

[編集] コムーネの行政

  • 代表(Sindaco) : Giorgio Pighi(2004年6月14日選出)
  • コムーネの代表電話 : 059 20312
  • コムーネのe-mail アドレス : piazzagrande@comune.modena.it


[編集] 出身の著名人

[編集] 姉妹都市

[編集] 関連項目

最終更新 2009年10月26日 (月) 08:49 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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