一式戦闘機
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キ43 一式戦闘機「隼」
一式戦闘機(いっしきせんとうき、いちしきせんとうき)は第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。試作名称(機体計画番号。キ番号)はキ43。愛称は隼、呼称・略称は一式戦。連合軍のコードネームはOscar(オスカー)。開発・製造は中島飛行機[1]。
総生産機数は5,700機以上で、旧日本軍の戦闘機としては海軍の零戦に次いで二番目に多く、陸軍機としては第一位[2]。
目次 |
[編集] 開発と名称
1937年(昭和12年)12月に陸軍からキ43の試作内示が行われ、中島では設計主務者として小山悌設計課課長を中心とする設計課が開発に取り組んだ。研究課空力班から戦後国産ロケット開発で大きな足跡を残すことになる糸川英夫技師が設計に協力した。引き込み式主脚以外の基本構造を前作の九七式戦闘機から踏襲したことから、開発は比較的順調に進み、翌1938年(昭和13年)12月に試作一号機が完成、同月12日に初飛行している。しかし、試験飛行の結果、ノモンハン事件で活躍した九七戦に比べ航続距離が長いものの、最高速度の向上が僅かな上に旋回性能も劣る事が判明したため、キ43試作機型をそのまま採用することは見送り、より強力なエンジンに換装して高速化を図った改良型(キ43-II)の開発を進めることが一旦決定された。
ところが、南進計画に伴って、南方作戦にて遠隔地まで爆撃機を援護することが出来る航続距離の長い戦闘機の必要が生じた。米英の新鋭戦闘機に対抗可能と考えられたキ44(後の二式単座戦闘機「鍾馗」)の配備が間に合わないことと[3]、陸軍新鋭機を審査する部門である飛行実験部実験隊長の今川一策大佐の推薦もあり、一転してキ43試作機型に最低限の改修を施した機体が急遽制式採用されることになった。このため、開戦時に配備されていた部隊は僅か二個飛行戦隊(飛行第59戦隊、飛行第64戦隊)であったが、その後旧式化した九七戦に代わり陸軍航空隊(陸軍航空部隊)の主力戦闘機となった。
ちなみに、登場したばかりの頃は一式戦の存在自体が知られておらず、また当時の陸軍戦闘機は胴体に国籍標識の日の丸を記入しなかったこともあり、海軍の戦闘機ばかりか、身内の陸軍の九七戦パイロットからも敵新型戦闘機と誤認され、味方同士の真剣な空中戦が起きるなどの珍事もあった。この為開戦から1年ほど経つと陸軍戦闘機も胴体に日の丸を描く様になっている。また、外見が類似していることから、交戦相手の一部の米英軍パイロットから零戦と誤認される事もあり、ビルマ方面の英軍からは、「ゼロ」に類似した一式戦ということで「ゼロワン」と呼ばれたり、それ以前にAVGによって「ニュー・ゼロ」と呼ばれたこともあったという。
当機は皇紀2601年(1941年、昭和16年)に制式採用されたため、下二桁をとって「一式戦闘機」と命名された。 以前より陸軍内部や、その活躍を報道する新聞紙上やニュース映画等においては、航空部隊や戦闘機の比喩表現として「荒鷲」「陸鷲」「隼」といった猛禽類の呼び名を用いており[4]、後に一般国民に対する宣伝の為、一式戦闘機には愛称として「隼」が採用された。太平洋戦争中には各マスメディアによる報道や、1942年(昭和17年)10月公開の映画「翼の凱歌」、1944年(昭和19年)3月公開の映画「加藤隼戦闘隊」といった両ヒット作を通じ、「隼」は広くこの名で全国民に知られ親しまれる事となった。
[編集] 飛行性能
[編集] 最高速度・上昇力
ハ25(離昇950馬力)を搭載した一型(キ43-I)の最高速度は495km/h/4,000mにとどまった。ハ25は二一型以前の零戦に搭載された「栄一二型」とほぼ同じものであるが、燃料が統一される開戦直前まで、陸軍では海軍より低オクタンの燃料を使用していたことが零戦との最高速度の違いとなって現れたと考えられる。エンジンをより高出力のハ115(離昇1,150馬力。海軍の栄二一型とほぼ同じ)に換装した二型試作型の最高速度は515km/h/6,000mに向上、主翼を短縮し増速効果のある推力式単排気管を装備した二型(キ43-II)の後期生産型ではこれより30km/h以上高速だったとされる。更に高出力なハ115-IIに換装した三型(キ43-III)では、最高速度が560km/h/5,850mに向上しているが、機体重量が増したことから上昇力は一型と同程度に留まっている。 このような改良にも関わらず、最高速度は米英の新鋭戦闘機と比較すると劣速であるのは否めず、また連合軍が一式戦の得意とする格闘戦を避け特に一撃離脱戦法を駆使してくるようになり、機数も大幅に勝り戦局自体が劣勢になった大戦中期以降、二型でニューギニアの戦いに従事し「ニューギニアは南郷でもつ」とまで謳われたエース・パイロット、飛行第59戦隊第2飛行隊隊長の南郷茂男大尉(戦死後、陸軍中佐。南郷茂章海軍少佐の弟)は、戦死の数週間前の1943年(昭和18年)末に「P-38に翻弄され、もはや一式戦の時代に非ず」と日誌で嘆いている。
[編集] 加速性能
最高速度では米英の戦闘機に見劣りしていた一式戦だが、機体が軽いために加速性能に優れていた。その加速性能はP-47サンダーボルトやP-51ムスタングといった米英の新鋭機にも劣らず、低空においてP-47が急加速した一式戦に引き離された、という事例も報告されている。ただし、その軽さと脆弱性が災いし、急降下時の加速に対する機体剛性に劣り、これが大きな弱点ともなっていた(零戦も同様)。
[編集] 運動性能
一式戦は1,000馬力級エンジン装備戦闘機としては非常に軽快な運動性を持っていた。しかし、試作機の最高速度が九七戦とさほど差がなかったことから、その代替として九七戦と同等以上の旋回性能の確保が要求されたため、キ44(二式単戦「鍾馗」)用に開発された蝶型フラップ(空力班として、これらの研究開発に携わっていたのが糸川技師)が装備された。このフラップは空戦フラップとしても使用することが可能で、旋回半径を小さくするのに効果的であったと言われるが、扱いが難しいため、熟練者でなければ実戦で上手く活用することは難しかったと思われる。なお、九七戦との比較については、後に空戦フラップを使用しなくとも、上昇力と速度を生かした垂直方向の格闘戦に持ち込む事で圧倒可能と判断されている。
[編集] 武装
一式戦は「運用目的を対戦闘機戦闘に絞ることで、武装の限定等の軽量化を可能とし、低出力エンジンでも一定の性能を確保する」という思想の元で開発されたため、当初はドイツのMG17 7.92mm機関銃の国産型が予定され、実際に試作1~3号機に2挺ずつ搭載されていた。この機関銃は口径こそ従来の7.7mm機関銃と大差ないが、より発射速度と弾丸威力の大きい新型で、九八式固定機関銃の名で仮制式となった。ところが、使用するバネの国産化が上手くいかずプロペラ同調に狂いが生じたため、4号機以降の増加試作機や初期の量産型である一型甲には従来の八九式固定機関銃(7.7mm)が機首に2挺装備された。
1939年、より威力の大きい口径12.7mm機関砲として、ホ101、ホ102、ホ103の三種類の試作が始まった。ホ102は輸入したフィアットBR.20爆撃機に付いていたイタリア製12.7mmブレダSAFATの国産型で、増加試作機の7号機と10号機に搭載して試験が行われた。ホ103は、ブローニングM2のバリエーションであるMG53Aをデッドコピーし、ブレダの弾薬(もともとはイギリスのヴィッカース系12.7x81SR。M2は12.7x99)を組み合わせたものである。M2より一回り小型軽量で、原型にはない炸裂弾マ103も使用可能であり、発射速度でも勝るという長所がある一方で、軽量弱装弾のため威力や有効射程が劣るという短所もあった。また初期は炸裂弾の信管に不具合があり、弾丸が銃身内で破裂して機体を破損するケース(腔内破裂)が多発し、これらの事故によって損傷したものがかなりの数に上ったと言われる。このため、初期には機関砲の砲身に鉄板を巻くことで腔内破裂時の被害を少しでも軽減する措置がとられ、性能が安定した中後期でも燃料に着火できる曳光弾で代用されることも多かったという。ホ103は一式12.7粍固定機関砲の名で制式となった。
一式戦は開発中だったホ103の生産に目処がついたことから、一型に対し機首左側の八九式固定機関銃のホ103・一式12.7粍固定機関砲への換装が順次施され一型乙とし、太平洋戦争開戦時までには全ての第一線機が機首右側に7.7mmの八九式固定機関銃を1挺、左側に12.7mmのホ103を1門装備となり、後の一型丙からは機首2門ともホ103を装備となった。
「空の狙撃兵」と呼ばれた九七戦譲りの高い射撃安定性を持つ一式戦は、搭載機銃数の割には命中率がよかったと言われる。とは言え、ラバウルやニューギニア、ビルマにおいて、機体要所への装甲等による防弾装備の質が高く、ハリネズミと形容されるように旋回機銃の数が多く重防御を誇ったB-17やB-24の撃墜に苦心するなど、設計時に想定していない大型爆撃機迎撃に用いるには火力は不足とされ、「加藤隼戦闘隊」として有名な飛行第64戦隊戦隊長であった加藤建夫中佐が撃墜されたのも、火力不足を補うために爆撃機(英空軍の双発爆撃機ブリストル ブレニム)に接近しすぎたことが原因の一つだったとされている[5]。
米英機との火力差を埋めようにも、主翼が機関銃/機関砲搭載に向かない三桁構造であったため、搭載するには主翼構造自体を変えせざるを得ず、新たな生産ラインを作る手間と時間が必要だった。しかし、同じ中島飛行機においては、より高速で翼内機関砲を持つ二式単戦や、後続機となる四式戦闘機「疾風」(キ84)の開発・配備が進んでいた為か、一式戦への翼銃・翼砲の装備は見送られた。手っ取り早い武装強化として、主翼下へのガンポット装備も検討されたが、飛行性能が低下することからこれも見送られている。大戦末期にホ103の拡大型であり四式戦他に装備されていたホ5・二式20粍固定機関砲を搭載した三型乙も試作されたが、重量過大による性能低下により採用には至らなかった。
[編集] 諸元
| 正式名称 | 一式戦闘機二型 |
| 試作名称 | キ43-II |
| 全幅 | 10.837m |
| 全長 | 8.92m |
| 全高 | 3.085m |
| 翼面積 | 22m² |
| 翼面荷重 | 117.7 kg/m² |
| 自重 | 1,975kg |
| 正規全備重量 | 2,590kg |
| 発動機 | ハ115(離昇1,150馬力) |
| 最高速度 | 初期型:515km/h(高度6,000m) 前期型:536km/h(高度6,000m) 後期型:548km/h(高度6,000m) |
| 上昇力 | 5,000mまで4分48秒 |
| 降下制限速度 | 750km/h |
| 航続距離 | 3,000km(増槽有)/1,620km(正規) |
| 武装 | 胴体12.7mm機関砲(ホ103・一式12.7粍固定機関砲)2門(携行弾数各270発) |
| 爆装 | 30kg~250kg爆弾2発 |
[編集] 再評価
カタログスペックから見ても太平洋戦争(大東亜戦争)後半には完全に旧式化したと思われる一式戦「隼」だが、1945年(昭和20年)まで生産が続けられた。そのような機体を大戦末期まで生産・使用した事を、陸軍の不手際と評価する記事もあるが、後続となる二式単戦「鍾馗」は重戦タイプで、軽戦に慣れたベテランパイロット(あるいは適応力のないパイロット)の中には使いにくいと評価する者もおり、三式戦「飛燕」はエンジンの信頼性に問題があり全体的に稼働率が低く、1944年より「大東亜決戦機」として、陸軍の主力戦闘機として重点的に生産・配備された四式戦「疾風」は、そのバランスの取れた高性能と実戦での活躍により、米軍から「日本最優秀戦闘機」と評されたものの、末期にはハ45の質の低下や不調等によりこちらも全体的に信頼性に難があった。一式戦は全生産期間を通じて比較的安定した性能を維持しており信頼性も高く、また新人パイロットにも扱いやすかった為使用は継続された。
また、開戦初期の航空戦に限らず、ビルマや中国大陸では戦争末期においても、連合軍の新鋭戦闘機との戦闘で互角以上の結果を残している。一方的な勝利を収めたことも少なからずあり、これは連合軍と日本軍側の損失記録の比較による裏付けも取れている[6]。
実際最後期の三型では、同時期の零戦が火力、防御力の増強による重量の増加で相対的に飛行性能を落としていたのに対し、上昇力・運動性が優越した機体になっていた。これは本機が当初の一型から防弾対策として防漏タンクを、二型の途中から防弾装甲板を採用していたのに対し、零戦は当初は防弾対策が全く施されておらず、1943年(昭和18年)末から1944年にかけて(五二型)ようやく後付けした事も大きい。帝国陸軍はソ連軍を相手としたノモンハン事件での戦訓の一つとして、戦闘機への防弾装備の必要さを痛感しており、当初から(米軍の12.7mm弾に対し不十分とはいえ)防弾装備を採用した一式戦の先見の明は明らかである。陸軍パイロットの中には、運動性能が高く故障が少ない三型を「(最初の一撃を喰らわないように見張りさえしっかりしていれば)落とされない戦闘機」として陸軍の最優秀戦闘機として位置づける者も少なくなかった。一式戦は陸軍機と言う性質上、零戦に比べ多くの爆弾を搭載(両翼下に250kg爆弾を1発ずつ搭載可能)でき、攻撃機の代用としても使用された事も必要とされた理由と思われる。ただし大型爆弾を搭載した場合、飛行性能は大幅に低下し、また脚部の強度が不十分であるため離着陸に注意が必要であった。
[編集] 各種形式
- 一型(キ43-I)
- ハ25を装備した最初の生産型。武装は増加試作機や極初期量産型は八九式7.7mm固定機関銃2挺(一型甲。キ43-I甲)だが、後に7.7mm機関銃1挺+12.7mm機関砲1門に強化(一型乙。キ43-I乙)。後には更に12.7mm機関砲2門に強化(一型丙。キ43-I丙)。生産当初から7.7mm弾対応の自動防漏式燃料タンクを装備。1944年末頃まで部隊運用された。いきすぎた軽量化のために機体強度に問題があり、例として1942年7月31日のビルマにおける空中戦では、急降下するP-40を追尾した3機の隼一型が、引き起こしの際に両翼が折れて失われている。
- 二型(キ43-II)
- 前述の欠陥を改善、機体構造が強化され降下制限速度が一型の500km/hから600km/hにまで引き上げられた他、エンジンをハ115に換装、これに伴いカウリングも抵抗の少ない丸みを帯びた形に変更され、一型ではカウリング内に環状式に装備されていた潤滑油冷却器がカウリング下に移されている。さらに左右主翼端を30cmずつ短くし、プロペラも2翅から3翅に、また途中からカウリング前半が丸みを帯びた形状に変化した。武装は12.7mm機関砲2門に、自動防漏式燃料タンクも12.7mm弾対応に強化された他、途中から操縦席後方に12.7mm弾対応の防弾板を追加した。前期では一型と同様の集合排気管であったが、排気のロケット効果を利用して速度を向上させるため、後期では集合式推力排気管に変更し最高速度が536km/hに向上、末期にはさらに効果の高い推力式単排気管となり最高速度を548km/hまで向上させた。なおこの排気管は二型を三型に改造する現地改修用キットが、末期の二型に転用されたものであった。二型は一式戦闘機の中で生産数が最も多い。
- 三型(キ43-III)
- エンジンを水メタノール噴射装置付きのハ115-IIに換装した最終生産型。武装や防弾は二型と同じ(三型甲。キ43-III甲)。中島は試作のみで、生産は立川のみで行われた。武装を20mm機関砲2門に強化した三型乙(キ43-III乙)は試作のみ。三型(二型後期含む)になると、当初の『軽戦』のイメージが薄れ、かなり無理がきく機体になっていたとされる。
- 四型(キ43-IV)
- エンジンを水メタノール噴射装置付きのハ112-II(海軍の金星六二型とほぼ同じ)に換装し、機体の一部を木製化した機体。計画のみ。
[編集] 一式戦と零戦
一式戦は海軍の零戦と比較され、その武装の貧弱さ、速度性能などから零戦に劣ると評価されることが多い。しかし、アメリカ軍が零戦三二型と一式戦二型の鹵獲機を用いて行った調査では、最高速度については一式戦が僅かに遅いものの、加速力や上昇力は零戦を上回る(最高速度と上昇力については、日本側のカタログデータでもほぼ同じ傾向が見られる)とされている。
零戦は艦上戦闘機という性質上、1機種で侵攻・制空・重爆迎撃と、当時の戦闘機に求められるほぼすべての要素を内包し、艦上機としての必要装備・性能も盛り込まれ、更に採用が一式戦より1年早い。双方とも1千馬力級の軽量戦闘機として設計されており、軽武装で対戦闘機任務に特化され、艦載機としての制約も無い陸上戦闘機である一式戦が、零戦に比して飛行性能に勝るのは当然ではある。[7]
飛行第64戦隊や陸軍航空審査部で活躍した黒江保彦少佐の様な一式戦の優位を活かせる熟練操縦者が操っていれば、大戦後半でも低空戦闘でP-51等の米英空軍新鋭戦闘機に対し勝利を納めることも不可能ではなかった。
武装については、当初から20mm機銃2挺を装備していたのみならず、後に三式13.2mm機銃(これもブローニングM2の国産型だが、陸軍とは口径や使用弾薬等が異なる)1~3挺を追加して更なる武装強化を行った零戦に対し、一式戦はほぼ最初から最後までホ103・12.7mm機関砲2門のみで戦っており、武装の面では零戦の後塵を拝していたのは明らかである。但し、上記した様に、一式戦の弱武装には大型爆撃機の迎撃を考慮しないという設計思想が強く影響しており、大型爆撃機の迎撃が開発目的の一つだった零戦とは事情が大きく異なる。
一式戦は火災からパイロットを守るために胴体内に燃料タンクを設置しておらず、燃料タンクは全て主翼内に設置されていた(三型ではメタノールタンクを後部胴体に設置)。これに対し零戦は胴体内にも燃料タンクを設けていたが、搭載出来る燃料の量はほとんど同じであった。またエンジンと機体規模もほとんど同じであるため、燃料消費量もほとんど差はなく[8]、当然の事ながら両者の航続距離はほぼ同等ということになる(一式戦が零戦より航続力で劣るとされることが多いのは、一般に知られている一式戦の航続距離が零戦より搭載燃料の少ない状態で計測された値であるためである)。
とは言え、マクロ的に見れば一式戦と零戦は「エンジン出力の不足を徹底した軽量化で補う」という似たような設計思想の元で開発された、ほぼ同じエンジンと機体規模を持つ同世代の戦闘機である。そのためか、開戦直前に行き過ぎた軽量化による機体強度の不足のため発生した空中分解事故の対策として、急遽生産中の機体と既配備機に補強が行われたり、エンジン・新型機関砲(機銃)の不調や不備に悩まされるなど、似たような時期に似たような問題を抱えている。
また、機体そのものの比較ではないが、一式戦は九七戦に対して旋回性能が劣っているとして(卓越した運動性能を有した九七戦の強いイメージが審査側にあった)一旦不採用となった。しかし仏印侵攻作戦のために航続距離の長い戦闘機が求められたのと、蝶型フラップの装着で旋回性能の向上があり、漸く採用に至った。その一方で零戦も九六艦戦に対してやや旋回性能が劣っていたが、総合力では勝るとしてすんなりと採用されている。
[編集] 海外使用国
一式戦は最も多く日本以外の軍隊でも運用された日本製戦闘機でもある。大戦中には「友好国」であった満州国軍やタイ王国空軍に供与されたが、満州国では米軍の爆撃機を相手に幾度となく戦闘を行っている。タイでも大戦中の実戦参加の他、戦後も数年間、アメリカ製の戦闘機に代替されるまで使用されていた。
また、戦後はフランス軍、インドネシア軍、朝鮮人民軍、中国人民解放軍、中華民国空軍でも使用されている。フランスは第一次インドシナ戦争において二つの部隊で一式戦二型を対ゲリラ戦に投入、インドネシアでも二型を対英・対蘭独立戦争において実戦投入している。中華人民共和国と朝鮮民主主義人民共和国では、戦後の一時期、創設間もない航空部隊の訓練用に二型を運用しており、ソ連機に代替されるまで使用された。
これ以前に、中国大陸では共産党軍が国共内戦において使用(元関東軍第2航空軍第101教育飛行団第4練成飛行隊による東北民主連軍航空学校での指導の下に)。
一方の中華民国空軍の国籍識別票を付けた機体も複数見られるが、アメリカ合衆国からの全面的な支援を受けていた国民党軍においてこれらがどの程度実用されていたのかは明らかでない。
[編集] 現存する機体
インドネシア空軍中央博物館の二型、ボーイングの自社博物館であるアメリカのミュージアム・オブ・フライト[9]にて展示されている二型(機体自体は国立航空宇宙博物館所有)等、海外の博物館にて数機が状態の良好な形で現存・公開されている他、テキサス・エアプレーン・ファクトリーでは占守島付近で発見された実機の残骸を元に、エンジン等を現用品に換装する等して4機がレストア、リビルドされている。中でも機体・エンジン共にオリジナルの飛行可能に近い状態にまでレストアされた一型丙が、現在はマイクロソフトの共同創業者として有名な実業家、ポール・アレンの私設博物館であるフライング・ヘリテッジ・コレクション[10]にて収蔵されている。
日本国内では、知覧特攻平和会館に映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」の撮影に使用された原寸大復元模型機が、世界で唯一良好な形で現存する実機である四式戦「疾風」と、同じく三式戦「飛燕」と共に展示されている。
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 一部は立川飛行機でも生産された。
- ^ 総生産機数日本軍第三位、陸軍機第二位は四式戦闘機「疾風」。
- ^ 制式採用前に新鋭機の実戦テストも兼ね、開戦と共に増加試作機装備の一個飛行中隊(独立飛行第47中隊)が参戦。
- ^ 例として飛行第64戦隊は九七戦装備の時代から「加藤隼戦闘隊」であった。
- ^ また、誤認による事故であるが、一式戦が防弾装備が皆無である海軍の九六式陸上攻撃機の右エンジンに短い連射を浴びせただけで空中爆発させ、撃墜してしまった「実績」もある(渡辺洋二著『重い飛行機雲』「さいはて邀撃戦」)。さらに実戦でも、25及び33戦隊の隼は1943年8月の漢口の迎撃戦などで、米軍425爆撃飛行隊のB-24に対し前上方・前下方からの反航攻撃を試み、1ヶ月に見たぬ期間で損失2機に対し10機を撃墜(両軍の損害報告からの数字)している(梅本弘『陸軍戦闘隊撃墜戦記1』。)
- ^ 梅本弘著、『ビルマ航空戦(上・下)』大日本絵画。
- ^ この点において戦闘機としての性質が大きく異なるため、両機の比較自体が無意味であると言う意見も多い。また、機動性と防御力において一式戦に及ばないながらも、制約の多い艦上戦闘機でありながら、速力・火力・航続力で上回る零戦の評価が高まるとする見方もある。
- ^ 『戦闘機「隼」 昭和の名機その栄光と悲劇』(光人社、2003年) ISBN 4-7698-2099-2 に一型の取扱説明書の数値として72L/h(300km/h巡航時)、100L/h(350km/h巡航時)等の燃料消費量が掲載されている。『不滅の零戦 生き続ける名戦闘機』(光人社、2008年) ISBN 978-4-7698-1373-6 に海軍実測による零戦二一型の燃料消費量82L/h(333km/h巡航時)という数値が掲載されている。
- ^ ミュージアム・オブ・フライト
- ^ フライング・ヘリテッジ・コレクション
[編集] 参考文献
- 一式戦闘機「隼」学習研究社、2005年11月
- 世界の傑作機 No.13・No.65 陸軍1式戦闘機「隼」文林堂、1988年11月・1997年7月
- 図解・軍用機シリーズ12 隼/鍾馗/九七戦 雑誌「丸」編集部編 光人社 2000年8月
[編集] 登場作品
- 『翼の凱歌』(東宝映画製作の戦争映画) 当時の実物機が登場。一式戦の開発ストーリーを描く。
- 『加藤隼戦闘隊』(東宝製作の戦争映画) 当時の実物機の一型と二型が登場。加藤隼戦闘隊こと、飛行第64戦隊の活躍を描く。
- 『俺は、君のためにこそ死ににいく』(東映製作の戦争映画) 復元機及び、CG制作の機体が登場。
- 『夜の蜉蝣』(松本零士作。戦場まんがシリーズ) 三型乙が登場。
- 『メコンの落日』(松本零士作。戦場まんがシリーズ) 一式戦とP-51が対決。
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最終更新 2009年11月16日 (月) 21:37 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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