中西哲生

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中西哲生
名前
カタカナ ナカニシ テツオ
ラテン文字 NAKANISHI Tetsuo
基本情報
国籍 日本
生年月日 1969年9月8日
出身地 愛知県名古屋市
身長 174cm
体重 68kg
選手情報
ポジション DFMF
Template(ノート 解説)サッカー選手pj

中西 哲生(なかにし てつお、1969年9月8日 - )は、愛知県名古屋市出身のサッカー選手、サッカー解説者、スポーツジャーナリストである。現役時代のポジションはディフェンダーミッドフィールダー。引退後は芸能事務所の三桂所属。父は大阪大学名誉教授(分子生物学)の中西康夫、妻は女優で元グラビアアイドルの原史奈

目次

[編集] 選手時代の特徴

来歴でも記されるとおり、中西は年代を経るに従ってプレー位置を変えていった。名古屋時代は中盤、それも攻撃面での活躍が期待された。ドラガン・ストイコビッチなどのアシストを受けてゴールを決める、あるいはサイドでの突破から逆に小倉隆史などによる攻撃を助けるなどの活躍を見せた。ただし、チーム内の競争が激しかったため、先発メンバーより後半途中から登場するスーパーサブという位置付けだった。また、当時から英会話の能力を持ち、アーセン・ベンゲル監督やストイコビッチなどの外国人スタッフとのコミュニケーションを行える存在だった。

一方、川崎では本人の加齢やケガによるスピードの低下もあり、中盤でも守備的な位置(ボランチ)、ないし3バックの中央(センターバック)として起用された[1]。ここでの中西は経験豊富なチームの精神的中核として期待され、1999年までの3シーズンはほとんどの試合で先発し、90分間フル出場した。

[編集] 来歴

[編集] サッカー選手時代

小学校3年生の頃からサッカーを始め、名古屋大学附属高校時代に愛知FCでプレー、同志社大学経済学部を経て、1992年Jリーグ名古屋グランパスエイトに入団。中盤の選手として攻撃面で活躍し、途中出場からの貴重なゴールを決められる選手として活躍した。

1995年7月12日の対ヴェルディ川崎戦で控えの選手としてベンチにいた中西が、審判に侮辱行為をしたとしてレッドカードを出され退場させられた。試合に出る前に退場になるのはJリーグ史上初の事だった。

1995年、グランパス黄金期には、浅野哲也とのレギュラー争いには負け、控えに回る事が多かった[2]

1997年には当時JFLからJリーグ昇格を目指した川崎フロンターレに移籍し、守備的な中盤(ボランチ)や後方(センターバック)にポジションを移して活躍。1998年J1参入決定戦での敗退(博多の森の悲劇)を経て、1999年には主将としてチームのJ2リーグ初優勝(=J1昇格)を果たす原動力になった。この年の暮れには、自身のホームページに連載していた日記を中心にまとめた『魂の叫び J2聖戦記』(金子達仁戸塚啓と共著)を出版し、ベストセラーになった。

その後、2000年にはレギュラーの地位を失い、足の故障の悪化もあって、チームが1年でJ2に降格したのを動機に、一旦選手としての現役を引退。プロサッカー選手としての現役最終戦はセレッソ大阪のファーストステージ優勝を阻止した試合(「長居の悲劇」)であった[3]

[編集] 引退後

2001年からスポーツジャーナリストとしての活動を開始し、放送メディアを中心に活躍。多くの引退選手とは一線を画し、指導者として後進の指導に当たるのではなく、テレビのスポーツ番組などでコメンテーターや司会者としてサッカーを視聴者や社会に伝える立場を模索して行った。2002年には名古屋時代の監督であったアーセン・ベンゲルに教えられたことを綴った『ベンゲルノート』を戸塚啓との共著で出版した。

現在は、WOWOWスペインサッカーリーグ、CS放送などでのJリーグ中継解説を初め、TBSテレビ日本テレビBS-i等に出演している。TBSラジオ中西哲生のスポーツボンバー!」にも(2004年10月-2005年3月)司会者として出演した。

私生活ではかつてタレントの辺見えみりとの交際報道もなされたが、2007年3月15日原史奈と婚約を発表し、3月20日に入籍。中西と原は2002年にBS朝日の番組「サッカー2002」で中西が解説者、原がアシスタントとして共演してからの交遊があった。2人は11月3日に結婚式を挙げた[4]

2008年7月12日日本サッカー協会特任理事に就任。

引退後も川崎フロンターレとの関係が深く、同クラブの「特命大使」として川崎市内での普及活動などに関わっている。

[編集] エピソード

  • サッカー選手時代のニックネームは「怪獣」であった。
  • TBSテレビ「サンデーモーニング」ではコメンテーターとしてセミレギュラー出演しているが、「週刊御意見番」コーナーではサッカー関連の話題で、大沢啓二張本勲に代わって「喝」「あっぱれ」を入れることがある。同番組の政治的な話で「核を持たない抑止力を持つ事が重要」と政治的な討論にも参加していた。
  • 2002年のワールドカップで、韓国イタリアを破った翌日にズームインSUPERのスポーツコーナーで「みなさん!韓国を応援しましょう!」と視聴者に呼びかけた。
  • 2003年、ズームインSUPERのスポーツコーナーで、好調な阪神が快進撃を続けていたことに対して、スポーツジャーナリストでありながら「阪神が“また勝ってしまいました”」と真顔で発言したことがある(前日に、追い上げる巨人が敗れたことで、さらに阪神とのゲーム差が拡がったことが、セ・リーグの灯を消す行為になり、結果、ますますつまらなくなるという主張)。
  • 2005年にTBSの久保田智子アナウンサーや父の康夫らとホノルルマラソンに参加。終盤に足が痙攣しながらも5時間09分52秒で完走した[5]。康夫は3時間台、久保田は4時間台でゴールしていた為、この3人のうち最後のゴールとなった。
  • 2006年6月23日放送の日本テレビズームイン!!SUPERにおいて、サッカーワールドカップ・ドイツ大会でブラジルに敗れた日本の中村俊輔のインタビューを見て、本番中に涙した。
  • 植田朝日らと共同でClub Atletico Real Tokyo(クラブ・アトレチコ・レアル東京)の運営に携わり、監督兼任選手として活動している。
  • 自身のオフィシャルサイトでは、戸塚啓や名古屋時代の後輩である西ヶ谷隆之が日記を寄稿している。

[編集] 所属クラブ

[編集] 個人成績

[編集] 年度別

クラブ ディビジョン リーグ戦 ナビスコカップ J1参入決定戦 天皇杯
1992 名古屋グランパスエイト Jリーグ -- 10試合0得点 -- (不明)
1993 4試合0得点 0試合0得点 -- 2試合0得点
1994 37試合1得点 0試合0得点 -- 0試合0得点
1995 33試合6得点 -- -- 5試合0得点
1996 16試合0得点 9試合0得点 -- 1試合0得点
1997 川崎フロンターレ ジャパンフットボールリーグ 30試合5得点 -- -- 3試合0得点
1998 30試合0得点 3試合0得点 1試合0得点 3試合0得点
1999 J2 31試合0得点 2試合0得点 -- 4試合0得点
2000 J1 5試合0得点 0試合0得点 -- 0試合0得点

[編集] 通算

大会等 出場試合数 得点
J1リーグ(1994-96年はJリーグ) 95試合 7得点
J2リーグ 31試合 0得点
ジャパンフットボールリーグ 60試合 5得点
ナビスコカップ 24試合 0得点
J1参入決定戦 1試合 0得点
天皇杯(1993-2000年) 18試合 0得点

[編集] 著書

  • 魂の叫び J2聖戦記(幻冬舎、1999年)(金子達仁、戸塚啓との共著)
  • ベンゲルノート(幻冬舎、2002年)(戸塚啓との共著)
  • 不安定な人生を選ぶこと―買い物ワールドカップ2000~2002(幻冬舎、2003年)
  • 新・キックバイブル―日本がワールドカップで優勝するために(幻冬舎、2007年)

[編集] 出演

[編集] 参照

  1. ^ リーグ戦でのゴールは1997年のJFL(5得点)が最後である。
  2. ^ 浅野は中西退団後の2001年に川崎に入団し、主将を中西から引き継いだが、期待されたJ1復帰は叶わず、同年で現役を引退した。
  3. ^ この試合で中西は105分(延長後半開始時)に出場し、出場時間1分で浦田尚希のVゴールにより勝利した。ステージ優勝を逃してピッチにうずくまる森島寛晃を慰めたのが中西だった。
  4. ^ 原史奈オフィシャルブログ2007年11月4日
    同日には川崎が中西在籍時の2000年以来2度目となるJリーグヤマザキナビスコカップの決勝戦を戦ったが、2000年に続いて川崎は優勝を逃した。
  5. ^ JALホノルルマラソン公式サイト

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月18日 (水) 07:37 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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