京郷新聞

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京郷新聞
各種表記
ハングル 경향신문
漢字 京鄕新聞
片仮名
(現地語読み仮名)
キョンヒャンシンムン
英語表記: The Kyunghyang Shinmun
  

京郷新聞(キョンヒャン(けいごう)しんぶん)は、

  1. 1906年から1910年までの間、大韓帝国日本植民地時代朝鮮において発刊されていた宗教新聞。本稿の京郷新聞 (歴史)で記述。
  2. 連合軍軍政期朝鮮において、1946年に創刊された大韓民国の日刊全国紙。本稿の京郷新聞 (現在)で記述。

目次

[編集] 京郷新聞 (1906-1910)

京郷新聞(キョンヒャンしんぶん)は、1906年から1910年までの間、大韓帝国日本植民地時代朝鮮において発刊されていた宗教新聞ハングルのみで書かれた週刊新聞であり、1906年10月19日に韓国カトリック中央協議会の関連財団(カトリック財団)が、愛国啓蒙運動の一環として、ソウルで発刊を開始した。発行人兼主幹は、フランス人神父Florian Demange[1]だった。

初期にはタブロイド版で4面からなる新聞と、菊判(152×218mm)サイズで8面からなる付録『寶鑑』を発刊していたが、翌年10月18日発行の第53号からは、新聞紙が今日の韓国新聞と類似の大きさとなった。新聞には、国内の主要記事集及びに時事問題に関する論説、国内外ニュース、文芸作品、啓蒙的な企画物が記載されていた。また、付録である『寶鑑』は、カトリックの教理的な論説、韓国カトリック教会史、法律解説などの記事で内容が構成されており、カトリック信者に必要な教養・常識と、国民の法に対する理解を深めようとする内容となっていた。これらの記事のうち、地方ニュースは主に全国各地で活動する神父たちが提供する情報に頼っていた。また、新聞の読者確保に関しても、カトリック教会当局の支援が大きかった。

1910年8月22日日韓併合後、京郷新聞は環境の変化により外部から廃刊の脅威を受けるようになった。その為、発行人は同年12月30日発行の第220号を同新聞の終刊号とし、第221号からは月2回発刊の隔週雑誌『京郷雑誌』として再び発刊を開始した。ただし、『京郷雑誌』は、カトリックの教理伝達など『寶鑑』の内容を引き継ぐ純宗教雑誌となり、啓蒙的な性格を有する京郷新聞そのものは事実上の廃刊となった[2]。しかし、京郷新聞の題号は、後の連合軍軍政期に、同じくカトリック財団によって創刊された新しい新聞へと受け継がれることとなる。

[編集] 京郷新聞 (1946-現在)

京郷新聞(キョンヒャンシンムン)は、大韓民国の日刊全国紙朝鮮連合軍軍政期にあった1946年10月6日に創刊された。本社所在地は、ソウル特別市中区

京郷新聞は、日本植民地時代に終刊となった旧京郷新聞の題号を継承し、旧京郷新聞と同じくカトリック財団の新聞として、1946年10月6日に創刊された。1950年朝鮮戦争勃発によって臨時休刊となったが、休戦後の1953年8月に業務を復帰し、1954年11月には韓国の新聞史上初の新聞縮刷版を発行した。京郷新聞は「真実報道」を社是としてきたが、創刊当初から反共的・保守的な性格を持っていた。しかし、1959年に入ると、李承晩自由党政権(第一共和国)に対する不満から、政権に対する野党性と反独裁路線を明確に打ち出すようになった[3]

しかし、反政府的な態度をとったことにより、京郷新聞は1959年2月~4月にかけて「余滴事件」と呼ばれる筆禍を受けることとなった。1959年2月4日、当日付の朝刊の掲載欄『余滴』に、自由党政権による不正選挙を糾弾する内容の記事が掲載された。これを受け、韓国警察は同月28日に筆者の朱耀翰国会議員と韓昌愚社長を起訴し、更に同月30日には軍政法令第88号の適用によって京郷新聞を強制的に廃刊させた。この事件に対し、韓国社会の各界からは多くの反発が起こり、京郷新聞社は廃刊措置に対する不服から法廷闘争を行った。しかし、法廷闘争の途中で四月革命により李承晩政権が崩壊したため、1960年4月27日付の第4327号新聞から復刊することとなった。

1962年2月、京郷新聞の経営権は李俊九に移った。しかし、朴正熙政権(第三共和国)下の1964年5月13日に、『難局打開はこれから』という題目の記事を掲載したことで筆禍事件が再び発生し、同年に発せられた6・3非常戒厳令下で社長の李俊九などが拘束された。その後、1966年4月には起亜産業系が新聞社の経営を引き受けたが、1969年4月には新進自動車系に経営権が移るなど、1960年代中・後半に京郷新聞は深刻な経営難を経験した。そして、1974年7月には文化放送(MBC)に統合され、同年11月に会社は「株式会社文化放送・京郷新聞」へと改編された。しかしそれ以降は、1980年12月の言論統廃合で廃刊となった新亜日報(全国紙)を引き受けたり、1981年1月以前は8面だった新聞紙面を12面へ増面したりと、安定した新聞運営を行えるようになった。

1981年4月1日、京郷新聞は「社団法人京郷新聞社」としてMBCから分離・独立した。そして、1990年8月1日には韓国火薬グループ(ハンファグループ)の傘下に入ったが、1998年にはハンファグループから完全分離し、韓国初の社員株主会社となった。 政治的立場は中道改革派で、ウリ党大統合民主新党(現在の民主党の前身)に比較的近い。 1995年9月時点で、京郷新聞は平日に32面の新聞を、日曜日には24面の新聞を発行している。また、姉妹定期刊行物として「ニュースメーカー」「TVタイムス」「レディー京郷」「フィガロ」などを有している。

1983年以来、日本の産業経済新聞社と提携関係を結んでいる。1980年代当時は京郷・産経ともに保守系紙として立場が似ていたためであったが、その後1990年代末に京郷新聞が社員株主による自立経営化によって「独立・改革言論」の立場を鮮明にしてからは、京郷が中道左派志向、産経が右派志向と論調の違いが生まれたため、関係清算を求める議論が社内で出たことがある[4]

[編集] 脚注

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  1. ^ 朝鮮名は安 世華
  2. ^ 『京郷雑誌』はその後紙面を増面し、1940年には月刊誌となった。また、1959年7月には編集・発行権がカトリック教ソウル教区から韓国カトリック中央協議会に移管され、同会の機関紙となった。『京郷雑誌』は、1945年1946年朝鮮戦争期を除いて発刊され続け、1989年1月号で通巻が1450号に達した。そのため、韓国で最も発行期間が長い雑誌として、今日でも発行され続けている
  3. ^ このような対応は、李承晩の施政に不満を抱く読者から多くの呼応を受け、発行部数が当時としては記録的な20万部に達することもあった
  4. ^ (朝鮮語)京郷新聞-MBC、“今後は「産経」と別れる” プレシアン 2005年4月11日

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年7月24日 (金) 23:33 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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