匈奴
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匈奴(呉音:くぬ、漢音:きょうど、拼音:Xiōngnú)は紀元前5世紀ごろから5世紀にかけて北アジアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家を指す漢字表記名。モンゴル高原を中心とした北アジアに一大勢力を築いた。
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[編集] 名称
匈奴という名称は中国側の音訳である。その原音や意味については、彼らが文字を持たなかったため[1]不明である。音訳とする根拠は、各史書における表記の差異による[2]。
原音については、いくつかの説が存在する。匈奴の現代中国音はHiung-nu・Hsiung-nuである。
- ドイツのG.Halounは古代中国語では「xbron-no」であったとした。
- 白鳥庫吉は、「奴(ヌ・ド)」の字が古代中国では「ナ」と発音していて、「Hu-na」・「Hun-na」であったと論考した[3]。
- フランスのクラプロートは「匈奴(Chiung-nu)」という名称はその始祖である「淳維(Chiun-yü)」からとした[4]。
- 内田吟風は、匈奴という族名はそのトーテム獣の名称であり、匈奴のトーテム獣はノインウラ匈奴王侯墳出土の縫込刺繍毛織物に見られる豕形奇獣がそうではないかとしている[5]。
また、中国の史書にでてくる「匈奴河水」という河川名が匈奴の語源なのか、匈奴が割拠していたからついた河川名なのかは不明である。
[編集] 民族系統
「匈奴」として総称される部族集合体が自らをどのように呼称し、規定していたのかは、記録がないため、わからない。その意味では「匈奴」とは、あくまで中国史書における部族(民族)呼称であって、その意味を超えた部族ないし民族概念としてとらえるのは難しいが、一般的には、史書の記述にもとづき、北東アジアを拠点とする部族(民族)または部族連合とされる。使用言語はチュルク語ないしモンゴル語とされ、確定はしていないが、中国語(漢語)ではなかったことが史書より知れる[6]。
「民族」も参照
史書における記述としては、まず『山海経』に匈奴の名が登場し、周朝の詔勅文書を集めた『逸周書』(王会篇・湯四方献令)には、殷・周の時代の初めに犬やラクダ・馬・白玉・良弓を貢献する民族として記載されている。しかし、これらの記述について小川琢治は『北支那先秦蕃族考』において後の『史記』における匈奴との関連を否定している。
『史記』匈奴列伝また『後漢書』南匈奴伝では、匈奴の始祖は夏 (三代)の一族である夏后氏の淳維であることが記されている[7]。この記述を信頼すれば、匈奴は夏王朝の末裔であり、その意味では匈奴は夏人である。三国時代や南北朝時代の注釈によれば、夏が殷に滅ぼされたとき、夏后氏の一部が北方の平原に逃れ、遊牧を行うようになった[8]。
また『史記』は、殷・周時代にいた葷粥(くんいく)・山戎(さんじゅう)・獫允(けんいん)・義渠(ぎきょ)などの諸民族が匈奴になったとも記している。このうち葷粥は古代音が「ヒュエンツュク」で、その前半部が匈奴の古代音「ヒョンヌオ」と類似しているから、両者は同じ音を異なる漢字で表記したとの説もあるが、葷粥の実態はまだわかっていない[9]。ほか『楽彦括地譜』では、夏の桀王の子の獯粥が北野に避居し、随畜移動するようになったとされる。
史書によれば匈奴は遊牧民族であり、その生活形態の特性からいって、可動性が高く、また活動地域を広範囲にもつため、民族の混合度は激しかったとも想定できるため、のちに匈奴の一末裔が370年頃に東欧や地中海諸国に侵入した遊牧民の集団フン族((Hungnu, フンヌ)となったとする説があり[10]、数世紀にわたり議論が続いているが、近年、民族形成説=エスノジェネシス(en:Ethnogenesis)という観点から、古代遊牧民族における部族連合 は民族的に同種ではなく[11]、むしろテュルク語族、エニセイ語族(en)、ツングース語族、ウゴル語族(en)、イラン語族[12]、モンゴル語族などのような多民族の連合としてフン族を見直す作業が進められている。たとえば威信と名声に基づいて多くの氏族が自らをフン族であると主張した可能性[11]や、またギリシャ語やラテン語の年代記編纂者たちも「フン族」という名称を「蛮族」という意味で使用していたなどの語用論的観点などを考慮し、単一の土地を起源とする伝承や単一的な歴史意識を持つような言語学的または遺伝学的な意味での民族的な均質性を想定せずに、寧ろ貴族階級の戦士たちの小集団が土地から土地へ、世代から世代へと民族的な慣習を受け継ぐような場合、また臣下たちがこれら伝統に合同したり、離散したりするような場合を顧慮したうえで比定分析をすすめている。今後、同様のアプローチによる匈奴の分析もまたれる。
「フン族#フン=匈奴説」も参照
また、たとえば、匈奴の圧力でイリに移動した月氏、匈奴に滅ぼされたと伝わる東胡などとの関連や、スキタイ[13]と匈奴について対照研究を行った林の前掲書にあるごとく、古墳よりの出土品(金製品など)が漢(中国)-匈奴(ブリャーチャ)-サルマタイ(西北カフカス)との交易その他を通じた関連性も指摘されてきており[14]、近年,民族衝突または民族移動という観点から、史書における記述を見直していく分析が展開している。いずれにせよ、これらの事柄を確定するには、古代中央アジア・ユーラシアの歴史についての今後のさらなる研究がまたれる。
[編集] 歴史
中国正史における匈奴の初出は、紀元前318年である(『史記』秦本紀)。
[編集] 戦国時代
紀元前318年、匈奴は韓・趙・魏・燕・斉の五国とともに秦を攻撃したが、五国側の惨敗に終わった。
趙の孝成王(前265年 - 前245年)の時代、将軍の李牧は代の雁門で匈奴を防ぎ、単于の軍を撃破した。
[編集] 秦の時代
秦の始皇帝は蒙恬将軍に匈奴を攻めさせ、オルドス地方を平定し北へ追い返した。そして匈奴の侵入を防ぐため万里の長城を修築した。始皇帝の死後、陳勝・呉広の乱が起きると秦は匈奴を抑える力がなく、再び長城付近までやってきた。
冒頓が匈奴の単于になると、匈奴を圧倒していた遊牧集団の東胡を滅ぼして大勢力に成長した。さらに山西省の大同市郊外の白登山にて建国直後の前漢の劉邦(高祖)の遠征軍に大勝し、劉邦を捕虜とした。匈奴は劉邦解放との交換条件として、漢による匈奴への朝貢を要求し、漢はそれを受け入れた。以後、武帝の代にいたるまで、交戦状態が続いた[15]。更に西の月氏、北のテュルク系とおぼしき諸々の遊牧集団を討って取り込み、モンゴル高原全てを制圧した。
[編集] 漢の時代
その後、文帝・景帝の時代には、前漢は匈奴に対抗できる力を持たず、匈奴に対して献上品を送るなど低姿勢に徹していた。
しかし武帝が前漢の帝位につくと、積極的に匈奴を討つために動き出した。張騫を西域に出し、月氏と結んで匈奴を討とうとしたが失敗に終わった。しかしこれにより西北の状況が詳しくわかり、武帝は匈奴を討つための作戦を立てる。武帝は匈奴を誘い出すために北の都市馬邑で偽りの反乱を起こさせ、匈奴に内通する手紙を冒頓の孫軍臣単于に出した。しかし軍臣は途中で気づき、武帝の策略は失敗に終わった。
この武帝の屈辱は衛青と霍去病と言う二人の卓越した将軍によって晴らされる。二人とも度々匈奴を討ち、大戦果をあげた。この時期、匈奴には内紛がおき、国力が充実した前漢に敵し得ず、匈奴の勢力は北へ後退した。
宣帝の時代に後継争いで内紛が激しくなり、匈奴は東匈奴の呼韓邪単于と西匈奴の郅支単于に分裂した。呼韓邪単于は内部を治めるために漢に入朝し、自ら臣と名乗った。漢はこれに大いに喜び、後に王昭君を単于に嫁がせた。郅支単于も前漢に入朝したが、後に反逆し、周辺の諸民族を攻めて併合したが、前漢の陳湯・甘延寿に攻め滅ぼされた。
[編集] 匈奴の分裂
前漢が滅び、新を挟んで後漢が成立すると、右薁鞬日逐王比は漢の力を借りて今の単于を倒し、自らが単于になろうと漢に近づき、匈奴は二つに分裂した。これ以降、親漢派は南匈奴と呼ばれ、もう一方は北匈奴と呼ばれる。漢は遠征軍を出し、班超の活躍で西域を平定した。
その後、南匈奴は後漢に属し、万里の長城内の中国本土に移住し、その後も後漢・魏・西晋に統治された。曹操が南匈奴を5分割にして統治して以降、魏・西晋は南匈奴を5分割統治した。北匈奴は南匈奴・鮮卑・烏桓に圧迫され、後漢の竇固・竇憲らに討伐され、西に流れていった。この流れていった北匈奴が後にフン族になったという説は有名である。黄巾の乱後、長安から逃げ出した献帝を南匈奴の於扶羅が救った。この頃から多くの族人が以前より南に移住するようになり、後の五胡十六国時代の引き金となる。
[編集] 五胡十六国時代
後漢が倒れ、魏が倒れ、西晋が建った後に八王の乱で中国が大混乱した状況を見て於扶羅の孫である劉淵は自ら皇帝を名乗り漢を建てた(304年)。五胡十六国時代の幕開けである。同時代に後趙を立てた羯族(けつぞく)は匈奴内の一部族であり、羯室と呼ばれる場所に住んでいたことからこの名前がある。劉淵が死んだ後、前趙と後趙は激しく争い、329年に前趙は石勒の後趙に滅ぼされた。
後趙はその後、暴君石虎が立ち国力を消耗し、族内の分裂を招いた。そこに漢族の冉閔がつけこみ独立し冉魏を立てた。この時に冉閔は漢民族至上主義から羯族を初めとする異民族を大量に虐殺した。
401年、匈奴の沮渠蒙遜は北涼を建てる。439年、この北涼は北魏に滅ぼされ、生き残ったものは西の高昌(トルファン)まで逃れここで新しい国を作るが、460年、モンゴル系の柔然に攻められて滅亡する。
407年、劉淵の一族であった赫連勃勃は後秦から独立し夏を立てた。この国は431年、北魏に攻められて滅亡する。
[編集] 北魏以降
その後は北魏を建国した鮮卑などの政権内に取り込まれていって集団としての匈奴の名前は消失したが、その主要な支配家系は、北朝、さらには隋・唐の政権内で皇室と姻戚関係を結ぶなどして重んじられた。
[編集] 文化
匈奴は自分たちの記録を残していないので、遺物などの直接的な史料を除けば中国文明の記録を参考にするほかない。特徴的なこととして「若くて強い者が重んじられ、老人は軽んぜられる。」「一家の長が亡くなると、その跡を継いだ子は自分の生母以外の父の妃達を受け継ぐ。」などが挙げられている。これらは匈奴のみならず遊牧民族に共通したことであり、環境の厳しい草原では強い者が権力を握って指導力を発揮し、弱いものがそれに従うことで共同体成員の生存を確実にするという論理に従ったものである。これらは儒教をはじめとする中国文明の倫理観と相反するものであり、たいていの場合匈奴に関する記述には非難の意味が込められている。
宗教(薩滿教)としてはシャーマニズム・上天信仰があり、年三回集まって大祭祀を開いた。
都の故地はウランバートルの近くのノインウラの古墳群に比定されており、この遺跡から出た匈奴の織物には遠くギリシャやペルシャの影響[要出典]も見られる。匈奴の文化は東の中国と西方世界との混合文化であった。
[編集] 政治体制
匈奴の大首長は「単于」と呼ばれる。単于の直轄地(単于庭)は代郡・雲中郡の北にあった。単于の下には屠耆王(賢王)・谷蠡王・大将・大都尉・大当戸・骨都侯と呼ばれる官位があり、それぞれ左右に分かれて領土を統括した。諸大臣の官は世襲であり、呼衍氏・蘭氏、その後に須蔔(須卜)氏が加わり、この三姓が匈奴の貴種であった。左方の王や将たちは東方に住み、上谷郡から東の地域を管轄し、濊貉や朝鮮と境を接した。右方の王や将は西方に住み、上郡以西を管轄し、月氏・氐・羌の諸侯と境を接した。左右賢王と左右谷蠡王が最大の領土をもち、左右骨都侯は政治を補佐した。左右賢王から当戸に至るまで、多い場合は1万騎、少ない場合は数千騎の兵を統率した。全部合わせて24人の集団長があって、「万騎」という称号で呼ばれた。24人の集団長たちは、各自千人長・百人長・十人長を任命し、裨小王・相・封都尉・当戸・且渠などの役目を置いた。
毎年の正月(1月)に、各集団長は単于庭で小会議を開いて祭りを行い、5月には、蘢城で大会議を開き、彼らの祖先、天と地、神霊を祭った。秋に馬が肥えると、蹛林で大集会を開催し、人民と家畜の数を調べて課税した。新しい単于を選出する時も全体の集会によって決定される。単于の選出には実力・年齢と同時に母親の血筋が尊ばれる傾向にあった。
[編集] 歴代単于
[編集] 統一匈奴帝国時代
- 頭曼単于(頭曼、在位:? - 紀元前209年)
- 冒頓単于(冒頓、在位:紀元前209年 - 紀元前174年)
- 老上単于(稽粥、在位:紀元前174年 - 紀元前160年)
- 軍臣単于(軍臣、在位:紀元前160年 - 紀元前126年)
- 伊稚斜単于(伊稚斜、在位:紀元前126年 - 紀元前114年)
- 烏維単于(烏維、在位:紀元前114年 - 紀元前105年)
- 児単于(詹師廬、在位:紀元前105年 - 紀元前102年)
- 呴犁湖単于(呴犁湖、在位:紀元前102年)
- 且鞮侯単于(且鞮侯、在位:紀元前102年 - 紀元前96年)
- 狐鹿姑単于(在位:紀元前96年 - 紀元前85年)
- 壺衍鞮単于(在位:紀元前85年 - 紀元前68年)
- 虚閭権渠単于(虚閭権渠、在位:紀元前68年 - 紀元前60年)
- 握衍朐鞮単于(屠耆堂、在位:紀元前60年 - 紀元前58年)
[編集] 五単于並立時代
- 呼韓邪単于(稽侯柵、在位:紀元前58年 - 紀元前31年)
- 屠耆単于(薄胥堂、在位:紀元前58年 - 紀元前56年)
- 呼掲単于(在位:紀元前57年)
- 烏籍単于(在位:紀元前57年)
- 車犂単于(在位:紀元前57年 - 紀元前56年)
[編集] 西匈奴
[編集] 東匈奴
- 呼韓邪単于(稽侯柵、在位:紀元前58年 - 紀元前31年)
- 伊利目単于(自立)(在位:紀元前49年)
[編集] 再統一時代
- 呼韓邪単于(稽侯柵、在位:紀元前58年 - 紀元前31年)
- 復株累若鞮単于(雕陶莫皋、在位:紀元前31年 - 紀元前20年)
- 捜諧若鞮単于(且麋胥、在位:紀元前20年 - 紀元前12年)
- 車牙若鞮単于(且莫車、在位:紀元前12年 - 紀元前8年)
- 烏珠留若鞮単于(嚢知牙斯、在位:紀元前8年 - 13年)
- 烏累若鞮単于(咸、在位:13年 - 18年)
- 呼都而尸道皐若鞮単于(輿、在位:18年 - 46年)
- 烏達鞮侯単于(烏達提侯、在位:46年)
[編集] 王莽立の単于
[編集] 北匈奴
[編集] 南匈奴
- 醢落尸逐鞮単于(比、在位:48年 - 56年)
- 薁鞬左賢王単于(在位:50年)
- 丘浮尤鞮単于(莫、在位:56年 - 57年)
- 伊伐於慮鞮単于(汗、在位:57年 - 59年)
- 醢僮尸逐侯鞮単于(適、在位:59年 - 63年)
- 丘除車林鞮単于(蘇、在位:63年)
- 湖邪尸逐侯鞮単于(長、在位:63年 - 85年)
- 伊屠於閭鞮単于(宣、在位:85年 - 88年)
- 休蘭尸逐侯鞮単于(屯屠何、在位:88年 - 93年)
- 安国単于(安国、在位:93年 - 94年)
- 亭独尸逐侯鞮単于(師子、在位:94年 - 98年)
- 萬氏尸逐侯鞮単于(檀、在位:98年 - 124年)
- 烏稽侯尸逐鞮単于(拔、在位:124年 - 128年)
- 去特若尸逐就単于(休利、在位:128年 - 140年)
- 呼蘭若尸逐就単于(兜楼儲、在位:143年 - 147年)
- 伊陵尸逐就単于(居車児、在位:147年 - 172年)
- 屠特若尸逐就単于(在位:172年 - 178年)
- 呼徵単于(呼徵、在位:178年 - 179年)
- 羌渠単于(羌渠、在位:179年 - 188年)
- 持至尸逐侯単于(於扶羅、在位:188年 - 195年)
- 呼廚泉単于(呼廚泉、在位:195年 - 216年)
[編集] 研究史
その他、かつて提唱された匈奴の民族系統に関する説には、K.F.ノイマンとH.H.ハワースによる「匈奴人は蒙古の土地(モンゴル高原)を占有していた」「チンギスハンが長春真人との会議で、匈奴の単于を“我々の”単于と呼んだ」・「匈奴の後継者である柔然とテュルク族の突厥が反目したならば、柔然を蒙古人と思わざるを得ず、匈奴も蒙古人となる」とした指摘[16]があり、当時ロシアのK.Inostranzeffが柔然は匈奴の子孫ではなく、東胡の子孫であるとして批判したり[要出典]、また「シナ人は匈奴五部のひとつをfair(白人)だと伝えている」とE.H.Minnsが指摘したり[17]、王国維は『晋書』石季龍載記における、後趙の石虎が多髯高鼻であったことを強調したり[18]、水野清一は、霍去病墓前石彫の匈奴人像がヨーロッパ人的体型をしていることを指摘する[19]などしてきたが、これらはいずれも当時の人種や民族概念にとらわれたものであり、これらは上記民族形成説、つまり民族の一定程度の混合を想定すれば、なんら「民族」の弁別特徴とはならない。その他,政治戦略的な観点による考古学の逸話としては、コズロフ調査隊[20]が外蒙古ハラ河畔ノインウラ古墳群を、新・後漢時代の匈奴王侯の古墳墓であり、その人骨は「蒙古人ではなく、アーリア人である」と報告したことがあり[21]、また、その墓室に掛けられた布に描かれた騎馬匈奴貴人はコーカサス人種の顔容を示しているなどと主張した。これ以外にもモンゴル・シベリア・タリムの地域が古代、コーカサス人種の居住地であったことが、カラスク・オグラクティ・パジリク・トルファン・カシュガル等の考古学調査によって行われたが、近年、これらの研究成果が顧みられることはない。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 沢田勲『匈奴―古代遊牧国家の興亡』(東方書店、1996、ISBN 4497965066)
- 林俊雄『興亡の世界史02 スキタイと匈奴 遊牧の文明』(講談社、2007、ISBN 9784062807029)
- 内田吟風『北アジア史研究』(同朋舎出版 1975年)
[編集] 脚注
- ^ 上林俊雄『スキタイと匈奴』講談社、2007年、210頁。
- ^ 恭奴(『漢書』匈奴伝)、凶奴(『蔡中郎集』黄鉞銘・『釈迦方志』巻上・『慈恩寺三蔵法師伝』・『三国史記』新羅紀)、兇奴(『大唐求法高僧伝』巻上)、胸奴(『塩鉄論』巻三十八)、降奴(『漢書』王莽伝)と類似の音で匈奴を記しているのを数々の史料で見受けられることによってわかる。
- ^ 白鳥庫吉『東西交渉史上より観たる遊牧民族』
- ^ J.Klaproth。『史記』『漢書』匈奴列伝の「匈奴は夏后淳維の子孫である」ということから
- ^ 内田吟風『北アジア史研究』
- ^ 林俊雄『スキタイと匈奴』講談社、2007年、180頁。
- ^ 内田吟風他訳『騎馬民族史』平凡社東洋文庫、1971年。また後漢書六夷伝のうち南匈奴伝参照。林俊雄『スキタイと匈奴』講談社、2007年、180頁。
- ^ 林俊雄『スキタイと匈奴』講談社、2007年、180頁。
- ^ 上林俊雄『スキタイと匈奴』講談社、2007年、182頁
- ^ De Guignes, Joseph (1756-1758), Histoire générale des Huns, des Turcs, des Mongols et des autres Tartares、Frucht, Richard C., Eastern Europe, (ABC-CLIO, 2005), 744. Transylvania through the age of migrations
- ^ い ろ en:Walter Pohl (1999), "Huns" in Late Antiquity, editor en:Peter Brown, p.501-502 .. further references to F.H Bauml and M. Birnbaum, eds., Attila: The Man and His Image (1993). en:Peter Heather, "The Huns and the End of the Roman Empire in Western Europe," English Historical Review 90 (1995):4-41. en:Peter Heather, The Fall of the Roman Empire (2005). Otto Maenchen-Helfen, The World of the Huns (1973). E. de la Vaissière, "Huns et Xiongnu", Central Asiatic Journal 2005-1 pp. 3-26
- ^ History of Russia, Central Asia, and Mongolia, David Christian, Wiley-Blackwell, 1998, ISBN 0631208143, p. 227.
- ^ なお1970年代に発見された南シベリアのアルジャン古墳出土品の考古学的分析により、近年、スキタイ東方起源説が有力になっている。林俊雄『スキタイと匈奴』講談社、2007年、PP.78-86。P.120
- ^ 林俊雄『スキタイと匈奴』講談社、2007年、pp311-2。
- ^ 匈奴の属国だった漢帝国 寺岡伸章また司馬遷『史記』匈奴列伝、杉山正明『遊牧民族から見た世界史』(日経ビジネス人文庫)
- ^ H.ハワース『Some Notes on the Huns』
- ^ 『Scythians and Greeks』
- ^ 王国維『西胡続考』(1921年)
- ^ 水野清一『前漢時代における墓飾石彫の一群について』(1933年)
- ^ 1924年から1925年にかけてのP.K.コズロフ(Kozlov)主宰ロシア地理学協会による蒙蔵探検隊発掘調査
- ^ 内田吟風『北アジア史研究』


