北の富士勝昭
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| 北の富士勝昭 | |
|---|---|
| 四股名 | 北の富士 |
| 本名 | 竹澤勝昭 |
| 生年月日 | 1942年3月28日(67歳) |
| 出身 | 北海道旭川市 |
| 身長 | 185cm |
| 体重 | 135kg |
| 所属部屋 | 出羽海部屋→九重部屋 |
| 得意技 | 左四つ、上手投げ、外掛け |
| 成績 | |
| 現在の番付 | 引退 |
| 最高位 | 第52代横綱 |
| 生涯戦歴 | 786勝427敗69休 |
| 幕内戦歴 | 592勝294敗62休 |
| 優勝 | 幕内最高優勝10回 十両優勝1回 |
| 賞 | 殊勲賞2回 敢闘賞1回 技能賞3回 |
| データ | |
| 初土俵 | 1957年1月場所 |
| 入幕 | 1964年1月場所 |
| 引退 | 1974年7月場所 |
| 引退後 | 九重部屋師匠 |
| 他の活動 | NHK大相撲解説者 |
| 備考 | |
| 金星1個(大鵬) | |
| 2009年8月1日現在 | |
北の富士勝昭(きたのふじ かつあき、1942年(昭和17年)3月28日 - )は、北海道旭川市(出生地は網走郡美幌町)出身で九重部屋(入門時は出羽海部屋)所属の元大相撲力士、第52代横綱。現役当時は「現代っ子横綱」と呼ばれた。本名は竹澤勝昭(たけざわ かつあき)、現役時代の体格は身長185cm、体重135kg、星座は牡羊座、血液型はO型。現在は、NHK大相撲専属解説者。
目次 |
[編集] 略歴
[編集] プロフィール
[編集] スポーツ
[編集] 土俵人生
[編集] 角界入門
1954年(昭和29年)に留萌での大相撲北海道巡業で、当時の横綱・千代の山から声をかけられたことがきっかけとなり、相撲に興味をもつようになった。留萌・港南中学校時代は軟式野球の投手で四番。父親の食堂経営が行き詰まったために、旭川に移り住んだ。北海高校、旭川南高校、留萌高校野球部、増毛高校(当時の全国優勝校)、天塩高校レスリング部(当時の全道準優勝校)から熱心に誘われていたが、全てを断り角界入りした。愛車は3代目メルセデス・ベンツS600L
[編集] 初土俵~十両で史上3人目の全勝優勝
1957年(昭和32年)1月場所、竹美山という四股名で出羽海部屋から初土俵を踏む。入門のために上京した際、船酔いした結果体重が激減し体重不足となって新弟子検査は不合格だったが、前の場所から始まったばかりの自費養成力士制度により前相撲に進むことが出来た(この制度は一年で廃止)。翌3月場所は計量の直前に水を大量に飮んで体重基準を通過する。あまりにも痩せており、香車というあだ名が付いたほどの軽量のため出世は期待に反して遅れ、当時あった「30場所で幕下に昇進できなければ廃業」の規約を、もう少しで適用されるところだった。当人もそれを知ってこのままではいけないと奮起したという。
1963年(昭和38年)3月場所、ようやく新十両に昇進を果した。ちなみに、三段目時代の1960年(昭和35年)9月場所から「北の冨士」と改名している(「冨」を「富」としたのは1967年9月場所から)。そして、1963年11月場所では十両で史上3人目の15戦全勝優勝を達成した[1]。
[編集] 新入幕~大関昇進
1964年(昭和39年)1月場所で新入幕、この場所では13勝2敗という現在でも破られていない新入幕力士最多勝の新記録[2]樹立という好成績で敢闘賞を受賞。この場所好成績を挙げた清國、若見山とともに「若手三羽烏」と呼ばれた。同年3月場所に新三役となる小結に昇進し、同年7月場所には新関脇。その取り口は「スピード相撲」と称された。
その後の1965年(昭和40年)5月には、柏戸や大鵬らと共に拳銃をアメリカのハワイから密輸入し、その後証拠隠滅のために廃棄していた事が発覚し書類送検されたが、相撲協会からの処分はなかった。
1966年(昭和41年)7月場所後で大関に昇進、大関昇進が決まった時はまさか自分が昇進するとは思っていなかったため何の用意もできておらず使者を迎える際に必要な紋付や足袋も持っていなかった。紋付は兄弟子の佐田の山から、足袋は偶々足の大きさが同じだった柏戸から借りて間に合わせた。大関昇進の直前3場所の成績は8勝7敗、10勝5敗、10勝5敗の計28勝17敗で、15日制が定着した1949年(昭和24年)5月場所以後では北葉山と並ぶ最低の数字である。昇進場所では1人大関(豊山)という事情があったとはいえ、大関昇進基準が今より甘かった当時でも意外な昇進といわれていた。
大関時代に九重親方(横綱・千代の山)が出羽海部屋からの分家独立を申し出て破門された際には悩んだ挙句、九重親方について行くことを選んだ。それまでは横綱・佐田の山がいたため2番目の気楽な立場に甘んじていたというが、独立すると部屋頭になるため安易に決定できることではなかったはずである。九重親方が独立して最初の場所となる1967年(昭和42年)3月場所では、かつての兄弟子・佐田の山を倒して14勝1敗で初優勝、一緒に移籍した十両の松前山も十両優勝した。
[編集] 第52代横綱
初優勝の直後に2場所連続負け越しするなど[3]、しばらく大関で停滞したが、後輩大関である清國の横綱挑戦(結果として失敗に終わる)などに刺激されたか、1969年(昭和44年)11月場所と1970年(昭和45年)1月場所にいずれも13勝2敗の連覇で、場所後には玉乃島(昇進後「玉の海」に改名)とともに横綱に昇進した。なお1969年11月場所の優勝後に、相撲協会は横綱昇進を横綱審議委員会に諮問したが却下されている。大関21場所での横綱昇進は、当時の最長記録[4]。
土俵入りは雲龍型で行っていたが、1971年(昭和46年)8月の巡業(このときの巡業は、北の富士が参加し北海道を中心に巡業を打ったA班と玉の海が参加し青森県を中心に巡業を打ったB班の2班で行われていた)中、B班の八郎潟町での巡業で玉の海が虫垂炎を起こして入院、A班の岩見沢巡業を終えて帰京しようとしていた北の富士が急遽代わりに土俵入りを行うことになった。しかし急ぎのため自分の横綱がなく、現地にあるのは玉の海の横綱、土俵入りの型が違えば綱の締め方も違うため当然長さも異なり別の型で締めることは出来ず、さらに玉の海の付き人が不知火型の綱締めしか知らないため、ならばと玉の海の綱を締めて、太刀持ち、露払い、化粧廻しまで一式借り、不知火型の土俵入りをした。巡業とはいえ、横綱として雲龍型、不知火型両方の土俵入りを行ったのはほかに例がない。こうした思い切りの良さも北の富士の長所であった。
その玉の海は、10月4日再発した虫垂炎の手術のため虎の門病院へ入院、同月6日に手術を行い経過は順調だったが10月11日に右肺動脈幹の血栓症により急性冠不全で午前11時30分に急逝した。最大のライバルだったが「島ちゃん」「北さん」と互いを呼ぶほど大の親友でもあった玉の海の死に、北の富士は人目はばからず号泣した。玉の海と交互に優勝を重ね、「北玉時代」到来と呼ばれた矢先の出来事だった。翌11月場所、13勝2敗で8回目の優勝を連覇で遂げた千秋楽の11月28日、奇しくも玉の海の四十九日の法要が行われ、北の富士はパレードを後回しにしてこの席に駆けつけ、親友の霊前に優勝を報告した。
取り口は立合いの搗ち上げから左四つ右上手を引いての速攻、前へ出ながらの投げあり外掛けありと躍動感ある取り口だった。引き技も早かった。また左脇が固く、右四つの型をもつライバル玉の海に右差しを許すことが殆どなかった。これは師匠千代の山譲りといわれる。外掛けも自信があり「俺の外掛けを内掛けに返したのは玉の海くらいだ」と言っていた。勢いに乗ると手がつけられないが、反面守勢にまわると脆く、無謀な首投げや二丁投げをみせてかえって体勢が悪くなることもあった。
横綱時代に11勝が続いた頃、「じっくり相撲を取ろう」あるいは「右四つもマスターしよう」と思ったが結局断念している。足が長く腰高になることもあって取りこぼしも多く、連勝はわずかに21どまり、1971年5月場所に初の15戦全勝優勝を果たしたが翌7月場所に8勝7敗、その翌9月場所には再び全勝優勝ということもあった。当時大相撲中継の解説を務めていた初代若乃花の二子山親方は、この「ヌケヌケ」的な成績に苦言を呈した。玉の海の死後、1971年11月場所から1973年(昭和48年)1月場所まで、8場所にわたって一人横綱を務めた。これは当時、一人横綱の最長記録[5]。
[編集] 不振続きから復活、引退
しかし、その1971年11月場所中には暴力団関係者からの祝儀を受けたことが発覚し、協会からは戒告処分を受ける。事件そのものについても当時の文部省が警告文書を出すなど、土俵外のトラブルが発生した。又土俵の中ででも、一人横綱の最初の場所こそ優勝を果たしたが、その後は緊張の糸が切れたような不振が続いてしまう。
3連覇がかかり優勝争いの本命とみられていた1972年(昭和47年)1月場所、初日いきなり大関・琴櫻との取組に敗れつまづくと、8日目の関脇・貴ノ花との取組では“つき手”か“かばい手”かで大きな話題となった極めて微妙な一番となる。北の富士の付いた手が「つき手」と見て貴ノ花に軍配を上げた立行司25代木村庄之助だが、審判団は「かばい手」と判断、行司差し違いとなった(勝負は北の富士の勝ち)。その後庄之助は進退伺いを協会に提出し出場停止の処分を受け、結局庄之助は翌3月場所前に廃業した。その後10日目まで4敗、12・13日目と連敗する乱調ぶりで、14日目より慢性胃炎と高血圧低血圧症で途中休場となった(7勝7敗1休)。これにより、1967年9月場所から1971年11月場所まで続いた通算(幕内)連続勝ち越しは、26場所でストップしてしまう[6]。
北の富士の思わぬ不振でこの場所は千秋楽まで4敗が3人、それを5敗の力士5人が追うという大混戦となった。加えて大麒麟、前の山の二大関がそれぞれ全休、途中休場、琴櫻と清國の大関同士の取組が14日目にあったため、千秋楽結びの一番に平幕力士が相撲を取る(清國と前頭5枚目栃東の取組)[7]という異例の事態となった。栃東が敗れれば10勝5敗の力士8人による優勝決定戦となるところであり、栃東が勝って初優勝したが11勝4敗の成績は15日制となった1939年5月場所以来最低であった[8]。
翌3月場所も序盤から取り零しが続き早々優勝争いから脱落、勝ち越しはしたが結局9勝6敗に終わる。さらに次の5月場所では8日目まで3勝5敗の絶不調、同場所中の翌9日目には「不眠症」という前代未聞の理由で不戦敗・途中休場という事態も起こした。休場するためには医師の診断書が必要だが、極度の不振とはいえ身体に悪いところはどこにも見当たらない。困った医師はそこで「夜は眠れるか?」と問い、調子が上がらない悩みから北の富士は「最近寝付きが悪い」と否定したので、「ならば不眠症だな」と診断書を書いた、というエピソードが本人の口から語られている。続く7月場所を右手中指の脱臼で全休したが休場中にハワイへ旅行をしていたことが明るみに出て、協会から注意を受けた。北の富士は直ちに帰国し、場所後の夏巡業には参加した。
同年9月場所は、3回目の全勝優勝を果たし完全復活をアピールする。それでも、一人横綱の8場所中で輪島(同5月場所)・高見山(同7月場所)が初優勝を果たし貴ノ花・輪島が同時に大関昇進(同9月場所後)するなど、角界の世代交代が進む結果となった。
こうした不振時のトラブルや後述のような土俵内外での言動から稽古嫌い、あるいはルーズな横綱と誤解されがちだが、実際には四股・股割りなどの基本は念入りに行っていたなど、決して稽古嫌いではなかったと識者が語っている。実際大関から横綱にあがる頃の稽古量はかなりのものであり、同門の前の山や高見山がグンと伸びたのは彼のおかげとも言われる。また、稽古熱心で有名だった弟子の北勝海が関脇から大関時代に負けが込むと「あいつは稽古不足だ。昔の俺より少ないよ。みんな俺のこと誤解してるよ。」と叱咤激励の意を込めたコメントを残している。
1973年1月場所後に琴櫻が横綱昇進、二人横綱となる。3場所連続休場後に迎えた1974年7月場所で初日に前頭筆頭旭國、2日目関脇大受と連敗して引退。幕内優勝回数は10回(うち全勝優勝は3回)。
2008年11月場所終了時点で、十両と幕内の双方で15戦全勝優勝を達成した唯一の力士である。
[編集] 横綱時代のエピソード
- 本人が「俺ほど色んな呼ばれ方をされた横綱はいなかったんじゃないかな。」と振り返るほど、様々なニックネームがあった。レコードを吹き込み、当時では珍しかったボウリングやゴルフ、サーフィンに打ち込み、「根性という言葉は嫌い」と宣言していたことから「現代っ子横綱」。1970年9月場所から翌1971年3月場所まで4場所続けて11勝4敗という結果を揶揄され、当時の人気深夜番組「11PM」に例えて「イレブン横綱」(横綱での勝率が11勝4敗に近い数字であるのが面白い)、その他にも派手な遊びっぷりから新聞記者に付けられた「プレイボーイ横綱」「夜の帝王」などが有名である。
- また、この頃から栃王山とキャバレー「月世界」を共同経営したり、札幌や名古屋で相撲料理店「ちゃんこ北の富士」を経営するなど副業に手を広げるとともに、1967年(昭和42年)に発売した「ネオン無情/チャンコ花唄」が50万枚を売り上げ大ヒットした[9][10]。1969年(昭和44年)10月には当時の人気歌番組「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ系)にも歌手として出演している(曲は「君を慕いて」)。しかし、後には歌手との兼業は自ら言い出してやめている。
- 歴代横綱の親睦会である横綱会に玉の海と並んで初出席した際、新横綱のしきたりとして一芸を披露することになっており、玉の海のギターに合わせて北の富士が歌を歌い、栃錦をして「びっくりした。時代が変わったものだねえ」と言わせた。
- ファンからサインを求められる際に「何か言葉を入れてください」と頼まれても「忍耐」「努力」とは書かなかったという。本人曰く「『努力』と書いて努力しなかったらみっともない」「琴櫻関ならぴったりくるけどわしが書いても似合わない」。先述の通り稽古嫌いではなかった。
[編集] 改名歴
[編集] 四股名
- 竹沢勝昭(たけざわ かつあき)1957年1月場所 - 1959年3月場所
- 竹美山勝明(たけみやま かつあき)1959年5月場所 - 1960年7月場所
- 北の冨士勝明(きたのふじ かつあき)1960年9月場所 - 1967年7月場所
- 北の富士勝明(きたのふじ -)1967年9月場所 - 1968年1月場所
- 北の富士洋行(- ひろゆき)1968年3月場所[11]
- 北の富士勝昭(- かつあき)1968年5月場所 - 1971年1月場所
- 北の富士勝晃(- かつあき)1971年3月場所 - 1972年5月場所
- 北の富士勝昭(- かつあき)1972年7月場所 - 1974年7月場所(現役引退)
[編集] 年寄変遷
- 井筒勝昭(いづつ かつあき)1974年7月9日 - 1977年11月4日
- 九重勝昭(ここのえ -)1977年11月4日 - 1992年4月1日
- 陣幕純樹(じんまく じゅんき)1992年4月1日 - 1994年11月6日
- 陣幕克昭(- かつあき)1994年11月6日 - 1998年1月31日(退職)
[編集] 土俵歴
[編集] 主な成績
(不戦勝・不戦敗も成績に含む)
- 幕内通算成績:64場所 592勝294敗62休 勝率.668
- 横綱通算成績:27場所 247勝 84敗62休 勝率.746
- 幕内最高優勝:10回(うち全勝3回)
- 同点:1回
- 次点:3回
- 年間最多勝:1969年(63勝27敗)、1970年(75勝15敗・玉の海と同数)、1971年(73勝17敗)
- 三賞:殊勲賞2回、敢闘賞1回、技能賞3回
- 金星:1個(大鵬)
- 通算(幕内)連続勝ち越し記録:26場所(現在歴代6位タイ、当時玉錦と並び歴代2位タイ・1967年9月場所~1971年11月場所)
- 各段優勝:十両1回(1963年11月場所)
[編集] 幕内での場所別成績
| 一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1964年 (昭和39年) |
東 前頭 #10 13–2 敢 |
東 小結 4–11 |
東 前頭 #5 9–6 技 |
西 関脇 9–6 |
東 関脇 6–9 |
東 前頭 #1 10–5 技 |
| 1965年 (昭和40年) |
西 関脇 8–7 |
西 関脇 5–10 |
東 前頭 #3 8–7 ★ |
東 前頭 #2 8–7 |
東 小結 10–5 |
東 関脇 9–6 |
| 1966年 (昭和41年) |
東 関脇 10–5 殊 |
東 関脇 8–7 殊 |
東 関脇 10–5 技 |
東 関脇 10–5 |
西 大関 10–5 |
東 大関 10–5 |
| 1967年 (昭和42年) |
東 大関 10–5 |
東 大関 14–1 |
東 大関 5–10 |
西 大関 7–8 |
西 張出大関 10–5[12] |
東 大関 8–7 |
| 1968年 (昭和43年) |
東 張出大関 10–5 |
西 大関 9–6 |
西 張出大関 10–5 |
東 張出大関 10–5 |
東 張出大関 8–7 |
西 大関 11–4 |
| 1969年 (昭和44年) |
西 大関 11–4 |
西 大関 9–6 |
東 張出大関 9–6 |
西 大関 9–6 |
東 張出大関 12–3 |
西 大関 13–2 |
| 1970年 (昭和45年) |
東 大関 13–2[13] |
東 横綱 13–2 |
西 横綱 14–1 |
東 横綱 13–2[14] |
東 横綱 11–4 |
東 張出横綱 11–4 |
| 1971年 (昭和46年) |
東 張出横綱 11–4 |
東 張出横綱 11–4 |
東 張出横綱 15–0 |
東 横綱 8–7 |
西 横綱 15–0 |
東 横綱 13–2 |
| 1972年 (昭和47年) |
東 横綱 7–7–1[15] |
東 横綱 9–6 |
東 横綱 3–6–6[15] |
休場 | 東 横綱 15–0 |
東 横綱 10–5 |
| 1973年 (昭和48年) |
東 横綱 10–5 |
西 横綱 14–1 |
東 横綱 9–6 |
東 張出横綱 14–1[16] |
西 横綱 8–3–4[15] |
東 張出横綱 10–5 |
| 1974年 (昭和49年) |
東 張出横綱 3–6–6[15] |
休場 | 休場 | 東 横綱 引退 0–3–12 |
x | x |
| 各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 十両・幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 |
||||||
[編集] 引退後
[編集] 親方として
1974年7月場所中に現役引退、年寄井筒(12代)を襲名。引退披露興行では断髪後に白のタキシード姿で登場し一曲歌って会場・関係者を驚かせた。短期間に40kg近いダイエットを敢行し、ダイエット後のスリムな容姿でこれまた周囲を驚かせた。
井筒部屋(現在の部屋と別系統)を興したが、1977年10月の元横綱千代の山没後に部屋合同の形で九重部屋を継ぎ、第61代横綱北勝海を育てた。また、師匠でもある先代から引き継いだ弟子千代の富士を大成させた。千代の富士とのやりとりは漫才の掛け合いのように軽妙で、しきたりの多い角界には珍しく映ったこともあり千代の富士が一気に横綱までの階段を駆け上がった際には記事の題材によく取り上げられていた。一方で前妻と離婚し不惑を超えてから元ホステスと再婚したり交友関係や北天佑の弟の素行不良に対する制裁を指揮していた疑惑をかけられるなどスキャンダルで紙面を賑わす事も多かった。
1992年には引退したばかりの陣幕親方(千代の富士)に九重部屋を譲って、年寄18代陣幕に名跡交換[17] 、自身はその後八角部屋に移籍した。理事昇格後は長らく審判部長を務め、元力士とは思えぬ美貌と場内説明時の饒舌さで土俵に華を添えたが、実は審判部副部長(役員待遇)時代に不祥事を起こし、一度委員(無任所)に降格されながらも審判部副部長に返り咲き、更には審判部長に就くという異例の人事であった。その後は新設された広報部長を務めた。
1998年に相撲協会理事選の候補から外されたことで協会を退職し、NHKの相撲解説を務めている。2002年に弟子である千代の富士、北勝海の2横綱を従えての還暦土俵入りは行なわれたが、既に相撲協会から退職していたため国技館が使えず、都内のホテルを借りての披露となった。
千代の富士の横綱昇進直後に「辞めるときは綺麗に辞めような」と引き際の潔さを説いたのは有名だが、1992年5月場所前まともに相撲が取れる状態ではないのに出場を決意した北勝海に対して前師匠(このとき部屋の師匠は千代の富士に譲っていた)として諭し、北勝海に引退を決意させた。
[編集] 解説者として
解説者としては歯に衣着せぬ切れ味鋭い解説が好評を博しており、藤井康生アナウンサーとの「毒舌コンビ」や、それに舞の海秀平を加えた「漫才トリオ」、そして吉田賢アナウンサーとの「居酒屋コンビ」を結成し、初日・中日・千秋楽における舞の海とのコンビは大相撲中継の名物となっている。また、舞の海と共にわかりやすい解説で好評の秀ノ山(元関脇琴錦)を絶賛している。
自身が「黄金の引き足」と言われる程、引き技の切れが鋭かった事(ただし「黄金の…」は自称だったともいわれる)から、千代大海、千代天山、北勝力ら、弟子筋の力士の引き技による自滅などふがいない相撲に対しては容赦ない叱責が飛ぶこともしばしば。千代天山が引き技で敗北した際、「げんこつをあげたくなるくらい悪い相撲」と評したことは好例である。このとき北の富士は、取組前までは千代天山の素質などを大いに褒めていた。弟子筋の力士に対するコメントは、引き技に関するもの以外でも辛いことが多い。
- 2008年11月場所では、大関角番では無かった千代大海に対して、取組直前に「今場所角番でしょ?」と言い放つ。その北の富士の大きな勘違いにNHKアナウンサーは絶句、「さすがにそれは失礼だと思いますが…」と言われていた。
- 2004年9月場所千秋楽で北勝力が土佐ノ海に四つ相撲で敗れた。この場所北勝力は終盤5連敗で5勝10敗。北の富士は「土佐ノ海は四つ相撲でもそれなりに取れるけど北勝力は四つに組んだら何にもならない。自分から四つに組んでいるようにも見える。どうしようもないねえ~。こんなんじゃあ~。」と酷評。実況していた刈屋富士雄アナウンサーも、「そうですか。」としか言えなかった。北勝力が勝っても「まあ、今日は良かったんじゃないですか。」程度。負ければ北勝力の相撲を切り捨てている。
魁皇にはこれまで何度も横綱昇進の期待を裏切られたせいか、2006年7月場所序盤好調にもかかわらず「期待していませんから」と北の富士流?の解説をしていた。その北の富士の予感通り魁皇は場所終盤で失速、結局9勝6敗に終わった。
貴ノ花が亡くなった際、思い出に残る取組として上述の1972年1月場所の取組が多く取り上げられた。北の富士はNHKのインタビューで「あの相撲は本当は俺の負け。俺の手は『かばい手』では無く『つき手』だった。認めたくないが認める。生涯に残る相撲」と涙ながらに振り返っている。後にNHK総合テレビで放送された貴ノ花の追悼番組では北の富士が進行役を務めている。
なお、大関以上の経験者がNHKの相撲解説者になるのはテレビ放送開始以来初めてである。
- 正面解説に北の富士、向正面解説に舞の海が担当をしていたある場所。舞の海が真面目に喋っている時、北の富士が自分の出番じゃないからと、大きなアクビをこれ見よがしにしていた。それを見ていた舞の海は、悪戯してやろうと思いつき「それは北の富士さんに聞いたほうがいいんじゃないですか?」と唐突に話を振って慌てさせ、中継終了後に「急に話しかけるんじゃないよ!」と叱られる。しかし数日後の中継では「それは僕よりも舞の海さんの方が知ってるでしょ」と同じ手口の仕返しをして喜んでいた。
- 2004年9月場所初日では、国技館内限定FMのゲストKONISHIKIが、スナック菓子を食べながら解説をしている姿がカメラに映し出され、北の富士「(KONISHIKIに対し)オイオイ、太るよ!」、藤井アナウンサー「いや、もう太ってますが・・・」というやりとりがあった。しかもその後藤井アナが「今でも280kgあるそうで」と引退後のKONISHIKIダイエット企画がリバウンドに終わったことをばらしてしまった。
- 藤井アナとのコンビの際、時に藤井アナが不用意な一言を実況中に述べた際には、すかさず忠告または注意を促す発言を行う場合も多い。
- 白鵬、把瑠都、鶴竜には、期待を込めて熱心に見守っている。特に白鵬に関しては十両~新入幕の頃から、高い素質と恵まれた身体能力に目を付け、「大鵬二世」「いずれは横綱になる逸材」と予言していた。
- 粋なおじさんといった感じの着物姿で登場するかと思えば、いかにも往年の現代っ子横綱健在といった感じの奇抜な色のスーツで登場することもあり、独特のファッションセンスを誇る。しかし2007年9月場所頃からは、着物姿での登場が多い。
- 2008年5月場所の13日目のNHK解説で着物姿に口髭を蓄えた風貌で登場する。が、同場所千秋楽には髭をさっぱり剃ったスーツ姿でNHKの解説に出演。髭の風貌が任侠に見えなくもないと苦情が寄せられた可能性がある。以前にもNHKの解説にスーツ姿に茶色のサングラスで出演したことがあり、幕内力士土俵入りをはさんで通常の眼鏡に変えていたという経緯がある。
- 2007年9月場所千秋楽では、白鵬対千代大海の結びの一番で、「まぁ、白鵬が負けるとは思えないですけどねぇ。なんならあれですか、坊主にでもしましょうか?」といった爆弾発言でファンを驚かせた。[18]
- 2008年9月場所のある取組の終了後、その相撲について実況アナウンサーから質問されたが「ご、ごめん。ちょっ、ちょっとよく見てなかった。」と解説者としてはあるまじき返答。それを聞いた実況アナウンサーは、「(当時ロシア人力士大麻問題が大きく世間を騒がしていたのを利用して)角界の将来のことを考えていたのでしょうか。」とうまくフォローしていた。
- とある取組の終了後、花道のリポートをしているアナウンサーが、負けた力士の付き人の花道での様子を伝え、「(負けた力士の付き人が、その取り組みについて)モニターを見ながら、「ああ、足が出てない…」と言ってました。」とリポートすると、それを聞いた北の富士は、「誰ですか、その付き人って?親方みたいなことを言う付き人ですね。」と冗談とも本気ともとれる口調で突っ込んでいた。
- 2009年1月場所8日目、正面ゲストにかつて土俵上で激しくしのぎを削った輪島が登場した際に、ラジオ中継の解説をしている姿がテレビに映されたが、帽子にジャンパーというきわめてラフな格好であった。輪島に関しては「岩みたいだった」という表現で当時の強さを語った。
- 2009年3月場所12日目、関脇把瑠都が栃煌山を吊り出して破った相撲の後のコメント。「栃煌山は吊らっれ放しじゃなくてもっと抵抗しないと。鮭じゃないんだから。」。
- 2009年3月場所12日目、高見盛が安美錦に勝利した際、安美錦が膝を痛めたことに高見盛がいつものように意気揚々と引き上げず心配そうにしている姿を「相手に気遣うことも出来て見ていて清清しいね」と絶賛。毒舌だけじゃなく素直に褒めることもあるのが解説者として人気の要因として考えられる。
- 2009年3月場所千秋楽、248kgの山本山が登場した際、山本山が13日目豊ノ島戦で相手の機敏な動きについていき勝利したことに対して「あれはただのデブじゃないと思いましたね」。
- 2009年9月場所初日、日馬富士の取り組みの際、日馬富士の体重について、もう少し体重が増えればもっと強くなるだろうという話になった直後のコメント、「日馬富士は、今25歳?この間会った時、「27,8歳になったらもう少し体重が増えてくるよ。」と言っておきましたよ。まぁ、何の根拠もないんですけどね。」
- 旭川市の観光大使である。
- 2009年9月場所千秋楽、把瑠都が5大関全員から白星をあげるという快挙を成し遂げたのに殊勲賞の該当者がいなかったのに対し、「まぁ今の大関達にはそれだけの価値が無いって事ですよね。弱いから。」と言い放った。それに対しアナウンサーは「確かに元気の無い大関もいましたが、元気のある大関もいましたので…」とフォローしていた。
- 2009年9月場所千秋楽、朝青龍が優勝することが奇跡だと予想していたことから、向正面解説の舞の海へコメント。「まんまとしてまたやられたな、舞の海さん」「明日はふたりで床屋行くか?」
- 2009年11月場所、10日目で朝青龍との取組が組まれた大関角番で2勝7敗だった千代大海に対し、取組前にも関わらず「まぁ引導渡すのが横綱でよかったですよね」と言い放った。
[編集] 北の富士賞
自身の達成以来十両での全勝優勝が長らく出なかった[19][1]ため十両で終盤まで全勝の力士がいると「全勝優勝したら僕からも何かやりたいね」と言っていた。2006年3月場所に把瑠都が達成、この際に実況のアナウンサーにより前述の全勝優勝祝いが『北の富士賞』として紹介された。把瑠都の全勝優勝インタビューの際にアナウンサーが「北の富士関は横綱まで行きましたが把瑠都関はどこまで行きたいですか?」と言った時に「横綱、横綱」と発言するなど早くも横綱昇進を期待している。
[編集] 関連項目
[編集] 大相撲
[編集] 出身地
[編集] 人物
[編集] 企業
- ちゃんこ北の富士
- キャバレー 月世界
[編集] 脚注
- ^ い ろ 15日制が定着した1949年5月場所以降、十両での15戦全勝はほかに栃光・豊山の2人がいる。把瑠都以外は全員大関に昇進している。
- ^ のちに北の冨士が初優勝した1967年3月場所で陸奥嵐がタイ記録を樹立。
- ^ 当時は3場所連続で負け越さないと大関陥落とはならなかった
- ^ 現在は琴櫻(1967年11月場所〜1973年1月場所)・武蔵丸(1994年(平成6年)3月場所〜1999年(平成11年)5月場所)の32場所。
- ^ 現在は朝青龍(2004年(平成16年)1月場所〜2007年(平成19年)5月場所)の21場所。
- ^ 1972年1月場所であと1勝して勝ち越せば、当時の連続勝越記録の第1位だった玉の海の27場所と並んでいた。
- ^ 結び前に琴櫻と関脇三重ノ海の対戦が組まれたが大関としては番付上清國が上位であった。
- ^ 1944年5月場所から1949年1月場所まで15日制ではなかった。15日制に戻り定着したのは1949年5月場所から。その後1996年11月場所に武蔵丸が5人での優勝決定戦の末11勝4敗で優勝している。
- ^ 相撲人名鑑(北の富士 勝昭)(2008年9月19日閲覧)
- ^ 北の富士さん一喝!「高砂が悪い」…朝青龍問題、スポーツ報知、2007年8月12日。
- ^ 姓名判断で勝明の名では交通事故に遭うと言われた際、「ならせめて海外旅行に行きたいなあ」と思って「洋行」に改名したといわれる。
- ^ 1969年5月場所以前の「3場所連続負け越しで大関陥落」の制度の下での大関角番
- ^ 玉乃島と優勝決定戦
- ^ 前乃山と優勝決定戦
- ^ い ろ は に 途中休場
- ^ 琴櫻と優勝決定戦
- ^ あまりに早い名跡交換だったためか、新九重の千代の富士がその事実を失念してしまい、色紙にサインする際陣幕とサインしそうになったというエピソードが大相撲放送の解説中で語られている。
- ^ 1994年の役員改選で新設の広報部長に就任したが、その頃、頭部に動脈瘤が発見され手術を受けている。審判部を離れたことで解説者としてテレビに出ることとなったが、手術の際に剃髪したため、角刈りに近い短髪姿で登場したことがある。
- ^ 十両の好成績力士は幕内と対戦させられるため、優勝は11勝4敗ないし10勝5敗といった水準に留まることが多い。平成期には十両陣が総崩れで9勝6敗力士8人によるトーナメントでの十両優勝決定戦が行われたこともある(2001年7月場所。優勝者は武雄山)。この時は優勝者なしにすべきだなどの意見も出たほどであった。好成績の十両優勝をした大善、湊富士などでも12番、13番に留まっており14勝、全勝は極めて珍しいことである。十両で12番以上勝つということはそれだけで傑出した実力の証といえる。
[編集] 外部リンク
- 関取名鑑 北の富士勝昭(大相撲 記録の玉手箱より)
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最終更新 2009年11月24日 (火) 08:50 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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