卑弥呼
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卑弥呼(ひみこ、175年頃? - 248年頃)は、『魏志倭人伝』等の中国の史書に記されている倭の女王。封号は親魏倭王。後継には親族の壹與が女王に即位したとされる。本来の表記は「卑(上部の「ノ」が無い)彌呼」である。
目次 |
[編集] 史書の記述
[編集] 『三国志』の卑弥呼
[編集] 「魏志倭人伝」の卑弥呼
「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王之所都)、鬼道で衆を惑わしていたという(卑彌呼 事鬼道 能惑衆)。この鬼道や惑の意味には諸説あるが正確な内容については不明。既に年長大であったが夫を持たず(年已長大 無夫壻)、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある(有男弟佐治國)。王となってから後は、彼女を見た者は少なく(自爲王以來 少有見者)、ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた(唯有男子一人給飮食 傳辭出入 居處宮室樓觀 城柵嚴設)。
卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている(卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩)。
[編集] 「魏書帝紀」の俾弥呼
『三國志』(三国志)の卷四 魏書四 三少帝紀第四には、正始四年に「冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻」とある。
[編集] 朝鮮半島の書物から
朝鮮半島の『三国史記』新羅本紀(1145年成立)による。
[編集] 年譜
中国の歴史書による。
- 建武中元二年(57年) - 倭奴国が金印を授与される。『後漢書』
- 永初元年(107年) - 倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。『後漢書』
- 倭国、男性を王とした七、八十年
- 桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。『後漢書』
- 光和年間(178年 - 184年) - 卑弥呼が共立され、倭を治め始める。『梁書』
- 景初三年(239年) - 卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる(『三国志』では同二年(238年))。
- 正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
- 正始四年(243年) - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
- 正始六年(245年) - 難升米に黄旗を仮授与(帯方郡に付託)。
- 正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、援を請う。難升米に詔書、黄旗を授与。
- 正始八年(247年)、またはその直後
- 泰始元年(265年 - ) - 倭の遣使が重ねて入貢。『晋書』邪馬台国からの最後の入貢。
[編集] 呼び名
『三国志』魏書東夷伝、『後漢書』の通称倭伝(『後漢書』東夷傳)、『隋書』の通称倭国伝(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 倭國)、『梁書』諸夷伝、『三国史記』新羅本紀では表記は「卑彌呼」、『三国志』魏書 帝紀では「俾彌呼」と表記されている。
一説には、中華思想により、他国の地名、人名には『蔑字』を使っているため、このような表記になっている[1]。
また他の一説には、(中国から見て)単に外来語であることを表す目印として先頭の文字を特別なものとしているというものがある。これは現代日本語でのカタカナの使用や英語での固有名詞の表記、ドイツ語での名詞の表記に似た方法である。
現代日本語では一般に「ひみこ」と呼称されているが、当時の正確な発音は不明。
- 日巫女(ひみこ)
- 日御子(ひみこ)
- 姫御子(ひめみこ)
- 日女子(ひめこ) - 駒澤大学教授の三木太郎の説。男性の敬称「ヒコ(日子)」に対する女性の敬称。
- 日向(ひみか・ひむか) - 松本清張が唱えた、日向(日向国)と関係するとの説。
など諸説ある。
一方、中国語発音を考慮すると、当時の中国が異民族の音を記す時、「呼」は「wo」をあらわす例があり(匈奴語の記述例など)、卑弥呼は「ピミウォ」だったのではないかとする説もある
【現代中国語でのピンインでの表記】
卑弥呼:bei1 mi2 hu1
(俾彌呼:bi3 mi2 hu1)
掖邪狗:ye4 xie2 gou3
帥升:shuai4 sheng1
難升米:nan2 sheng1 mi3
伊聲耆:yi1 sheng1 qi2
一方で、当時の中国語から「ビミファ」だったのではないかとする説もある。その場合、「ミファ」は大神(オオミワ)神社のミワに対応し「ビ」は、女性の尊称(ビ、ベ)、日あるいは蛇とも取れ、姫神、日神、蛇神とも解釈できる(後世、そのように解釈された形跡がある)[要出典]。
いずれにせよ、弥生時代の日本語の発音および当時の中国語の音写の法則についてはまったく説が確立しておらず、したがってその意味も判然としない(少なくとも現代日本語で解釈するのは学術的に無意味であり、古代日本語の音韻論を基本に考察しなければならない)。
[編集] 卑弥呼の死
魏志倭人伝には、卑弥呼の死については
| “ | 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 (卑弥呼は死に、直径100余歩の大きな塚が作られ、奴婢100余人が徇葬された) |
” |
とのみ書かれている。
この前の記述は、247年(正始8年)に邪馬台国からの使いが狗奴国との紛争を報告したことに発する一連の記述である。卑弥呼の死については年の記載はなく、その後も年の記載がないまま、1年に起こったとは考えにくい量の記述があるため、複数年にわたる記述である可能性が高いが、卑弥呼の死が247年か248年か(あるいはさらに後か)については説が分かれている。
「以死」の訓読についても諸説ある。通説では、「以」に深い意味はないとするか、「死するをもって」つまり「死んだので」墓が作られた、あるいは、「すでに死す」と読み、直前に書かれている「拜假難升米 爲檄告喻之」(難升米が詔書・黄憧を受け取り檄で告諭した)の時点で卑弥呼はすでに死んでいた、と解釈する。この場合、死因は不明である。一方、「もって死す」つまり「だから死んだ」と読んだ場合、この前に書かれている、狗奴国との紛争もしくは難升米の告諭が死の原因ということになる。
卑弥呼の死んだ時期は弥生時代から古墳時代への移行期に当たり、邪馬台国畿内説では卑弥呼の墓は古墳の可能性がある。箸墓古墳(宮内庁指定では倭迹迹日百襲姫命墓)とする説が有力である。九州説では、平原遺跡を卑弥呼の墓とする説[4]などがある。
天文学者の斎藤国治は、248年9月5日朝(日本時間。世界時では4日)に北部九州で皆既日食が起こったことを求め、これが卑弥呼の死に関係すると唱えた。井沢元彦も『逆説の日本史』でこの説を支持している。さらに、橘高章と安本美典は、247年3月24日夕方にも北部九州で皆既日食が起こったことを指摘し、247年の日食が原因で卑弥呼が殺され、248年の日食が原因で男王に代わり壹与が即位したと唱えた。これらの説は、邪馬台国北九州説や卑弥呼・天照大神説と密接に結びついている(ただし不可分ではない)。
しかし、現在の正確な計算では、いずれの日食も、邪馬台国の主要な比定地である九州本島や畿内の全域で(欠ける率は大きいが)部分日食であり[5]、部分日食は必ずしも希な現象ではないことから、日食と卑弥呼の死の関連性は疑問視されている。
[編集] 人物比定
卑弥呼が、『古事記』や『日本書紀』に書かれている誰にあたるか、またあたらないかが、江戸時代ころから議論されていた。ただし現代では、神話伝説を歴史的事実の反映であるとして自説にあうようにそれらしく解釈することは水掛け論を生むばかりで、あまり有意義な議論とは考えられていない[要出典]。(#卑弥呼=卑弥呼説参照)
[編集] 神功皇后説
『日本書紀』の「神功皇后紀」において、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用している。このため、江戸時代までは、卑弥呼イコール神功皇后だと考えられていた。この説にたてば、邪馬台国はヤマト王権が拠った畿内にあったことになる。
[編集] 熊襲の女酋説
本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世らが唱えた説。本居宣長、鶴峰戊申の説は卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」である[6]。宣長は、日本は古来から独立を保った国という考えを強く持っており、「魏志倭人伝」の卑弥呼が魏へ朝貢し、倭王に封じられたという記述は、宣長の受け入れられるものではなかった。宣長は「魏志倭人伝」の記述から邪馬台国は九州にあったと結論し、九州の熊襲の女酋長が勝手に神功皇后の使いを偽って魏へ通交したと考えた。また、那珂通世は卑弥呼は九州の女酋であり朝廷や神功皇后とは無関係であるとする。これらの説の考えは現在、九州王朝説へと引き継がれている。
[編集] 甕依姫説
九州王朝説を唱えた古田武彦は、『筑後風土記逸文』に記されている筑紫君の祖「甕依姫」(みかよりひめ)が「卑弥呼(ひみか)」のことである可能性が高いと主張している。また、「壹與(ゐよ)」(「臺與」)は、中国風の名「(倭)與」を名乗った最初の倭王であるなどと主張している。
[編集] 倭姫命説
戦前の代表的な東洋史学者である内藤湖南は垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)を卑弥呼に比定した。
[編集] 倭迹迹日百襲媛命説
倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)は、『日本書紀』の倭迹迹日百襲姫命または倭迹迹姫命、『古事記』の夜麻登登母母曾毘賣命。近年、卑弥呼と同一人物として推定される候補の中では最有力の説となってきている。
『日本書紀』により倭迹迹日百襲媛命の墓として築造したと伝えられる箸墓古墳は、邪馬台国の都の有力候補地である纏向遺跡の中にある。同時代の他の古墳に比較して規模が隔絶しており、また日本各地に類似した古墳が存在し、出土遺物として埴輪の祖形と考えられる吉備系の土器が見出せるなど、以後の古墳の標準になったと考えられる重要な古墳である。当古墳の築造により古墳時代が開始されたとする向きが多い。
この箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160mであり、「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」と言う記述に一致している。
『日本書紀』には、倭迹迹日百襲媛命について、三輪山の神との神婚伝説や、前記の箸墓が「日也人作、夜也神作」という説話が記述されており、卑弥呼と同様な神秘的な存在と意識されている。また崇神天皇に神意を伝える巫女の役割を果たしたとしており、これも「魏志倭人伝」の「男弟有り、佐(助)けて国を治む」(有男弟佐治國)という、卑弥呼と男弟の関係に一致する。
従来、上記の箸墓古墳の築造年代は古墳分類からは3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼の時代とは合わないとされてきた。しかし最近、年輪年代学や放射性炭素年代測定による科学的年代推定を反映して、古墳時代の開始年代が従来より早められた。箸墓古墳の築造年代についても、研究者により多少の前後はあるものの卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が最近では一般的になっている[7][8]。
[編集] 日女命説
『海部氏勘注系図』に記される、彦火明六世孫、宇那比姫命(うなびひめ)を卑弥呼とする説。この人は別名、大倭姫(おおやまとひめ)という大和王権の女王と思われる名を持ち、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大海靈姫命(おおあまひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)とも呼ばれる。この日女命を卑弥呼と音訳したとする。日女とは後の姫、媛と同じで、個人名ではなく普通名詞である。またこの説では、卑弥呼の後に王位に就いたとされる台与(とよ)を、系図の中で、宇那比姫命の二世代後に記される、天豊姫(あまとよひめ)とする[9]。
古賀達也は『海部氏勘注系図』とは別の高良大社に残る「高良記」系図にある二十一代目の「天造日女命」を卑弥呼と同定している。 またその次の「天世斗命」を壹與と同定している[10]。
[編集] 天照大神説
中国の史書に残るほどの人物であれば日本でも特別の存在として記憶に残っているはずであり、日本の史書でこれに匹敵する人物は天照大神(アマテラスオオカミ)しかないとする説。白鳥庫吉、和辻哲郎らに始まる[11]。
アマテラスの別名は「大日孁貴」(オオヒルメノムチ)であり、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で、「日の女」となる。意味は太陽に仕える巫女のことであり、卑弥呼(陽巫女)と符合するとする。
卑弥呼の没したとされる近辺に、247年3月24日と248年9月5日の2回、北部九州で皆既日食がおきた可能性があることが天文学上の計算より明らかになっており(大和でも日食は観測されたが北九州ほどはっきりとは見られなかったとされる)、記紀神話に見る天岩戸にアマテラスが隠れたという記事(岩戸隠れ)に相当するのではないかという見解もある[12]。ただし、過去の日食を算定した従来の天文学的計算が正しい答えを導いていたかについては近年異論も提出されている[13]。
安本美典は、天皇の平均在位年数などから推定すると、卑弥呼が生きていた時代とアマテラスが生きていた時代が重なるという[14]。また卑弥呼には弟がおり人々に託宣を伝える役を担っていたが、アマテラスにも弟スサノオがおり共通点が見出せるとしている(一方スサノオをアマテラスとの確執から、邪馬台国と敵対していた狗奴国王に比定する説もある)。
魏志倭人伝には卑弥呼が死去した後、男王が立ったが治まらず、壹與が女王になってようやく治まったとある。この卑弥呼の後継者である壹與(臺與)はアマテラスの息子アメノオシホミミの妃となったヨロヅハタトヨアキツシヒメ(万幡豊秋津師比売)に比定できるとする。つまり卑弥呼の死後男子の王(息子か?)が即位したが治まらず、その妃が中継ぎとして即位したと考えられる。これは後の大和政権で女性が即位する時と同じ状況である。ちなみにヨロヅハタトヨアキツシヒメは伊勢神宮の内宮の三神の一人であり(もう一人はアマテラス)、単なる息子の妃では考えられない程の高位の神である。
安本美典は、卑弥呼がアマテラスだとすれば、邪馬台国は天(『日本書紀』)または高天原(『古事記』)ということになり、九州にあった邪馬台国が後に畿内へ移動して大和朝廷になったとする(邪馬台国東遷説)。それを伝えたのが『記紀』の神武東征であるとしている[15]。
この説に対する難点としては、そもそも「皇祖神たる太陽女神」なる観念そのものがさして古いとはいえない説があり[16]、事実、『隋書』にあり『日本書紀』に記述がない第一回目の遣隋使(名前の記述なし)の記事には、倭国の倭王[17]が天と日を兄と弟としていた(「俀王以天爲兄 以日爲弟」)とある。天照大神という神格は天武天皇の時代に始まるとする説もある[18]。また、天照大神は本来は男性の神とする説もある[19]。 また、「ヒルメ」を「日の女」であるから巫女である、とする説は他に「~ノメ」を巫女とする用例がなく(ミヅハノメやイワツツノメなどは巫女とされた例はない)、根拠に乏しい。「大日孁貴」の孁字が説文解字において巫女、妻の意があるとする説は説文解字に「女字也」とのみあることから、これは誤りである。
[編集] 比定できないとする説 [要出典]
以上の説は、「卑弥呼」に該当する人物が『記紀』や古系図に明確に特定できる形で残っているとする前提があるが、日本古代の記録の残存状況から考えると、そのようなことは期待できないとする説である。実在がはっきりしない卑弥呼を、神話的伝説上の人物に当てはめることは意味がない。
近年専門の歴史学者によって書かれた書物・論文では、卑弥呼を神話伝説中の誰かにあてるような議論は行われていない。その理由は、『記紀』の成立過程に関する史料批判が進み、ヤマト王権内部における文字使用状況から推測すると、継体天皇以前の伝承に信用を置くことはできないためである。例えば、『記紀』の記述によると、広開土王碑が伝える朝鮮半島奥深くに侵入しての高句麗との戦闘は一切伝えられていないし、倭の五王の遣使も伝わらない(倭王武の上表文によると5世紀の最も重大な外交問題は対高句麗問題であるにも関わらず)。
比較的正しい記事は、朝鮮など外国史料を参照したものである。現在の考古学は箸墓古墳を卑弥呼の墓の最有力候補と見ているから、倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)は卑弥呼の有力な候補の1つと考えられる。ただ、それ以外のどの説も部分的に正しいといえるため、強いて1つに定める理由もない。『魏志倭人伝』のような実録が元となっている書物と、『記紀』や古系図のような後世の編纂物を、1対1で結び付けることは学問的に正しい方法といえないという立場である。
[編集] 関連項目
- 台与
- 倭・倭人関連の中国文献
- 倭・倭人関連の朝鮮文献
- 倭国大乱
- 弥生時代
- 弥生時代の主な出来事
- 西求女塚古墳
- 公孫淵
- 多氏
- 卑弥弓呼
- 孝霊天皇
- 黒田庵戸宮
- 片神名〜喪われた因果律〜
- ヤマタイカ
- 鋼鉄ジーグ
- 鋼鉄神ジーグ
[編集] 脚注
- ^ 原田常治『記紀以前の資料による 古代日本正史』 同志社・婦人生活社 1976年
- ^ 歴史言語学と日本語の起源 卑弥呼(=pimiho)再論-「呼」の読みについて-1~4
- ^ 歴史言語学と日本語の起源 卑弥呼(=pimiho)再論-「呼」の読みについて-5~7
- ^ 奥野正男『邪馬台国は古代大和を征服した』、糸島平原遺跡の研究 など。
- ^ NASAによる241~260年の皆既・金冠日食。一般の天文シミュレータでも確認可能。
- ^ 本居宣長『馭戎概言』、鶴峯戊申『襲国偽僣考』、近藤芳樹『征韓起源』など。安本美典『江戸の邪馬台国』 柏書房 1991年等を参照。
- ^ 2世紀後半の倭国大乱~孝霊天皇の吉備平定~卑弥呼(百襲姫)誕生
- ^ 邪馬台国 ナゾ解き続く 化学分析、畿内説に"軍配" 箸墓古墳産経新聞2009年5月29日
- ^ 日本建国史 卑弥呼の系譜
- ^ 市民の古代 古田史学会 市民の古代 第11集 「よみがえる壹與」
- ^ 「倭女王卑弥呼考」『白鳥庫吉全集』 第1巻 岩波書店 1969年、和辻哲郎『新稿 日本古代文化』 岩波書店 1951年
- ^ 毎日新聞(関西)朝刊 1995年7月25日、8月5日
- ^ 「中国・日本の古代日食から推測される地球慣性能率の変動」(論文) 〜 名古屋大学の河鰭公昭、国立天文台の谷川清隆、相馬充は、慣性能率の変動によると疑定される有意な地球の自転速度変化を論じ、自転速度低下率が一定であると仮定していた過去の計算法の精確性に対して疑問を投げかけている。
- ^ 『卑弥呼の謎』講談社新書 1972年など。
- ^ 安本美典『神武東遷』(中公新書 中央公論新社 1982年 ISBN 9784121001788、徳間文庫 徳間書店 1988年 ISBN 9784195984840)
- ^ 岡正雄、三品彰英は、本来の皇祖神はタカミムスビであるとしている。
- ^ 隋書では俀國、俀王。
- ^ 筑紫申真『アマテラスの誕生』 講談社 2002年、佐藤弘夫『アマテラスの変貌―中世神仏交渉史の視座』 法蔵館 2000年
- ^ 折口信夫『天照大神』 1952年、松前健『日本の神々』 中央公論社 1974年、松前健『日本神話の謎』 大和書房 1985年


