取組

取組の最新ニュースをまとめて検索!

取組(とりくみ)は、相撲試合のことをいい、大相撲ではと言ったほうが通りがいい。

目次

[編集] 取組編成会議

大相撲の取組は、審判部が取組編成会議を開いて決定する。取組編成会議の構成委員は、審判部長1名、審判部副部長2名、審判委員20名、副理事3名の合計26名で、これに行司5名程度が書記として出席する。

幕内の取組編成は、初日、2日目の分は初日の2日前に[1]、3日目以降の分は前日の午前に決定して発表する。また、千秋楽の分は14日目の夕方に編成される。十両の取組編成は、初日の分は2日前に、2日目以降の分は取組とほぼ同時進行で編成される。また幕下以下の取組編成は、2日に1度纏めて編成し、13日目以降の分は12日目に3日分を纏めて決める。

  1. ^ 本場所の初日が新聞休刊日と重なることが多い為、2日目の取組を紙面に載せる為に2日分を纏めて決める必要がある。

[編集] 取組編成要領

取組編成における決まりは、取組編成要領(1971年昭和46年)7月施行)に記載されている。

第1条
本場所相撲の取組は、取組編成会議において作成する。
第2条
取組編成会議は、審判部の部長、委員を以て組織する。監事は、取組編成会議に同席するものとする。
第3条
取組編成会議には、書記として行司を出席させることができる。但し、発言することは出来ない。
第4条
取組は、当分の間相撲部屋総当りにより編成するものとする。
第5条
取組は、本場所の初日の2日前に初日、2日目の取組をその後は前日に取組を編成し、発表するものとする。
第6条
取組は、段階別に番附順位により編成することを原則とする。但し、下位の力士をその成績により横綱大関と取組ませることができるものとする。
第7条
上の段階の力士に欠場者のあった場合は、下の段階の力士をその成績により上の段階の力士と取組ませることができるものとする。
第8条
病気、怪我等により欠場する力士が生じた場合、相撲部屋の師匠は即刻その旨を審判部長に届出なければならない。
第9条
欠場力士があった場合、審判部長は取組編成会議にその旨を報告し、取組編成を行うものとする。 但し、欠場者の届出が取組編成終了後の場合は、直ちに取組編成会議を開き改めて取組編成を行うものとする。

[編集] 取組編成の慣例

[編集] 幕内の取組編成

幕内の取組編成は、幕内前半に対戦する下位力士は初日は同地位の力士と対戦するように組む。逆に幕内後半に対戦する上位力士は、千秋楽に同地位の力士と対戦することを慣例としている。

すなわち、最上位の東横綱は千秋楽が西横綱、14日目が東大関、13日目が西大関という具合になる。横綱対役力士、大関同士の対戦は原則として組まれることになっているが、幕内下位の力士が好成績を挙げる展開になった時には「割を壊す(崩す)」といい、対戦相手が一部、通常とは変更になることがある。開催日が土日となる初日、7日目、8日目には注目の取組が組まれることが多く、初日の取組では、東横綱は小結、西横綱は前頭筆頭あたりが対戦相手として選ばれることが多い。大関同士の取組や横綱-大関戦は、通常は早くても中日(8日目)以降に割が組まれるが、横綱・大関の人数が多いときなどは7日目以前に組まれることもある。1972年昭和47年)1月場所から翌1973年(昭和48年)11月場所まで、横綱-大関戦および大関同士の取組が毎場所、序盤戦5日目までに18番も組まれたことがある(エピソードの項参照)。

[編集] 幕下以下の取組編成

幕下以下の力士は、15日間毎日取組のある十両以上の力士とは異なり1場所7番しか相撲を取らない。全勝力士を多く出さないようにする為、幕下以下の取組編成は、原則としてスイス式トーナメント方式を取り入れている。

1番相撲は東西の同地位の力士同士を対戦させ、初日は奇数枚目同士(幕下東筆頭vs幕下西筆頭、幕下東3枚目vs幕下西3枚目、…)、2日目は偶数枚目(幕下東2枚目vs幕下西2枚目、幕下東4枚目vs幕下西4枚目、…)を原則としている。2番相撲以降は、互いに番付の近い相星(同成績)の力士同士を対戦させる。即ち、2番相撲は1勝同士、1敗同士が対戦する。3番相撲は、2勝同士、1勝1敗同士、2敗同士が対戦する。4番相撲は、3勝同士、2勝1敗同士、1勝2敗同士、3敗同士が対戦する。

これにより全勝力士の人数が番数消化に連れて半数ずつ減って行き、最終的に全勝力士(7戦全勝)は各段毎に1人前後に収まり、当該力士がその場所の各段優勝、若しくは優勝同点となる。但し、全勝者の番付が離れ過ぎている場合には、星違いの対戦を組むこともある。ほぼ毎場所7戦全勝力士が複数出る三段目序二段より枚数が少ない幕下や序ノ口では、全勝力士が消え、6勝1敗の多人数(幕下では7~9人程度、序ノ口では3~5人程度)で優勝決定戦を行うことも偶にある。また成績によっては、段違いとなる十両対幕下といった入れ替え戦が組まれることもある。

[編集] 同部屋・4親等以内の取組回避

1965年(昭和40年)1月場所以降は部屋別総当たり制となっているので、同部屋の力士は本割では対戦が組まれない。部屋が異なる場合でも兄弟・従兄弟・叔父などの血縁者同士の場合は、本割では対戦が組まれない。

1963年(昭和38年)11月場所12日目、幕下最後の一番で3勝2敗同士の長谷川(西2枚目・佐渡ヶ嶽部屋)-四季の花(西6枚目・宮城野部屋)戦が組まれていたが、叔父と甥の血縁関係(四季の花の姉が長谷川の母親)に当たるという理由でこの取組が削除されるという出来事があった。両力士の6番相撲は14日目に、それぞれ別の力士と組まれた(相手力士は勿論既に6番を消化しているので、番数違いの対戦ということになった)。因みに、以前より宮城野(第43代横綱吉葉山)から2人を対戦させないように審判部に申し入れが出されていたものの、両者は2回対戦している(1回目は1962年(昭和37年)9月場所初日、2回目は1963年3月場所3日目。結果は四季の花の2戦2勝)。従って、「血縁者同士は対戦しない」という不文律はこの取組を境に定着したものと推察される。

これまで不文律とされていたが、2009年平成21年)1月29日の理事会において4親等以内の力士同士での本割取組を行わないことを決定し、取組編成要領に明文化されることになった。また従来は審判部の内規で、入門時の申請に基づいて兄弟などの取組は回避してきたが、2009年1月場所において光龍翔天狼が互いに親戚関係だと訴え、追跡調査をする事例が発生したことから、入門時点で親戚関係も明記させることになった。なお優勝決定戦においては現行通り、4親等以内でも対戦させる[1]

優勝決定戦における同部屋・兄弟による優勝決定戦の代表的な例は、1995年(平成7年)11月場所の3代若乃花貴乃花がある。

[編集] 取組表

奇数日はが上位、偶数日は西が上位となっている。呼出による力士の呼び上げも、奇数日は東方から、偶数日は西方から呼び上げる。

横綱土俵入りの後中入りの時間を利用して、「顔触れ言上」[1]といって土俵上で立行司または三役格行司が、翌日の取組が一枚毎に半紙に書かれた「触れ」[2]を観客に示しながら読み上げる。なお十両以下で取り直しの相撲などで取組進行が遅くなった場合は省略することもある。

[編集] お好み

地方巡業などでは、勧進元や観客の要望に応える形で組まれる取組も多く、こうした取組は「お好み」と呼ばれる。本場所で見ることのできない同部屋対戦や、地元出身の注目力士と横綱、大関との取組などが好まれる。

意味合いは違うが、昭和天皇が威勢の良い相撲を好んだためもあり、昭和の天覧相撲では富士櫻(現中村)-麒麟児(現北陣)戦など激しい突っ張り合いが期待される取組を組むのが恒例になっていた。

[編集] エピソード

  • 1791年寛政3年)4月場所より、幕内力士は千秋楽に出場せず、幕下以下力士のみの取組となった。これは1909年明治42年)頃まで続いた。
  • 1909年6月場所、両国常設館(旧両国国技館)が開館され、江戸時代より続いた晴天10日間興行が晴雨に関わらず10日間興行と改められ、それまで幕内力士は千秋楽を休場していたものが10日間皆勤出場となり、千秋楽にも幕内力士の取組が行われるようになった。
  • 1953年(昭和28年)3月場所3日目の取組表は、結びの一番関脇三根山-横綱東富士戦を除く序ノ口からの取組114番すべての東西を入れ違えて印刷してしまい、その「」のまま最後まで押し切ったため、東西を間違える力士が続出。十両幕内の土俵入りも各力士が混迷するという事態が起きた。
  • 1960年(昭和35年)7月場所より幕下以下の取組を、それまでの8日制を改めて7日制とした。
  • 1961年(昭和36年)11月場所、前頭筆頭の開隆山は全取組15番の内、横綱・三役との取組が一場所最多の13番(初日-横綱柏戸、3日目-小結岩風、4日目-大関北葉山、5日目-横綱初代若乃花、6日目-横綱大鵬、7日目-横綱朝潮、8日目-大関若羽黒、9日目-大関琴ヶ濵、10日目-関脇佐田の山、12日目-関脇栃ノ海、13日目-小結出羽錦、14日目-小結冨士錦、千秋楽-関脇羽黒山)あったが、見事3横綱(柏戸、大鵬、朝潮。朝潮戦は不戦勝)2大関(若羽黒、琴ヶ濵)から白星を挙げ、9勝6敗と勝ち越し殊勲賞を受賞、翌場所の新三役(小結)昇進を手中にした。
  • 1966年(昭和41年)5月場所より、幕下付出は幕下最下位から相撲を取らせることにした。
  • 1971年(昭和46年)6月に取組編成要領を決定し、幕内下位でも大きく勝ち越した力士を、横綱・大関と取り組ませることとした。
  • 1972年1月場所初日、いきなり横綱北の富士-大関琴櫻戦が組まれ(初日の横綱-大関戦は史上初)、翌2日目には大関同士の清國前の山(現千田川)戦が組まれている。これ以降、翌1973年11月場所まで毎場所、序盤戦5日目までに組まれた横綱-大関戦および大関同士の取組は全部で18番ある。このうち横綱-大関戦が6番、大関同士の取組が12番ある。しかし翌1974年(昭和49年)は5月場所4日目の大麒麟北の湖戦の大関同士1番のみだった。また1977年(昭和52年)には、同じく5日目までに組まれた横綱-大関戦は4番、大関同士の取組は5番という記録が残っている。この年は3月場所から9月場所まで5大関(貴ノ花若三杉(のち2代若乃花、現間垣)、魁傑(現放駒)、三重ノ海(現武蔵川)、旭國(現大島))がいたため、下位に各同部屋力士もいることから取組編成上、前半戦までに対戦することもあった。取組の詳細は下記の通り(すべて5日目までの取組、太字は横綱)。
  • 1972年(横綱-大関3番、大関同士6番)
    • 1月場所 初日 ●北の富士 - 琴 櫻○、 2日目 ○清 國 - 前の山●
      • この場所千秋楽結びの一番に、前頭5枚目先代栃東-清國戦が組まれたが、平幕力士が千秋楽結びで相撲を取るのは異例中の異例で、清國を破った栃東は史上初めて平幕力士として千秋楽結びで白星をあげた(11勝4敗で初優勝)。なお、同年5月場所千秋楽結びで前頭7枚目高見山-大関清國戦(清國の勝利)、翌1973年11月場所にも千秋楽結びで前頭7枚目天龍(現プロレスラー)-横綱琴櫻戦(琴櫻の勝利)と、わずか2年間に3番も千秋楽結びの一番に平幕力士が土俵に上がった。ちなみにこの2年間に千秋楽結び前の取組に出場した平幕力士は1972年7月場所の北の湖(7枚目、対大関琴櫻)、同年9月場所の栃東(4枚目、対大関琴櫻)、1973年3月場所の富士櫻(現中村、12枚目、対大関輪島)、同年9月場所の高見山(4枚目、対大関貴ノ花)の4人。
    • 3月場所 初日 ○前の山 - 大麒麟●、 5日目 ○北の富士 - 大麒麟●
    • 5月場所 2日目 ○大麒麟 - 琴 櫻●
    • 7月場所 3日目 ●琴 櫻 - 清 國○
      • この場所、横綱北の富士が全休し、大関大麒麟も5日目から休場したので、結果的に大関以上同士の取組はこの一番だけで、千秋楽結びの一番は、大関清國と関脇長谷川の対戦になった。
    • 9月場所 5日目 ○北の富士 - 大麒麟●
    • 11月場所 初日 ○輪 島 - 大麒麟●、 3日目 ●清 國 - 琴 櫻○
  • 1973年(横綱-大関3番、大関同士6番)
    • 1月場所 2日目 ●清 國 - 琴 櫻○、 4日目 ○大麒麟 - 貴ノ花●
    • 3月場所 2日目 ●大麒麟 - 清 國○、 5日目 ●琴 櫻 - 清 國○
    • 5月場所 4日目 ●清 國 - 貴ノ花○
    • 7月場所 5日目 ●大麒麟 - 琴 櫻
    • 9月場所 4日目 ●大麒麟 - 清 國○
    • 11月場所 3日目 ○大麒麟 - 貴ノ花●、 4日目 ●清 國 - 輪 島
  • 1974年(大関同士1番)
    • 5月場所 4日目 ●大麒麟 - 北の湖○
  • 1977年(横綱-大関4番、大関同士5番)
    • 3月場所 初日 ○貴ノ花 - 旭 國●、 4日目 ○北の湖 - 三重ノ海●
    • 5月場所 3日目 ○旭 國 - 三重ノ海●、 5日目 ○北の湖 - 魁 傑●
    • 7月場所 3日目 ○旭 國 - 三重ノ海●、 5日目 ○北の湖 - 魁 傑●
    • 9月場所 3日目 ○輪 島 - 三重ノ海●、 4日目 ○旭 國 - 魁 傑●、
            5日目 ○魁 傑 - 三重ノ海●
  • ちなみに1970年(昭和45年)以降の横綱-関脇戦、大関-関脇戦の序盤戦5日目までの取組となると、横綱-関脇戦では1970年3月場所から翌1971年(昭和46年)11月場所まで毎場所あり、全部で21番。1973年1月場所から翌1974年7月場所にも毎場所あり、全部で18番の取組があった。大関-関脇戦では1970年11月場所から1974年9月場所まで5年にわたり毎場所あり、全部で69番の取組がある。
  • 史上最多の関脇5人の番付となった1972年7月場所、前頭筆頭の豊山(現)は、ただ一人関脇5人全員との取組(2日目-対三重ノ海、3日目-対魁傑、6日目-対貴ノ花、8日目-対輪島、9日目-対長谷川)があった。豊山は三重ノ海、貴ノ花には敗れたが魁傑、輪島、長谷川に勝ち、3大関(大麒麟、清國、琴櫻)からも白星を挙げ(対大麒麟は不戦勝)、10勝5敗の活躍で翌場所の三役昇進を決めた。
  • 1991年(平成3年)3月場所6日目、史上初の外国人幕内力士同士の大関小錦-小結の取組が行われた。勝負は押し出しで曙の勝ち。
  • 1994年(平成6年)1月場所3日目、序二段の取組に、あわや同部屋同士の対戦となりそうなミスがあった。周防山-滝下の一番で、ともに押尾川部屋の力士。もちろん事前にわかったため、「相撲はありませんので、あらかじめご了承ください」の場内アナウンスがあり、取組は削除された。同様な前例として1987年(昭和62年)11月場所7日目に、同じ序二段で東関部屋力士同士、武田-高見富士の取組があり、同様に削除された。
  • 同年5月場所3日目、幕内前半戦で元大関同士の前頭5枚目小錦-同11枚目霧島(現陸奥)戦は1959年(昭和34年)3月場所の前頭19枚目大内山-同8枚目三根山戦以来35年ぶりの元大関同士の取組となったが、その上優勝経験者同士の取組となると、小錦-霧島戦が史上初めてとなった。
  • 同年5月場所千秋楽、一人横綱曙の途中休場の関係で、結びの一番は大関貴ノ浪(現音羽山)-関脇琴錦(現秀ノ山)戦。琴錦が一方的に貴ノ浪を押し出して勝利したが、千秋楽結びで関脇が勝ったのは、1955年(昭和30年)3月場所の大内山(対横綱千代の山戦)以来39年ぶりだった。
  • 同年7月場所3日目、十両の蒼樹山(現枝川)-若翔洋戦が組まれたが、東から登場すべき蒼樹山(東筆頭)が西から登場し、西から登場すべき若翔洋(東6枚目)が東から登場した。幕下以下では東西逆に登場することは時々あるが十両以上では珍しく、この日は休場力士による割返しも行われていなかったという。
  • 1996年(平成8年)11月場所、横綱貴乃花は場所前の巡業で、脇腹をひねり背筋に肉離れを起こしていた。強行出場するつもりだったが、初日前日、出場から一転休場することになった。この日発表された初日および2日目の取組は、急遽佐渡ヶ嶽審判部長(元横綱・琴櫻)をはじめ、審判委員を招集し割り返しが行われた。貴乃花1人の休場で幕内は20番のうち16番、十両に至っては13番すべての取組が変更になった。初日前日に取組が変更になった前例は、1975年(昭和50年)3月場所、横綱北の湖と対戦する予定だった小結旭國が膵臓炎で入院、「初日から横綱が不戦勝では格好がつかない」と判断され割り返しが行われ(北の湖は西関脇黒姫山(現武隈)と対戦)、それ以来21年ぶりの珍事だった。
  • 2000年(平成12年)3月場所、本来ならあるべき横綱同士の対戦がなくなるという異例の事態が起きた。12日目まで幕尻の前頭14枚目貴闘力(現大嶽)が全勝、13日目に武蔵丸(現振分)、14日目に曙の両横綱と対戦しており、横綱同士の対戦は14日目の武蔵丸-貴乃花戦、千秋楽の貴乃花-曙戦の2番で、貴闘力の活躍で曙-武蔵丸の取組がなくなるという史上初めての珍事となった。幕尻の力士が好成績で横綱と対戦するのも、1979年(昭和54年)9月場所13日目に前頭14枚目の朝汐(現高砂)が横綱三重ノ海と対戦して以来2度目であった。幕尻の貴闘力が2日連続で横綱戦に割が組まれたのも、横綱同士の対戦より優勝争いを優先する取組として割が組まれている。貴闘力は両横綱には敗れたが、千秋楽関脇雅山を破り、13勝2敗で見事初優勝を果たした。
  • 2002年(平成14年)1月場所2日目、序二段の取組で一ノ矢-三杉守戦が組まれ一ノ矢が勝利したが、この取組は一ノ矢41歳、三杉守17歳。歳の差24歳という最多年齢差勝利の記録を作った。戦後では1982年(昭和57年)に牧本(41歳)-東昌邦(17歳)の取組があり、この記録に並んだ。さらに44歳となった2005年1月場所で新井(16歳)、45歳となった2006年1月場所で和木(15歳9ヶ月)、45歳6ヶ月となった同7月場所で鶴大輝(15歳9ヶ月)に勝利し、最終的に29歳9ヶ月まで記録を更新した。
  • 2003年(平成15年)9月場所9日目、幕下最後の取組で鳥羽の山中尾戦が組まれていたが、中尾はすでに5番相撲を終えていたため当日に取組が削除され、この日の幕下上位取組は4番となった。
  • 2009年11月場所千秋楽結びの一番で横綱白鵬が横綱朝青龍を破り15戦全勝で12回目の優勝を果たしたが、1958年(昭和33年)より年6場所制以降、横綱同士の取組(本割り)で年6場所を通して6連勝するのは白鵬が史上初。

[編集] 脚注

  1. ^ "日本相撲協会:「いとこ以内は取組回避」明文化". 毎日新聞. 2009年1月29日 閲覧。

[編集] 関連項目

最終更新 2009年11月30日 (月) 14:50 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【取組】変更履歴

ご利用上の注意

もっと調べる!