国定忠治
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国定 忠治(くにさだ ちゅうじ、忠次とも、文化7年(1810年) - 嘉永3年12月21日(1851年1月22日))は江戸時代後期の侠客である。本名は長岡忠次郎。
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[編集] 生涯
上野国佐位郡国定村(現在の群馬県伊勢崎市国定町)の豪農の家に生まれる。博徒となって上州から信州一帯で活動。赤城山南麓を「盗区」として実質支配。対立する博徒の島村伊三郎や玉村の主馬、関東取締出役道案内(目明し)の三室勘助などを殺害。信州街道の大戸(後の群馬県吾妻郡東吾妻町)の関所を破った。
勘助殺害により忠治一家は関東取締出役から一斉手配を受け、一家の幹部の多くは逮捕され忠治は会津方面へ逃亡、4年後上州に舞い戻ったが中風を煩い嘉永3年8月24日(1850年9月29日)、関東取締役出役によって捕縛される。
捕縛後は江戸の勘定奉行池田頼方の役宅に移送され取調べを受け、小伝馬町の牢屋敷に入牢。博奕・殺人・殺人教唆等罪名は種々あったが、最も重罪である関所破り(碓氷関所(群馬県安中市)を破る)により時の勘定奉行・道中奉行池田頼方の申し渡しによって上野国吾妻郡大戸村大戸関所(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)に移送され当地で磔の刑に処せられる。享年41だった。戒名:長岡院法誉花楽居士(養寿寺)・遊道花楽居士(善應寺)。
[編集] 逸話
- 天保の大飢饉で農民を救済した侠客として脚色され講談、映画、新国劇などの演劇の題材とされる。
- 群馬県伊勢崎市国定町の金城山養寿寺と群馬県伊勢崎市曲輪町の善應寺に墓がある。ギャンブル産業の盛んな群馬県において、「ご利益がある」と墓石を削り取って持ち帰る人が多かった。現在まで残っている彼の肖像画は、足利の画家である田崎草雲の手になるもの。茶店で一度すれ違っただけだが、そのときの印象を絵に残したとされる。
- 逸話の多い人物であるが、遠州を西へ旅していた時に掛川の博徒で堂山の龍蔵というウルサ型の親分の世話にならず旅籠に泊まったことがあった。面子を潰したと龍蔵は激怒、命を取ろうと追いかけて前に立ちはだかったが、相手が龍蔵と確かめた忠治は顔色一つ変えずに「忠治の伊勢参りだ。共をするか」と台詞を残し去った。呆気にとられた龍蔵だがずっと後までこの忠治の度胸の良さと男振りを「忠治というのは偉い奴だ、偉い奴だと聞いてはいたが本当に偉い奴だった」と褒め称えたという。この逸話は山雨楼主人こと村本喜代作の『遠州侠客伝』に拠る。
- 喧嘩にはめっぽう強く「国定忠治は鬼より怖い、にっこり笑って人を切る」と謳われた。
- なお忠治と島村の伊三郎、勘助の子孫らは「忠治だんべ会」の仲裁により平成19年(2007年)6月2日の手打ち式で170年越しに和解した。
[編集] 芝居
- 北島三郎の特別公演では、この話を劇に使ったことがある。
[編集] 参考文献
- 高橋敏『国定忠治』(岩波新書、平成12年(2000年)) ISBN 4-00-430685-X
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年11月4日 (水) 13:56 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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