契丹

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契丹(きったん、キタン、キタイとも 英語: Khitan/Khitaiピンイン: Qìdān)は満州から中央アジアにかけて存在した遊牧民族10世紀初頭に現在の中国の北部に帝国を建国し、国号をと号した。しかし12世紀に入り次第に勢力を強める女真と結び南下し、挟撃された遼は1125年に滅ぼされた。契丹人の一部は女真に取り込まれ、また一部は中央アジアに逃れて西遼(カラ=キタイ)を建てた。『魏書』によると契丹高句麗室韋庫莫奚豆莫婁扶余の後継国家)の言語が同じとされる。種族としては諸説がある。定説ではモンゴル系とされる。あるいはツングーステュルクに近い種族という見方もある。

目次

[編集] 各言語での「契丹」

なお、英語で中国の旧名であるCathayロシア語で中国を意味するКитай(Kitay)[1]モンゴル語で中国あるいは漢民族を示すХятад(Hyatad)などは契丹に由来する。[2]

アラビア語ペルシア語文献では13世紀以前には、契丹や広く北中国全域を指す場合「ハター(ウ)」ないし「ヒター(ウ)」 الخطاء al-Khaṭā'/al-Khiṭā' と呼ばれていた。特に中央アジア・イランで編纂されたペルシア語の地理書・年代記などでは、(ソグド語の時代から)中国全般を指す「チーン(支那)」چين Chīn ないし「チーニスターン(震旦)」 چينستان Chīnisān という呼称が存在し、13世紀半ばまでは北中国を指す別の呼称として「タムガーヂュ(拓跋)」 طمغاج Ṭamghāj などの語も使われていた。

モンゴル帝国時代以降は「ハターイ(ー)」ないし「ヒターイ(ー)」ختاى Khatāī/Khittāī という表記が一般化し、これ以降、北中国方面を指す言葉として「ヒターイー(ハターイー)」が定着して行ったようである。

モンゴル帝国時代の中期モンゴル語では単数形のキタン Qitan よりも複数形のキタド(キタト 乞塔) Qitad/Kitat で呼ぶ場合がより一般的に見られ、金朝についていう時も「キタド」という呼称が使われる。たとえば「金朝皇帝」という場合、『元朝秘史』では「キタドの民の金朝皇帝」(乞塔児格訥 阿壇 罕 Kitat-irgen-ü Altan Qan)という表現があり、『集史』のペルシア語文でも、「ヒターイーの帝王であるアルタン・ハン」( پادشاه ختاى التان خان pādshāh-i Khitāī Altān khān)と同様の表現がされている。

マルコ・ポーロなどモンゴル帝国へ訪れたヨーロッパ人が北中国や中国全般を指すのに用いた Chatay, Catay, Katay などやロシア語の Китай の起源なども、これらモンゴル帝国時代のペルシア語などの影響と言われている。

[編集] 歴史

契丹の元の言葉キタン(Qitan)とは鋼鉄の事である。契丹は民族の神話によると、白馬に乗ってきた神人と青いの牛車に乗ってきた天女が結婚して8人の子供をもうけた。これが後の契丹八部の祖先になったといわれる。この伝説は中国の歴史教科書にも紹介されている。

4世紀ごろからシラ・ムレン河西遼河上流)上流に現れ、突厥高句麗に服属した。その後、ウイグル帝国吐蕃帝国の崩壊、安史の乱による唐の弛緩などを機として独自の行動を取り始め、首長が可汗を名乗り始めた。

10世紀耶律阿保機が登場し、八部を纏め、916年に唐滅亡後の混乱に乗じて自らの国を建て、国号を契丹とし、皇帝となった。契丹は勢力を拡大し、東の渤海を滅ぼし、西の烏古を滅ぼした。二代目耶律徳光は中国の騒乱に介入して燕雲十六州の割譲を受け、西の西夏・ウイグルを服属させた。その後、しばらくの間は中国文化を取り入れようとする派と契丹の独自風習を守ろうとする派とに分かれて内部抗争が起き、南に介入する余裕が無くなった。その間に南では北宋が成立する。内部抗争は六代目聖宗期に一段落し、再び宋と抗争するようになった。1004年、南下した遼と北宋は盟約(澶淵の盟)を結び、北宋から遼へ莫大な財貨が毎年送られるようになった。経済力を付けた遼は東アジアから中央アジアまで勢力を伸ばした強国となった。

しかし宋からの財貨により働かなくても贅沢が出来るようになった遼の上層部は次第に堕落し、武力の低下を招いた。また内部抗争も激しさを増し、その間に東の満州女真族が台頭し、1125年に宋の誘いを受けた女真族の金により遼は滅ぼされた。

この時に皇族耶律大石は部族の一部を引き連れて、中央アジアに逃れて西ウイグル王国カラ・ハン朝を征服して西遼を建てた。現地ではカラ・キタイと呼ばれる。これは黒い契丹の意味である。耶律大石は更にセルジューク朝の軍を撃破して、中央アジアに基盤を固め、故地奪還を目指して東征の軍を送るが、途上で病死した。

耶律大石死後の西遼は中央アジアで勢力を保持したが、チンギス・ハーンによってモンゴル高原から追われた匿ったクチュルクによって簒奪され、西遼は滅びた。

一方で遼が滅びた時に残った人々は金の中で諸色人に入れられて、厳しい収奪を受け、また対南宋戦争では兵士として狩り出され、これに反発した契丹族は度々反乱を起こした。特に金の海陵王の時の反乱は、海陵王が殺される大きな要因となった。

金滅亡後はチンギス・ハーンの下で漢人に組み入れられた。元来遊牧民でモンゴル周辺部に居住していた彼らは、ほとんどがモンゴル人と普通に会話でき、大半は中国語や漢文にも長けていた。その為漢人とモンゴル人の橋渡しを行うことが多く、この中にモンゴル帝国に仕えた耶律楚材がいる。

[編集] 脚注

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  1. ^ 但し、現代のロシア語では契丹のことは普通Киданиと呼び、中国と混同することはない。
  2. ^ これらの名称は本来、シルクロードで結ばれた陸にある中国という概念を指した。マルコ・ポーロで有名な「カタイ」がこれと同じである。一方、China系の名称は海から行く中国という概念を指した。ヨーロッパでは長い間中国はひとつなのかふたつなのかという論争があり、これら二系統の名称は、どちらも同じ国のことを指しているのだということが明らかになる明~清初期まで西欧で用いられた。西欧ではその後China系に淘汰されていったが、逆にロシアやモンゴルといった「海の中国」と関わりの薄い地域では「陸の中国」であるCathay系の名称が現代に至るまで使われている(ロシア語にはChinaに相当する単語は存在しない)。

[編集] 関連項目

最終更新 2009年10月4日 (日) 00:14 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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