尾崎将司
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| 尾崎 将司 Masashi Ozaki |
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|---|---|
| 基本情報 | |
| 生年月日 | 1947年1月24日(62歳) |
| 出身地 | 徳島県海部郡宍喰町 |
| 身長 | 181cm |
| 体重 | 90kg |
| 血液型 | B型 |
| 利き手 | 右 |
| 成績 | |
| 優勝回数 | JPGA優勝:94回 優勝回数:113回 |
| 2009年2月25日現在 | |
尾崎 将司(おざき まさし、本名:正司、1947年1月24日 - )は、徳島県海部郡宍喰町(現・海陽町)出身のプロゴルファー、元プロ野球選手。
「ジャンボ尾崎」の別名でもよく知られる。公式ゴルフランキングでも“Masashi Jumbo Ozaki”と表記された。[1] 世界ランキングの自己最高位は8位。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 野球
| 基本情報 | |
|---|---|
| 国籍 | |
| 出身地 | 徳島県海陽町(旧:海部郡宍喰町) |
| 生年月日 | 1947年1月24日(62歳) |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| 守備位置 | 投手、外野手 |
| プロ入り | 1965年 |
| 経歴(括弧内は在籍年) | |
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この表について
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尾崎将司は、元は野球で世間にその名を知られた人物である。プロ野球選手の経歴を持ち、高校時代には徳島県立海南高等学校(現在の徳島県立海部高等学校)で投手として出場した1964年春のセンバツで決勝戦に進出し、小川邦和のいた広島県立尾道商業高等学校に勝利して初出場初優勝を成し遂げた。
1965年(ドラフト制度前)、池永正明らと共に、西鉄ライオンズに投手として入団した。入団後に池永を見た際「こんなピッチャーがいたんじゃ、俺なんかピッチャーで飯が食える訳が無い」と打者に転向。二軍で4番を張るものの、一軍では目立った活躍もなく、1968年に西鉄を退団。
プロ野球最後の年に当時の打撃コーチだった花井悠に、『ゴルフのプロになったらいいんじゃないか』と言われ、プロゴルファー転向を決意する。
1970年にプロテスト合格。正式にプロゴルファーに転向した。この時に名前も心機一転、本名の「正司」から「将司」に改名した。2001年にはプロ野球マスターズリーグ・福岡ドンタクズに入団。再びバッターボックスに立っている。
[編集] ゴルフ
プロゴルフ転向後の尾崎は長年にわたり日本のゴルフ界をリードして来た。
1971年の日本プロゴルフ選手権で初優勝を飾ると、1973年のマスターズ・トーナメントで東洋人初となる8位入賞を果たし、1974年の日本オープンゴルフ選手権も勝ち、破竹の勢いで日本プロゴルフ界のスーパーヒーローとして名を高め、同世代のライバルの青木功、そして中嶋常幸と並び称されて「AON」時代を築いて来た。
また弟の健夫(ジェット尾崎)、直道(ジョー尾崎)らと「ジャンボ軍団」を結成し、後輩プロゴルファーの指導にも熱心に携わっている。
尾崎はライバルの青木や中島に比べて、世界挑戦の意欲に乏しい選手と言われてきた。しかしマスターズ・トーナメントには日本ツアー賞金王(賞金ランキング1位)招待で通算18回の出場を果たしている。マスターズでの自己最高成績は1973年の8位入賞(スコアは1オーバー、289)。全米オープンでも1989年に6位入賞がある。1995年のマスターズでは、第3ラウンドで当時19歳のアマチュア選手だったタイガー・ウッズと一緒に回ったこともあった。
1996年11月17日、ダンロップ・フェニックス選手権3連覇でプロ通算「100勝」を達成。2005年のマンダム・ルシード よみうりオープントーナメントで「生涯1000試合出場」の偉業を達成した(腰痛を理由に2日目のラウンドを前に棄権)。
1997年 中日クラウンズ 最終日 2番ホール ティーショットをラフに打ち込んだ尾崎は、ドライバーを持ったまま セカンド地点まで歩き ボールの後ろをドライバーで押さえつけて アイアンに持ち替えてショットをした。 一連の動作を見ていた G.ノーマンは 競技委員に 尾崎の行為は ライの改善ではないかと指摘したが 日本と米国では芝の質が違うという理由に 聞き入れてもらえなかった。ノーマンは競技終了後 「ゴルフのルールは誰に対しても平等であり、世界共通でなければならない」という言葉を残した
2005年11月1日、東京地裁に民事再生法適用の手続きを申し立てて、破綻していたことが発覚した。ゴルフ場開発の失敗などが理由に挙げられている。50数億円の負債があり、民事再生法適用によって債務は16億円となった。
2006年オフに、ここ数年間悩まされている坐骨神経痛 腰椎分離症の手術を2006年12月14日に受けた。手術後の経過は順調。
独特の口調や表情、ラウンドマナーに対しては賛否両論あるが、その独特なプレースタイルは、かつて丸山茂樹が盛んにテレビで物真似をした事もあってゴルフファン以外にも広く知られる事となった。
[編集] クラブ
尾崎はクラブに対しても常に今よりも良いものをと求めた。この点では同じクラブを調整しながら長く使った青木とは正反対とも言える。
- パワービルト : 1971年から1978年
- ホンマ コレクト :1970年代後半から1980年代前半
- マグレガー・ターニーM85 : 1983年
- テーラーメイド ツアープリファード : 1987年~
- ブリヂストン Jumbo
- ブリヂストン J's Professional Weapon
- ブリヂストン J's Professional Secret Weapon JB model R
- ブリヂストン J's World Stage Metal
- ブリヂストン J's World Stage Titanium
- ワールドワン O'ja
- TMJ JO-33A
- TMJ ミサイラー
- PRGR TR-X
- PRGR TR-X DUO
- キャスコ
- GMA ロイヤルスター
- パワービルト サイテーション
- ベンホーガン パーソナル
- ブリヂストン Jumbo MTNⅢ :1983年~
- ブリヂストン Jumbo MTNⅢ Limited Edition : 1984年~
- ブリヂストン Jumbo MTNⅢ PRO MODEL : 1988年~
- ブリヂストン J's Classical Edition : 1992年
- ブリヂストン J's Professional Weapon : 1992年~
- ブリヂストン J's Professional Secret Weapon : 1994年~
- ブリヂストン J's Titanium Muscle Back : 1996年~
- ブリヂストン J's King's Spirit : 1997年
- ワールドワン O'ja 2001
- TMJ ミレニアム
- TMJ ミサイラー
- PRGR
- GMA ロイヤルスター
アイアンの型番として長く使われたMTNⅢであるが、これは「M:将司 T:健夫 N:直道 Ⅲ:三兄弟」から取られたものである。この頃のマークもJマークを3つ重ねた(Jumbo、Jet、Joeの頭文字)ものとなっている。次に使われたJ'sのマークは、中心のJ'sを囲む三角形が三兄弟を現したものとされている。
尾崎はクラブに対する造詣も深く、P/S、ウェッジのフェース面ノンメッキ、アイアンでのカーボンシャフト、パター上部の白いサイトラインなどを積極的に取り入れた。特にJumbo MTNⅢ PRO MODELと共にスランプからの復活を遂げたために発売と共にプロアマ問わず人気となり、他社製アイアンにも最低1機種はMTNⅢに似た製品が見受けられたものである。ブリヂストン時代はグラファイトデザイン社製のカーボンシャフトを愛用した。HM-70及びHM-80 9002、HM-80 9003などである。
[編集] ジャンボ軍団
尾崎はプロデビュー後、自身や兄弟、飯合肇など同志の後輩らとジャンボ軍団を結成。合同自主トレを開催し、多くのプロゴルファーがジャンボ軍団の門を叩いた。非常に体格が良いので、一時期格闘家になろうと思ったこともあった。
プロ野球選手にも門戸を開放しており、鈴木健らはジャンボ軍団と一緒に自主トレを行っていた。
[編集] 現在のメンバー
[編集] 過去のメンバー
板井栄一
[編集] その他
[編集] 備考
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年11月21日 (土) 19:21 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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