川田利明

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川田 利明
プロフィール
リングネーム 川田 利明
本名 川田 利明
ニックネーム デンジャラスK
ハッスルK
モンスターK
俺だけの王道
身長 183cm
体重 105kg
誕生日 1963年12月8日(45歳)
出身地 栃木県下都賀郡
所属 フリー
(窓口はハッスルエンターテインメント)
スポーツ歴 レスリング
トレーナー ジャイアント馬場
天龍源一郎
デビュー 1982年10月4日
  

川田 利明(かわだ としあき、男性、1963年12月8日 - )は、日本プロレスラー栃木県下都賀郡出身。身長183cm、体重105kg。ハッスルを主戦場とする。フリー(窓口はハッスルエンターテインメント、タレントとしては太田プロダクション所属)。

「名勝負製造機」とも称される試合巧者振りとキック主体のハードなレスリングスタイルが特徴である。

目次

[編集] 来歴

[編集] 学生時代

中学時代からプロレスラーを志し、野球部・相撲部に所属。卒業後は新日本プロレスのテストに合格したが、レスリングの強豪である足利工業大学附属高等学校に推薦で合格、進学した。

高校ではレスリング部に所属。1年先輩に三沢光晴、およびリアルジャパンプロレスに参戦している仮面シューター・スーパーライダーがいた。1981年茨城インターハイ準優勝、滋賀秋季国体優勝(階級はいずれも75kg級)。

[編集] 若手時代

高校卒業後、先に全日本プロレスに入団していた三沢の誘いもあって、1982年3月、全日本プロレスに入団。本人は藤波辰巳に憧れていたので新日本プロレス希望だったが三沢が居た為、全日本入りを決意したと言う。1982年10月4日千葉県大原町(現・いすみ市)消防署前グラウンド大会での冬木弘道戦でデビューを果たした。

冬木とのデビュー戦以来、引き分けを挟んで205連敗を喫した。しかし、2代目タイガーマスクとなった三沢の士道館における練習に同行し、館長の添野義二から現在の戦いの軸となる蹴り技・飛び技を習得した(ただし、この頃は三沢との兼ね合いから、試合では飛び技を中心に戦っていた)。

その後、海外修行を経て、天龍源一郎ジャンボ鶴田を越えるため掲げた「レボリューション」に参加。それ以後、同軍団内のサムソン冬木(冬木弘道)とのタッグ「フットルース」でアジアタッグを長期間保持、また天龍とのコンビでも活躍した。

[編集] 選手大量離脱後

1990年、天龍や冬木がSWS旗揚げに伴って全日本を離脱(川田も誘いを受けたが残留している)。大量離脱後の初の試合で2代目タイガーマスクとタッグを組み、以降は鶴田超えを果たす為、三沢らと超世代軍を結成。三沢とのコンビで世界タッグ王者に就いた。なお、大量離脱後にタイツを現在の黒と黄色のものに替えている。

1992年、旗揚げ記念大会で三冠タイトルをかけて三沢と対戦。この後鶴田が病気で戦線を離脱したため、川田は三沢に次ぐNo.2の地位に立った。全日本が対ガイジンから日本人対決にシフトしていたこともあって、三沢との超世代軍タッグを解消。鶴田とのタッグで次第に実力を積み重ねていた田上明聖鬼軍を結成し、三沢や小橋健太(現・小橋建太)らと争った。田上とのタッグでは度々王座に就き、個人でも1994・1997年にはチャンピオン・カーニバル優勝、三冠ヘビー級王者も5度(12代、18代、21代、28代、32代)獲得した。

1997年、チャンピオン・カーニバル決勝で、入門から15年にして初めてシングルで三沢から勝利。1998年5月1日の全日本初の東京ドーム大会において、三沢が持つ三冠ベルトの挑戦者、そしてメインイベンターに抜擢された川田は、体重を減らし(当時は105kg)褐色ボディに変貌させて試合に臨み、三沢から三冠タイトル戦での初勝利を奪った。試合後、川田は「プロレス人生で一番幸せです。今が!」と大会の最後を締めくくった。

しかし、1999年1月22日大阪府立体育会館の三沢との三冠戦で三沢を破ったものの、試合中の怪我によりベルト返上を余儀なくされたように、1990年代終盤から度々の負傷に見舞われ、完治する前に強行出場し、意地でリングに上がる日々が続いた。この頃までに三沢にシングルで計3回勝利(全日時代後半は殆どが川田の勝利)し、実力の面でも三沢と同等の評価を受けた。

[編集] 馬場死去 - 選手大量離脱

1999年1月31日、馬場の死去に伴い、三沢が全日の代表取締役社長、川田も副社長に就任した。しかし、2000年に三沢を中心に殆どの所属選手・フロント陣が全日本プロに辞表を提出し、結局選手として残ったのは川田と渕正信、そしてマウナケア・モスマン(現・太陽ケア)の3人だけであった。この時川田は「(離脱するという話を三沢や田上から)聞いていない」と語り、「全日本の看板を捨て切れなかった」と残留の理由を語っている。

実はこの大量離脱のきっかけとなった事件、「三沢光晴代表取締役社長辞任」の数日後に川田1人だけ全日本との契約を更改した。この当時の全日本では1試合幾らの計算で給料が支払われる上、怪我・入院・休場等に関する保障が一切無かった。また、一般の生命保険にもその職業柄加入することが出来ず、休場即ち無給の日々が始まるという状況だった。加えて給与そのものも、当時の全日トップの三沢と新日トップの武藤敬司とでは3倍の違いがあると言われていた。全日本の選手が怪我をしても無理してまでリングに上がっていた理由の一部はここにあり、三沢が改革を実施しようとしていた最重要部分でもあった。当時の川田は休場中の治療費等が嵩み、会社(事実上は馬場元子)から借金していたと言われ、ポケットマネーを治療費として出してくれる馬場の死後は金銭的にも事欠くことが多かったらしい。会社への借金があるために皆が渋っていた契約更改を余儀なくされ、結果離脱できなかったとも、欠場中も川田だけギャラが支払われていたために残留したという話もあるが、真相は定かではない。なお、この頃「一選手としてやっていきたい」という理由から副社長を辞任した。

[編集] 全日本残留後

所属選手たった3名という危機的状況に陥った全日本は、日本プロレス分裂以後、興行仇として袂を分かっていた新日本との対抗戦に乗り出し、2000年10月9日、新日東京ドーム大会でIWGP王者佐々木健介と対戦。馬場と猪木の代理戦争として注目を集めた試合で川田は元子から贈られたガウンを羽織って佐々木から勝利を収めた。敗れた佐々木はIWGP王座を返上、IWGP王者決定トーナメントに川田も参戦するが、決勝戦で佐々木に敗れIWGP奪取はならなかった。また、馬場の意向で一度退団した選手は決してリングに上げぬ方針を全日本はとっていたが、「手助けをしたい」という言葉もあって天龍が全日本に参戦する。この直後に川田は天龍とタッグを組むことになったものの、戦うべき相手が隣に居ることに憤っていたという。

川田は新日本のリングに上がり続けて、天山広吉小島聡をシングルマッチで勝利を収める等、団体のエースとして孤軍奮闘の働きをする。次第に武藤がケアとのタッグで全日本に上がる機会が多くなり、川田と戦うことも多くなっていた。そして、2002年2月24日の日本武道館にて、当時六冠王であった武藤敬司と三冠選手権試合を行い、これに勝利した。試合後、武藤を破ったリングの上で、「これも、全日本プロレスです」と大会の最後を締めくくったが、過去の流れと同じように、防衛戦を行う前に右膝の負傷が悪化し、長期離脱に追い込まれた。

2003年に復帰しZERO-ONEとの対抗戦にも参戦し、2003年12月に小川直也と対戦しドロー。2004年2月には闘魂三銃士の1人であり、元三冠およびIWGP王者であった橋本真也と三冠を賭けて対戦し勝利を収めた。

2004年から始まったハッスルへは最初から参戦。当初は無骨な表情で全日本と変わらずハードな試合を展開しているだけであったが、小川にブルース・リーが身に着けていたことで有名な黄色いジャンプスーツをリング上で受け取って以来、次の大会からはそれを身に着け「ハッスルK」として試合を行うようになった。元々お笑い好きで喋り好きであり、高田総統との舌戦やインリン様との遺恨対決、付け人の石狩太一との「控室劇場」など今までに無いキャラクターを確立した。

2003年9月のトーナメント以来10度の防衛を続けてきた三冠ベルトであったが、2005年2月16日小島に敗北。三冠ベルトを失うと共に約16年間続けてきた平成デビューの日本人選手相手のシングル無敗記録が途絶えた。2005年8月から新日G1 CLIMAXに参戦、予選でケンドー・カシンに敗北するも決勝トーナメントに進出。準決勝で藤田和之との異色の対決に臨むが敗北した。なお、この年の1年間で3人もの平成デビューの日本人選手に敗れた格好となった。また、蝶野正洋とこの大会で対戦(いわゆる全日四天王の中で闘魂三銃士全員とシングルでの対戦経験があるのは川田のみ)。藤波辰爾との初対決も実現し勝利を収め、試合後藤波と握手し「試合後の握手は嫌いだが、レスラーになったきっかけの1人であるから」とコメントした。

[編集] 無所属宣言

2005年3月、無所属(川田は「フリー」という言葉は好きではないとしてこう称する)選手であることを宣言した。その際、馬場の死後6年間に渡って、正式な専属選手契約を交わさないまま、即ちフリーの立場で全日本に出場していたと語り「他団体主催の興行に出場した時、それが全日本の興行がぶつかると、ファンやプロモーターから『全日本所属なのになぜ?』と苦情を言われてきた。この誤解を解きたい。」と理由を述べた。なお、これ以降も全日本へスポットでの参戦を続けている。

なお、これに先立ち、2003年に太田プロダクションとタレント契約を交わしており、マット界の窓口業務的な役割はドリームステージエンターテインメント(現在はハッスルエンターテインメントに移行)が担っている。

[編集] 三沢との5年ぶりの戦い

2005年7月18日、プロレスリング・ノアの東京ドーム大会で5年4か月振りに三沢光晴と対戦。超危険技を互いに出し合った末、三沢がエルボーで勝利。しかし両者(特に三沢)のコンディションが非常に悪く全盛期とはほど遠い内容となり、前の試合の小橋対佐々木健介の試合に喰われた形となった。

試合後のマイクで川田は「三沢さん、あえて握手はしません。ずるい話かもしれないけど、今日打つはずだった終止符が打てなくなりました。三沢光晴はいつまでも、オレの1つ上の先輩の力を持っていてください」と述べたが、ノア経営陣は川田のこの対応に激怒し「ノアマットへの継続参戦は不可能になった」とコメント(2006年1月サムライTVにて)。後日、ノア取締役である仲田龍は番組(プロレス格闘技DX)内で、「川田をノアのマットに二度と上げることはない」と改めて断言した[1]また、川田はこの試合後、控え室の敗戦インタビューで「5年間やってきたことがこの1試合で台無しとなった」とコメントした。

[編集] ハッスルKからモンスターKへ

三沢戦の3日前には大阪府立体育会館での「ハッスル11」で、タッグマッチながらインリン様と戦い、両極端の方向性を持つ2つの試合を無理なくこなす幅の広さを見せた。しかし、後にプロレス誌「紙のプロレス」に掲載されたインタビューによると、1つのことにしか集中できない性格のため、インリン様との試合が終わるまで三沢戦に集中できなかったと告白している。

「ハッスル12」で、ハッスル軍を裏切り高田モンスター軍に寝返って、以降は「モンスターK」を名乗る。2005年11月23日、「U-STYLE Axis」旗揚げ戦でイリューヒン・ミーシャを相手に、1999年の高山戦以来のUWFスタイルで対戦。一方で、ルチャスタイルのdragondoorにも参戦した。

2006年4月の「ハッスル16」での5対5勝ち抜き戦では、大谷晋二郎を下した後、WWEで活躍したTAJIRIと初遭遇。相手の策略に嵌まり、両者リングアウトとなった。3日後の「ハッスル・ハウスVol.13」では、TAJIRIに向かい「お前と決着つけてやるよ!」と迫るも、TAJIRIは「そういう知性のカケラも感じないような言葉、大嫌いなんですよ。体が痛くて、しばらくあなたとはやりたくありません」とすかされ、セリフ自体はハッスルのアングルに沿ったものでありながらも、両者のプロレス観の違いをよく表したものとなった。また、高田総統のコスチュームを着用し、イベントで「川田総統代行」として登場した。その姿をTAJIRIからは「がきデカみたい」と言われた。

「1クールのレギュラーより1回の伝説」を旗印に「伝説を作りにきた」と参戦したハッスル軍のファイナルウェポン江頭2:50に対抗して、黒タイツで「川田19:55(「19:55」の由来は登場した際に後楽園ホール壁にある時計に表示されていた時刻と思われる)」として参戦、江頭に一言物申して会場の大声援を受けた。「ここのリングは 大の大人が なんでも どんなことでも 真剣に取り組むリングなんだ」とプロとしての名言を吐いた。江頭が「俺が言うのもなんだけど、あんた頭おかしすぎる」「あいつ一人勝ちじゃねーか」「あんな強敵がいるとは思わなかった」「伝説作りに来たのにあいつに伝説作られちゃったよ」と「芸人最終兵器」が自らの敗北を認めた「超レア芸人」となった。

最近はハッスルオープニングでのMCが名物となっており、小島よしおオリエンタルラジオ小梅太夫ら芸人との絡みも無難にこなしている。

[編集] 古巣・全日本参戦

小島から三冠を取ったケアから初防衛相手に指名され、川田は承諾し、1年ぶりに全日本マットに参戦。2006年8月27日両国国技館大会でケアの三冠に挑戦するも、ケア相手に初めて敗れた。その後、世界最強タッグ決定リーグ戦に武藤とのタッグで出場。初戦では小島・天山組に勝利したが、決勝進出決定戦で敗れた。

2007年1月4日、新日本プロレス・全日本プロレス創立35周年記念興行が東京ドームで行われ、川田曰く「全日本プロレスの一員」として参加。中邑真輔とシングル戦を行い勝利。この大会のベストバウトと称えられ、「名勝負製造機」ぶりを遺憾なく発揮した。2月17日、両国での世界タッグ王座決定戦ではケアと組み、諏訪魔・ロージー組を破り、2000年の団体分裂後初めて世界タッグ王座を獲得した。3月にはチャンピオン・カーニバルに出場。決勝で武藤に敗れた。

無我の6月21日の後楽園ホール大会・9月23日の大阪大会では、吉江豊と対戦。激しい肉弾戦の末に連勝を収めた。

8月26日、両国大会で小島・TARU組に敗れ、世界タッグ王座から転落。10月18日、全日本・代々木大会では佐々木の持つ三冠ヘビー級王座に挑戦するも敗北。12月31日、大みそかハッスル祭り2007に参戦した。

2008年、前年同様後楽園ホール5連戦として行われたチャンピオン・カーニバルでは、武藤、ケアに勝利したが小島に敗北、棚橋弘至と激闘の末に引き分けて予選敗退を喫した。8月には、新日本プロレスのG1 CLIMAXに、3年ぶり2度目の出場が決定したが、決勝戦に進出することは出来なかった。

[編集] 三沢光晴追悼興行参戦

過去に仲田龍が「川田がノアマットに上がることは二度とない」と発言してノアマットへの参戦は不可能だと思われていたが、2009年9月7日、にノア事務所で行われた会見で、2009年10月3日大阪府立体育会館で行われる三沢光晴追悼興行への参戦が発表され、全日本プロレス時代、聖鬼軍でパートナーだった田上明と組んで秋山準 KENTAとのタッグマッチが発表された。

2009年9月19日CS放送FIGHTING TV サムライSアリーナにゲスト出演した際、「対戦はしなくても三沢さんの居るノアマットに上がりたかった」や「今までのナンバーワンのパートナーは三沢さん」と語った。

[編集] タイトル歴

全日本プロレス
第12代(防衛1回)
第18代(防衛0回)
第21代(防衛0回※)
第28代(防衛0回※)
第32代(防衛10回)
※印は負傷による返上。
第17代(防衛1回)&三沢光晴
第20代(防衛0回)&三沢光晴
第22代(防衛2回)&田上明
第26代(防衛3回)&田上明
第28代(防衛0回)&田上明
第31代(防衛1回)&田上明
第35代(防衛4回)&田上明
第42代(防衛0回)&田上明
第52代(防衛1回)&太陽ケア
第45代(防衛2回)&サムソン冬木(冬木弘道)
第47代(防衛3回)&サムソン冬木
第49代(防衛1回)&サムソン冬木

[編集] 三冠戦での戦績

  • 1991年10月24日、神奈川・横浜文化体育館 vs ジャンボ鶴田 ×19分05秒 岩石落とし固め
  • 1992年6月5日、東京・日本武道館 vs スタン・ハンセン ×21分18秒 エビ固め(ウエスタン・ラリアット)
  • 1992年10月21日、東京・日本武道館 vs 三沢光晴 ×29分52秒 猛虎原爆固め
  • 1993年7月29日、東京・日本武道館 vs 三沢光晴 ×25分53秒 猛虎原爆固め
  • 1994年6月3日、東京・日本武道館 vs 三沢光晴 ×35分50秒 エビ固め(タイガードライバー'91)
  • 1994年10月22日、東京・日本武道館 vs スティーブ・ウィリアムス ○37分58秒 片エビ固め(ジャンピングハイキック)
    • 第12代王者に。
  • 1995年1月19日、大阪・大阪府立体育会館 vs 小橋建太 △60分時間切れ 引き分け
  • 1995年3月4日、東京・日本武道館 vs スタン・ハンセン ×31分26秒 片エビ固め(ウエスタン・ラリアット)
    • 防衛に失敗、防衛1回
  • 1995年7月24日、東京・日本武道館 vs 三沢光晴 ×24分16秒 片エビ固め(ランニングエルボー)
  • 1996年6月7日、東京・日本武道館 vs 田上明 ×17分41秒 片エビ固め(高角度喉輪落とし)
  • 1996年10月18日、東京・日本武道館 vs 小橋健太 △60分時間切れ 引き分け
  • 1997年6月6日、東京・日本武道館 vs 三沢光晴 ×31分22秒 原爆固め
  • 1998年5月1日、東京・東京ドーム vs 三沢光晴 ○28分05秒 エビ固め(三冠パワーボム)
    • 第18代王者に。
  • 1998年6月12日、東京・日本武道館 vs 小橋健太 ×33分49秒 片エビ固め(ラリアット)
    • 防衛に失敗、防衛0回
  • 1999年1月22日、大阪・大阪府立体育会館 vs 三沢光晴 ○24分15秒 片エビ固め(垂直落下式ブレーンバスター)
    • 第21代王者に。右腕負傷の為、王座返上。
  • 1999年7月23日、東京・日本武道館 vs 三沢光晴 ×21分58秒 片エビ固め(タイガードライバー'91)
  • 2000年10月28日、東京・日本武道館 vs 天龍源一郎 ×26分28秒 片エビ固め(ノーザンライトボム)
  • 2002年2月24日、東京・日本武道館 vs 武藤敬司 ○27分37秒 エビ固め(パワーボム)
    • 第28代王者に。防衛戦を前に負傷、王座返上。
  • 2003年9月6日、東京・日本武道館 vs 大谷晋二郎 ○21分34秒 体固め(座っている大谷への延髄斬り)
    • 第32代王者に。
  • 2003年10月26日、東京・日本武道館 vs ドン・フライ ○17分05秒 レフェリーストップ(ストレッチプラム)
  • 2004年1月18日、大阪・大阪府立体育会館 vs 天龍源一郎 ○17分59秒 片エビ固め(垂直落下式ブレーンバスター)
  • 2004年2月22日、東京・日本武道館 vs 橋本真也 ○19分57秒 TKO(セコンドによるタオル投入)
  • 2004年5月8日、神奈川・横浜アリーナ(注1) vs ミック・フォーリー ○12分56秒 片エビ固め(キック) -この試合はハッスル3のリングで開催。
  • 2004年6月12日、愛知・愛知県体育館 vs ジャマール ○18分01秒 レフェリーストップ(ストレッチプラム)
  • 2004年7月18日、東京・両国国技館 vs 大森隆男 ○22分36秒 体固め(座っている大森へのランニング顔面回し蹴り)
  • 2004年9月3日、神奈川・横浜文化体育館 vs 西村修 ○27分12秒 片エビ固め(座っている西村へのランニング顔面蹴り)
  • 2004年10月31日、東京・両国国技館 vs 太陽ケア ○26分44秒 エビ固め(パワーボム)
  • 2004年12月5日、東京・両国国技館 vs 天山広吉 ○32分21秒 片エビ固め(座っている天山へのランニング顔面蹴り)
  • 2005年1月16日、大阪・大阪府立体育会館 vs 佐々木健介 ○23分27秒 片エビ固め(座っている佐々木へのランニング顔面蹴り)
  • 2005年2月16日、東京・国立代々木競技場第二体育館 vs 小島聡 ×27分04秒 片エビ固め(ラリアット)
    • 防衛に失敗、防衛10回。
  • 2006年8月27日、東京・両国国技館 vs 太陽ケア ×24分51秒 エビ固め(パワーボム)
  • 2007年10月18日、東京・国立代々木競技場第二体育館 vs 佐々木健介 ×26分05秒 片エビ固め(ノーザンライトボム)

三冠戦での通算戦績は31戦15勝14敗2分(引き分けでは王座は移動せず)。現在、三冠ヘビー級王座の5度の戴冠は最多タイ(他に三沢光晴)、連続防衛10回は最多記録。また、防衛失敗における相手の決まり手はいずれもラリアットである。なお、1992年6月5日のスタン・ハンセン戦はプロレス大賞年間最高試合賞を受賞している。

初めて勝って防衛したのは2003年10月26日の日本武道館ドン・フライ戦で、1994年に初めて三冠を取って以来、引き分け防衛はあったものの、勝って初防衛するまで9年もの年数がかかった。

なぜか、初めて三冠を奪取した選手の初防衛戦の相手になることが多い。

[編集] 得意技

二代目タイガーマスク(三沢光晴)と一緒にキックの練習を積んだことがきっかけで、キック主体のスタイルを確立。キックを用いながらもオーソドックスなプロレスらしさを表現できる稀有な存在と言える。また、滅多に見られないが、武藤との試合で弓矢固めを見せるなど、器用な面もある。それと同時に天龍源一郎の得意技も数多く引き継いでいる(パワーボム、起き上がりこぼし式チョップ等)。四天王の他の三者が激戦の中で次々と新技を開発していくのに対し川田は新技の開発・習得を殆ど行わない。

ジャンピングハイキック(顔面蹴り)
ジャンプして相手の側頭部や顔面を蹴り飛ばす豪快な技。基本的には試合終盤に用いられ、その威力から流れを一気に変えたり、そのままフィニッシュともなる。また、走りこんでくる相手へのカウンターにも使え、使用頻度は高い。
デンジャラス・バックドロップ
彼のあだ名「デンジャラス・K」の名をとったバックドロップ。相手の後方側面から腕を回し、軽く飛びながらとんでもない角度で首から後方に叩き落とす。まさしく彼の「必殺技」と呼ぶにふさわしい技である。
垂直落下式ブレーンバスター
元々ブレーンバスターはその名前の通り脳天にダメージを与える技であったが、余りに危険な為か、ただ後方に背中を打ち付ける形で使われていた。そんな中で川田はブレーンバスターの本来の意味を取り戻し、「垂直落下式」として絶対的なフィニッシュとしてその価値を取り戻した。最近ではこの技をフィニッシュとする人間は多いが、川田がその走りである。
パワーボム
最近では繋ぎ技として用いられることが多くなったが、川田のそれは叩きつける時の勢い、そして全身で相手の体に覆い被さってフォールを取ろうとする気持ちがフィニッシュとしての説得力を十二分に与えている。
垂直落下式パワーボム(三冠パワーボム)
1999年1月22日の三沢光晴との三冠戦にて、パワーボムを決めようとした川田を三沢はウラカン・ラナで切って返そうとした。しかし全身で川田はコレを踏ん張り、だらんと体がリングに垂直になった三沢光晴をそのまま杭を打つかの如くツームストーン・パイルドライバーのような形で垂直落下に叩きつけた。この時、直前に放った後頭部裏拳により既に右腕尺骨を骨折していたが、それでも戦いウラカン・ラナを踏ん張った。川田の執念により生まれた技とも言える。後に武藤敬司にも三年の封印をとき、これを繰り出し三冠を奪取している。
サッカーボールキック
相手の背中に放つキック。スタン・ハンセンや、超世代軍時代にライバルとして抗争していた田上明戦では良く見せた。ハンセン戦ではお互いにこの技をやり返すシーンが頻繁に見られた。タッグマッチでのカットで晩年の馬場の背中に浴びせた際に、馬場はその後リングサイドで試合終了まで動けなくなった逸話もある。
フロントハイキック
「ディイイイイイヤ!!」と叫びながら走りこみ、相手の顔面に右足の裏を叩き込む見た目も威力も強烈な技。ロープに振っての「カウンター式」や、コーナーにもたれかかっている相手に対し繰り出す「串刺し式」も存在する。なお、一時期観客も「ディイイイイイヤ!!」とそれに呼応して叫んでいたが、本人は気に入らないらしく自粛されていった。
オーバーヘッドキック
背面からのクラッチに対して斜めに後方回転して相手の顔面に蹴りを叩き込む。ただし、無理な体勢から放つため目測を誤り背中に当たることも多い。
スピンキック
相手をロープに振っての後ろ回し蹴り。川田のそれは回転しながら斜めに倒れこむようにして蹴り足を高く上げ、ふくらはぎから先で相手の胸部から顔面にかけて狙う独特のものである。試合序盤でよく使うムーブメントの1つ。
ステップキック
相手の後頭部を掴んで前かがみにさせた状態で、顔面に足の甲で軽い蹴りを何発も叩き込む。顔面に何度もというところから、痛み以上に相手のプライドと覇気を削るのに適した技。最後に思いっきり蹴り上げたり、首筋に踵落としをすることもある。三沢光晴を相手に繰り出した場合は、必ず強烈なエルボーのお返しがくる。
浴びせ蹴り
相手に向かって前方宙返りするように回転しながら踵を浴びせる蹴り技。相手をコーナーに押し込み、避けられない状態にして放つことが多い。串刺し式フロントハイキックとの併用で隠し技的に使用するが、滅多に見せない。
おきあがりこぼしチョップ
左手で相手の左手首を取り右手で逆水平チョップを放ち、相手がマットにダウンしたと同時に左腕をグイと引き寄せ起こし、再び逆水平チョップを放つ動作を繰り返す。
ラリアット
スタン・ハンセン小橋建太のような代名詞となりえる威力は無いが、川田利明が試合を組み立てる上で非常に重要な位置にあるのもまた事実である。本人もこの技に思い入れがあるらしく、右肘を負傷しているのに、意地になって何度も繰り出したこともある。クローズラインに近い。スピードがあるのが特徴。スティーブ・ウィリアムスから、シングル初勝利を奪ったのはこの技である。
後頭部裏拳
  • 名前の通り、後頭部に裏拳を叩き込む非常に危険な技。1999年1月22日、三沢光晴との三冠戦の序盤にこれを放つが、この際に自身の右腕を骨折してしまう。なんとか執念で勝ちをもぎ取るものの、この怪我で川田は三冠の返還を余儀なくされる。
  • 試合後、勝利した照れから「裏拳でヒビが入り、ウラカン・ラナを踏ん張ったときにボキッといった」と冗談を言ったあと、「ここまで(腕を犠牲に)しなくちゃ、獲れないベルトなんだろうね」と感慨深げに話している。皮肉にもこの9日後にジャイアント馬場が亡くなり、川田は棺を担ぐことができなかった。
ストレッチ・プラム
  • しりもち状態の相手の後ろに立ち、相手の右脇に右手を指し込み、左肘で相手の顔面を絞り上げ(ドラゴン・スリーパー)、相手の足の間に自分の足を間に挟むことで下半身を固定し、上半身と下半身を反対の方向に思いっきりねじりあげる。数少ない完全川田オリジナルの絞め技であり、これで決着がつくことも多い。開発当初はスタンディングで繰り出していた。
  • その名前は川田と親交があった「松竹梅」のメンバー梅村達也(梅=英語でプラム)がこの技を提案したことに由来する。先輩の故冬木弘道がこの技を真似て「冬木スペシャル」として使っていたが、冬木曰く「小指の角度が違う」らしい。
ランニング顔面蹴り
  • 座った相手に走りこんで、顔面に蹴りを入れる。柴田勝頼の必殺技「P.K.(ペナルティ・キック=座った相手に走りこんで、胸板に蹴りを入れる技)」とよく似ているので、デンジャラス・キック(D.K.)とも呼ばれる。他にも座っている○○(対戦相手)へのランニング顔面蹴り、ランニング顔面ローキック、デンジャラス・シュートなど様々な名称があるが正式名は決まっていない。
  • 元となったのは、高山善廣の顔面に蹴りを入れて失神KO(試合結果はリングアウト)させたことから来ている。この試合をレフェリングしていた和田京平は、ジャイアント馬場の墓前で「自分の配慮が足りないばかりにこのような事態を引き起こしてしまった」と涙ながらに語った(この試合において、「事前の打ち合わせ」が殆ど無かったとも言われる)。その様子を見ていた馬場元子夫人が、それから後に全日本プロレスの内情に口をはさむようになり、選手大量離脱を引き起こすキッカケとなった、というエピソード(馬場元子著「ネェネェ、馬場さん」参照)がある。
腕ひしぎ十字固め
最近はあまり見せることは無いが、隠し技的に使用することがある。かつてゲーリー・オブライトからギブアップをとったこともあった。2007年のチャンピンカーニバルで、決勝進出がかかった小島聡戦でもこの技を使用。ギブアップを奪い、10年ぶりの決勝進出を決めた。
聖鬼軍スペシャル95
川田がバックドロップ、田上がノド輪落としを繰り出す。角度もキツイうえ、2人の得意技ということもあって、非常に威力がある。

[編集] 入場テーマ曲

  • 「ラストバトル」(アニメ「バリバリ伝説」より)(超世代軍結成期に使用)
  • 「Holy War」(ビッグマッチではスローバージョンを前奏として使用。今でも、全日本プロレスに参戦する時は、前奏抜きをたまに使用する。)
  • 「Holy War(B.B.B.バージョン)」(98、99年頃使用)
  • 「Holy War 21」(2000年10月9日、新日本・東京ドーム大会より使用。初披露はその前日のファン感謝デー)
  • 「ソウルドラゴンのテーマ(Blue Eyed Soul)」/CARL DOUGLAS(ハッスルK)
  • 交響曲第9番 ホ短調 作品95, B.178「新世界より」(Z nového světa)第四楽章」/アントニン・ドヴォルザーク(モンスターK)

[編集] 人柄

  • 全日本プロレス新人の時、寮では「一言多い」という理由から三沢によく可愛がられた。三沢は自伝や各雑誌のインタビューで「川田は高校時代から一言多かったから殴ったが、いじめでは無くしつけ」とし、それを心配した冬木弘道に対しても、「あいつはいいんですよ」と答えたという。後に冬木も三沢と一緒にいるときは川田を「シメる」ようになったようであるが、三沢も「あれは俺がいけなかった」とコメントしている[要出典]
  • デビュー以来引き分けを入れて205連敗というドン底からトップレスラーまで這い上がってきた。
  • 前歯は折れてほとんど無い。試合時は義歯を外している。ただし、地方巡業でのタッグマッチでは義歯をつけたまま試合を行うこともあり、一部のファンからは「今日の試合は川田にとって有利」と意見されることもある。
  • 超世代軍時代、川田がキックを放つたびに客席から「シャー!シャー!」という声が上がっていたが、本人が嫌がったためにその後使われなくなった。
  • ハッスルに参戦するまではマイクパフォーマンスを殆どしなかった[2]
  • 寡黙で冗談が通じないという全日本時代のキャラクターは自ら作り上げたギミックであることをラジオ番組の中で明かした[3]
  • プロレス界の風習となってしまった「引退→復帰」の流れを極端に嫌っているため、「俺がプロレス辞める時は『引退』ではなく『休業』ということにしてくれ」と述べている。
  • 芸人との交友は広い。特にダチョウ倶楽部肥後克広上島竜兵と仲が良く、川田の紹介で彼と志村けんとの親交も生まれた。得意技の1つ、ストレッチ・プラムは公開当時に活躍していたコントグループから名を取り(「主な得意技」の「ストレッチ・プラム」の項参照)、「ハッスルハウス Vol.2」ではダチョウ倶楽部の肥後克広をリングに上げ、2人でハッスルポーズを決めている。ウリナリ!!では勝俣州和股割りのスペシャルコーチとして登場した。

[編集]

  1. ^ なお、2009年9月7日、三沢の急逝を受けて社長に就任した田上明は、同年10月3日に大阪で開催される三沢追悼興業の試合として田上明・川田利明VS秋山準・KENTAのタッグマッチを発表。仲田の言葉は3年半で覆されることとなった。[1]
  2. ^ 川田のマイクアピールとして最も初期のものは、2003年5月のZERO-ONE全日本プロレスとの対抗戦において、橋本真也小川直也武藤敬司小島聡で小島が小川に敗戦した試合後に、長期欠場明けの川田が突然現れ、「おい橋本、お前は俺を倒さない限り、全日本を倒したことにはならないぞ」というもの
  3. ^ 高校時代、控室で三沢にやたら話しかけて叱られたというエピソードがある(三沢はこの頃のことを自伝において「俺は試合が終わって疲れてるのに川田が「三沢さん強いっすねぇ〜。全然練習してないのに」と言ってきたんでシメた」と語っている

[編集] 関連書籍

  • 俺だけの王道 川田利明自伝 Dangerous K(小学館、2003年)ISBN 4093874123

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年10月19日 (月) 20:45 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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