広島市への原子爆弾投下

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原爆ドーム
原爆ドーム
原爆ドーム
原爆ドーム

ファイル:Hirosima-nissekibyuin PICT0054.JPG ファイル:Hirosima-nissekibyuin PICT0057.JPG

広島市への原子爆弾投下(ひろしましへのげんしばくだんとうか)では、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分[1][2]に、アメリカ軍が日本の広島県広島市に対して投下した原子爆弾(以下『原爆』と記す)に関する記述を行う。これは実戦で使われた世界最初の核兵器である。この一発の兵器により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち約14万人が死亡したとされる[3]

広島県、広島市などを指す「広島」が「ヒロシマ」とカナ表記される場合は広島市への原爆投下を指すことが多い。

目次

[編集] 原爆投下時

[編集] グアム島

8月2日グアム島の第20航空軍司令部から、テニアン島第509混成部隊に以下に示す極秘野戦命令が通達された[4]

作戦命令書13号 1945年8月2日

  1. 攻撃日 8月6日
  2. 攻撃目標 広島中心部と工業地域
  3. 予備第2目標 小倉造兵廠および同市中心部
  4. 予備第3目標 長崎市中心部
  5. 特別指令 目視投下に限ること

[編集] テニアン島

エノラ・ゲイ乗組員, 左からフィーヤビー・ティベッツ・バンカーク・ルイス

8月4日B-29エノラ・ゲイ[5]は最後の原爆投下訓練を終了して、マリアナ諸島テニアン島北飛行場[6]に帰還した。

8月5日21時20分、第509混成部隊の観測用B-29が広島上空を飛び、「翌日の広島の天候は良好」とテニアン島に報告した[7]。同時刻、テニアン島ではブリーフィングでポール・ティベッツ陸軍大佐がエノラ・ゲイ(名前の由来になったのは彼の母親の名前)の搭乗員に出撃命令を伝えた、「今夜の我々の作戦は歴史的なものだ」。

8月6日0時37分、まず気象観測機のB-29が3機離陸した。ストレートフラッシュ号は広島へ、ジャビット3世号は小倉へ、フルハウス号は長崎である。0時51分には予備機のトップ・シークレット号が硫黄島へ向かった。

続いて1時27分、Mk-1核爆弾リトルボーイを搭載したエノラ・ゲイがタキシングを開始し、1時45分にA滑走路の端から離陸した。

その離陸2分後の1時47分、原爆の威力の記録を行う科学観測機(グレート・アーティスト号)が、更に2分後の1時49分には写真撮影機(#91 or ネセサリー・イーブル号)の各1機のB-29も飛び立った。 即ちこの日、6機のB-29が原爆投下作戦に参加し、内3機が広島上空へ向かっていたことになる。

テニアン島から目標の広島市までは約7時間の飛行で到達できる。

[編集] 四国上空

6時30分、兵器担当兼作戦指揮官ウィリアム・S・パーソンズ海軍大佐、兵器担当補佐モーリス・ジェプソン陸軍中尉、爆撃手トーマス・フィアビー陸軍少佐らが爆弾倉に入り、リトルボーイの起爆装置から緑色の安全プラグを抜き、赤色の点火プラグを装填した。

作業を終えたパーソンズはティベッツ機長に「兵器のアクティブ化完了」と報告し、機長は「了解」と答えた。機長は機内放送で「諸君、我々の運んでいる兵器は世界最初の原子爆弾だ」と、積荷の正体を初めて搭乗員全員に明かした。

この直後、エノラ・ゲイのレーダー迎撃士官ジェイコブ・ビーザー陸軍中尉がレーダースコープに正体不明の輝点を発見した。通信士リチャード・ネルソン陸軍上等兵はこのブリップが敵味方識別装置に応答しないと報告した。エノラ・ゲイは回避行動をとり、高度2,000m前後の低空飛行から急上昇し、7時30分に8,700mまで高度を上げた。

さらに四国上空を通過中に日本軍のレーダー照射を受け、単機の日本軍戦闘機が第一航過で射撃してきたが、被弾はなかった。この日本軍戦闘機(所属不明)はハーフターンして第二航過で射撃を試みたが、射撃位置の占有に失敗した[8]

エノラ・ゲイ号は危機を回避し、目的地への飛行を再開した。

[編集] 広島

原爆投下前の広島市中央部
同心円の中心が爆心地
すぐ左上に目標の相生橋
画面右上の矩形は広島城

当日は月曜、ただし当時は週末の休みは無く、朝は8時が勤務開始である。大半の労働者・徴用工・女子挺身隊、および勤労動員された中学上級生(1万数千人)たちは、三菱重工東洋工業を始めとする数十の軍需工場での作業となった。

8月5日は深夜に2回空襲警報が発令され、その度に市民は防空壕に避難したため、寝不足の市民も多かった。この日、市街中心部では米の配給が行なわれ、市民は久しぶりの米飯の食卓を囲んだ。

朝の気温は26.7度、湿度80%、気圧1,018ヘクトパスカルであった。北北東の風約1メートル/秒が吹き、雲量8 - 9であったが、薄雲であり視界は良好だった。

7時過ぎ、エノラ・ゲイ号に先行して出発していた気象観測機B-29の1機が広島上空に到達した。クロード・イーザリー少佐のストレートフラッシュ号である。

7時15分ごろ、ストレートフラッシュ号はテニアン島の第313航空団に気象報告を送信した。「Y3、Q3、B2、C1」(低い雲は雲量4/10から7/10で小さい、中高度の雲は雲量4/10から7/10で薄い、高い雲は雲量1/10から3/10で薄い、助言:第1目標を爆撃せよ)[9]。 この気象報告を四国沖上空のエノラ・ゲイ号が傍受し、投下目標が広島に決定された[10]。原爆の投下は目視が厳命されており、上空の視界の情報が重要であった。 なお、この観測機は日本側でも捕捉しており、中国軍管区司令部から7時9分に警戒警報が発令されたが、そのまま広島上空を通過離脱したため、7時31分に解除された。 なお、この観測機と並んでエノラ・ゲイ号も一度、広島市上空を飛行し、警戒警報を発令・解除させた後、再飛来し市民を油断させ原爆攻撃を行ったという説がある。

8時すぎ、B-29少数機(報告では2機であったが、実際には3機)が日本側によって捕捉された。8時13分、中国軍管区司令部は警戒警報の発令を決定したが、各機関への警報伝達は間に合わなかった(当然、ラジオによる警報の放送もなかった)[11]

8時9分、エノラ・ゲイ号は広島市街を目視で確認した。中国軍管区司令部が警報発令の準備をしている間に、エノラ・ゲイ号は広島市上空に到達していた。高度は31,600ft(9,632m)。まず原爆による風圧等の観測用のラジオゾンデを吊るした落下傘を三つ落下させた。青空に目立つこの落下傘は、空を見上げた市民たちに目撃されている。この時の計測用ラジオゾンテを取り付けた落下傘を原爆と誤認したため、「原爆は落下傘に付けられて投下された」と云う流説があるが誤りである[1][12]。なお一部のラジオゾンデは、その後呉の日本軍が鹵獲に成功している。また一部の市民は「乗機を撃墜された敵搭乗員が落下傘で脱出した」と思って拍手していたという。

8時12分、エノラ・ゲイが攻撃始点(IP)に到達したことを、航法士カーク陸軍大尉は確認した。機は自動操縦に切り替えられた。爆撃手フィアビー陸軍少佐はノルデン照準器に高度・対地速度・風向・気温・湿度等の入力をし、投下目標(AP)を相生橋に合わせた。相生橋は広島市の中央を流れる太田川が分岐する地点にかけられたT字型の橋である。特異な形状は、上空からでもその特徴がよく判別できるため、目標に選ばれた。

8時15分17秒、核爆弾リトルボーイが自動投下された。3機のB-29は投下後、熱線や爆風の直撃による墜落を避けるためにバンクして進路を155度急旋回した。再び手動操縦に切り替えたティベッツはB-29を激しい勢いで急降下させ、キャビンは一時無重力状態になった。

広島に投下された原爆によるきのこ雲

リトルボーイは爆弾倉を離れるや横向きにスピンし、ふらふらと落下した。間もなく尾部の安定翼が空気を掴み、放物線を描いて約43秒間落下した後、相生橋よりやや東南の島病院付近高度約600メートルの上空で核分裂爆発を起こした[2]

8時15分、先に発令された警報を受け「警戒警報、発」まで発した所で閃光が光った[13]

[編集] 帰投

原爆の爆風はエノラ・ゲイにも襲い掛かった。エノラ・ゲイはひどく揺さぶられ、ティベッツは日本軍の高射砲による対空射撃と勘違いして「高射砲だ!」と叫び、フィアビーも「くそ!撃ってきたぞ!」と叫んだ。しかし、まもなく核爆発の衝撃波であると気付いた[要出典]

14時58分、エノラ・ゲイ号は快晴のテニアン島の北飛行場に帰還した。12人の搭乗員は出迎えた数百人の将兵らに祝福された。戦略空軍総司令官カール・スパーツ少将から、ティベッツ大佐には栄誉十字章が、他の12人には銀星章が与えられた。その日は夕方から、第509混成部隊の将兵や科学者らによって、深夜まで盛大な祝賀パーティが催された[14]

原爆投下時、撮影機はカラーフィルムで撮影していたが、テニアン島に帰還後、現像に失敗したためにその記録は失われた。そのため、爆発から約3分後に別機の科学調査リーダー、ハロルド・アグニューにより8mmカメラによって撮影されたキノコ雲の映像が、世界初の都市への原爆投下を捕らえた唯一の映像となっている。

[編集] 原爆の威力

広島原爆は約50キログラムのウラン235が搭載されており、このうち核分裂を起こしたのは1キログラム程度と推定されている。爆発で放出されたエネルギーは63兆ジュールTNT火薬換算で1万5千トン(15キロトン)相当に及んだ。エネルギーは爆風(衝撃波)・熱線・放射線となって放出され、それぞれの割合は50パーセント・35パーセント・15パーセントであった。

なお、B-29の通常爆弾最大積載量は5トンであるから、B-29の3,000機分の通常爆弾が一度に投下されたことに相当する。比較として東京大空襲(1945年3月10日)の攻撃B-29は344機であるから、投下された爆弾(焼夷弾)は総計1,720トンであった。すなわち、広島原爆(15,000トン)はこの東京大空襲の約9倍相当の規模のエネルギーを、東京の10分の1程度の都市の上に一時に投下/放出したことになる。

[編集] 爆風

爆心地から250メートルの全壊したRC建築(広島瓦斯本社ビル)

爆発の瞬間の爆発点の気圧は数十万気圧に達し、これが爆風を発生させた。

爆心地における風速は440m/s以上と推定されている。これは音速349m/s[15]を超える超音速の爆風であり、前面に衝撃波を伴い爆心地の一般家屋のほとんどを破壊した。

比較するとこの風速は、強い台風の中心風速の10倍である。そして、爆風のエネルギーは風速の3乗に比例する[16]。すなわち、原爆の爆風は、エネルギー比では台風の暴風エネルギーの1,000倍の爆風であった。

また爆心地における爆風圧は350万パスカルに達した(1平方メートルあたりの加重が35トンとなる)。半径1キロメートル圏でも100万パスカルである。耐震設計の鉄筋コンクリート建築以外の建造物は、爆風圧に耐え切れずに全壊した。半径2キロメートル圏で30万パスカルとなり、この圏内の木造家屋は全壊した。

[編集] 熱線

熱線により影が焼き付いた跡

核分裂で出現した火球の表面温度は数千度に達した。即ち、地上から数百メートルの地点に第二の太陽が現れた事に相当する。 火球から放出された熱線エネルギーは22兆ジュール(5.3兆カロリー)である。熱線は赤外線として、爆発後約3秒間に大量に放出された。地表に作用した熱線のエネルギー量は距離の2乗に反比例する。地表で受けたエネルギーは、爆心地では平方センチあたり100カロリー、500メートル圏で56カロリー、1キロメートル圏で23カロリーであった。

比較すると、爆心地の地表が受けた熱線は通常の太陽の照射エネルギーの数千倍に相当する。

このような極めて大量の熱量が短期間に照射される特徴から、熱が拡散されず、照射を受けた表面は直ちに高温となった。爆心地付近の地表は3,000 - 6,000℃に達した。屋根瓦は表面が溶けて泡立ち、また表面が高温となった木造家屋は自然発火した。

[編集] 放射線

レントゲンフィルムの感光のことも書かれている広島赤十字病院の原爆被災の解説

核分裂反応により大量のアルファ線ベータ線ガンマ線中性子線が生成され、地表には透過力が強いガンマ線と中性子線が到達した。さらに地表では中性子線により放射化され、誘導放射能が生成された。

爆心地の地表に到達した放射線は、1平方センチあたり高速中性子が1兆2千億個、熱中性子が9兆個と推定されている。

原爆投下後、広島赤十字病院の地下に残っていた未使用のレントゲンフィルムが放射線によって全て感光していたため、広島へ落とされた新型の爆弾は原爆だと決定付ける証拠となった。

[編集] 黒い雨

原爆の炸裂の高熱により巨大なキノコ雲(原子雲)が生じた。これは爆発による高熱で発生した上昇気流に吹き上げられた粉塵が上空で拡散したため、あのように特徴的なキノコ形になったものと考えられる。

低高度爆発であったためにキノコ雲は地表に接し、爆心地に強烈な誘導放射能をもたらした。雲は急速に上昇し、湿った熱気は上空で冷やされを降らせた。この雨は爆風が舞い上げた大量の粉塵・煙を含んでおり、粘り気のある真っ黒で大粒の雨粒が降り注いだ。この雨を黒い雨という。

当日の上空では南東の風が吹いていたため、キノコ雲は徐々に北北西へ移動し、黒い雨の降雨領域は市内から北北西方向へ伸びる長径19km、短径11kmに広がった。この雨は放射性降下物を含んでいたため、雨を浴びた者を被曝させ、土壌や建築物及び河川を放射能で汚染した。原爆の子の像のモデル・佐々木禎子も黒い雨を浴びたことが原因で被爆している。

[編集] 被害状況

[編集] 概要

詳細は「被爆者」を参照

瀕死の重症を負った男性。腰の周りだけ胴巻きのためか火傷を免れている
被爆後の中島地区

爆心地500m圏内では閃光と衝撃波が殆ど同時に襲った。巨大な爆風圧が建築物の大半を一瞬にして破壊した。木造建築は全数が全壊した。鉄筋コンクリート建築である産業奨励館は垂直方向の衝撃波を受けて天蓋部は鉄骨を残して消失、一部の外壁を残して大破した。相生橋や元安橋の石の欄干も爆風で飛ばされた。

また強力な熱線により屋外にいた人は全身の皮膚が炭化し、内臓組織に至るまで高熱で水分が蒸発した。苦悶の姿態の形状を示す「水気の無い黒焦げの遺骸」が道路などに大量に残された。

丁度、爆心地を通過していた路面電車は炎上したまま、黒焦げの遺骸を乗せて慣性力で暫く走り続けた。吊革を手で持った形のままの人や、運転台でマスター・コントローラーを握ったまま死んだ女性運転士[17]もいた。

この地域での生存者はほぼ皆無に等しいため、状況の手掛りは少ないが、爆発で飛ばされて失神し、それから覚めた直後は一寸先も見えない闇の世界であった。原子雲と爆風で舞い上げられた大量の粉塵が太陽の光を完全に遮断したためである。その闇の中で、高温に熱せられた木造建築等の発火が始まっていた。

この爆心地直下の圏内の生存者で広く知られているのが、核爆発の瞬間には燃料会館の地下室に書類を捜しに入っていて難を逃れた男性(昭和57年6月死去)である。燃料会館は爆心直下の島病院や産業奨励館の直近170mに位置した爆心地であった[18]

爆心地から500メートル以内はほぼ一瞬で壊滅した。建物は灰燼のみが残る平地となり、この範囲に居た人間の即死または即日死の確率は99パーセント以上に上った。

500メートルから1キロメートル以内では、即死および即日死の死亡率が約60から70パーセントに及んだ。さらに生き残った者も6日目までに約半数が死亡、次の6日間でさらに25パーセントが死亡していった。

また、1.5キロメートル内外では、爆発時の即死は逃れたものの、倒壊した建物の下敷きとなって死亡、またはその後に発生した火災で死亡した被害者が多い[19]

11月までの集計では、爆心地から500メートル以内での被爆者は99.8から99.9パーセントが死亡し、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、約90パーセントが死亡した。1945年の8月から12月の間の被爆死亡者は、9万人ないし12万人と推定されている。

なお、原爆が投下された際に広島市内には米軍捕虜十数名が収容されていたが全員が被爆死している[20]

[編集] 建物の損壊と火災

赤十字病院より北西

爆心地から2キロメートル圏内の木造家屋は一瞬にして倒壊した。これによって家屋の瓦礫の下に閉じ込められた被害者も多かった。また、鉄筋コンクリートの建物などでは爆風で窓から吹き飛ばされたガラスの破片が頭や体に突き刺さり、そのままの状態で避難の列に加わる者も多かった。

赤は全焼区域

爆心から3km以上離れた点では建物は部分的な倒壊で済んだが、この範囲にも火災が広がった。 火災は市内中心部の半径2キロメートルに集中していた家屋密集地の全域に広がった。大火による大量の熱気は強い上昇気流を生じ、それは周辺部から中心への強風を生み出し、火災旋風を引き起こした。風速は次第に強くなり18メートル/秒に達し、さらに旋風が生じて市北部を吹き荒れた。火災は半径2キロメートル以内の全ての家屋、半径3キロメートル以内の9割の家屋を焼失させた。そのなかで、爆心地から僅か700m付近で脱線し黒焦げ状態で発見された被爆電車広島電鉄650形電車651号車)が、修理改造され今もなお現役使用されているなど奇跡的に残った物もある。

[編集] 人体への短期的影響

[編集] 熱傷

着物の色の濃い所に熱線が集中したため文様が体に焼き付き火傷した女性

原爆から照射された熱線は強烈な赤外線紫外線放射線を含んでおり、約600メートル離れたところでも(瓦の表面が溶けて泡状になるという現象から)2,000度以上に達したと見られる。爆心地から1キロメートル以内では5度の重い熱傷を生じ表皮は炭化し、皮膚は剥がれて垂れ下がった。熱線による被害は3.5キロメートルの距離にまで及んだ。また熱線にて発火した家屋の火災による第2次熱傷を受けた者もいた。爆心地から1キロメートル以内で屋外被爆した者は重い熱傷のため、7日間で90パーセント以上が死亡している。爆心から20キロメートル離れた呉の海軍基地や可部地区や大野地区では、戸外に出ていた人は熱傷を負わずとも「熱い」といった温感を瞬間感じた。

[編集] 外傷

原爆の爆風により破壊された建物のガラスや木片等が散弾状となり全身に突き刺さって重傷を負ったものが続出した。戦後何十年も経過した後に体内からこのときのガラス片が見つかるといった例もあった。
また、爆風により人間自体が吹き飛ばされて構造物等に叩きつけられ全身的な打撲傷を負ったり、体への強い衝撃により眼球や内臓が体外に飛び出すといった状態を呈した者もいた。
このような全身的な被害をうけた者は大半が死亡した。

[編集] 放射能症

爆心地における放射線量は、103シーベルト(ガンマ線)、141シーベルト(中性子線)、また爆心地500メートル地点では、28シーベルト(ガンマ線)、31.5シーベルト(中性子線)と推定されている。すなわち、この圏内の被爆者は致死量の放射線を浴びており、即日死ないしは1ヶ月以内に大半が死亡した。また爆心地5キロメートル以内で放射線を浴びた被爆者は急性放射線症を発症した(参照:人体に対する放射線の影響)。

急性放射線症では、細胞分裂の周期が短い細胞よりなる造血組織生殖組織腸管組織が傷害を受けやすい。

症状は、悪心・嘔吐・食思不振・下痢発熱から始まる。さらに被爆から2週間後ごろに放射能症に特徴的な脱毛が始まる。20日過ぎごろより皮下出血斑(点状出血)、口腔喉頭病巣を生じる。また、大量の放射線により骨髄・リンパ腺が破壊され、白血球血小板の減少など血液障害を起こす。

なお、6シーベルト以上の放射線を浴びた被爆者は、腸管障害(消化管組織の破壊により消化吸収不能となる)により、1ヶ月以内に大半が死亡した。

[編集] 二次被爆

大量の中性子線は誘導放射能を生み、それにより被曝したのが二次被爆者である。原爆投下の直後に爆心地へ入市し救援活動等で数時間滞在した者は0.2シーベルト、翌日に入市し同様に活動した者は0.1シーベルトの被曝をした。

当日の上空では南東の風が吹いており、キノコ雲は徐々に北北西へ移動しやがて崩壊、日本海方面へ流れていった。このことでさらにフォールアウトにより被曝した二次被爆者が発生した。特に市北西部の南北19キロメートル×東西11キロメートルの楕円形の領域において黒い雨が1時間以上強く降っており、雨に当たったり雨で放射能汚染されたものに触れた住民は被曝した。戦後の調査研究で、黒い雨のほか広範囲で灰状の黒い粉塵の降灰が6日15時頃まであった等、市外にまで深刻な放射能汚染をもたらしていたことが判明している。また、被爆者の収容・救護にあたった者も放射能汚染された衣類や頭髪に触れて被曝する例が多かった。当時は放射能汚染の危険性を知る者は物理学者や軍関係者、医療関係者といったごく限られた者に限定されていたため、除染が殆ど実施されなかったことも影響した。

[編集] 人体への長期的影響

[編集] 熱傷・ケロイド

爆心地から2キロメートル以内で被爆した者は高度から中度の熱傷が生じたが、2キロメートル以遠で被爆した者は軽度の熱傷にとどまり、治癒に要した期間も短かった。しかし、3 - 4ヶ月経過して後、熱傷を受けて一旦平癒した部分に異変が生じ始めた。熱傷部の組織の自己修復が過剰に起こり、不規則に皮膚面が隆起し、いわゆるケロイドを生じた。ケロイドは外科手術により切除を試みても、しばしば再発した。特に年頃の女性被爆者は心に深い傷を刻み込まれた。彼女等は「原爆乙女」と呼ばれた。

[編集] 放射線症

被爆して大量の放射線を浴びた者は、白血病の発症率が増加した。発症の頂点は1951年、1952年であり、その後は徐々に発生率が下がる。広島被爆者では慢性骨髄性白血病が多く、受けた放射線の被曝線量の増加にほぼ比例する形で白血病発生率が増加している。また、若年層ほど白血病の発症時期が早かった。発症すると、白血球が異常に増加し、逆に赤血球等の他の血液細胞が減少して障害をまねく。さらに白血球の機能も失っていく。

1950年代は白血病には治療法がまだなく、代表的な不治の病の一つであり、発症者の多くが命を落とした。原爆の子の像のモデルとなった佐々木禎子は、わずか12歳で白血病のために亡くなっている。

以降は癌の発症が増加した。多臓器に繰り返し発症する例がしばしば見られ、被爆者を長期間に渡り苦しめている。これら被爆者の遺伝子染色体には異常が見られることが多く、放射線による遺伝子破壊が癌を招いている可能性も指摘されている[21]

[編集] 胎内被爆

原爆が投下された当時、母親の胎内にいて被爆したことを、胎内被爆という。胎内被爆により、小頭症を発症する者がいた。これは同年齢の者の標準に比べて、頭囲が標準偏差の2倍以上小さい場合を言う。諸説あるが、被爆時に胎齢3週 - 17週の胎内被爆者に多く発症した。小頭のほか、身体や脳に発育遅延が認められ、成人前に死亡した例もある。一般的に「原爆小頭症」と言われている。「最も若い被爆者」と言われるが、現在は皆が還暦を過ぎた年齢になり、彼らの肉親も相当の年齢に達しており、将来的な不安も多々挙げられている。

[編集] 精神的影響

原爆の手記を分析した結果によると、3人に1人が罪の意識(自分だけが助かった、他者を助けられなかった、水を求めている人に応えてあげられなかった等々)を持っていることが判明した(一橋大石田による調査)。このような自責の念により被爆者は肉体的苦痛のみならず、精神的にも苛まれ続けたのである(参照:サバイバーズ・ギルト心的外傷後ストレス障害)。

[編集] 社会的影響

これら上述してきた事象、被爆者の苦しみ、破壞し尽くされた都市の惨状は、戦後の日本においては民間の反核運動のみならず、政府レベルにおいても非核三原則などを生み出す要因の一つとなり、さらには世界的な反核運動の原動力の一つともなった[22]

また、原子力発電原子力船むつ)などといった平和的なものも含めて原子力の利用というそれ自体への強い拒否的な感情、さらに言うならば原子力や核物質それ自体に対する恐怖感と不安感を与えた。


[編集] 原爆投下の背景と経緯

詳細は「日本への原子爆弾投下」を参照

[編集] 広島市の状況

[編集] 略史と特徴

広島市の中心に立つ再建広島城
(焼失前の広島城は国宝(旧国宝=現在の重要文化財)であった)

広島市戦国時代の大名毛利輝元により太田川河口三角州城下町として開かれて以来、中国地方の中心であり続けた。江戸時代には浅野藩の城下町として栄え、明治維新後は広島県県庁所在地となり、中国地方の経済的な中心地として発展していた。

また、広島高等師範学校広島女子高等師範学校広島文理科大学広島工業専門学校広島高等学校を有する学都でもあった。

広島には軍都としての側面もあった。日清戦争時には前線に近い広島に大本営が置かれ、また臨時帝国議会も広島で開かれるなど、一時的に首都機能が広島に移転されている。これを契機として、陸軍の施設が広島に多く置かれるようになった。広島城内には陸軍第五師団司令部、広島駅西に第二総軍司令部、その周囲には各部隊駐屯地等が配置された。また宇品港に置かれた陸軍船舶輸送司令部は兵站上の重要な拠点であった。

被爆当時の市中人口は約35万人と推定されている。内訳は、(1)居住一般市民約29万人、(2)軍関係約4万人、および(3)市外から所用のため市内に入った者約2万人である。

[編集] 中島地区

民家が並ぶ被爆前の中島地区。
上端中央のT字の橋が相生橋、左右の川にかかる2つの橋は右が元安川・元安橋、左が本川・本川橋。この両橋を通る道は旧西国街道で、街道沿いは江戸時代から栄えていた。

現在の広島の地図から名前が消えた中島地区(中島本町・材木町・天神町・元柳町・木挽町・中島新町)は、数千人の一般庶民が暮らす街であり、また広島の第一の歓楽街繁華街であった。街には下町の長閑な暮らしがあり、映画館など娯楽施設もあった。木造低層家屋が立ち並んでいたこの地区は爆心から500メートル以内の爆心地にあり、原爆により街は完全に壊滅している。唯一、RC建築の燃料会館(旧大正屋呉服店)が爆風に耐え残った。

戦後、この地区は広島平和記念公園として生まれ変わることになる。燃料会館は全焼した内部を全面改築して公園のレストハウスとなり現在も残っている。


[編集] 被爆救護活動

広島市の行政機関(市役所・県庁他)は市の中央に集中し、そこは爆心地の近傍(1,500メートル以内)であったため、家屋は全壊全焼し、職員も多くが死傷し、被災直後は組織的な能力を失った。また広島城周辺に展開していた陸軍第五師団の部隊も同様に機能を喪失した。

市内の爆心地からやや遠方(4キロメートル)にあった宇品港の陸軍船舶司令部隊が被害が軽かったため、この部隊(通称「暁部隊」)が救護活動の中心となった。船舶司令部は直ちに消火艇を派遣して大火災を起こした河岸部の消火活動を始めた。特に河岸部の病院施設は火災鎮圧まで消火し、そこを救護活動の橋頭堡とした。

陸軍船舶練習部に収容され手当てを受けた被爆者は、初日だけで数千人に及んだ。また原爆の被災者は広島湾に浮かぶ似島検疫所にも多く送られている。その数は1万人にのぼったという。この船舶練習部以外にも市内各所に計11ヶ所の救護所が開設された。船舶練習部は野戦病院と改称し、救護所は最大53ヶ所まで増加した。

市内の医療関係者は9割近くが罹災したため、救援に周辺の地域(県外含む)から多くの医療救護班が入った。8月・9月の救護所収容の累計は10万人を超え、外来治療者は20万人を超えた[23]

[編集] 被爆直後の被害調査報告と報道

[編集] 第一報 8月6日

8時過ぎ、エノラ・ゲイが広島市街を目視確認する直前、広島県警所轄の甲山監視哨・三次監視哨・松永監視哨等から呉海軍鎮守府に、敵大型機(あるいはB-29)3機が広島市方面に向かうとの電話連絡があり、8時10分頃に警戒警報が発令された。陸軍中国軍管区司令部にも同様の電話連絡があり、8時13分に広島・山口両地区に警戒警報が発令された。続いて海軍の中野探照燈台・板城探照燈台や陸軍の中国軍管区司令部から呉鎮守府に続報があり、呉地区に空襲警報が発令された。高射砲陣地が戦闘配置し、対空戦闘用意の態勢に移行して高度標定機による敵機観測と高射砲弾の信管調定を開始した。また呉鎮守府飛渡瀬砲台では155mm高角砲エノラ・ゲイを有効射程内に捕捉し、射撃命令を待っていた。

中国軍管区司令部の地下壕にある作戦室の指揮連絡室では、隣の作戦室からの伝票「八・一三、広島、山口、ケ・ハ」を受け取り、学徒動員の恵美(旧姓・西田)敏枝が宇品高射砲大隊と吉島飛行場に、荒木(旧姓・板村)克子が四国軍管区司令部(善通寺)に、岡(旧姓・大倉)ヨシエが電話交換機を使って各地の陸軍司令部や報道機関に一斉に電話連絡しようとした瞬間、原爆が炸裂した(中国軍管区司令部からの警戒警報は各方面に伝達されることはなかった)。

広島中央放送局の流川演奏所では、古田正信放送員が呉鎮守府が発令した警報のメモを持って第2演奏室(スタジオ)に入った。古田が原放送所(放送休止時間のため停波中)に警報発令の合図を送り、放送所の送信機が始動した直後に原爆が炸裂、演奏所と放送所を結ぶ中継線が断線したため警報は放送されなかった。広島放送局では約40名の職員が犠牲となった[24]

広島城内にある中国軍管区司令部の地下壕は半地下式のコンクリート耐爆シェルターであったため、熱線の被害は限定的であったが、小窓から入った衝撃波によって多くの負傷者を出した。荒木と岡は一旦壕の外に脱出したが再び地下壕に戻り、荒木は四国軍管区司令部からの電話連絡を受け、岡は西部軍管区司令部(福岡)と歩兵第41連隊福山連隊)司令部に、広島空襲の第一報を電話で伝えた。

[編集] NHK原放送所

上記のごく一部を除いてあらゆる通信が途絶した広島は、被害状況報告や救援要請を行う手段を失った。しかし、広島市郊外にあるNHK広島放送局原放送所の回線は確保されていた。原放送所は同盟通信社広島支社の緊急避難先となっていたが、偶然郊外の同僚宅にいて無事だった同盟通信記者の中村敏が11時30分頃(16時の説もある)、同盟通信社岡山支社に「6日午前8時16分頃、敵の大型機1機ないし2機、広島上空に飛来し、特殊爆弾を投下、広島市は全滅した。死者およそ17万人の損害を受けた」[25]との第一報を送った。この第一報は同盟通信岡山支社経由で東京本社に届けられ、昼過ぎには大本営にも転送された。

[編集] 日本政府の声明 8月7日

6日8時30分頃、呉鎮守府が大本営海軍部に広島が空襲を受けて壊滅した旨を報告している。続いて10時頃には第2総軍が船舶司令部を通じて大本営陸軍部に報告した。加えて、昼過ぎには同盟通信からも特殊爆弾により広島が全滅したとの報を受けた大本営は、政府首脳にも情報を伝え、午後早くには「広島に原子爆弾が投下された可能性がある」との恐るべき結論が出された。夕刻には蓮沼蕃侍従武官長が昭和天皇に「広島市が全滅」と上奏した。上奏を受けた昭和天皇は顔を曇らせたという。

大本営は翌7日に原子爆弾対策委員会を開き、同日15時30分に報道発表を出した。

  1. 昨8月6日、廣島市は敵B29少數機の攻撃により相當の被害を生じたり
  2. 敵は右攻撃に新型爆彈を使用せるものの如きも、詳細目下調査中なり

この報道発表を受けて新聞各社は広島に新型爆弾が投下された旨を一面トップで一斉に報道した。

[編集] 米国政府の声明 8月7日

6日深夜(米東部標準時。日本時間7日未明)、アメリカ合衆国ワシントンD.C.ホワイトハウスにてハリー・S・トルーマン米大統領の名前で次のような内容の声明を発表した。

16時間前、アメリカの飛行機が日本軍の最重要陸軍基地・広島に一発の爆弾を投下した。この爆弾の威力はTNT2万トンを上回るものである。これまでの戦争の歴史において使用された最大の爆弾、イギリスのグランドスラム爆弾と比べても、2,000倍の破壊力がある。(中略)つまり原子爆弾である。

ポツダムで7月26日に最後通告が出されたのは、日本国民を完全な破壊から救うためであった。日本の指導者たちは、この最後通告を即刻拒否した。もし彼らがアメリカの出している条件を受け入れないならば、これまで地球上に一度も実現したことのないような破壊の雨が降りかかるものと思わねばならない。

強調引用者。

このように原爆の完成と広島空襲に用いた事を全世界に知らしめ、未だ降伏の意思を示さない日本に恐るべき警告をした。この声明は日本政府や大本営にとって広島が核攻撃を受けたのではないかという危惧が現実のものとなった事を意味した。呉鎮守府司令部もこの声明を傍受した。

[編集] 調査 8月6日 - 10日

火勢がやや収まってきた6日17時30分、呉鎮守府呉工廠調査班が入市調査を開始し、翌7日までには熱線や爆風による被害及び正確な爆心地を解析し、8日には大本営海軍部調査団と合同で「8月6日廣島空襲被害状況報告書」にて原爆の空中爆発による攻撃であると断定した。また同日、帝国陸軍参謀本部第二部長の有末精三中将を団長とした大本営調査団[26]9名が、陸軍軍医学校の教官を中心とする陸軍省広島災害調査班と共に空路現地入りした。

9日、陸軍省広島災害調査班が日本赤十字広島赤十字病院の地下室でレントゲンフィルムが全て感光していた事実を発見し、直ちに陸軍軍医学校に放射線専門家の派遣を要請している。これを受けた陸軍軍医学校は、陸軍軍医学校レントゲン教官である御園生圭輔軍医及び理化学研究所の研究者玉木英彦研究員・村地孝一研究員・木村一治研究員らを派遣して残留放射線測定や血液検査等を行った。この結果、土壌中からストロンチウム92やセシウム137が大量に検出され、被爆者に白血球減少症が多い事が分かった。後に遺体病理解剖にて被爆者を蝕む放射線がα線γ線β線中性子線である事が判明した。

10日10時、広島陸軍補給廠にて第2総軍や陸軍船舶練習部及び海軍呉鎮守府等の軍関係者や目撃者を交えた陸海軍合同検討会を開催した結果は、

(イ)彈種、通常ノ爆藥又ハ焼夷剤ニ非ズ 原子爆彈又ハ威力之ト同等ノ特殊爆彈ナルモノト認ム
(ロ)爆發位置 護國神社南方三〇〇米、高度五五〇米

(ハ)爆壓、爆心地上ニ於テ六粁/平方糎程度ト推定スルモ 尚檢討ヲ耍ス
(ニ)火傷原因 光線ノ影響ナルモ尚β線及X線ノ影響アルベシ、光線ノ持續時間ハ瞬間ニ非ザルモノノ如シ
(ホ)火災ノ原因 熱線ニ依リ引火シ易キ物質(藁、黒幕等)發火シ火災ノ原因トナルコトアリ
(ヘ)投彈法 必シモ落下傘ヲ伴ハズ

以上を直ちに政府に報告した。

[編集] 抗議声明

日本政府は抗議文をスイス政府を通じて米国政府に提出し、ラジオ・トウキョウから欧米系捕虜を用いた英語放送で広島の状況を伝えた。

本月六日米國航空機は廣島市の市街地區に對し新型爆彈を投下し瞬時にして多數の市民を殺傷し同市の大半を潰滅せしめたり。
廣島市は何ら特殊の軍事的防備乃至施設を施し居らざる普通の一地方都市にして同市全体として一つの軍事目標たるの性質を有するものに非らず、本件爆撃に關する聲明において米國大統領「トルーマン」はわれらは船渠工場および交通施設を破壊すべしと言ひをるも、本件爆彈は落下傘を付して投下せられ空中において炸裂し極めて廣き範圍に破壊的効力を及ぼすものなるを以つてこれによる攻撃の効果を右の如き特定目標に限定することは技術的に全然不可能なこと明瞭にして右の如き本件爆彈の性能については米國側においてもすでに承知してをるところなり。また実際の被害状況に徴するも被害地域は廣範圍にわたり右地域内にあるものは交戰者、非交戰者の別なく、また男女老幼を問はず、すべて爆風および輻射熱により無差別に殺傷せられその被害範圍の一般的にして、かつ甚大なるのみならず、個々の傷害状況より見るも未だ見ざる慘虐なるものと言ふべきなり。
聊々交戰者は害敵手段の選擇につき無制限の權利を有するものに非ざること及び不必要の苦痛を與ふべき兵器、投射物其他の物質を使用すべからざることは戰時國際法の根本原則にして、それぞれ陸戰の法規慣例に關する條約附属書、陸戰の法規慣例に關する規則第二十二條、及び第二十三條(ホ)号に明定せらるるところなり[27]、米國政府は今次世界の戰亂勃發以來再三にわたり毒ガス乃至その他の非人道的戰争方法の使用は文明社會の輿論により不法とせられをれりとし、相手國側において、まづこれを使用せざる限り、これを使用することなかるべき旨聲明したるが、米國が今回使用したる本件爆彈は、その性能の無差別かつ慘虐性において從來かかる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器を遥かに凌駕しをれり。
米國は國際法および人道の根本原則を無視して、すでに廣範圍にわたり帝國の諸都市に對して無差別爆撃を実施し來り多數の老幼婦女子を殺傷し神社佛閣學校病院一般民家などを倒壊または焼失せしめたり。
而していまや新奇にして、かつ從來のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性慘虐性を有する本件爆彈を使用せるは人類文化に對する新たなる罪惡なり。帝國政府はここに自からの名において、かつまた全人類および文明の名において米國政府を糺彈すると共に即時かかる非人道的兵器の使用を抛棄すべきことを厳重に耍求す。

[編集] 原爆被害報道、本格的に始まる

広島や長崎を襲った爆弾の正体が原爆であると確認した軍部は、緘口令を諦めて報道統制を解除。11日から12日にかけて新聞各紙は広島に特派員を派遣し、広島を全滅させた新型爆弾の正体が原爆であると読者に明かした上、被爆地の写真入りで被害状況を詳細に報道した。SF小説や科学雑誌等で近未来の架空兵器と紹介されていた原爆が発明され、日本が戦略核攻撃を受けた事を国民はここに初めて知ったのである[28]

なお、この原爆報道により、パニックに陥った新潟県は8月11日に新潟市民に対して「原爆疎開」命令を出し、大半の市民が新潟市から脱出した。これは新潟市も原爆投下の目標リストに入っているらしいという情報が流れたからである。原爆疎開が行われた都市は新潟市のみであった。また東京でも、単機で偵察侵入してきたB-29を「原爆搭載機」、稲光を「原爆の閃光」と誤認する一幕もあった。

[編集] 終戦の詔勅、原爆報道など

8月15日終戦の日の午前のラジオ放送で、仁科芳雄博士は原爆の解説を行った。

8月15日正午、戦争の終結を国民に告げる為になされたラジオ放送(玉音放送)で、原爆について「敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル(敵は新たに残虐な爆弾を使用して、無辜(むこ)の非戦鬪員を殺害傷害し、その悲惨な損害は本当に人間の考えの及ばない程である。)」と詔があった。

正確な犠牲者数等は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)占領下では言論統制され、日本が主権を回復した1952年に初めて報道された。

[編集] その後の広島

[編集] 終戦

  • 8月9日、長崎市原爆が投下され、数万人が死亡した。これは広島に投下されたウラニウム型とは異なるプルトニウム型(ファットマン)であった。同日、ソ連が日ソ中立条約を破棄、日本へ宣戦布告し、満州へ侵攻を開始する。またこの日、広島電鉄市内線の一部区間が運行を再開している。
  • 8月10日、大阪から来たカメラマン宮武甫が被爆の惨状を撮影する。
  • 8月14日、御前会議においてポツダム宣言受諾が決定され、日本政府は連合国に受諾を伝える。
  • 8月15日、玉音放送。国民への終戦の告知。
  • 8月28日、連合国占領軍上陸。
    終戦とGHQ/SCAP支配により、軍は武装解除し、兵の復員が開始された。広島の被爆者救護を担ってきた暁部隊も解体し、救護活動は自治体に移管された。しかし戦時災害保護法(1942年制定)の規定により救護期限は2ヶ月と定められていたため、10月上旬に救護所は閉鎖されてしまう。
  • 9月8日、米国による原爆災害調査が開始される。活動は1947年発足の原爆傷害調査委員会(ABCC)の母体、また後の放射線影響研究所となる。
  • 9月19日、朝日新聞派遣のカメラマン松本榮一が被害の様子を撮影する。
  • 9月19日、GHQ/SCAPよりプレスコード発令。原爆被害に関する報道は禁止される。
  • 9月下旬、日本映画社により原爆被害の撮影が開始される。撮影は中途から米軍の管理下となる。映像は1946年4月に"The Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki"として完成後、フィルムを米軍に没収された[29]
  • 9月17日、被爆で壊滅状態の広島を昭和の三大台風のひとつの枕崎台風が襲った。広島県の死者・行方不明者合計は2,000名を超える大惨事となっている。

    詳細は「枕崎台風」を参照

[編集] 戦後

平和への祈りが込められた折り紙
  • 1946年1月、広島市復興局が開設。しかし資金難により復興進まず。
  • 1948年10月、広島流川教会の牧師谷本清が渡米。15ヶ月間に渡り31州256都市で広島の惨状を訴える講演活動を行う。
  • 1949年8月6日、広島平和記念都市建設法が制定。復興への前進となる。
    9月、広島市中央公民館に原爆参考資料陳列室が設置され、原爆瓦等の展示が始められる。
  • 1951年、広島原爆傷害者更生会結成。
    100m道路が平和大通りと名付けられる。ただし、この時点では単なる「荒れた広野」状態だった。
  • 1954年、爆心地周辺が広島平和記念公園として整備。
  • 1954年2月28日、アメリカがビキニ環礁ナム島で水爆実験『キャッスルブラボー』作戦を行い、日本の漁船第五福竜丸等が被曝した。原水爆禁止運動が起こる。
  • 1955年平和記念資料館が開設。第1回原水爆禁止世界大会開催。原爆乙女らが最長1年半に渡り滞米、マウントサイナイ病院においてケロイドの治療を受ける。
  • 1956年、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)結成。援護法要望運動の開始。
  • 1957年、原爆被爆者の医療等に関する法律(原爆医療法)が制定されたが、極めて限定的な内容。
  • 1958年4月、広島復興大博覧会が開催される。
    原爆症で死亡した佐々木禎子をモデルにした原爆の子の像が平和記念公園内に完成。
  • 1960年、原爆医療法の改正。
  • 1963年東京地方裁判所が「原爆投下は当時の国際法に違反する」旨の判決。
  • 1968年、原爆被爆者に対する特別措置に関する法律(被爆者特別措置法)が制定。
  • 1975年10月31日、昭和天皇が「広島への原爆投下は遺憾には思うが、戦争中のことでありやむを得なかった」と発言[30]
  • 1992年9月、広島市議会原爆ドーム世界遺産リスト登録を求める意見書が採択。
  • 1993年、原爆ドームの世界遺産化をすすめる会が発足。全国で165万人の署名を集め、国会請願を行う。
  • 1994年、被爆者念願の被爆者援護法が戦後50年でようやく制定。
  • 1995年6月、原爆ドームが文化財保護法の国の史跡に指定される。
  • 1996年12月、原爆ドームが負の遺産としてユネスコ世界遺産に登録。
  • 1999年、爆心地に近い市立袋町小学校の校舎の建て替え工事にあたる壁の検査をしていたとき、壁が剥がれ落ち、そこに文字が発見された。それは被爆後、この校舎は鉄筋で立てられていたため校舎は焼け残り、被爆して怪我をした人の救援所になっており、そこにこの学校の教師児童の安否を調べるために壁にチョークで伝言を書いたものだったと調査で分かった[31]
  • 2002年、被爆者を追悼する国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が開館。

[編集] 広島原爆をテーマとした作品

詳細は「広島原爆をテーマとした作品」を参照

[編集] 脚注

  1. ^ 原爆戦災誌
  2. ^ 広島市および日本では、原爆の爆発時間を午前8時15分とすることが一般的だが、米軍資料や諸外国の歴史などでは投下時間に落下時間を加えた16分を公式な爆発時間としていることが多い。ここでは、日本で一般的に認められている15分とする。
  3. ^ http://www.rerf.or.jp/general/qa/qa1.html
  4. ^ "Timeline #2- the 509th; The Hiroshima Mission" Atomic Heritage Foundation. 2009年10月確認
  5. ^ ヴィクターナンバー#82
  6. ^ 現在のテニアン島ハゴイ飛行場にあたる
  7. ^ この7分後に広島では空襲警報が発令されている。
  8. ^ (この迎撃の背景情報)日本軍戦闘機は高高度性能に劣り、ターボチャージャーや与圧キャビンを装備して成層圏を飛行する「空の要塞」B-29に対して戦闘機動を行うのは極めて困難であった。ただし、エノラ・ゲイ号に関しては尾部砲塔以外の防御火器を廃止して9,000ポンドの原爆を搭載しており、鈍重で無防備な状態だった。この為、低空飛行では日本軍戦闘機や高射砲により撃墜される危険が大きかった。
  9. ^ 電文は「00V670 V 21V675 - 0522[**]Z BT Y3Q3K[*]B2Z[*]X[*]C1R[*] BT IMI 00V670 V 21V675 - 0522[**]Z BT Y3Q3K[*]B2Z[*]X[*]C1R[*] BT AR」(第313航空団対空地上局(在テニアン)、(こちらは)第1目標気象観測機、グリニッジ標準時(8月)5日22時[**]分、本文、低い雲:雲量4-7/10で小さい、中高度の雲:雲量4-7/10で薄い、雲頂高度:[*]、高い雲:雲量1-3/10で薄い、雲底高度:[*]、雲頂高度:[*]、助言:第1目標を爆撃せよ、透明な空気中の視界:[*]、本文終わり、繰り返し(以下略))。なお、[ ]の部分は不詳。
  10. ^ 投下目標の気象報告の方法については、第20航空軍の野戦命令13号に明記されている。
  11. ^ 白井久夫『幻の声 NHK広島8月6日』(1992年、岩波書店)、ISBN 4-00-430236-6
  12. ^ 原爆の第一報を伝えた新聞の見出しでも『落下傘つき』とあり、新型爆弾(原爆)は一発でなく少数の爆弾の投下による被害と報じられている(参照1945年8月8日付朝日新聞)。また戦後発表された原爆を題材とした作品においても原爆に落下傘をつけて投下している描写があり(はだしのゲン等)、多くの人間に誤解を招いていた。
  13. ^ 中国軍管区司令部地下壕運命の時より
  14. ^ "Timeline #2- the 509th; The Hiroshima Mission". Children of the Manhattan Project. 2006/10/09にオリジナルからアーカイブ。2009年10月に確認。
  15. ^ 音速は温度に依存するため、真夏の気温30℃を想定した音速を記した
  16. ^ 質量M、風速V、空気の密度ρ、風があたる面積Sならば、エネルギー E = (1/2)MV2 = (1/2)ρSV3
  17. ^ 戦争末期の当時は成年男子の多くが徴兵されたため、路面電車の運転手を女学生も勤めていた。(堀川恵子、小笠原信之『チンチン電車と女学生』)
  18. ^ 被爆直後のキノコ雲の中から生存者が生還したのはまさに奇跡というほかない。この燃料会館からの脱出に成功した者は8名いたが、この男性以外の生存者の消息は現在でも不明で、大量被曝による急性放射線障害で間もなく全員死亡したと考えられている。
  19. ^ 広島戦災誌2巻
  20. ^ 米軍捕虜の存在は、当時の日本軍関係者や被爆者の証言から米国側もその事実を確認していたが、被爆死した米兵の存在を公表していなかった(一説には、米国内で広島・長崎への原爆投下に対する否定的な意見や、核兵器廃絶の意見が広まることを恐れたからといわれている)。近年、日本国内において被爆体験や被爆者の名前を調査検証・保存する活動が広まり、その結果明らかにされた被爆死した米軍兵士遺族の調査活動により、米国兵士の被爆死者がいた事が米国内でも公になった。なお被爆死した米兵の遺影は国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に納められている。また地方史研究家(自身も被爆者)の手によって原爆犠牲米軍人慰霊銘板が基町の陸軍中国憲兵隊司令部跡地のビルに1998年に設置された(参照:西広島タイムス)。この米軍捕虜は7月28日に広島と山口に墜落した米軍爆撃機B-24(タロア号・ロンサムレディ号・その他)の乗組員であり、憲兵隊司令部がある広島市に移送された直後の被爆であった。なおロンサムレディ号の機長トーマス・カートライトは東京に再移送されたため無事であり、1999年に慰霊のため広島を訪れている。カーライトは回想録『爆撃機ロンサムレディー号-被爆死したアメリカ兵』(ISBN 978-4140808887)を記している。また被爆米兵は、NHK特集「爆撃機ローンサム・レディ号〜広島原爆秘話〜(1978年)」などで報道されている。
  21. ^ ただ、被爆後現在まで健康である者もおり、個人差があることから、後遺障害を疑問視する向きもある。がんのメカニズムが不明なため、今後の研究が待たれる。なお、現在日本政府が行なっている被爆者医療や被爆二世などの健康調査は、米戦略爆撃調査隊の研究を引き継いだ米軍とその協力機関により、「人間モルモットたちによる軍事研究」の資料として研究活用されていることは、あまり知られていない。
  22. ^ その為、冷戦時代はアメリカの核の傘によって守られる格好となった日本であるが、アメリカ軍の立場から見た場合、日本国内に置いた基地・施設に核兵器を表向きは全く持ち込む事ができないなど、自ら投下した核兵器の影響により、冷戦時代以降の極東地域での核兵器の運用において少なからぬ制限と支障を強いられる事になった。
  23. ^ 軍部の指導で行われた被爆者の臨床検査では白血球減少症が見られた為、L-システインを投与して症状の緩和に成功している。 - このシステイン云々の情報の出典不明
  24. ^NHK広島放送局から被爆直後に女性の声で「大阪さん、大阪さん」とNHK大阪放送局に向けて助けを求めるラジオ放送を聞いた」という証言が多数存在する。この証言については、放送プロデューサーの白井久夫によって詳細なルポルタージュが以下の書籍にまとめられている。
    白井久夫・著 『幻の声 -- NHK広島8月6日』 (岩波新書 新赤版 236) 岩波書店 1992年7月 ISBN 4-00-430236-6
  25. ^ 通報の内容は記憶によるため、伝聞により揺らぎがある。また、この時点で死者数の推定ができるかどうか疑問も残る。
  26. ^ 理化学研究所仁科芳雄博士をはじめとする日本の原子爆弾開発計画「ニ号研究」のスタッフらを含んだ、原子物理学の専門家達であった
  27. ^ ハーグ陸戦協定
  28. ^ 原爆報道は戦後になって連合国軍最高司令官総司令部によって禁止されたのであるが、被爆直後の広島からの生々しいルポは、戦時中のプロパガンダを含むにせよ資料的価値は大きい。
  29. ^ なおこのフィルムは1967年に米国国立公文書館にコピーが収められた後パブリックドメイン扱いとなり、映像の断片が様々な報道や作品に繰り返し引用されることになる。
  30. ^ 訪米から帰国後の記者会見。日本記者クラブ「特記すべき記者会見」天皇・皇后記者会見 1975年10月31日
  31. ^ その後、この出来事はニュースで取りあげられ、さらにその年の夏、伝言を書いた教師とその児童が54年振りに再会し、話題を盛りあげた。現在この壁は、袋町小学校平和記念資料館に保存されている。この記事が現在、三省堂出版の中学2年の国語教科書「現代の国語2」に載っている。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

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最終更新 2009年11月24日 (火) 12:43 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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