後閑信一
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| 後閑信一 Shinichi Gokan |
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| 個人情報 | |
| 本名 | 後閑 信一 ごかん しんいち |
| 愛称 | ジャパニーズ・ボス |
| 生年月日 | 1970年5月2日(39歳) |
| 国籍 | |
| 身長 | 176cm |
| 体重 | 90kg |
| チーム情報 | |
| 所属 | 日本競輪選手会東京支部 |
| 分野 | 競輪 |
| 役割 | 選手 |
| 特徴 | 追込・捲り |
| アマ所属チーム | |
| 1986-1989 | 前橋育英高等学校 |
| プロ所属チーム | |
| 1990-2007 2007- |
日本競輪選手会群馬支部 日本競輪選手会東京支部 |
| 主要レース勝利 | |
| 競輪祭 2005 寛仁親王牌 2006 共同通信社杯競輪 1996、2001 |
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| 最終更新日 | |
| 2008年10月21日 | |
後閑 信一(ごかん しんいち、1970年5月2日 - )は、群馬県前橋市出身の競輪選手 。日本競輪学校第65期卒業。現在は日本競輪選手会東京支部所属。ホームバンクは京王閣競輪場。初出走は1990年4月7日の小倉競輪場。初勝利は同年4月9日。血液型はB型。選手登録番号12172。
目次 |
[編集] 戦績
前橋育英高等学校在学中より自転車競技を行っており、1988年の京都国体でスプリント競技に優勝するなど数々の実績を上げ、日本競輪学校に65期生として入学。卒業後は前橋競輪場を本拠地とする群馬の選手としてデビューすると、吉岡稔真らが名を連ねる強豪揃いの同期の中でも実力を発揮し、1996年と2001年に2回共同通信社杯競輪を優勝したが、長い間GIだけは優勝できず不思議がられていた。
しかし2005年の第46回競輪祭朝日新聞社杯争奪競輪王決定戦において、盟友・神山雄一郎の助けを借りる形で優勝し、初のGIタイトル獲得を成し遂げた。その年のKEIRINグランプリ05では優勝賞金1億円に目もくれず、武田豊樹 - 神山雄一郎の3番手につけ、神山に恩を返す形で関東ラインの援護射撃に徹する雰囲気であったが、結果は小嶋敬二の捲りを阻止するなどしたものの、自身が2着入線して賞金2千万円を獲得し、しかもゴール直後に優勝を確信して手を挙げてしまった。
2006年は地元開催の寛仁親王牌にて後輩・手島慶介の力を借りてGI2勝目を果たし、堂々と2年連続でKEIRINグランプリ06に出場したが、このレースでは手島への追走に失敗してしまい、 昨年の不名誉を晴らすことはできなかった。
なお2007年10月11日付で群馬から東京に移籍したが、『家族の生活』を理由にしている。
[編集] 主な獲得タイトル
- 2005年 - 競輪祭朝日新聞社杯争奪競輪王決定戦(小倉競輪場)
- 2006年 - 寛仁親王牌・世界選手権記念トーナメント(前橋競輪場)
[編集] 競走スタイル
デビュー当時は先行もしていたが、現在は追込戦法を主体としており自力での捲りも兼備している。しかし真骨頂は自分の前で先行する選手の援護のために動き回ることで、位置の主張において競輪道を重視した人情味溢れる人物である。特に神山雄一郎との連係は有名で、過去幾度と無く結果を問わずお互いがお互いのためのレースを行なった事で知られる。
競輪界を代表する追い込み選手の一人であるが、群馬時代にはレースで同乗した同県・同地区の選手から挑戦を受けることが度々あり[1]、直近まで施行者もそのあたりを配慮していたのか、意図的に同じレースへ同乗させることは見られなくなっていた。
[編集] エピソード
- 人物評として、いかつい顔をしているのでとっつきにくい印象を持たれているが、彼をよく知る予想紙記者などの競輪マスコミ関係者やファンからは、話せば非常に「いい人」であると言われている。インタビューなどでも極めて真面目で礼儀正しい。また、並の選手が同じメニューをこなせば間違いなく嘔吐すると言われるほどの厳しい練習を自己に課する「努力の人」である。
- 京王閣競輪場の実況アナである岩井憲一が、2007年6月に同競輪場で開催された国際競輪において、同レースに参加していた世界王者のテオ・ボスの「ボス」という名前をもじって、後閑のことを『ジャパニーズ・ボス』と呼んだ。これは後閑の風貌にちなんでつけたと考えられるが、このことがあってからボスというあだ名が定着した。
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
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最終更新 2009年9月22日 (火) 05:47 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【後閑信一】変更履歴

