日系人の強制収容
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日系人の強制収容(にっけいじんのきょうせいしゅうよう)とは、第二次世界大戦時において大日本帝国の対戦国であった連合国の一員であるアメリカ合衆国政府によって行われた、日系アメリカ人や日本人移民と、連合国の1国でアメリカの影響下にあったペルーやブラジルなどのラテンアメリカ諸国の連合国やイギリス連邦に在住する日系人と日本人移民に対する強制収容所への収監政策である。
目次 |
[編集] 起源
[編集] 増大する日系人差別
アメリカは建国以来、ヨーロッパから移民としてやってきた白人が支配していたが、19世紀後半に労働移民として渡ってきた日本人移民の多くがカリフォルニア州を中心とした西海岸地域やハワイに住み着いた。日本人移民の多くは他の有色人種の移民と違い教育程度も高く、移民後に土地を購入し自作農として成功するものや、事業を興し白人をしのぐ規模の成功をするものも多かった。
19世紀後半から20世紀初頭にかけて日本からアメリカへの移民数は増加の一途を辿った上、上記のようにアメリカにおいて経済的成功を続ける日本人移民と、日露戦争以降に国際的影響力を増大させた日本そのものに対して白人至上主義的な白人は危機感を抱き、日本人移民による土地所有を禁止する「カリフォルニア州外国人土地法」(1913年)や、日本人移民を制限する「排日移民法」(1924年)などの、日本人移民と日系アメリカ人のみをターゲットにした法律を矢継ぎ早に成立、施行させた。
これらの日本人移民と日系アメリカ人のみをターゲットにした法律の施行は、日本人移民と日系アメリカ人への人種差別を助長させる結果となった上、1930年代に入ると、日本が中国大陸や東南アジアなどにおいてアメリカと権益を巡り衝突することも多くなり、アメリカにおける対日感情、そして日本人移民と日系アメリカ人に対する感情は悪化の一途を辿ることとなった。
[編集] 日系人に対する監視
この様な状況下で、日本人に対する差別感情が強いことで知られた[1]フランクリン・D・ルーズベルト大統領は、日系人人口が多いハワイにおける日本側の情報活動に危機感を抱き、1936年に作戦部長にあてられた覚書で「わたしに明確な考えが浮かんだ。日本の船舶と乗組員に接触するオアフ島の日系人の身元を極秘に洗い出し、有事に際して強制収容所に最初に送り込む特別リストに氏名を記載しておくべきだ」と提案している。[2]
なおこの時点では、大日本帝国陸軍による中華民国への軍事行動(日中戦争の開戦)やフランス領インドシナへの進駐はおろか、ヨーロッパにおける第二次世界大戦さえも勃発していない状況であった。
その後、1937年7月に行われた大日本帝国陸軍による中華民国への軍事行動に対する通商航海条約の継続停止措置。1940年9月に行われたフランス領インドシナ北部への進駐に対するアメリカ国内の日本人資産の凍結と貿易制限。さらに1941年7月に行われたフランス領インドシナ南部への進駐に対する8月1日の大日本帝国への石油の全面禁輸に踏み切るなど、日米間の関係が緊迫度を増した。日米間における開戦が危惧される中、同年11月にアメリカ政府は国内に在住する日系アメリカ人および日本人名簿の作成を完了した。
その後アメリカが12月8日(アメリカ時間では12月7日)に大日本帝国海軍(以下日本海軍)艦隊によって行われた真珠湾攻撃をきっかけに、日本や日本を追ってアメリカに対して宣戦布告を行ったドイツ、イタリアなどの枢軸国と戦争状態に入った後、アメリカ政府はアメリカ本土及び友好国がその大半を占める中南米諸国に住む、枢軸国の国家をルーツに持つ日系アメリカ人と日本人、ドイツ系アメリカ人とドイツ人、イタリア系アメリカ人とイタリア人に対して「敵性市民」としての監視の目を向けることになった。
なお、開戦前にルーズベルト大統領の命により日系アメリカ人および日本人の忠誠度を調査したカーティス・B・マンソンは「90パーセント以上の日系2世は合衆国に対して忠誠であり、日系人より共産主義者の方が危険である」と報告していた[3]。しかしながら、原田義雄ら2人の日系アメリカ人が、捕虜となった日本海軍のパイロットの西開地重徳一飛曹の脱走を手助けをした「ニイハウ島事件」や、真珠湾攻撃の計画を手助けをした日系アメリカ人のリチャード・コトシロド等の例が、日系アメリカ人に対する批判的な論調を後押しすることになる。
なお、この様な反逆的な事例、もしくはそれを疑わせるような事例は、ドイツ海軍の潜水艦「Uボート」によりアメリカ東海岸沿岸やメキシコ湾沿岸からアメリカ国内に送られたスパイへの、ドイツ系アメリカ人による支援に対する疑い[4]など、大戦中を通じてドイツやイタリア系アメリカ人にも複数見られた。
[編集] 強制収容計画の推進
[編集] 軍統制の模索
カリフォルニア州の防衛に責任のあったアメリカ陸軍ジョン・L・ドゥウイット中将やアレン・W・ガリオン憲兵司令長官は、かねてから日本軍の本土進攻に備えた文民統制から軍統制への方法を模索していた。しかし、民間出身であるヘンリー・スティムソン陸軍長官が軍統制に対して興味を示さなかったため、彼らは独自の計画によりカリフォルニア州を含むアメリカ西海岸の軍統制の道を模索していくことになった。
[編集] 人種差別的感情の暴走
その様な状況下で、日本による真珠湾攻撃とその後の日本軍によるアメリカ本土侵攻が現実味を帯びてきたことを受け、真珠湾攻撃が行われてから数週間が過ぎた12月30日にフランシス・ビドル法務長官は、日本国籍を持つ日本人移民の家のみならず、少なくとも居住者の1人が「敵性外国人」である日系アメリカ人の家を、令状なしに捜査するという権限を与えたことで、憲法修正4条はもはや適用されない趣旨を提言した。なお、これらの動きは、カリフォルニア州のカルバート・オルソン知事や、自らの人種差別的な感情を元に「日系アメリカ人はアメリカの価値観や伝統になじもうとせず、受け入れようともしない」とこきおろし、さらに「日系アメリカ人がまだ破壊活動を行わないのは、攻撃開始予定時間を待っているからだ」と根拠に欠ける支離滅裂な理論を主張したカリフォルニア州のアール・ウォーレン検事総長[5]も支持した。
ドゥウイット中将はこの頃、「現時点で日系人による破壊行為が行われていないという事実こそが、今後日系人による破壊行為が行われる兆候である」という、ウォーレン検事総長と同様の根拠に欠ける支離滅裂な理論や、「アメリカ国籍を持っていようが持っていまいが、ジャップの(アメリカに対する)忠誠心を信用することはできない」というような人種差別をむき出しにした主張をしてまで、軍統制を正当化しようとした。しかし日本に対する憎しみと、黄色人種に対する人種差別が横行していた当時のアメリカでは、この様な異常な主張に対しての批判や反論を行うものは皆無であった。
ガリオン長官率いる陸軍憲兵司令室は、戦時下における文民統制を主張する司法省との競合のなかで、カール・R・ベンディッツェン陸軍少佐を太平洋沿岸州に送り込み、ベンディッツェン少佐を通すことで、ジョージ・C・マーシャル陸軍参謀総長を無視して「敵性外国人」の「強制収容所(Concentration Camps)」への強制収容を秘密裏に計画することになった。
[編集] 日本軍本土上陸への恐怖
1941年12月から1942年の秋にかけては日本海軍によるアメリカ本土砲撃やアメリカ本土空襲がおこなわれた。なお、日本海軍による同時期における怒涛の進撃と、アメリカ軍を含む連合国軍の度重なる敗退、そしてこれらの度重なるアメリカ本土への攻撃を受けて、それに続くアメリカ本土への侵攻計画は当時「可能性が非常に高い」と分析されており、実際に開戦直後にルーズベルト大統領は日本軍によるアメリカ本土への上陸を危惧し、陸軍上層部に上陸時での阻止を打診するものの、それに対して陸軍上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として、日本軍を上陸後ロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討していた[6](なお、実際に開戦後数週間の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸や空襲を伝える誤報が陸軍当局に度々報告されていた)。
開戦直後、サンフランシスコやロングビーチ、サンディエゴ等の西海岸の主要な港湾では、日本海軍機動部隊の襲来を恐れて潜水艦の侵入を阻止するネットや機雷の敷設を行い、その他の都市でも爆撃を恐れ、防空壕を作り、防毒マスクの市民への配布などを行った。
事実、1941年12月の開戦以降、日本海軍の乙型潜水艦9隻がアメリカ西海岸沿岸で通商破壊作戦に従事し、アメリカやカナダの輸送船に魚雷攻撃や砲撃を加え、エミディオ号をはじめ10数隻に撃沈、挌座、制御不能などの多数の損害を与えた。またクリスマス・イヴには、北太平洋で作戦活動に従事していた日本海軍の艦艇10隻程度によるサンフランシスコへの砲撃が予定されていたが、日本海軍司令部が「クリスマス位は静かに送らせてやれ」という態度を取ったために、最終的に中止するに至った(なおこの理由には諸説ある)[7]。
大都市部のロサンゼルスやサンフランシスコへの砲撃こそ行われなかったものの、開戦から3ヶ月を経た1942年2月24日には、カリフォルニア州サンタバーバラ近郊の海岸沿いにあったエルウッド石油製油所を日本海軍の乙型潜水艦「伊号第一七潜水艦」が砲撃し施設を破壊し、帰途にタンカー1隻と輸送船1隻を撃沈したほか、翌日には、ロサンゼルス近郊においてアメリカ陸軍が、同海軍の気象観測用気球を日本軍の航空機と誤認し、多数の対空砲火を行った「Battle of Los Angeles(ロサンゼルスの戦い)」が発生した。この事件に関してアメリカ海軍は「日本軍の航空機が進入した事実は無かった」と発表したが、一般市民は「日本軍の真珠湾攻撃は怠慢なアメリカ海軍の失態」であり、過剰なほどの陸軍の対応を支持するほどであった。
また、当初は軍統制に興味を示さなかったスティムソンは、日本海軍による太平洋沿岸部への空襲を「戦争開始後一ヶ月の間に行われる可能性は高い、そして日系人がそれに重要な手助けをする危険性は払拭できない」と証言し、西海岸区域の軍統制を後押しした。
[編集] 「大統領行政令9066号」への署名
その後もアメリカ軍を含む連合国軍が、アジアや太平洋、インド洋などにおける日本軍との戦いにおいて敗退の一途をたどっただけでなく、同月には日本海軍艦艇によってカナダのバンクーバー島のカナダ軍施設に対する砲撃が行われた負傷者を出した他、上記のような西海岸沿岸におけるアメリカやカナダ船舶に対する度重なる日本海軍の潜水艦による攻撃などもあり、その後も変わらず「日本軍によるアメリカ本土上陸が近い」、「日本軍による空襲が行われる」と噂され、政府上層部がその対応に追われるなど、アメリカ人の反日感情はピークに達していた。これらの流れに勢いづいた陸軍省は、西海岸地域一帯における軍統制を実現するためにまず司法省を説き伏せようと、様々な手を使って司法省とホワイトハウスに働きかけた。またこの様な働きかけに対して、戦時下という非常時におかれていた司法省も法の理念を守り通すことができなかった。
こうして1942年2月19日に、当時中国大陸において日本軍と対峙していた連合国の一国である中華民国の指導者である蒋介石、そして蒋介石の妻の宋美齢とも親しい「親中派」であり、その反動として反日感情が差別的なまでに強いことで知られた[8]フランクリン・D・ルーズベルト大統領は、「大統領行政令9066号」に署名を行い、「軍が必要がある場合(国防上)に強制的に『外国人』を隔離する」ことを承認した。
なおルーズベルトは、日本人へ対して強い人種差別感情を持っていたことで知られ、実際に、第二次世界大戦中にイギリスのロナルド・キャンベル駐アメリカ公使がイギリス政府へ行った報告によると、ルーズベルトは「人種間の差異を重視し、人種交配によって文明が進歩する」と信じていたという。「インド系やユーラシア系とアジア人種、欧州人とアジア人種を交配させるべきだ。だが日本人は除外する」とキャンベルに語ったという[9]。
またデイヴィッド・ロウマンアメリカ国家安全保障局特別顧問は自著で日本が使用していたパープル暗号を解読して得た情報(マジック情報)が日系人を強制収容する必要性の証拠となったと主張した。多数の日系人を起訴すれば証拠としてマジック情報を公開する事になり、それにより日本が暗号が破られている事に気付く事を恐れたルーズベルト大統領は、大統領行政令9066号に署名し証拠を提示せずに日系人を強制収容する策を選んだのだと結論づけた[10]。
[編集] 日系人だけに対する仕打ち
なお、この法令は「すべての敵性外国人に向けたもの」とされ、実際、施行当初においてアメリカ国内で一時的に強制収容された半数以上は日系アメリカ人であったが、残りは日米間の開戦直後にアメリカに対して宣戦布告を行ったドイツやイタリア系のユダヤ系を含む移民とその子孫であった[11]。さらにアメリカが「アメリカの裏庭」と一方的に考え、経済、政治的に大きな影響力を持っていたメキシコやペルー、コロンビアなどの中南米諸国でも、日系人のみならず、ドイツ系やイタリア系のユダヤ系を含む移民とその子孫が一時的に強制収容された[12]。
しかしその後、アメリカをはじめとする連合国軍の敗走に勢いづいた日本海軍の乙型大型潜水艦による、1942年2月のカリフォルニア州南部のサンタバーバラ市近郊の製油所やカナダ沿岸に対する砲撃や、9月の伊号第二五潜水艦の搭載機零式小型水上偵察機によるアメリカ本土空襲と同じく、日本の同盟国のドイツ海軍の潜水艦によるアメリカ東海岸沿岸やメキシコ湾における連合国の民間船に対する通商破壊作戦、ドイツ軍のスパイによるアメリカ国内におけるテロなどの破壊行為が多数行われ、多くの被害や犠牲者が出ていた[13]にもかかわらず、在米ナチス党員(傘下のアメリカ・ナチス党党員を含む)やファシスト党員など本国政府との結びつきが強く、スパイ行為やテロなどの破壊行為などに携わる可能性が高いと思われるもの以外の殆どのドイツ系やイタリア系移民とその子孫は速やかに釈放された[14]。
しかし、速やかに自由の身となったこれらのヨーロッパ系白人種の移民とその子孫とは対照的に、黄色人種である日本人移民と日系アメリカ人については、逆にそのほぼ全てが釈放されないままであった[15]。その上にこの行政令はその後、カリフォルニア州やワシントン州、オレゴン州などのアメリカ西海岸沿岸州と準州のハワイ地域に住み、日本人の血が16分の1以上混ざっている日系アメリカ人と、アメリカ国籍を持つ移民一世、市民権が与えられない(あるいは剥奪された)日本人のみに対する強制立ち退きと「戦時転住センター」への強制収容に発展した。
また、対日戦開戦以前よりアメリカ軍に従軍中の日系アメリカ人は強制収容こそされなかったが、半ば強制的に除隊させられ「敵性外国人」とみなされたり、軍隊内でそれまで以上の酷い人種差別を受けるなどの憂き目を見た。
[編集] 日本人外交官、駐在員への扱い
なお、開戦後に日系アメリカ人や日本人移民と同じくアメリカ当局によって抑留された、アメリカとアメリカの影響圏の中南米諸国に在留、駐在していた外交官や大企業の駐在員、宗教関係者や留学生などの日本人は、その後日系アメリカ人や日本人移民に対して行われた強制収容の対象とはならず、アメリカ内陸部の保養地などに「軟禁」され、(あえてアメリカへの残留を望んだものを除いては)その後1942年から1943年にかけて2回に渡り日米間で運行された交換船により帰国させられた[16]。
なおこの際、同じく日本国内とアメリカの植民地であったフィリピンやイギリスの植民地であったマレー半島、オランダの植民地であったインドネシアなどの日本が占領下においていた地域、及びタイや満州国などの日本の同盟国や、朝鮮半島や台湾島などの日本の植民地に在留、駐在していたアメリカ人外交官や企業駐在員、留学生も、同じく交換船によりアメリカに帰国した。
[編集] 強制収容の実施
[編集] 日系アメリカ人と日本人移民
大統領行政令9066号が発令された後の1942年2月下旬から、カリフォルニア州やワシントン州、オレゴン州などのアメリカ西海岸沿岸州と準州のハワイからは一部の日系アメリカ人と日本人移民約120,000人が強制的に完全な立ち退きを命ぜられた。
なお、議会ではアメリカ本土の議員(準州であるハワイからの議員はいなかった)から全てのハワイ諸島在住の日系人と日本人移民の強制収容を支持する声も挙がったが、ハワイでは既に戒厳が宣告されており、スパイ行為や破壊行為の抑止は十分できると考えられた上、また、当時のハワイ諸島には住民の約35%以上である約15万人の日系人が住んでおり、強制収容するには現実的に無理があったこともあり、ハワイ諸島では約1000人以上の日系人と日本人移民、約100人のドイツ系アメリカ人とイタリア系アメリカ人が、アメリカ本土もしくはハワイの8箇所に設置された強制収容所に送られるに留まった[17]
最終的に同年3月29日をもって対象地域に住む日系人に対し移動禁止命令が下り、それ以前に自ら立ち退いた一部の人間を除く多くの日系人は、地元警察とFBI、そしてアメリカ陸軍による強制執行により住み慣れた家を追い立てられ、戦時転住局によって砂漠地帯や人里から離れた荒地に作られた「戦時転住所」と呼ばれる全米10ヶ所の強制収容所に順次入れられることになった。しかし、強制収容所の建設工事が間に合わなかったため、一部の人は一時的に16ヶ所に設けられた「集結センター」に収容されたが、その内のいくつかは体育館や競馬場の馬舎(サンタアニタパーク競馬場もその一つ)であった。
当然のごとく彼らは何の補償も得られず、家や会社、土地や車などの資産を安値で買い叩かれ、これまで従事していた仕事も失うことになった。中にはすべての財産をこの強制収容によって失ってしまった人もいた[18]。
[編集] 南米諸国の日系人と日本人移民
開戦当時、ペルーやブラジル、メキシコやコロンビアなどのラテンアメリカ諸国の殆どはアメリカの強い政治、経済、さらに軍事的影響下にあり(モンロー主義)、その殆どが連合国として参戦するか、もしくは連合国よりの政策を取っていた。そのような中で1942年4月18日に、ペルーの首都・リマのアメリカ大使館からジョン・エマーソン書記官(後の駐日特命全権大使)が国務省あてに「ペルーの日系人が危険である」と報告した。
この様な報告を受けて1942年12月から1945年にかけてこれらの中南米諸国家に対して出された、日系人及び日本人移民のアメリカへまたは現地の強制収容要請により、ペルーやボリビアなどの中南米13カ国で、アメリカ合衆国大使館が「日系人社会に影響力がある」という戦争とは関係のない理由で指定する日系人及び日本人移民を現地の国家の警察の協力によって逮捕し、アメリカ海軍の艦艇でアメリカに連行された。「正規の入国手続きを経ていない不法入国」という根拠に欠ける理由を元に逮捕し、テキサス州クリスタルシティの移民労働者用のキャンプに強制収容された。一部についてはアメリカ軍兵士の捕虜と戦時交換船により交換された。
また、ブラジルではジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領の独裁体制下で、ブラジル文化に同化しない日系ブラジル人に対する弾圧が1930年代を通して進み、アメリカ合衆国の上述のような姿勢と相まって、戦中の日系ブラジル人は非常に厳しい立場に立たされた。
最終的にアメリカ政府は、のべ13カ国に住む2264人の日系人及び日本人移民をアメリカ国内の強制収容所に強制連行し、そのうち1771人(80%)はペルー移民及びその日系子孫のペルー人であった。
[編集] アメリカ政府内における批判
この様なアメリカ政府による人種差別的かつ明らかに違法な日系アメリカ人および日本人に対する強制収用に対し、開戦直後の1941年12月に、陸軍からのプレッシャーに屈して「敵性外国人」である日系アメリカ人の家を令状なしに捜査する権限を与えたものの、その後の行き過ぎた状況を憂慮していたフランシス・ビドル司法長官は、権限を与えてからちょうど2年後の1943年12月30日に、「善良なアメリカ市民を、その人種を理由に必要以上に強制収容所に抑留している現在の処置は危険であり、政府の基本方針と矛盾している」と発言している[19]。しかしこの発言は、当初の太平洋前線における日本軍の怒涛の進撃の勢いこそ衰えたものの、日米両国軍が太平洋戦線などにおいて一進一退を続けていた当時、政府内外において例外的な少数意見でしかなく大きな影響力を持つものとはならなかった。
また、1944年12月18日には最高裁判事のオーエン・J.ロバートも、当時アメリカ政府が日系人および日本人が「強制収容」されている「強制収容所」のことを「Relocation Centers(転住センター)」と言い換えていたことに対して、「『転住センター』という表現は単なる『強制収容所』の言い換えにすぎない」と、その欺瞞表現を批判した。
しかし、日系アメリカ人および日本人の強制収用を主導した1人であるアール・ウォーレン検事総長は1943年6月に、「ジャップを解放するとカリフォルニア州内で破壊活動を行う」と強制収用を正当化した上で、「ジャップどもを再びカリフォルニアに舞い戻らせるつもりはありません。どんな法的手段を使ってもです[20]と、人種差別的表現を使い日系アメリカ人および日本人の強制収用を続けることを表明した。
[編集] 強制収容所
大統領行政令9066号の発令以降、上記のように12万313人の日系アメリカ人、つまり日本人にそのルーツを持つアメリカ国民と日本人移民、そしてメキシコやペルーなどの中南米諸国に在住する日系人と日本人移民が、アメリカ全土の11か所に設けられた強制収容所に強制収容された。また、そのほかにも、ニューヨーク州ニューヨークのマンハッタン島の横にあるエリス島に設けられていた移民者収容施設にも、日系人と日本人移民約8,000人が収容された。
なお、最初に開設されたポストン強制収容所は1942年5月に開設された。その後相次いで強制収容所が開かれ、最後に開設されたクリスタル・シティ強制収容所は同年11月に開設された。
[編集] 所在地
アメリカ国内における全ての強制収容所は人里離れた内陸部、その多くは砂漠地帯に設けられていた。しかも、逃亡者を防ぐために有刺鉄線のフェンスで外部と完全に隔てられている上、警備員の銃口は常に収容所内部に向けられていた。
- カリフォルニア州マンザナール (Manzanar、1942年6月開設)
- カリフォルニア州ツールレイク (Tule Lake、1942年5月開設)
- アリゾナ州ポストン (Poston、1942年5月開設)
- アリゾナ州ヒラ・リバー (Gila River、1942年7月開設)
- ワイオミング州ハート・マウンテン (Heart Mountain、1942年8月開設)
- アイダホ州ミニドカ (Minidoka、1942年8月開設)
- ユタ州トパーズ (Topaz、1942年9月開設)
- アーカンソー州ローワー (Rohwer、1942年9月開設)
- アーカンソー州ジェローム (Jerome、1942年10月開設)
- コロラド州アマチ (Amache、1942年8月開設)
- テキサス州クリスタル・シティー (Crystal City、1942年11月開設/司法省が管轄する拘置所)
[編集] 施設
強制収容所内には、急ごしらえの粗末な住居や各種工場や農場、病院、商店、学校、教会、劇場などが作られており、これらの施設で働くものには給与が与えられた。また、強制収容所内における移動は自由に行われたが、一部の許可されたもの以外は、強制収容所内の病院で治療することのできない病気や怪我にならない限り自由に外部に出ることはできなかった[21]。
[編集] 住居
強制収容者の住居に宛がわれた建物は、いずれの強制収容所においても急ごしらえの木造の「バラック」というべき粗末なもので、その後もきちんとした建物に建て替えられることはなかった。
また、家具も粗末なものしか与えられず、トイレの多くは仕切りすらなかった。また、この様に衛生管理が不十分であったため、集団食中毒や集団下痢などが多発した。
[編集] 食事
なお、電気や水道こそ外部から供給されていたものの、戦時中ということもあり、食料などは基本的には自給自足でまかなう事が求められており、強制収容所内における食生活(全ての食事は食堂で行われた)の多くは強制収容所内の農場で獲れた作物があてがわれていた。
[編集] リクリエーション
また、強制収容者へのリクリエーションとして相撲やバスケットボールなどのスポーツが行われた他、「アメリカ化」への思想教育の一環としてボーイスカウトが組織された。ボーイスカウトの団員は、当然のことながらアメリカ国家に対する忠誠を宣誓し、常にアメリカ国旗を掲げているにもかかわらず、「普通のアメリカ人」として扱われず、逃亡防止のために銃を向けられた強制収容所から出ることができないという異常な状況下での活動を強いられていた。
[編集] 情報伝達手段
強制収容所内ではラジオの所持は許可されたものの、戦前よりロサンゼルスなどの日系人が多く住む地で発行されていた「羅府新報」などの日本語新聞の発行は許されず、わずかに強制収容所内の情報のみが英語で書かれ、収容所の管理者に事前に検閲を受けた情報誌の発行が許されただけであった。
このように強制収容所内の情報を外部に発信することがほとんどできなかったため、強制収容以前に自ら移転先を確保して立ち退いた日系人の間では「収容所では遊んで暮らせる」との誤解も広まった。当時のアメリカ国内における日系人への迫害の影響から、自ら移転したものの移転先で生計を立てることがままならない者は少なくなかったため、一部には自ら希望して収容所入りするものも現れた[22]。
[編集] 「忠誠登録」
なお、強制収容所内では、日本国籍を保持する日本人移民のみならず、アメリカ国籍を持つアメリカ国民である日系アメリカ人収容者に対しても数度に渡りアメリカ政府に対する忠誠心の調査が行われ、その結果は登録された。
特に、1943年1月に陸軍内に強制収容所の収容者を中心とした日系アメリカ人部隊を編成するために、18歳以上の日系アメリカ人男性に対して強制収容所内で行われた「出所許可申請書」における日本政府とその元首である天皇に対する不忠誠と、アメリカ政府と軍に対する忠誠を問う質問とその答えは、日本生まれで日本国籍を持つ「1世」と、アメリカ生まれでアメリカ国籍を持つ「2世」の間における断絶をはっきりしたものにし、その後の強制収容所における闘争を加速させることになった。
[編集] 暴動
僻地にある粗末な強制収容所に収容され、行動や表現の自由だけでなく、仕事も社会的地位も奪われた日系人の不満は鬱積し、強制収容所内ではハンガーストライキや暴動が多発した上、盗難や殺人などの犯罪も数多く起きた。また、強制収容所での生活に嫌気がさし、脱出しようとし射殺されてしまった者もいた。
[編集] 著名な収容者
- ノーマン・ミネタ
- マイク・ホンダ
- ジョージ・タケイ(『スタートレック』シリーズなどで有名な日系アメリカ人俳優。少年時代であった戦時中を、ツールレイク収容所で過ごした)
- ミノル・ヤマサキ
- イサム・ノグチ 日系芸術家
- ジョージ・ナカシマ
- シンキチ・タジリ
- ジミー佐古田
- パット・モリタ
- ジミー・ツトム・ミリキタニ(ツールレイク収容所で3年半を過ごした日系アメリカ人画家。ドキュメンタリー映画『ミリキタニの猫(The Cats of Mirikitani)』〈2006年、アメリカ映画〉には当時を振り返るシーンが多数出てくる)
- ジャニー喜多川
- メリー喜多川
- 高野虎市
- 宮武東洋 写真家。収容所内での日系人たちの様子を写真で収めた。
- 小圃千浦 画家・カリフォルニア大学バークレー校教授、日系人収容所内で美術学校の設立者。瑞宝章受賞者。
- 山本紅浦 画家・ニューヨーク・マンハッタン地区ソーホーにある紅浦墨絵学校の設立者。 ニューヨークで墨絵を教える第一人者。
[編集] 被害
[編集] 財産放棄
上記のように、準備期間すら満足に与えられなかった上、わずかな手荷物だけしか手にすることを許されず、着の身着のままで強制収容所に収容された日系アメリカ人及び日本人移民は、強制収容時に家や会社、土地や車などの資産を安値で買い叩かれただけではなく、中にはそのまま放棄せざるを得なかった者も沢山いた。しかもその後長年に渡り強制収用時に手放した財産や社会的地位に対する何の補償も得られず、その結果全ての財産をこの強制収容によって失ってしまった人もいた。
なお、大統領行政令9066号の発令に伴うこの様な措置に対してフランシス・ビドル司法長官は「西海岸の反日感情に迎合し日系人の所有する農地を手に入れようとする利益誘導が絡んでいる」[23]と強く批判している。
[編集] 「財産保全」
なお、強制収用の開始に際しアメリカ政府は、「申し出があった場合に限り、収容される日系アメリカ人及び日本人移民の財産の保全を政府管理の下で行う」旨の通告を行ったが、申し出を行う時間的余裕さえ十分に与えられていなかった上に、強制収用という差別的かつ過酷な仕打ちを行うアメリカ政府を信用して財産保全の申し出を行うものは殆どいなかった。申し出た場合でもそれらは実際には記録されず、保全の申し出自体が否定されるケースも相次いだ。
また、政府に対する財産保全の申し出を行わなかったものの、日系人以外の知人に、強制収容所に収容されている間に資産を管理、保全してもらうことに成功した者もいたが、当時の反日的な風潮から、その様なことに成功したのはほんのわずかであった。
[編集] 市民権剥奪
また、強制収用に伴いアメリカの市民権を剥奪された日系アメリカ人の市民権は、1945年8月に日本との間の戦闘状態が終結したにもかかわらず、サンフランシスコ講和条約が締結され、アメリカを始めとする連合国による日本占領が終了した翌年の1952年6月に行われた、マッカラン・ウォルター移民帰化法の施行まで回復されなかった。
[編集] 強制収容の終焉
[編集] 帰還命令
1945年8月15日に日本がアメリカを含む連合国に対して降伏し、翌月の9月2日に連合国への降伏文書に署名したことで、日本とアメリカの間の戦闘状態が終結した。これに伴い日系アメリカ人及び日本人移民に対する強制収容の必要性がなくなったことにより、全ての強制収容所はこの年の10月から11月にかけて次々と閉鎖され、すべての強制収容者は着のみ着のままで元々住んでいた家に戻るように命令された。
[編集] 「二級市民」扱い
しかし上記のように仕事や家、その他の財産のほとんどを放棄させられ長年に渡って強制収容された日系アメリカ人及び日本人移民が、元通りの社会的立場に社会復帰することは容易ではなかった。
その後も日系アメリカ人は、1952年6月に行われたマッカラン・ウォルター移民帰化法の施行までの長きの間、母国であるアメリカの市民権さえも剥奪された。その上に、日本との戦争によって、今までにも増して酷い人種差別にさらされることとなった日系アメリカ人及び日本人移民の多くは、その後長い間「二級市民」としての立場に耐え忍ぶことを余儀なくされ、その結果多くの日本人移民が生まれ故郷の日本に戻ることとなった。
[編集] 評価
[編集] 非難と自己批判
上記にあるように、大戦開始当時より自国を「自由で平等な民主主義国」、「民主主義の橋頭堡」と自賛してきたアメリカにおける、この様な長期に渡るしかも無差別の強制収容政策は、日系アメリカ人と同じく「敵性外国人」であるはずのイタリア系およびドイツ系アメリカ人などの白人種諸集団に対しては行われなかったため、「黄色人種である日系アメリカ人に対するあからさまな人種差別政策」であったとして、戦後、特に公民権運動が活発になり、人種問題についての公的な発言が自由に行われるようになった1960年代以降、加害人種である白人を含む多くの政治家や人権活動家、歴史家や法曹関係者から非難された。
また、当初は強制収容政策の実施を積極的に支持したものの、その後前言を翻し批判する側に回ったフランシス・ビドル司法長官は、戦後発刊された自書の中で自己批判を行っている。また、かつて収容を支持していたカリフォルニア州のアール・ウォーレン検事総長も、後に自伝の中で、「誤っており(wrong)」「深く後悔している(deeply regretted)」と述べその過ちを認めている[24][25]が、この様に自らの過ちを認めた加害者側の人間はわずかであった。
[編集] アメリカ政府による謝罪
[編集] 日系アメリカ人
1960年代の公民権法施行以降に広まった、過去のアメリカ政府による数々の人種差別政策に対する自己批判の動きと、日系アメリカ人議員や日系アメリカ人団体の地道な活動を受けて、第二次世界大戦の終結後40年以上経った1988年にロナルド・レーガン大統領は、「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)に署名することとなり、「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」 として、強制収容された日系アメリカ人に謝罪し、現存者に限って1人当たり20,000ドル(約200万円)の損害賠償を行った[26]。
また同時期には、日系アメリカ人や日本人に対する強制収容についての教育をアメリカ国内の学校で行うために、総額12億5,000万ドルの教育基金が設立された。
なおレーガン大統領は、強制収容所の被収容者を含む日系アメリカ人のみによって構成され、ヨーロッパ戦線で大戦時のアメリカ陸軍部隊として最高の殊勲を上げた第442連隊戦闘団に対しては、「諸君はファシズムと人種差別という二つの敵と闘い、その両方に勝利した」と特に言及し讃えている。
[編集] 日系ペルー人
またアメリカ政府は、日系ペルー人に対しては戦争終結後はアメリカから強制退去させたが、ペルー政府による入国拒否により、多くの日系ペルー人が含まれるにもかかわらず900人が日本に送還させられた。残る300人はアメリカ国内で仮釈放され、その後アメリカ政府に対して強制退去に対する異議申し立てをおこないアメリカに残留し、1952年にアメリカの市民権を獲得した。
その後1999年にアメリカのビル・クリントン大統領は、正式にアメリカ国内の強制収容所に収容されていた日系ペルー人に対して謝罪し、原告一人当たり5,000ドルの賠償金と謝罪の手紙を出した。
[編集] 史跡保存
2006年に、アメリカ上下両院は日系議員が中心になって提案した、カリフォルニア州やアリゾナ州、ユタ州の砂漠の中などに点在する日系人の強制収容所を国立公園局によって「アメリカの歴史にとって重要な史跡」として保存する法案を可決した。
[編集] 他の連合国における強制収容
なお、在留日本人および日系人に対する戦争時の強制収容は他の連合国でも行われたが、直接日本と交戦状態に置かれるか置かれないか、または日本人および日系人の数が少ないか多いかによってその対応はまちまちであった。
[編集] ブラジル
[編集] 強制収容の執行
アメリカの圧力により、日本を含む枢軸諸国の間に1942年に開戦、国交断絶させられたブラジルにおいては、親米派で、しかも戦前から日本人学校の閉鎖などの日系ブラジル人及び日本人移民に対する同化政策を進めていたジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス大統領の命令により、「日本海軍船艇との連絡をさせないこと」を目的に、日本人移民および日系人ブラジル人は全ての大西洋沿岸都市から退去させられた上に、その多くは内陸部に設けられた強制収容所に収容された。
なお、一部の日本人移民は1942年に運行された戦時交換船で帰国させられたが、日系ブラジル人及び日本人移民人数が多いこともあり、アメリカに強制連行させるような要求こそなかった。
また、これらの措置に併せて全ての資産は没収、または凍結され、全ての日本語新聞は発行停止処分とされることとなった。強制収容は大戦が終結した間もなく後に解除されたものの、資産の没収、凍結の解除は、日本とブラジルと日本の間の国交が回復した後の1950年代まで続けて行なわれ、その際に解除を忘れられたままとなった没収資産の一部は、2000年代に至るまで返還されなかった。
[編集] 「勝ち組」と「負け組」
なお、戦後のブラジルにおいては、戦時中に日本語新聞の発刊が停止された事による情報の枯渇が影響して、日本人移民の間において、日本の敗戦を受け止めた「負け組」と、日本の戦勝を信じる「勝ち組」の間で争いが勃発し、両者の間の暴動により数十名の死者が出る騒ぎとなった上、両国の国交が回復した後の1950年代初頭に至るまで、両者の間の対立が続くこととなった。
[編集] ペルー
同じくアメリカの圧力により日本を含む枢軸諸国と1942年に開戦、国交断絶させられたペルーでは、多くの日系ペルー人と日本人移民がアメリカに強制連行され、日系ペルー人に対しては戦争終結後はアメリカから強制退去させたが、ペルー政府による入国拒否により、多くの日系ペルー人が含まれるにもかかわらず900人が日本に送還させられた。
[編集] アルゼンチン
1943年6月のクーデターによって絶対中立派政権(事実上の親枢軸政権)が成立したアルゼンチンでは1945年まで枢軸国への宣戦布告は行われなかったことと、当時軍の高官であり、労働大臣であったフアン・ペロン将軍が日系アルゼンチン人を重用したこともあり、政府による日系団体の監視や公使の追放が行われたものの、万単位で日系人が居住する国としては唯一大規模な弾圧が行われなかった。
[編集] メキシコ
メキシコは、ブラジルと同じく日系メキシコ人及び日本人移民人数が比較的多いこともあり、ブラジルと同じくアメリカに強制連行させるような要求こそなかったものの、その多くが「日本海軍船艇との連絡をさせないこと」を目的に太平洋沿岸から離れた2ヵ所の強制収容所に収容され、その資産は没収、または凍結されることとなった。
[編集] カナダ
イギリス連邦の主要構成国かつ連合国の1国であり、アメリカの隣国でもあるカナダにおいても、日系カナダ人に対する強制収容が行われた。日加間の開戦後すぐに日系カナダ人と在加日本人の財産は没収され、ブリティッシュコロンビア州の内陸部にあるタシュミ強制収容所に移された後、ベイ・ファームスとレモン・クリークにある強制収容所への移動を余儀なくされた。
開戦後にバンクーバー島の軍施設が日本海軍の艦艇に攻撃されたことや、その後もカナダの太平洋沿岸部で多くの連合軍の船艇が日本軍の潜水艦に撃沈されたこともあり、日系カナダ人は戦後も1949年まで沿岸部160キロ以内に移動することが許されなかった。
「日系カナダ人#抑留」も参照
[編集] オーストラリアおよび周辺諸国
同じくイギリス連邦の主要構成国で、太平洋地域における主要連合国であるオーストラリアにおいても、日系オーストラリア人及び日本人移民と、ニュージーランドやフィジーなど周辺のイギリス連邦諸国及びその植民地や、同盟国のオランダ領東インド諸島などに在住していた日本人移民と日系人に対する強制収容所への収容が行われ、オーストラリア及びその周辺諸国においては、約4,000人が強制収容された。なお戦後その殆どが日本に強制的に送還させられた。
[編集] 関連項目
- 黄禍論
- 白人至上主義
- 日系人収容所所在地
- 山河燃ゆ(日系人強制収容をテーマにした山崎豊子の「二つの祖国」を基にしたNHK大河ドラマ。)
- 中根中
- 疋田保一
- ラルフ・ローレンス・カー - (共和党所属のアメリカ合衆国の政治家。当時の世論に逆らい、日系人の強制収容所は非人道的であるとして一貫して反対した。)
- 東京ローズ
[編集] 脚注
- ^ 『ルーズベルト秘録』産経新聞取材班 産経新聞ニュースサービス ISBN 4-594-03318-0
- ^ 開戦5年前に日系人収容を検討=F・ルーズベルト大統領覚書時事通信(2008/12/02-14:30)
- ^ The Munson Report
- ^ 『Uボートで来たスパイ―あるナチス・ドイツ諜報員の回想』エーリヒ・ギンペル著 村田綾子訳(扶桑社 2006年)p.35
- ^ 『ザ・フィフティーズ』第2部 デイビッド・ハルバースタム著 金子宣子訳(扶桑社 2006年)p.202
- ^ 『ルーズベルト秘録』産経新聞取材班 産経新聞ニュースサービス ISBN 4-594-03318-0
- ^ 『帝国海軍太平洋作戦史 1』P.99 学研 2009年
- ^ 『ルーズベルト秘録』産経新聞取材班 産経新聞ニュースサービス ISBN 4-594-03318-0
- ^ 『ルーズベルト秘録』産経新聞取材班 産経新聞ニュースサービス ISBN 4-594-03318-0
- ^ Maki, Mitchell Takeshi and Kitano, Harry H. L. and Berthold, Sarah Megan. Achieving the Impossible Dream. 1999, page 143
- ^ 『日系アメリカ人強制収容所の概要』全米日系人博物館
- ^ 『Uボートで来たスパイ―あるナチス・ドイツ諜報員の回想』エーリヒ・ギンペル著 村田綾子訳(扶桑社 2006年)p.28
- ^ 『Uボートで来たスパイ―あるナチス・ドイツ諜報員の回想』エーリヒ・ギンペル著 村田綾子訳(扶桑社 2006年)
- ^ 『日系アメリカ人強制収容所の概要』全米日系人博物館ヒラサキ・ナショナル・リソースセンター
- ^ 『日系アメリカ人強制収容所の概要』全米日系人博物館ヒラサキ・ナショナル・リソースセンター
- ^ 鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創『日米交換船』ISBN 4103018518
- ^ 。Inouye seeks study of Isle internment camps as possible historic sites Honolulu Advertiser 2009年4月23日付
- ^ 『日系アメリカ人強制収容所の概要』全米日系人博物館
- ^ 『日系アメリカ人強制収容所の概要』全米日系人博物館ヒラサキ・ナショナル・リソースセンター
- ^ 『ザ・フィフティーズ』第2部 デイビッド・ハルバースタム著 金子宣子訳(扶桑社 2006年)p.203
- ^ 『日系アメリカ人強制収容所の概要』全米日系人博物館ヒラサキ・ナショナル・リソースセンター
- ^ 『祖国へ、熱き心を -東京にオリンピックを呼んだ男-』(高杉良著、新潮文庫、2001年)pp.241 - 243
- ^ 『ルーズベルト秘録』産経新聞取材班 産経新聞ニュースサービス p.174 ISBN 4-594-03318-0
- ^ 参考:Brown v. Board of Education (1954): Landmark Case Biography Earl Warren (1891–1974)、2007年1月8日アクセス
- ^ 参考:Earl Warren, Michal R. Belknap, 「The Supreme Court Under Earl Warren, 1953-1969 (Chief Justiceships of the Supreme Court)」、出版社 University of South Carolina Press、p.19、ISBN 978-1570035630
- ^ 『日系アメリカ人強制収容所の概要』全米日系人博物館ヒラサキ・ナショナル・リソースセンター
[編集] 外部リンク
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最終更新 2009年11月16日 (月) 15:25 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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