旧制高等学校
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旧制高等学校(きゅうせいこうとうがっこう)とは、高等学校令(1894年および1918年)にもとづく、1950年まで存在した日本の高等教育機関である。
目次 |
[編集] 概要
教育内容は現在の大学の1・2年生に対する教養課程に相当するが、当時の学生の気風や地位を考慮すると、高等教育が大衆化した現代にこのような機関は存在しえないといえる。なお、現在の高等学校と混同されることがあるが、現在の高等学校は中等教育機関であり、旧制中等教育学校(その代表格が旧制中学校)に相当する。
1886年の中学校令により設立された第一から第五、山口、鹿児島の7官立高等中学校のうち、鹿児島を除く6校を1894年高等学校に改組してはじまった。
改組により、在籍者の呼称は高等中学校では「生徒」だったのに対し、高等学校では「学生」となった。制度は、帝国大学への予備教育を行う高等中学校本科は高等学校大学予科に名称を改め、2年制から1年延長され3年制となった。専門学部は3年制から4年制(医学科のみ4年制のまま)となった。後に、学部は順次廃止(帝国大学昇格)ないし専門学校として分離され、帝国大学への予備教育を行う大学予科のみとなった。1918年の高等学校令改正により各地で増設され、7年制高等学校が出現し、大学予科は高等科に改称された。
[編集] 高等学校の基本的性格
1894年の高等学校令では専門学科の教育をおこなう機関と定義され、但し書きにて帝国大学入学者のための予科教育が規定された。専門学科は英米のカレッジを手本に、専門教育を授けることを主要目的とし、「地方における最高学府」(地方大学)としての役割が期待された。
高等学校令に定義された専門学科の教育機関としての性格をそのまま反映した例が第三高等学校である。第三高等学校は、当初、法学部、工学部、医学部の専門学部のみで開始した。大学予科を持たなかった歴史を持つのは第三高等学校だけである。
1895年、西園寺公望は日清戦争で得た賠償金を元に、第三高等学校を京都帝国大学へ昇格させる提案をおこなった。そこで、第三高等学校大学予科を東一条通の南側(現在の京大吉田南キャンパス)に設置し、第三高等学校法学部および工学部の土地・建物・設備を京都帝国大学が利用するという案が採用され、翌年予算処置が可決された。
1897年6月18日、京都帝国大学設立に関する勅令が制定され、京都帝国大学が発足する。岡山にあった第三高等学校医学部[1]は1901年に岡山医学専門学校として分離独立した。そのほかの高等学校でも、専門学部と大学予科は完全分離され、高等学校は帝国大学への予備教育のみをおこなう高等教育機関となった。旧制高等学校専門学部の地方における高等専門教育機関としての役割は、後に、各地で増設されることになる帝国大学や旧制専門学校が担うことになった。
1918年に改正された高等学校令では、男子の国民道徳を充実させ、高等普通教育を完成することを目的とした。また、公立、私立の高等学校設立が認められるようになり、第二次世界大戦終結後まで発展をとげた。
これら高等学校のエッセンスは帝国大学への進学保証制度であった。旧制中学校が入学定員数を順次増加していったのに対し、旧制高校はそれをせず、1学年の定員と帝国大学のそれとは戦前期を通じてほぼ1対1であったため、高等学校の卒業証書さえあれば、専攻を選ばない限り、どこかの帝国大学に無試験で入学できた(ただし、医学部などは入学試験を課すところもあった)。こうした「身分保証」があったため、勉強はそこそこに学生生活を謳歌した学生もいた。同じ学年に3年留まると放校(退学)となるため、「計画的」に高等科3年間の修業年限を1回ずつ落第し6年居続けた猛者もいたという。戦前の高等教育機関の熾烈な受験競争は大学ではなく高等学校にあった。川端康成『伊豆の踊子』に登場する一高生に描写されたように旧制高校に入学した段階で社会的にはエリートとしてみなされた。
また、戦前社会のエリート層揺籃の場として機能した面もあり、当時の社会制度の根底をささえる機関の一つであった。
類似の制度に大学に付属する大学予科があるが、特定の旧制大学への進学を前提にするなど旧制高等学校とは違いがあり、別の機関である。
[編集] 歴史
[編集] 発足
その初めは文部省が東京につくった東京大学予備門である。東京大学の初期の教官は「大臣よりも高い」俸給で雇われた欧米のお雇い外国人たちが占め、カリキュラムはヨーロッパの大学にならい、教科書、授業、ノート、答案はすべて外国語という状態であった。このため、専門教育を受けるためには、まず、英語やドイツ語等の高い語学能力が不可欠であり、これを身につける予備教育機関としてつくられたのが大学予備門であった。
1881年の政変で大隈重信を失脚させて実権をにぎった伊藤博文らは、官僚機構を整備するため、東京にある官立諸学校を文部省のつくった東京大学にすべて併合し、唯一の総合大学である「帝国大学」とあらため、ここを官吏、学者の養成学校とした。東京大学が「帝国大学」となると、その予備教育機関は全国5学区にそれぞれ置かれることになり、東京大学予備門は第一学区(関東地方およびその周辺地域)の第一高等中学校となり、その後、高等学校令により第一高等学校となった。
高等学校の前身の詳細については高等中学校を参照
[編集] 誘致合戦
最終的に全国39[2]あった旧制高校の中でも、明治期に創設された第一高等学校から第八高等学校までは、早期から政財界に卒業生をおくりこみ、後発の学校よりも優位に立ったため、他との区別で、特に「ナンバースクール」(「n高」から)とよばれた。
このため、新制に移行した後も、「ナンバースクール=エリート校」という尊称のような慣用句的用法として残り、各自治体での旧制中学時代も含んだ主に公立高校を中心(一部では私立高校でも)に、数字の付された学校をローカルに「○○のナンバースクール」などと呼ぶことがある[3]。
第六高等学校以降は地元の誘致の熱意もその設立に大きな影響を与えた。第六高等学校の誘致には岡山と広島がその座を争い、国会では代議士が国会議場の外で掴み合いになったといわれている。
第七高等学校の場合は、松本に内定していたのが、諸般の事情で、急遽、鹿児島にかわり、また、第九高等学校の設立を巡っては新潟と松本のあいだで熾烈な誘致合戦が起こり、中傷合戦に至る泥仕合化したが、最終的に「第九高等学校」と命名するのは避け、新潟高等学校および松本高等学校と地名をつけることで決着した。
以後の設立高校の命名にはこの事態を考慮し、学校所在地にならった命名になった。これらを先の「ナンバースクール」との対比・区別の意味で、「地名校」あるいは「ネームスクール」と呼ぶ場合もある。
旧制高校は伝統の長短はあったものの、官立私立を問わず、いずれの学校も地域のエリート校として誇りの存在とされ、学校差が少なかった[4]。
[編集] 第二次高等学校令(高等学校令改正)
第二次高等学校令は1918年(大正7年)12月6日に公布され、翌1919年(大正8年)4月1日に施行された。高等学校の性質についてはこれを「高等学校ハ高等普通教育ヲ授クル所トス」とした。高等学校の構成については高等科3年・尋常科4年の7年制を基本とし、例外的に高等科だけの学校も認めるとした。尋常科は中学校の課程に相当するので予科の設置を認めた。高等科卒業者のために修業年限1年の専攻科を置くことができるとし、その修了者には得業士の称号を与えることにした。
高等科の入学資格は、高等学校尋常科修了または中学校第4学年修了程度(改正前は当時5年制であった中学校卒業程度)とし、年限短縮を実現した。この修業年限短縮は以前から高等学校制度改革の根本にあったものである。このため、高等学校進学希望者は4年修了見込で高等学校を受験するのが一般的になり、合格する者も数多くでた。
尋常科の入学資格は小学校(国民学校)卒業程度とした。
なお、従来の9月入学は改められ、4月入学になった。従って、高等学校、専門学校の併願が不可能になった。
[編集] 官立以外の高等学校
1918年以降、高等学校は政府でなくても設立できるようになった。主な例として、私立では東武鉄道の根津財閥が武蔵高等学校、当代一流の教育家であった沢柳政太郎が成城高等学校(現成城学園高等学校)、三菱財閥の岩崎家が成蹊高等学校、阪神地区の財界人が甲南高等学校、公立では地元の素封家が県に莫大な寄付をして設立した富山県立富山高等学校がある。また、明治時代に宮内省が創設した学習院は、華族の子弟の教育のために設立されたものであるが、1921年以降、制度的に旧制高等学校と同等に位置づけられた。
これらの学校は、尋常科(4年制)、高等科(3年制)からなる7年制高等学校(学習院は尋常科にあたる中等科5年を併設した8年制)であり、一度、尋常科に入学すれば帝国大学への進学が保証された。
一高を始めとする官立の高校の多くは当初の形態通り3年制の高等科だけを置いた。
[編集] 終焉
「学制改革#旧制高校等→新制大学」も参照
第二次世界大戦終結後、アメリカの占領政策の影響もあって、女子の入学を許可する旧制高校が現れだした。女子学生は男子と同じ学生帽あるいは庇をなくした学生帽を被って通学した。女子学生は概してお客さん扱いで大事にされ、卒業後は、帝大、新制大学に進学し、教職・研究職に就いた者が多かった[5][6]。
そんな旧制高校にも終焉のときが迫りつつあった。教育刷新委員会副委員長の南原繁が廃止に積極的に動いた。南原も一高出身であったが、旧制高校の3年間は遊んでばかりで、学習内容は旧制中学のものを手直しした程度のものだったと、それほど旧制高校の教育に執着を持っていなかったことを後に証言している。南原は、ジェントルマンであれと強調した、一高時代の校長・新渡戸稲造への傾倒を繰り返し述べていて、バンカラの気風に違和感を覚えていたことが伺える[7]。
戦後の学制改革によって、旧制高等学校は旧制大学や他の高等教育機関と統合して、その多くは新制大学の教養部や文理学部の母体となった。
旧制高校在学中に学制改革によって新制大学に入学した人物には作家の野坂昭如(新潟高等学校から新潟大学、のち早稲田大学)、高橋和巳(松江高等学校から京都大学)、開高健(大阪高等学校から大阪市立大学)、小松左京(第三高等学校から京大)、堤清二(成城高等学校から東大)、井原高忠(学習院高等科から慶大)、旧制大学を前身としない大学学部卒ではじめて事務次官になった小長啓一(第六高等学校から岡山大学)らがいる。また、映画監督の山田洋次は山口高等学校在学中に学制改革に遭遇し、新制東京都立小山台高等学校から東大にすすんだ。
学制改革実施前、「ジュニアカレッジ(改革後の短期大学に相当)」としての旧制高等学校存続を模索する動きもあったが幻に終わった。
旧制高等学校を懐かしむ卒業生は戦後においても日本寮歌祭を開いたり、「日本の教育改革を進める会」を結成したりして旧制高等学校の長所を訴えた。しかし、あくまで国立の高等教育機関としての復活を希求していたせいか、私立でエリートに対する一般教養教育の短期大学や高等専門学校を設立する動きはなかった。ただし、公立ではこういう学校が存在した。1950年に設立され、1955年に廃止された和歌山県立理科短期大学がそれである。
新制東京大学教養学部の設置は旧制高等学校の教養主義的な伝統を残そうとした動きである。また、終戦直後に国際基督教大学(ICU)教養学部の設立に携わった旧帝国大学卒の有力者たちはそのリベラル・アーツ・カレッジの理念に旧制高等学校のよさを継承させられる可能性を期待した。
[編集] 入試・教育課程・卒業
[編集] 入試
- 1902(明治35)年4月25日、文部省告示第82号「高等学校大学予科入学試験規定」により、「総合共通選抜制」が行われることになった。これは受験者に全国の高等学校を自由に選択させ、全国統一の入試を行い答案を中央に集め採点し、成績順で旧制高校収容総数だけの合否を決め、その合格者をあらかじめ提出させてある3つの志望順を参考に、各校に割り振るという制度であったが、不本意入学者の学習意欲低下という弊害があり、総合選抜制は1908年廃止となった。翌年から七高を除いた各校が試験問題を統一した。
- 1917年度から1918年度まで、再び総合共通選抜制が復活した。
- 1919年度から学校別入試となる。
- 1926年から官立高等学校受験者の便宜を考慮して、官立高等学校を2つの班に区分し、各班から1校ずつ志望指定できるものとした。第1班は一高・五高・七高・新潟高・水戸高・山形高・松江高・東京高・大阪高・浦和高・静岡高・姫路高・広島高。第2班は二高・三高・四高・六高・八高・松本高・山口高・松山高・佐賀高・弘前高・福岡高・高知高。
- 1928年度から学校別入試に戻る
[編集] クラス編成
大学予科は第一部(法・文)、第二部(工・理・農)、第三部(医)に分かれていた。分類例を挙げると、法科志願者のうち、英語を主とする科は一部英法、ドイツ語を主とする科は一部独法、文科大学志望者のうち、英語を主とする科は一部英文、ドイツ語を主とする科は一部独文などである。高等学校令改正の影響により大学予科は高等科に名称を改め、文科と理科に大別され、履修する外国語により、文科甲類(第一外国語が英語)、文科乙類(ドイツ語)、文科丙類(フランス語)、理科甲類(英語)、理科乙類(ドイツ語)、理科丙類(フランス語)と細分された。理科乙類は医学部・薬学部・農学部進学コースとなっていた。ただし、フランス語を第一外国語にする類を置いた高校は、第一高等学校・第三高等学校・静岡高等学校・福岡高等学校・大阪高等学校・浦和高等学校など少数にとどまった。
1926年の第四高等学校におけるクラス編成は、文甲2クラス、文乙1クラス、理甲3クラス、理乙1クラスとなっていた。
[編集] 軍事教練
1925(大正14)年4月13日付で陸軍現役将校学校配属令が公布され、学校教練制度が発足した。目的は生徒の心身鍛練を通して国家への献身奉仕を一層涵養することであった。これ以降、中等以上の学校では軍事教練が実施されることになり、最低週一時間の軍事教練を行うことが義務となった。配属される現役陸軍将校は、中佐・大佐の階級で、位置付けは校長に次ぐ存在であり、教練に関し当該学校長の指揮監督を受けるとした。
[編集] 卒業・大学入試
帝国大学の入学定員は旧制高校の卒業者数とほぼ同じだったので、志望する学科を選り好みしなければ、卒業後の帝国大学進学を保証された。このため、地方の帝国大学や官立大学では募集学科によって定員割れが生じ、京城帝国大学や北海道帝国大学など後発大学では独自に「予科」を設けて早くから質のよい学生を確保する手法をとった。
1920年代になると、初期に設立された官立医学専門学校が官立医科大学へと昇格した。帝国大学(独自の大学予科を持つ北海道帝大、京城帝大、台北帝大を除く)と同じく旧六医科大学なども独自の大学予科を持たず、これらの大学へ進学するには旧制高等学校を卒業する必要があった。このように、「予科を持つ地方帝大」と「予科を持たない官立医大」の出現で旧制高校卒業=帝国大学進学という図式は崩れた。
一般的に、医学部、東大京大の人気学科は志望者が多いため、倍率が2倍、3倍となることも少なくなかった。もっとも、試験科目は、東大法学部の場合、英文和訳、和文英訳のみであり、今風にいえば、入ゼミ試験のようなものであった。東京帝国大学理学部数学科の場合、外国語、数学、力学、物理であり、九州帝国大学工学部の場合、数学及力学、物理学、化学であり、九州帝国大学医学部の場合、外国語(英独仏ノ内二)、数学、物理、化学、動植物学であった。人気学部・学科への進学においては浪人するものも少なくなく、白線浪人とよばれた。
帝国大学の定員割れは、旧制高校卒業・卒業見込者での充足が優先された。帝国大学などでは、入学志願者選抜に際し、志願者の学歴によって優先順位を決定した。予科を持たない大学の文系学部では高等学校文科卒業者に、理系学部では高等学校理科卒業者に、予科を持つ大学では予科修了者に第一位の優先順位を与えた。優先順位第一位の志願者数が定員を超えた場合は第一位の志願者のみを対象とする競争試験を実施した。この試験で不合格となり浪人する者が「白線浪人」と呼ばれることもあった。
優先順位第一位の志願者数が定員以下の場合は第一位全員を合格とし、欠員部分を優先順位第二位に振り向けた。第二位以下の学歴による順位の決定方法は大学、学部ごとに異なる。多くの場合、第二位以下に「高等学校卒業以外の学歴の者」が指定され、これにより入学した者は「傍系入学者」と呼ばれた。したがって、高等師範学校や高等実業学校からの進学希望者は形式的には欠員補充であったが、帝国大学では定員充足を理由に傍系入学という扱いで入学を許可されていた。傍系入学者は、特に、東京・京都以外の帝大では比較的多くみられた[8]。
学制改革による新制切り替えに際し、白線浪人対策(1949年11月29日付文部省通達)が行われた。各旧制大学を二期に分け、1949年度(昭和24年度)選抜試験を実施した。各旧制大学は入学定員をできる限り増加させ、二重入学や入学取消などを防止するため第一期の大学は合格発表をできるだけ早く行った。なお、旧制大学が行う白線浪人対策は1950(昭和25)年入試で終了した。
[編集] 各高等学校卒業予定人員
- 出典:大正15年発行『帝国大学入学試験問題集』付録/北辰書院
- 大正十六年各高等学校卒業予定人員ノ比較
- 文科甲/乙/丙/理科甲/乙/丙の順。---は空白
- 一高125/036/038/107/091/---
- 二高043/043/---/124/083/---
- 三高085/039/041/118/050/---
- 四高080/038/---/130/041/---
- 五高113/033/---/128/042/---
- 六高079/040/---/125/042/---
- 七高075/040/---/081/042/---
- 八高084/039/---/117/043/---
- 新潟035/034/---/042/040/---
- 松本041/036/---/045/039/---
- 山口040/040/---/044/045/---
- 松山042/045/---/039/033/---
- 水戸081/034/---/038/042/---
- 山形045/045/---/087/043/---
- 佐賀040/037/---/083/045/---
- 弘前081/036/---/037/045/---
- 松江035/033/---/038/035/---
- 大阪038/036/---/040/042/040
- 浦和043/039/037/044/035/---
- 福岡037/038/039/039/036/---
- 静岡044/041/035/040/038/---
- 高知082/031/---/042/041/---
- 姫路076/036/---/037/036/---
- 広島070/037/---/038/035/---
[編集] 帝国大学・官立医大入学者数
- 出典:大正15年発行『帝国大学入学試験問題集』付録/北辰書院
- 大正十五年各大学入学者数
- 東京帝大2363
- 京都帝大1381
- 九州帝大0608
- 東北帝大0392
- 新潟医大0060
- 岡山医大0061
- 千葉医大0061
- 金沢医大0060
- 長崎医大0063
- ※台北、大阪、名古屋帝国大学は当時設立されていない。予科を持つ北海道、京城は省略されている
[編集] 戦時中の臨時措置
- 太平洋戦争が激化すると、非常時の臨時措置として1942年、43年には半年繰り上げの2年半で、また、1943年入学の学年からは法改正により正式に修業年限が2年に短縮された。ただし、終戦直後の1945年9月にふたたび修業年限3年にあらためられたため、2年の年限で卒業したのは1943年入学の学年だけである。
[編集] スタイル、学生生活
「バンカラ」および「ストーム (学生生活)」も参照
白線帽にマント、高下駄は旧制高校生の典型的な身なりであり、寮歌を高吟して街を歩く姿は多くの旧制中等学校生徒の憧れであった。帽子の白線は二条または三条であり、旧制高校生の象徴であった。しかし、旧制私立高校では帽子に白線がない学校もあり、成城高校では生徒がそれを不満として「白線運動」を起こしたという。日本大学予科など、一部の官公私立大学予科でも旧制高校と同じ白線帽が採用された。また、7年制高等学校の多くはイギリスのパブリックスクールに範を求めたため、バンカラの象徴であるマントと下駄の着用を禁じたり、学習院風の詰襟制服を定めたりした(東京・浪速・成蹊)。成城高校は旧制高校の中で、背広にネクタイ、お釜帽子を制服にした唯一の学校である。
[編集] 旧制高等学校一覧(高等学校令にもとづき設立されたもの)
[編集] 三年制
[編集] ナンバースクール
1886年(明治19年)4月10日、中学校令が公布された。これにより全国五学区の各学区および山口ならびに鹿児島に官立高等中学校(旧制高等学校の前身)が設立された。
1886年、東京大学予備門は第一高等中学校に、大阪の大学分校は第三高等中学校(のちに京都に移転)に、山口中学校は山口高等中学校に改められた。翌1887年(明治20年)、第二高等中学校(仙台)・第四高等中学校(金沢)・第五高等中学校(熊本)・鹿児島高等中学造士館が相次いで設立された。
各校に付されている数字は第一から第五までは当時の学区(時期により変遷した)の番号であり、第六から第八までは設立順となっている。初期に設立された第一から第五高等学校には当初、専門学部が置かれた。1897年(明治30年)4月、学区制が撤廃され、学区に縛られることなく高等学校の受験が可能となった。
| 前身校 | 設立年 | 旧制高等学校 | 新制大学 |
|---|---|---|---|
| 第一高等中学校 | → | 第一高等学校(東京) | 東京大学教養学部 |
| 第二高等中学校 | → | 第二高等学校(仙台) | 東北大学教養部[9] |
| 第三高等中学校 | → | 第三高等学校(京都) | 京都大学教養部[10] |
| 第四高等中学校 | → | 第四高等学校(金沢) | 金沢大学法文学部・理学部・教養部 |
| 第五高等中学校 | → | 第五高等学校(熊本) | 熊本大学法文学部・理学部 |
| - | 1900 | 第六高等学校(岡山) | 岡山大学法文学部[11]・理学部・教養部 |
| 鹿児島高等中学造士館[12] | 1901 | 第七高等学校造士館(鹿児島)[13] | 鹿児島大学法文学部・理学部 |
| - | 1908 | 第八高等学校(名古屋) | 名古屋大学教養部[14] |
[編集] ネームスクール
第一次世界大戦の好景気に沸く日本は同時に工業力の大発展をとげ、帝国大学の増設や学生定員の増加が社会的に求められることとなった。これに対応して高等学校の数も増やす必要が生じるに至り、1918年(大正7年)、原敬内閣の元で「高等諸学校創設及拡張計画」が4450万円の莫大な追加予算をともなって帝国議会に提出され、可決された。
その計画では、大正8年から6年計画で、官立旧制高等学校10校、官立高等工業学校6校、官立高等農林(農業)学校4校、官立高等商業学校7校、外国語学校1校、薬学専門学校1校の新設、帝国大学4学部の設置、医科大学5校の昇格、商科大学1校の昇格であり、その後、この計画はほぼ実現された。
この際、新潟と松本の間で「第九高等学校」の名称の奪い合いが起きたため、番号をやめて地名を用いるようになり、各地にネームスクールが誕生することになった。高等学校の増加で番号による区別が困難になったこともその一因である。
| 設立年 | 旧制高等学校 | 新制大学 |
|---|---|---|
| 1886 | 山口高等学校[15] | 山口大学経済学部 |
| 1919 | 新潟高等学校 | 新潟大学人文学部・理学部 |
| 1919 | 松本高等学校 | 信州大学文理学部 |
| 1919 | 山口高等学校[16] | 山口大学文理学部 |
| 1919 | 松山高等学校 | 愛媛大学文理学部 |
| 1920 | 水戸高等学校 | 茨城大学文理学部 |
| 1920 | 山形高等学校 | 山形大学文理学部 |
| 1920 | 佐賀高等学校 | 佐賀大学文理学部 |
| 1920 | 弘前高等学校 | 弘前大学文理学部 |
| 1920 | 松江高等学校 | 島根大学文理学部 |
| 1921 | 大阪高等学校 | 大阪大学一般教養部南校 |
| 1921 | 浦和高等学校 | 埼玉大学文理学部 |
| 1921 | 福岡高等学校 | 九州大学教養部 |
| 1922 | 静岡高等学校 | 静岡大学文理学部 |
| 1922 | 高知高等学校 | 高知大学文理学部 |
| 1923 | 姫路高等学校 | 神戸大学教養部(姫路分校)[17] |
| 1923 | 広島高等学校 | 広島大学教養部[18] |
| 1940 | 旅順高等学校 | (廃止) |
| 1943 | 富山高等学校 | 富山大学文理学部[19] |
[編集] 七年制
七年制高等学校(尋常科4年・高等科3年)は制度的に高等教育機関と位置づけられているものの、実質的には一つの学校で中等・高等教育機関を兼ねていた。七年制高等学校構想には当時の先端的な教育思想を信奉する教育家や英国流のパブリックスクールに傾倒していた国際派経済人がとびつき、多くの七年制高等学校はスマートな気質の学生を育てることを目指した[20]。武蔵高等学校のように、スポーツを禁じ、落第者・退校者を多数出すことも辞せず、東京帝大への入学率で一高を抜いたことを自慢する学校すらあった[21]。
八高出身のエッセイスト・三國一朗は東京帝大に入学した際、七年制高等学校出身の東大生を目撃し、「異様なタイプの東大生の一群」と評している[20]。七年制高等学校はスマートだが重量感に乏しい受験秀才と文芸青年を生み出したとの評価もある[21]。
東京高等学校尋常科は設立からわずか13年、授業開始から12年で廃止されることになり、その後も大阪府立浪速高等学校尋常科、公立から官立に移管した富山高等学校の尋常科も相次いで廃止された(東高尋常科は戦後の一時期、募集を再開)。官立、公立で尋常科を持つのは台湾総督府が所管する台北高等学校と東京府が設立した府立高等学校のみとなった。
旧制高等学校群において初等教育機関を包含していた学校には甲南、成城、成蹊がある。これらの小学校への入学が東京帝国大学を始めとする帝国大学群への進学に直結することとなり人気をあつめた。後に、東大総長となる加藤一郎も成城の小学校(現成城学園初等学校)から成城高等学校に進んでいる。なお、旧制高等学校ではないが、学習院も初等教育機関を包含していた。
学制改革に際しては、高等科は新制大学へ尋常科は新制中学校・高等学校へそれぞれ移行したと考えるのが一般的である。
| 種別 | 設立年 | 旧制高校(七年制) | 新制大学 | 新制中学校・高等学校 |
|---|---|---|---|---|
| 官立 | 1921 | 東京高等学校 | 東京大学教養学部 | 東京大学付属学校[22] |
| 1922 | 台湾総督府台北高等学校 | (廃止、国立台湾師範大学に転換) | ||
| 公立 | 1923 | 富山県立富山高等学校 | (1943年官立移管、尋常科廃止[23]) | |
| 1926 | 大阪府立浪速高等学校 | 大阪大学一般教養部北校 | (尋常科廃止) | |
| 1929 | 府立高等学校(東京府)[24] | 東京都立大学教養部[25] | 都立新制高等学校[26] | |
| 私立 | 1922 | 武蔵高等学校 | 武蔵大学 | 武蔵中学校・高等学校 |
| 1923 | 甲南高等学校 | 甲南大学 | 甲南中学校・高等学校 | |
| 1925 | 成蹊高等学校 | 成蹊大学 | 成蹊中学校・高等学校 | |
| 1926 | 成城高等学校 | 成城大学 | 成城学園中学校高等学校 | |
[編集] その他
- 学習院の中等科・高等科(現在の学習院高等科・学習院大学)
- 学習院は学習院学制に基づいて設立された官立の学校である。また、宮内省直轄という特殊な教育機関であった。当初は初等学科(6年)、中等学科(当初は6年のち5年)、補習科、高等学科、大学別科(1905年廃止)などが置かれていたが1919年に初等科、中等科、高等科と改称され、学校教育法が施行されるまでその体制が続いた。
- 当初の学習院学制では補習科および高等学科は中等科の卒業生を対象とした2年制の教育機関という位置づけとなっていた。明治期から大正期にかけては帝国大学への進学も完全に保証されたものではなく、高等学科の卒業生は帝国大学側に定員割れが生じた場合や、院長の推薦によりのみ帝国大学への進学が許されるなど制度として一定していない。
- 他の旧制高校高等科卒業生とまったく同等の帝国大学への進学許可が制度的に保証されるようなったのは1921年の文部省令第二七号によるものである。
[編集] 戦後特設高校
詳細は「戦後特設高校」を参照
第二次世界大戦後、医学・歯学教育は大学(旧制大学)で行うこととなり、旧制医学専門学校あるいは旧制歯科医学専門学校は旧制大学に昇格したが、この内いくつかは大学昇格の基準をみたすことができず、在校生徒救済のために旧制高等学校に改変された。これを戦後特設高校と呼ぶ(ただし、官立徳島高等学校は異なる経緯で旧制高校となった)。医大の予科的な位置づけであり、一部は学制改革時新設された新制大学に包括された。
| 旧制医専・歯専 | 戦後特設高校 | 新制大学 |
|---|---|---|
| 秋田県立女子医学専門学校 | 秋田県立高等学校 | (1950年閉校、設備は秋田大学へ) |
| 東洋女子歯科医学専門学校 | 東洋高等学校 | 東洋女子短期大学[27] |
| 日本女子歯科医学専門学校 | 日本高等学校 | 日本女子衛生短期大学[28] |
| 山梨県立医学専門学校 | 山梨県立高等学校 | (1950年閉校、設備は山梨大学へ) |
| 山梨県立女子医学専門学校 | ||
| 徳島医学専門学校 | 官立徳島高等学校[29] | 徳島大学 |
| 福岡県立医学歯学専門学校医学科 | 福岡県立高等学校[30] | (1951年閉校、設備は九州歯科大学へ) |
| 長崎医科大学付属医学専門部 | 官立長崎高等学校 | 長崎大学 |
[編集] 大学予科
詳細は「大学予科」を参照
旧制高等学校に類似するものの(大学令により設立されたもの)、個別に連携された大学へのみ進学を前提とした高等教育機関であり、この点は旧制高等学校とは制度的に大きく異なる。
[編集] 旧制高等学校関連年表
| 西 暦( 和 暦 )年 | 旧制高等学校関係記事 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 1894年(明治27年) | 一高、二高、三高、四高、五高開校 | 高等学校令。日清戦争(~1895年) |
| 1895年(明治28年) | 台湾が清国から日本に割譲。三国干渉 | |
| 1896年(明治29年) | 第1回夏季オリンピック開催 | |
| 1897年(明治30年) | 京都帝国大学創立 | |
| 1898年(明治31年) | ロシアが清から関東州を租借 | |
| 1899年(明治32年) | 東海道本線(新橋-神戸)が全通。日本初の活動写真が公開 | |
| 1900年(明治33年) | 六高開校 | 東京電気鉄道(後の都電)設立 |
| 1901年(明治34年) | 七高造士館開校。五高工学部以外の高等学校専門学部が独立 | 官営八幡製鉄所稼動 |
| 1902年(明治35年) | 日英同盟締結 | |
| 1903年(明治36年) | ライト兄弟初飛行。専門学校令 | |
| 1904年(明治37年) | 日露戦争(~1905年)。日本女子大学(学制上は専門学校)創立 | |
| 1905年(明治38年) | 阪神本線開業 | |
| 1906年(明治39年) | 五高工学部が熊本高等工業学校として独立し、高等学校から専門学部が消滅 | 日本社会党結成 |
| 1907年(明治40年) | 東北帝国大学創立 | |
| 1908年(明治41年) | 八高開校 | T型フォード発売 |
| 1909年(明治42年) | 自由劇場第1回公演。伊藤博文暗殺 | |
| 1910年(明治43年) | 韓国併合 | |
| 1911年(明治44年) | 西田幾多郎『善の研究』発表。九州帝国大学創立。対欧米不平等条約撤廃 | |
| 1912年(大正元年) | 孫文が中華民国建国。清滅亡 | |
| 1913年(大正2年) | 兵式体操が学校教練になる | 第一次護憲運動。東北帝国大学に女子学生入学 |
| 1914年(大正3年) | 第一次世界大戦(~1918年)。阿部次郎『三太郎の日記』発表 | |
| 1915年(大正4年) | 第1回全国中等学校優勝野球大会(戦後の全国高等学校野球選手権大会)開催 | |
| 1916年(大正5年) | 河上肇『貧乏物語』連載 | |
| 1917年(大正6年) | ロシア革命 | |
| 1918年(大正7年) | 北海道帝国大学創立 | |
| 1919年(大正8年) | 新潟、松本、山口、松山高校開校 | 大学令。朝鮮3.1運動。中国5.4運動 |
| 1920年(大正9年) | 水戸、山形、佐賀、弘前、松江高校開校 | 第1回箱根駅伝 |
| 1921年(大正10年) | 大阪、浦和、福岡、東京高校開校 | 倉田百三『愛と認識の出発』発表 |
| 1922年(大正11年) | 高知、静岡、台北、武蔵高校開校 | 日本共産党結成。この頃小作争議が頻発し日本農民組合結成 |
| 1923年(大正12年) | 広島、姫路、富山、甲南高校開校 | 関東大震災。日英同盟失効 |
| 1924年(大正13年) | 京城帝国大学創立。アメリカ排日移民法成立 | |
| 1925年(大正14年) | 成蹊高校開校。現役将校配属 | ラジオ放送開始。宇垣軍縮。治安維持法 |
| 1926年(昭和元年) | 浪速高校、成城高校開校。この頃インターハイ始まる | 京都学連事件(治安維持法が初めて適用される) |
| 1927年(昭和2年) | 金融恐慌 | |
| 1928年(昭和3年) | 四高同盟休校事件 | 普通選挙実施。日本共産党一斉検挙。台北帝国大学創立 |
| 1929年(昭和4年) | 府立高校開校。弘前高同盟休校事件 | 特急「富士」登場 |
| 1930年(昭和5年) | 静岡高「某名士来る」事件。四高、八高反帝同盟事件 | 昭和恐慌。濱口首相遭難事件 |
| 1931年(昭和6年) | 大阪帝国大学創立。満州事変。羽田飛行場開港 | |
| 1932年(昭和7年) | 五・一五事件。満州国建国 | |
| 1933年(昭和8年) | 水戸高細胞事件 | 日本が国際連盟脱退。東北大飢饉(~1935年) |
| 1934年(昭和9年) | 日比谷映画劇場開館 | |
| 1935年(昭和10年) | 美濃部達吉の天皇機関説が不敬罪に問われる | |
| 1936年(昭和11年) | 二・二六事件 | |
| 1937年(昭和12年) | 日華事変(~1945年) | |
| 1938年(昭和13年) | 国家総動員法 | |
| 1939年(昭和14年) | 名古屋帝国大学創立。ノモンハン事件。独軍ポーランド侵攻(第二次大戦~1945年) | |
| 1940年(昭和15年) | 旅順高校開校 | 独軍パリを占領。英・独開戦。日独伊三国軍事同盟締結。 |
| 1941年(昭和16年) | 各校で学生自治会を解散し、学校報国団を結成 | 太平洋戦争(~1945年)。日ソ中立条約締結 |
| 1942年(昭和17年) | ミッドウェー海戦で日本海軍主力空母4隻喪失 | |
| 1943年(昭和18年) | 学徒出陣 | アッツ島玉砕。徴兵年齢を19歳に引き下げ |
| 1944年(昭和19年) | 第一次神風特別攻撃隊出撃。東南海地震発生 | |
| 1945年(昭和20年) | 広島高校被爆 | 日本各地で空襲被害。終戦 |
| 1946年(昭和21年) | 食料メーデー。プラカード事件 | |
| 1947年(昭和22年) | 長崎、徳島、山梨、福岡(県)、秋田、東洋高校開校。女子学生入学 | 日本国憲法施行 |
| 1948年(昭和23年) | 日本高校開校 | 国際連合で世界人権宣言採択 |
| 1949年(昭和24年) | 湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞 | |
| 1950年(昭和25年) | 旧制高校廃止 | 朝鮮戦争(~1953年)。警察予備隊発足 |
[編集] 旧制高校が登場する作品
[編集] 脚注
- ^ 1900年、岡山に第六高等学校が設立されたことから、約1年間、岡山にナンバースクールが2校存在していたことになる。このような例はこれが最初で最後であった。
- ^ 文部科学省ホームページ、学制百年史資料編によると、1948年当時官立高校28校、公立高校5校、私立高校6校、計39校存在した。
- ^ ただし、かならずしも番号を付した学校群や番号の順番に難易度が定まっていたわけではない。実際の難易度を検証した場合、昭和10年代から一高の次に難しいのは浦和高校であったし、他にも、東京高校、大阪高校、静岡高校などは多くのナンバースクールよりも入学困難で、かならずしもナンバースクールが地名校より優秀だったわけではない。また、真に優秀な人間は小学校から(中には5年から飛び級で)、東京高校や府立高校、浪速高校の尋常科に入り、一高はその残りかすであると豪語するこれらの学校のOBも存在する。
- ^ 『事典 昭和戦前期の日本』 387頁。
- ^ 『旧制高校物語』 229-236頁。
- ^ 1947年度の入学試験にて女子学生の募集を行った高校は、第五・第七・新潟・山口・山形・佐賀・松江・福岡・静岡・姫路・広島・富山・学習院であった。 旺文社編『昭和23年度受験生必携 全國上級學校年鑑』 1947年11月発行、20-21頁。
- ^ 『旧制高校物語』 245-251頁。
- ^ 1940年(昭和15年)の各帝国大学の旧制高校卒業者率は東京96.0%、京都91.6%、名古屋80.6%、東北79.0%、大阪75.2%、九州57.2%、北海道4.4%であった。『学歴貴族の栄光と挫折』 78頁。
- ^ 現:東北大学国際文化研究科・情報科学研究科
- ^ 現:京都大学総合人間学部
- ^ 現:岡山大学法学部・文学部・経済学部
- ^ 詳細は中学造士館を参照。1887年に開校するも、1896年に廃校。1901年に第七高等学校造士館として開校したさいには、鹿児島高等中学造士館の再興とみなされていた。
- ^ 第七高等学校造士館は第二次世界大戦後に造士館の名をはずし、廃校時には単に鹿児島大学第七高等学校であった。これは進駐軍の意向ともいわれるが、明確な証拠は確認されていない。
- ^ 現:名古屋大学情報文化学部・教養教育院
- ^ 1886年(明治19年)11月に、第一(東京)・第三(大阪、後に京都へ移転)につぐ全国3番目の高等中学校として山口市亀山地区に設立され、1895年に山口高等学校と改称(通称「旧旧山高」)したが、他府県出身者がおおくをしめたため1905年に山口高等商業学校に転換。
- ^ 1894年山口市亀山地区に開校した通称「旧旧山高」は1905年に山口高等商業学校に転換されていたが、これとは別に1919年山口市糸米地区にあらためて開校(通称「再興山高」)して学制改革をむかえた。
- ^ 新制神戸大学は神戸経済大学予科と姫路高等学校を包括したため、統合移転するまで教養部の教育は御影分校と姫路分校とにわかれておこなわれて、文理学部が御影分校にあった。また、1953年まで数学科が教育学部の赤塚山校舎にあった。
- ^ 現:広島大学総合科学部
- ^ 公立富山高等学校高等科を官立移管して1943年に開校。
- ^ い ろ 『旧制高校物語』 88頁。
- ^ い ろ 『旧制高校物語』 90頁。
- ^ 東京高等学校尋常科は1948年に東京大学附属学校に改組された。翌年、東京大学に教育学部が創設され、同附属学校は1951年、「東京大学教育学部附属中学校・高等学校」が正式名称となった。その後、2000年4月1日に東京大学教育学部附属中等教育学校に移行した。
- ^ 1943年に高等科を官立に移管、尋常科は募集停止の上1946年に閉校。
- ^ 1943年(昭和18年)7月1日、東京都制が施行され 、東京府と東京市を統合する形で東京都が設置された。これに伴い都立高等学校に改称された
- ^ 現:首都大学東京
- ^ 1948年に都立高等学校は、高等科が他の旧制都立学校とともに東京都立大学となり、尋常科は都立新制高等学校に改組された。1950年に東京都立大学附置学校となり、同年東京都立大学附属高等学校と改称した。2005年、東京都の学校改革により、東京都立大学は「都立大学」ではなくなったため、制度上は東京都立大学の附属校ではなくなった。定時制は同年度限りで閉科し、全日制の課程も実質的に2006年度に新設された東京都立桜修館中等教育学校へ吸収されることとなっており2010年度には閉校予定。
- ^ 現:東洋学園大学
- ^ 現:湘南短期大学・神奈川歯科大学
- ^ 3・4年次のみ。1・2年次はA級判定され、徳島医科大学に昇格
- ^ 医学科のみ旧制高等学校へ転換。歯学科は福岡県立歯科医学専門学校を経て新制九州歯科大学に。
[編集] 関連項目
- 高等教育
- 大学予科
- 旧制高等学校記念館
- 旧制学校
- 旧制大学 - 帝国大学 - 旧官立大学
- 旧制専門学校
- 高等商業学校
- 高等中学校
- 師範学校
- 戦後特設高校
- 寮歌 - 学生寮
- ナンバースクール
- 第一高等学校
- 学制改革
- 新制大学 - 教養学部
- 学歴
- エリート
- 東京四大学
- 駅弁大学
- 高専柔道
[編集] 参考文献
- 週刊朝日 『青春風土記;旧制高校物語』(全4巻) 朝日新聞社、1978年 - 1979年
- 秦郁彦 『旧制高校物語』 文藝春秋〈文春新書〉(原著2003-12-20)、初版。ISBN 4166603558。2009-09-24閲覧。
- 海後宗臣(監修) 『日本近代教育史事典』 平凡社、1971年
- 『日本近現代史辞典』 東洋経済新報社、1978年
- 尾崎ムゲン作成「文部省管轄高等教育機関一覧」参照
- 秦郁彦(編)『日本官僚制総合事典;1868 - 2000』 東京大学出版会、2001年
- 「主要高等教育機関一覧」参照
- 『わが青春・旧制高校』(ノーベル書房、1969年)
- 井上太郎 『旧制高校生の東京敗戦日記』 (平凡社新書 2000年)
- 北杜夫 『どくとるマンボウ青春記』(中公文庫)
- 早坂暁 『ダウンタウン・ヒーローズ』
- 百瀬孝 『事典 昭和戦前期の日本…制度と実態』 伊藤隆監修、吉川弘文館(原著1990-02-10)、初版。ISBN 9784642036191。2009-09-13閲覧。
- 旧制高等学校資料保存会 編著『旧制高等学校全書』(第1巻 - 第8巻、別巻)旧制高等学校資料保存会刊行部、1985年訂正版
- ドナルド・T・ローデン (Donald T. Roden) 著、森敦 監訳『友の憂いに吾は泣く―旧制高等学校物語』(上・下巻) 講談社、1983年。(原著 Schooldays in Imperial Japan : A Study in the Culture of a Student Elite)
- 竹内洋 『日本の近代 12 学歴貴族の栄光と挫折』 中央公論新社、1999年
[編集] 外部リンク
- 学制百年史
- 学校系統図表(明治時代~昭和時代)
- 学制百二十年史
- 華麗なる旧制高校巡礼 - 各校校地の現状などを紹介
- 『寮生OBが歌う三高寮歌をお楽しみ下さい』 - 京都大学 吉田寮 同窓会
最終更新 2009年10月11日 (日) 14:45 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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