東京ヤクルトスワローズ

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東京ヤクルトスワローズ
会社名 株式会社ヤクルト球団
創設年度 1950年
所属リーグ
セントラル・リーグ
歴代チーム名
本拠地
明治神宮野球場(東京都新宿区
収容人員 36,011人(明治神宮野球場)
フランチャイズの遍歴
東京都1952年 - 現在)
永久欠番
なし
獲得タイトル
日本一(5回)
1978 | 1993 | 1995 | 1997 | 2001
リーグ優勝(6回)
1978 | 1992 | 1993 | 1995 | 1997 | 2001
成績(タイトル以外)
日本シリーズ出場(6回)(太字は勝利した年)
1978 | 1992 | 1993 | 1995 | 1997 | 2001
クライマックスシリーズ(1回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)
1敗
2009
球団組織
オーナー 堀澄也(代行:鈴木正)
運営母体 ヤクルト本社
監督 高田繁

東京ヤクルトスワローズ(とうきょうヤクルトスワローズ、Tokyo Yakult Swallows)は、日本プロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。

東京都保護地域とし、都内新宿区にある明治神宮野球場専用球場(本拠地)としている。また、二軍イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県戸田市にあるヤクルト戸田球場である。

目次

[編集] 球団の歴史

[編集] 国鉄・サンケイ時代

  • 1949年シーズンオフ、リーグ拡張方針に伴うプロ球団乱立の煽りを受け、各地の国鉄鉄道局(当時)の野球部から選手が引き抜かれる事態が発生した。国鉄は同年の大幅な合理化で労使関係が悪化していることもあり、国鉄職員の団結と意志発揚を目的にプロ球団設立を発案した。当時の加賀山之雄総裁が大の野球好きだったことも、参入実現の一要因となった。
  • 日本国有鉄道法に抵触するため国鉄が直接親会社になることは出来ず、国鉄の外郭団体である財団法人交通協力会が主体となり、財団法人鉄道弘済会日本通運日本交通公社(現JTB)などの企業により「国鉄野球株式会社」を設立。球団名を国鉄スワローズとした(#球団名も参照のこと)。国鉄参入直前のセ・パはともに7球団であり、切りの良い8球団にしたいという思い、それも大企業である国鉄のプロ参入にセ・リーグ関係者は色めき立っていたが、パ・リーグとの勧誘合戦により参入が立ち消えになってしまうことを恐れ、セ・国鉄内部ともに極秘扱いで計画は進められた。参入の下準備も佳境に差し掛かる頃には巷間でも国鉄参入の噂が立っていたが、国鉄がプロ球団など作るはずがないとパ・リーグは高を括っており、参入は至って順調に成功した。
  • 参入が他新球団より遅れていたため選手確保がままならず、自前の鉄道局野球部を中心に他の社会人や大学などのアマチュア野球に残っている人材をかき集めたが、プロ経験者は戦前の一時期阪急に在籍した中村栄ただ1人という状態で、アマチュア野球では強豪の鉄道局野球部もプロでは通用せず、打てばゲッツー守ればエラーという散々な状態。エース・金田正一の投球がチーム成績を左右した。金田の活躍で最下位こそ少なかったが常に4位、5位。順位こそを振るわなかったものの、こと巨人戦では互角かそれ以上の試合を見せ、後楽園の国鉄・巨人戦は関東で最も人気のある対戦だった。
  • 1961年に初めて3位になりAクラス入り。翌年の1962年、年々増大する経営費のために経営主体は交通協力会から鉄道弘済会へと変わっていたが、公共企業・国鉄の球団であるという体面もあり相当の緊縮財政だった。新人選手の契約金は高騰する一方で満足な補強もできず(当てになる戦力は金田だけだった)、同年に起こった三河島事故による批判は球団にも飛び火していた。そして、1963年8月、球団譲渡を前提とした業務提携を産経新聞社、フジテレビジョン(現・フジ・メディア・ホールディングス)と結び、フジサンケイグループとの関係が生じる。この時点で経営主体はフジサンケイグループに移る。
  • 1964年、主催試合を系列のフジテレビジョンで中継するために、本拠地を後楽園球場から神宮球場へ移転する。同年オフ、当時の林義一監督の更迭・留任を巡り産経新聞と国鉄は激しく対立。エース・金田が「林監督がそのまま続投した場合移籍するが、解任された場合は残留する」との声明を出したことから国鉄は頑として林の更迭を主張、一方の産経サイドは他社マスコミ(読売新聞(巨人軍の親会社)、朝日新聞毎日新聞)により「林監督更迭」のスクープを先取りされていたことがあり、両者とも平行線を辿り最終的には経営主体の産経サイドが意見を押し切った。林は留任し、金田は10年選手の特権を行使して巨人に移籍した。金田を失ったことにより国鉄は経営意欲を完全に喪失し、フジサンケイグループへ経営権を全て譲渡して経営から撤退することとした。もとより国鉄球団は業務提携後フジサンケイグループの資金力に丸々依存しており、移譲は時間の問題と見られていたが、喧嘩別れで球団譲渡という結末となった。
  • 1965年5月10日、産経新聞とフジテレビジョンへ正式に球団を譲渡し球団名をサンケイスワローズに改称。
  • 1966年、少年野球ファン開拓のため鉄腕アトムをペットマークに使用しチーム名をサンケイアトムズに改称。同年ヤクルト本社が株式を取得し球団運営に参加。
  • 1969年、産経新聞は本体の業績不振のため株式の一部をヤクルト本社へ売却。球団経営に積極的だった産経新聞・フジテレビジョン社長の水野成夫が病に倒れ、後を継いだ鹿内信隆がフジサンケイグループの事業見直しを行った結果、不採算だったプロ野球からの撤退を決めたもの。当時、ヤクルト本社は水野とは旧知の間柄だった南喜一が代表者を務めていた。表面上は共同経営とし球団名をアトムズと改称運営会社名を株式会社アトムズ球団としたが、実質経営権はヤクルト本社が握った。
  • 1970年1月7日、ヤクルト本社が公式に単独で経営権を持ちヤクルトアトムズに改称。

[編集] ヤクルト時代

[編集] 東京ヤクルト時代

  • 2006年シーズンからは、古田敦也選手兼任監督として指揮を執ることになった。2005年12月19日のプロ野球実行委員会において、古田の悲願だった「東京ヤクルトスワローズ」へのチーム名変更が全会一致で承認され、ユニフォームに国鉄以来となる「Tokyo」の文字が復活した。
  • 2006年も前年同様、リック・ガトームソンノーヒットノーラン等の活躍で交流戦2位になるなど、交流戦で順位を上げたが、交流戦終了後ほぼ5割ラインに停滞し続ける。結果3位となり2年ぶりにAクラスは確保したが、優勝争いにからむことはほとんどなかった。
  • 2007年は怪我に泣かされ続けた1年となった。五十嵐、石井弘寿のいわゆるロケットボーイズが2006年オフに行った手術の影響で1年を棒に振ったのを皮切りにディッキー・ゴンザレスアダム・リグス高津臣吾など主力級が次々と離脱、まったく戦力が整わなかった。シーズン143試合目で1986年以来、21年ぶりの最下位が確定。
  • 8月から東京のUHF東京メトロポリタンTV(TOKYO MX)で今年度初のテレビ中継が開始。以前から年間数試合は中継があったが、近年は1試合も中継が無い年もあった。
  • 2007年9月、古田監督の現役引退及びヤクルト球団からの退団も併せて発表された。なお伊東昭光ヘッドコーチも辞意を表明しているため、最年長のコーチである八重樫幸雄打撃コーチがヘッドコーチ代理を兼任していた。10月25日に日本ハムのゼネラルマネージャーを退任した高田繁が次期監督に就任し、翌26日には西武ライオンズの投手コーチを退任した荒木が次期一軍投手コーチとしてチームに復帰することが決定した。年明けの2008年1月には藤井秀悟などを交換要員する3対3のトレードを日本ハムと行った。
  • 2008年は開幕3連戦で巨人に3連勝するなど4月終了時は3位に立ったが、石川、館山に続く先発がシーズン途中でローテーションを大幅に変更するなど不在、また福地寿樹や青木、飯原誉士をはじめとする俊足の選手が中心となったが、アーロン・ガイエルの離脱などで長打力に欠けた。夏場には北京オリンピックで青木と宮本が抜け戦力が安定せず、シーズン終盤に8連敗(そのうち2試合がサヨナラ)を喫し、CS争いを繰り広げる中日、広島に引き離され5位に終わった。しかし、去年まで完全に崩壊していたリリーフ陣が共に怪我で苦しんでいる中入団した林昌勇と昨年登板が無かった五十嵐亮太の復活と押本健彦の加入、先発で結果が出ない松岡健一が転向して結果を残し完全に整備され、高卒ルーキー由規の登場や、新しくレギュラーとなった若手野手の台頭など来年以降の足がかりを掴んだ一年だった。
  • 2009年1月横浜ベイスターズからFA権を行使していた相川亮二を獲得。FA権が導入されてから初めてのFA補強を行い、長打補強のためジェイミー・デントナを獲得した。
  • シーズン序盤から2位をキープして首位巨人を追走しセ・パ交流戦順位も2位で終え、前半戦で貯金を最大14まで伸ばした。
  • 後半戦に入った途端急失速、8月には1971年8月以来となる月間18敗(7勝)、9月にも1992年以来の9連敗を喫し、更にはチームを支えてきた相川亮二を初め、田中浩康や飯原誉士、宮本慎也、川島慶三といった主戦力が怪我で離脱し、怪我をした宮本が強行出場するなど厳しい状態が続き、一時は阪神や広島に抜かれ5位に転落した。しかし、高木啓充鬼崎裕司の登場で息を吹き返し、10月9日の阪神との直接対決に勝利して3位が確定し、3年ぶりのAクラス入りで初のCS進出を決めた。中日とのCS第1ステージでは石川の好投とデントナの逆転2ランホームランにより第1試合に勝利したが、新型インフルエンザにより選手が離脱したことも響いて中日に2連敗し、敗退した。

[編集] 主な株主

2008年10月1日現在

  1. 株式会社ヤクルト本社 (80%)
  2. 株式会社フジ・メディア・ホールディングス (20%) - LF,CXの親会社(持株会社)

[編集] チーム成績・記録

1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す
  • リーグ優勝 6回 -(1978年、1992年 - 1993年、1995年、1997年、2001年)
  • 日本一 5回 -(1978年、1993年、1995年、1997年、2001年)
  • Aクラス 16回 -(1961年、1974年、1977年 - 1978年、1980年、1991年 - 1993年、1995年、1997年、2001年 - 2004年、2006年、2009年)※
  • Bクラス 44回 -(1950年 - 1960年、1962年 - 1973年、1975年 - 1976年、1979年、1981年 - 1990年、1994年、1996年、1998年 - 2000年、2005年、2007年 - 2008年)
  • 連続Aクラス入り最長記録 4年 -(2001年 - 2004年)
  • 連続Bクラス最長記録 12年 -(1962年 - 1973年)
  • 最下位回数 13回 -(1953年、1960年、1962年、1965年 - 1966年、1970年 - 1971年、1979年、1982年 - 1983年、1985年 - 1986年、2007年)
  • 最多勝 83勝(1997年)
  • 最多敗 94敗(1950年)
  • 最多引分 16分(1978年、1981年)
  • 最高勝率 .631(1995年)
  • 最低勝率 .264(1970年)

※2003年は巨人と同率の3位であり、2002年は巨人は優勝・ヤクルトは2位のため、2005年の開幕権を得られず。

[編集] チーム個人記録

[編集] その他の記録

  • 年間最多併殺打 140個(1996年、セ・リーグ記録)
  • 最小ゲーム差 4.5ゲーム(1973年)
  • 最大ゲーム差 57.5ゲーム(1950年)
  • 最高連勝数 12連勝(1991年)
  • 最低連敗数 16連敗(1970年)
  • 最多本塁打 181本(2004年)
  • 最少本塁打 36本(1951年)
  • 最高打率 .283(2003年)
  • 最低打率 .201(1962年)
  • 最高防御率 2.29(1961年)
  • 最低防御率 4.76(1984年)
  • 連続安打打席数 11(2009年、プロ野球記録&ギネス世界記録)

[編集] 歴代本拠地

フランチャイズ制度の実施は1952年から)

[編集] チーム特徴

[編集] 球団名

「スワローズ」の名称は、国鉄が当時最速を誇った特急列車だった、現在のJR九州九州新幹線つばめ」号に由来する。球団旗には列車に使用されていたつばめマークを採用。「スワローズ」のロゴデザインは国鉄のデザイン室がデザインしたものを今日まで使用している。

  • ニックネーム決定の際、国鉄職員を対象とした公募を行った際、「サービス」「ホイッスル」「弁慶」等の名前も挙がったが、最終案として残ったのが「スワローズ」と「キリバース」(国鉄の紋章“動輪”に由来)の2つである。しかし、“動輪に桐”は一般にそれほど知られていたわけではなく、国鉄内部向けの印象が強かった。一方ツバメは古来よりスピードの象徴でありスピードを重視する野球チームの愛称にふさわしく、またツバメは人の生活圏に営巣する習性があるので、人に愛される球団名として適切であることが考慮され、スワローズの方に決定した、といういきさつがある(徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史』参照)。
  • 元来「燕」は国鉄の象徴的な存在だった。1950年に、国鉄自動車局(国鉄バス)がシンボルマークに「燕」を一般公募で採用しており、現在のJRバス各社がツバメをマスコットキャラクターとして継承しているのもその名残であり、旧丸善石油(現在のコスモ石油。「Oh!モーレツ!!」のテレビコマーシャルで有名。)がツバメのマークを使用していたのも、開業当初鉄道省(国鉄の前身)との繋がりが深かったからである。
  • 『国鉄は当初「コンドルズ」にしようとしたが、本業の鉄道が「“混んどる”ず」ではマイナスイメージだから取り止めた』『「“座ろう”ず」にすれば鉄道業としては快適なイメージだから「スワローズ」を採用した』という俗説が有名であるが、これは漫才のジョークが元ネタである(綱島理友『プロ野球ユニフォーム物語』参照)。なお、似たような俗説は南海ホークスにも存在する(『都市伝説』の該当項目参照)。

[編集] マスコット

[編集] 現在

  • つば九郎 - 1994年登場。スワローズのヘルメットをかぶったツバメ。尻が重いせいか、じれったいほど動きが鈍い。12球団のメインマスコットで唯一ユニフォームを着ていないため、背番号なし。ただし2008年にヤクルトアトムズの復刻ユニフォームを一時期着用しており、その際の背番号は2896(ツバクロと読める)であった。名前は公募により決定され、ツバメの別名「つばくろ」と9回・9人で行う野球の性質を合わせた名前となっている。「つばぜり合いに強く、苦労しながら接戦をものにする」という意味も込められている。自身のブログでは文を全てひらがなで書いている。2008年7月10日、主催試合での連続出場1000試合を達成した。ヘルメットは着脱可能で、外すと小さいリーゼントヘアーである。
  • つばみ - つば九郎の妹。1999年に登場。つば九郎と同様ユニフォームは着用していない(一時期着用したアトムズユニフォームの背番号は283)が、スカートとサンバイザーを着用しているのが兄との違い。当初は眉毛のないつば九郎のような顔をしており、脚は黄色く細長であったが、2007年にイメージチェンジ。顔には短い睫毛が追加され、脚も股引をはいたような状態となり、つば九郎に近づいた。さらにスカートの柄もストライプから無地にかわっている。つば九郎からはバズーカで狙撃されたり、セクハラまがいのイタズラをされる苦労ツバメ。
  • 燕太郎(えんたろう) - 2005年から登場した新顔。燕尾を持たずユニフォームを着込むなど動きがいいように設計されており、スワローズのマスコットでは貴重なアクロバット要員である。ブレイクダンスを得意とし、その身体能力は高い。漫画が好きなようで、2007年マスコットデーで行われた徒競走においてつば九郎は燕太郎に勝つため漫画により気をひく作戦を実施していた。当初の背番号は「102」(登場当時、チームスタッフのつけていた最大番号が「101」だったため)だったが、2008年シーズンより打撃投手となった石堂克利が背番号「102」をつけるようになったため「8960」(ヤクルトのもじり)に背番号が変更となった。最初は裸足であったが、現在は靴を履いている。
    • この内、つば九郎、つばみは1993年ごろのフジテレビのイメージCMに出演したことがある。内容はつば九郎(の役者)がつばみ(の役者)に「結婚してくれ」と愛を告白するが、それをたまたま盗み聞きした石井一久が(兄妹だろ、こいつら)と何故か「兄妹」の立場からツッコミをいれるという内容。

[編集] 過去

  • アトム - 愛称がアトムズだった、1966年から1973年まで使用。漫画「鉄腕アトム」の主人公。
  • ボールの顔をしたマスコット - 1978年登場。つば九郎の前のペットマークに使われたキャラクター。神宮球場にはボールをモチーフにした絵・キャラクターが多く、かなり神宮を意識したものと思われる。
  • ヤー坊 - 1978年〜1979年頃には登場し[1]、つば九郎登場まで存在したツバメのキャラクター。神宮球場での着ぐるみのみだったようで、ペットマーク等に起用されなかった。
  • スーちゃん - ヤー坊と同時期に存在したツバメのキャラクター。

[編集] 応援スタイル

東京音頭に合せて踊るスワローズファン(神宮外野席)

鳴り物応援」および「チャンステーマ」も参照

応援歌では、オリジナルで作曲したものと、従来のポップス曲に声援を加えたものとに分かれる。そして、得点が入るとビニール傘を振りながら東京音頭を歌うのが、スワローズの応援の特色。東京音頭を初めて応援に使用したのは東京オリオンズであるが、東京オリオンズの本拠地移動もあって、1978年の優勝と前後して始められた。神宮の応援団から始まったが、現在は全国で行われている。

  • 近年はチャンステーマにJITTERIN'JINNの「夏祭り」が使用される。
  • 球団のイメージカラーは明るい緑色で、これはヤクルトの球団旗とアトムズ当時のユニフォームのアクセント色に由来する。ユニフォームの配色を赤と紺に変更して以降も、メガホンなどのグッズは依然として緑色のものが継続して販売されている。
  • 東京音頭で振る傘は、緑(または青)のビニール傘もしくは球団が発売している傘が一般的であるが、特に決まっているわけではない。もともと「傘を振る」という応援方法自体が「応援グッズを買わずとも、家にあるもので応援に参加してもらえる」という趣旨で始まった、ということもあり、他の色のビニール傘や普通の傘を振っても、いっこうにかまわない。この傘を使った応援スタイルは、当時の応援団長だった岡田正泰が「少しでもファンが多くいるように見せるために」考え出した苦肉の策だった。
  • 傘応援については危ないという意見があり、横浜スタジアムでは一時期傘を使用した応援が禁止されていた。球場で販売されている応援用の傘は、危なくないように石突の部分を柔らかい素材にしているとされている。また、現在発売している応援用の傘は骨の長さが30cm前後とかなり小さなものとなっており(先端部には別売のつば九郎やつばみのマスコットが取り付けられるようになっている。)、通常の雨傘として使用するには適していない。
  • 他球団ファンは、7回や勝利時にジェット風船を飛ばしているが、神宮球場がジェット風船禁止であることや、上記の傘を使った応援が浸透していることなどから多くのヤクルトファンは「ゴミになるだけ」「神宮外苑の自然環境が悪化する」との理由でジェット風船を使用していない。
  • 本拠地とする神宮球場では、太鼓を使っての応援は禁止されている。詳しくは、明治神宮野球場の項目を参照のこと。そのためにホームの神宮球場ではリズムが取りづらく、全体的にテンポが速くなりやすい。
  • 2006年から選手を紹介する場内アナウンスは2人体制になり、ビジターチームについては通常のウグイス嬢、ホームについては男性DJが担当している。2009年現在、公式DJとしてパトリック・ユウを起用している。

[編集] 近年の戦績

  • 近年、Aクラスを維持する一方で試合消化の遅さが影響して、マジック対象チームになることが多く、2002年から「ヤクルトの敗北で優勝球団のマジックが0となり優勝決定」が3年続く珍事がおこった。
  • 一昔前は常に最下位争いをしていたが、野村監督以降チーム力が格段と上がり1987年から20シーズンにわたり最下位に落ちることがなかった。1991年以降は2006年まで4位以上と安定した成績を保っていた。それに伴って監督在任期間も長くなり平成の21年で監督を務めたのは関根1年、野村9年、若松7年、古田2年、高田2年の計5名である。一時期に常に最下位争いしていた横浜(当時大洋)の10人、阪神の7人に比べると非常に少ない。
  • Bクラスに低迷していた武上四郎、土橋正幸、関根潤三監督時代は、優勝チームの胴上げ試合がヤクルト戦となることが多かった。(83年巨人、85年阪神、86年広島、88年中日、90年巨人)広沢克己は「目の前で何度も胴上げを決められて、いつか俺たちが優勝してやると誓った」と後に語っている。また何故か星野仙一監督時代の中日での2度の優勝と阪神でのリーグ優勝は全てヤクルト戦に絡んだ試合である(88年はナゴヤ球場で99年は本拠地神宮球場でそして03年は阪神甲子園球場での対広島戦でこの時のヤクルトとの対戦相手は横浜である)。ちなみに78年のヤクルト初優勝決定試合の対戦は同じく神宮球場での中日戦である。
  • ヤクルトは日本シリーズに強く、通算6回出場し5回優勝している。唯一日本一を逃した1992年も、黄金時代の西武ライオンズ相手に3勝4敗だった。しかも最終戦は延長に入っての敗退で、当時の評論家たちからも「ヤクルトは大健闘した」と讃えられた。また日本一になった時は、1993年を除いては、ホームで胴上げを行っている(ただし、1978年のみ後楽園球場)。神宮での最後の敗戦は1995年第4戦で、翌第5戦から1997年、2001年の第5戦まで7連勝中日本シリーズで出場経験のない楽天と日本シリーズで敗退経験のない横浜(ちなみにシリーズ出場回数は前身の大洋を含め2回)を除く全10球団で日本シリーズの敗退経験が1回しかないのは現在ではヤクルトだけとなった。日本シリーズ出場回数6回は日本プロ野球史上6位と決して多くはないものの、上記の通りシリーズでの勝率の良さのおかげで日本一5回は巨人、西武に次ぐ歴代3位に位置している。
  • 1990年代は、日本一(奇数年)になった次の年(偶数年)に、その反動で成績を落として(94・96・98年4位)、そのまた次の年に日本一に返り咲くパターンを繰り返したため、球団史上5度の日本一の中で4度が奇数年で記録されている。1992年の西武を最後に日本シリーズを連覇するチームが出ていないが、このようなヤクルトの戦績が、少なからぬ影響を与えていると言える。
  • 2007年に21年ぶりの最下位となる。これにより、平成になって最下位が一度もないのは巨人、西武の2球団だけとなった。

[編集] その他

  • 同じ東京都を本拠地としているだけに、ファンの間では昔から巨人への対抗心は強い。球団も、国鉄時代は「巨人にだけは勝ち越せ」がスローガンだった。しかし松園尚巳オーナー時代は、オーナー自身が巨人ファンであることを明言するなど、後の桑原潤オーナー・野村監督体制まで、フロントの対抗心が比較的希薄だった点は否めない。松園オーナーは球団に愛情を持ってはいたが、いわゆる「出来の悪い子」が好きだったらしく、「(ヤクルトの販路はオフィスでの手売りが大きな割合を占めているので)ヤクルトが巨人に勝つと売り上げが下がるから、巨人には勝たなくていい」と公言していた。1978年のシーズン終盤に当時の広岡監督と面会した際も、「ここまでよく頑張った」と暗に優勝を巨人に譲れと言わんばかりの発言をし、これに監督以下選手たちが反発して初優勝を遂げたという話も伝えられている。
  • 1990年代以前は、スワローズでプレーしたことのない外部招請監督がほとんどであり、特に松園オーナー時代は一貫して巨人軍の大物OBを監督に据えている。このため、生え抜き監督は国鉄時代の藤田宗一、ヤクルト以降は武上四郎若松勉古田敦也の4人しかいない。すなわち古田の監督就任は、球団史上初の「生え抜き同士の監督交代」だった。
  • 国鉄時代には金田、サンケイ〜ヤクルトになってからも若松や松岡弘など球史に残る大選手を擁しながらも人気の面では一貫して低迷を続け、本拠地の主催試合でもスタンドの大半は対戦チームのファンで埋まることが常だった。1978年の初優勝の際にも巨人戦ではジャイアンツファンに囲まれる中でのプレーを余儀なくされたが、1980年代に荒木大輔ボブ・ホーナー長島一茂などのスター選手を獲得してからは徐々に人気を伸ばし、90年代の飛躍へと繋がっていった。
  • 神宮球場の他に、主催試合を行う地方球場として秋田県立野球場(こまちスタジアム)、ひたちなか市民球場いわきグリーンスタジアム松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)等がある。以前は日本各地といって良いほど各地で試合を行っていたが、近年は交流戦等の影響もあり他球団同様減少傾向にある。
    • 千葉マリンスタジアムでも、毎年5月末の東京六大学野球(早慶戦)の際に主催試合が開催されていたが、セ・パ交流戦開催に伴い2005年は7月開催となり、2006年以降は実施されていない。
  • 帽子マーク"Ys"の原型は、1969年 - 1970年のアトムズ時代に遡る(当時は"Ya"マーク)。1994年から変更されている。
  • 帽子マークは、左に大きく「Y」・右に小さく「S」だが、チームのアルファベットでの略称はスワローズの頭文字である「S」としていることが多い。週刊ベースボールの2軍戦日程表では一時球団略称をYsとし、湘南シーレックス横浜ベイスターズ2軍)をSとしていたが、「Sが1軍と2軍で異なるチームを表すのはおかしいのではないか」という意見もあり、ヤクルトをS、湘南をSRに変更した。

[編集] ファンクラブ

  • 年会費
    • プレミアム会員10,000円(2000名限定)
    • 大人会員5,000円
    • 子供会員3,500円(中学3年まで)
  • 特典
  • プレミアム会員(2000名限定)
    • 2007年度
      • 自分で背ネームと背番号(当初後ろのみだったが、現在は前と後ろの両方)が決められるホーム用ユニフォーム(通常のレプリカには付いてこないユニデンのマーク付き)
    • 2008年度
      • 限定ナイキ製プロ選手仕様ジャンパー(プロコレクションでは今後販売しない)
  • 球場特典
    • 全会員共通
    • 球場で期間中にバッジプレゼント
    • 神宮球場開催のオープン戦が会員証提示で無料
    • プレミアム会員、大人会員共通
    • 5試合の外野自由席無料券(ただしオールスターゲーム、プレーオフ、日本シリーズ、東京ドームのアジアシリーズには適用されない)
    • 子供会員(中学3年まで)
    • 全試合外野自由席が無料で試合観戦(ただしオールスターゲーム、プレーオフ、日本シリーズ、東京ドームのアジアシリーズには適用されない)
  • その他特典
    • 戸田球場は元々無料である為、誰でも試合観戦は無料である、その他、大田スタジアム、スワローズ主催の地方球場、東京ドーム(ビジター)、神宮球場の東京ヤクルトの2軍戦が無料で試合観戦が可能。
    • 東京ドームにある野球博物館が割引価格で入場可能
    • スワローズオンラインショップ及びグッズカタログ通販で購入時に10%割引特典
    • オフシーズン、マスターズリーグの試合観戦が当初提示すれば指定席以外内外野自由席が無料で見られたが、観戦割引が適用。

[編集] ファンクラブの歴史

  • 2007年度のファンクラブ会員にプレミアム会員が誕生
  • 2008年度のファンクラブ会員では子供会員以外長年続けていたファンクラブ用の帽子が打ち切りとなった。

[編集] ユニフォームの変遷

  • 1950年 - 1954年 帽子・アンダーシャツ・レター(胸ロゴ・番号)は濃紺を基調とした(レターは白の縁取り入り。1954年ホーム用除く)。また、上着・パンツは白のものとグレーのものが存在(1952年のフランチャイズ制導入に伴い、白=ホーム・グレー=ビジターの概念生まれる)。
    • ロゴは「Swallows」(1953年まで色は濃紺)で縁取りが白・左袖に金糸で国鉄社章のワッペンが入る。
    • 1951年の途中から国鉄のワッペンが外され、シンプルな形となった。また、ツバメのシルエットに「SWALLOWS」のマークが左胸に入ったものもつかわれた。ビジター用はTとKを重ねたマーク(濃紺・白縁取り)、「Swallows」を経て1953年から「Tokyo」となる。
    • 1954年のみホームユニフォームが緑色(帽子のツバとロゴと背番号、アンダーシャツとストッキング)でまとめられていた。ただし、こげ茶色のアンダーシャツもつかわれた。
  • 1955年 - 1960年 レターから白の縁取りが消える。袖・パンツにラインが入る。また、ストッキングに赤が入った。1960年から胸番号が装着され、同時にビジター用の「Tokyo」の書体が変更。
  • 1961年 - 1965年5月 縁取りに赤を使用されストッキングのラインが廃止。1963年から「Tokyo」の書体を変更。1965年のみラインがWラインとなる。同時に国鉄最後のユニフォームとなった。5月10日より、国鉄から産経新聞社へ経営母体が変わり球団名「サンケイスワローズ」に変更されたが、しばらくこのユニフォームが使われた。
  • 1965年6月 - 閉幕 先述の経営母体変更に伴い、チームカラーが濃紺・赤から黒・朱色(産経のコーポレートカラー)に変更される。胸ロゴはホームが濃紺・赤→朱・黒縁にカラー変更、ビジター用は「SANKEI」(朱・黒縁)に変更された。そして、ホーム用の左袖にカタカナで「サンケイ」のロゴ(黒一色)が入り、ビジター用の左袖には「TOKYO」のロゴが入る(時期により、朱・黒縁、黒・朱縁のロゴが存在した)。
  • 1966年 - 1968年 球団名がサンケイアトムズとなり、レターのスペルが全て小文字(斜体文字)の「atoms」が登場。チームカラーが赤とブルーに変更され、アンダーシャツ・ストッキングも青に変更される。夏からビジター用も全て小文字(同じく斜体文字)の「sankei」となる。(※それまでは「SANKEI」)。帽子はブルー地で飾り紐が付き、マークは赤で「a」。背番号も斜体文字が採用される。左袖には『鉄腕アトム』のキャラクター・ワッペンが付く。斜体文字フォントは亀倉雄策が作成(以来、フォント自体は1993年のユニフォームまで残る)。人気ブランド「VAN」が作成。
  • 1969年 - 1970年 チーム名がニックネームのみの「アトムズ」(アトムズは1969年のみ、この年からヤクルト本社と業務提携。翌1970年。ヤクルトが正式に親会社となり「ヤクルトアトムズ」となる)になり、レターは赤に白の縁取り・ラインが赤と白と青の組み合わせとなる。背番号の上に選手名が入る。帽子のマークが「a」から「Ya」(「Y」は赤、「a」はライトブルー)に変更。ホーム用の左袖に「Yakult」のマーク(文字の両脇をコバルトグリーンの左カッコと赤の右カッコで囲ったもの)が入る。
    • ビジター用はスカイブルー地。胸ロゴが「Yakult」となる(サンケイ時代と同じフォント。以来、配色を変えながらも1993年までこのロゴを使用)。
    • シーズン途中からレターが濃紺色に変更。
  • 1971年 - 1973年 三原脩監督就任により、読売ジャイアンツと同じ黒とオレンジを基調としたものへと大幅変更される。帽子、アンダーシャツ、ストッキングが黒、胸ロゴ・背番号・胸番号・選手名が黒にオレンジの縁取り。左袖の「鉄腕アトム」のキャラクター・ワッペンが廃止され「atoms」のマークになり、帽子のマークがYとAを重ねた形になる(色は白)。
    • ビジター用はグレー地になる。
  • 1974年 - 1977年 スワローズの愛称が復活し、球団名が「ヤクルトスワローズ」となる。同時に荒川博監督就任に伴い、ニット素材の丸首ブルオーバー・ベルトレスになり、基本カラーが濃紺と赤へ変更。背中の選手名が消え、番号フォントはゴシック体になる。
    • 帽子、アンダーシャツ、ストッキングは紺、帽子のマークはYとSとを繋げた白になり、帽子のツバは赤。
      • ホーム用は、2005年までの31年間に渡り使用された赤のストライプを採用、「Swallows」ロゴは1965年までのものがそのまま採用。ロゴ・背番号・胸番号は濃紺地に赤の縁取り。首・袖・腰・パンツには濃紺・赤・濃紺のライン。
      • ビジター用は、スカイブルー地に白のストライプ。ロゴ・背番号・胸番号は赤地に濃紺の縁取り。首・袖・腰・パンツには濃紺・白・濃紺のライン。
        • 1975年より、ビジター用の胸ロゴ・背番号・胸番号の縁取りが濃紺から白になる。
        • 1976年より、ビジター用の首・袖・パンツのラインのうち白部分が赤になる。
        • 1977年より、広岡達朗監督の要望により、ベルト式(ベルトの色は赤)になる。また、従来のニット地に加え、サプライヤーであるデサント社の技術により、快適性・軽量化を図ったストライプを施した上でのメッシュ地の上着を阪神タイガースのホーム用と同時期に採用する。
  • 1978年 - 1989年 基本デザインが当時のアトランタ・ブレーブスを意識したものにモデルチェンジされ、これまでの濃紺・赤から青・赤になり、帽子が青一色になる。さらに首、袖、パンツのラインが赤一色、赤のVネックに、ベルトが赤になる。背番号の上には1973年以来の選手名が復活、背番号・胸番号の書体がオリジナルの角文字フォントに変わる。胸ロゴ・背番号は青に赤・白の縁取りになり、胸番号の縁取りは消える。またスパイクの色が赤地に白ラインとなる。
    • ホーム用は赤ストライプが太くなり、左袖に紺地の「Yakult」のロゴ(ビジター用胸ロゴと同じフォント)刺繍が入る。
    • ビジター用はスカイブルーの色がやや落ち着き、白ストライプが消える。左袖には紺地の「Swallows」のロゴ刺繍。
      • 1980年 - 武上四郎監督就任時より、スパイクが白地に赤ラインになり、ゼット社のスパイクとなる。
      • 1982年 - ビジター用の首、袖、パンツのラインが赤から赤・青・赤の3本ラインになる。
  • 1990年 - 1998年 野村克也監督就任により、パンツのライン・胸ロゴ・背番号の赤白の縁取りが消え、二桁の選手の背番号の間隔がやや狭くなる。
    • ホーム用は、マイナーチェンジ。赤ストライプ、Vネックの幅がやや細くなる。
    • ビジター用は大きく変更。光の加減でストライプに見える「シャドゥ・ストライプ」を採用。1977年のストライプメッシュ地のユニフォームを製造したデサント社の技術により実現。胸ロゴ・背番号には白いシャドゥがつき、シャドゥ・ストライプと併せてサッカーのユニフォームを意識したものになる。首、袖のラインは青・白・青となり、胸番号と左袖の「Swallows」ロゴが赤色になる。
      • 1994年には、ホーム用の袖の赤ラインが消え、帽子のYSマークがアトムズ時代に使われた「Ys」型になり、ホーム用左袖・ビジター用胸に入っていた「Yakult」ロゴの書体が、1969年以来の亀倉雄策制作のフォントから改められ、亀倉フォントがユニフォームから完全消滅した。左袖には、ホームのYakult、ビジターのSwallowsのロゴの上に「つば九郎」のペットマークがつく。
      • 1997年には、ビジター用の袖ラインも消え、スパイクの個人契約メーカーでの使用が認められる。
        • 1970年代 - 1980年代、各球団ともビジター用のユニフォームの色はスカイブルー地が定番だったが、1990年代に入ると、各球団が徐々にグレーやチームカラーを施したものを採用しつつあったが、1998年まで12球団で唯一スカイブルー地を使用し続けた。
  • 1999年 - 2005年 若松勉監督就任に伴い、ホーム用が9年ぶりモデルチェンジ。青から紺に戻る。ホーム、ビジター用共ボタン式になり、背番号・選手名の書体が中日ドラゴンズに続いて、メジャー・リーグで採用されているタイプになる。
    • ホーム用は、首周りのラインが消え、赤ストライプがさらに細くなり、幅も狭くなる。
    • ビジター用は、大幅にモデルチェンジし、提携していたクリーブランド・インディアンスのロード用のデザインを踏襲したものになる。
    • 1999年夏場からビジター用のアンダーシャツ、キャップのツバが赤くなる。2000年には紺に戻るが、一時ホーム・ビジター用で、また赤が採用。赤いアンダーシャツ、キャップのツバは2002年に廃止された。2002年に1試合だけ若松監督のゲン担ぎでホームの試合で使用したのが最後である。なお最後に着た先発投手は入来智元投手であり、対巨人戦だったものの負け試合だった。ただし、2005年までユニフォームの登録はしていた模様[2]
      • ビジター用は、本来1998年から導入される予定だったが、前年日本一になったことからゲン担ぎのために当時の監督・野村克也が導入を止めさせた。
  • 2006年 - 2008年 古田敦也選手兼任監督就任、球団あげての観客増員プロジェクト「F-PROJECT」の一環として、「BEAMS」が手がける。ホーム、ビジター共基本カラーは変わらないが、首周りと袖に赤ラインが入り、肩から袖・パンツの腰から足首にかけて細くなる太ラインが入る。ホーム・ビジターともに右肩に「Tokyo」のロゴが入り、さらに選手名の書体が変わり、背番号・胸番号の書体が角が丸い角型に変わる。
    • ホーム用は、1974年より32年間採用されていた赤ストライプが消える。胸ロゴに赤・白・水色の縁取りが入る。
    • ビジター用は、背番号が赤地に白縁取りだったものが、白一色になる。
  • 2008年3月31日、5月の神宮球場主催試合などにおいて、『ヤクルトアトムズ復活シリーズ』と題して、アトムズを名乗った1969年のビジターユニホームを復刻し、一軍全選手が着用して試合に臨むことが発表された。手塚治虫の生誕80周年記念事業として、彼の個人事務所手塚プロダクション協賛で行われる。対象となるのは5月3-5日の読売ジャイアンツ戦、9-11日の広島東洋カープ戦、13-15日の中日ドラゴンズ戦の神宮球場ホームゲーム3カード9試合と、交流戦開幕シリーズの5月21-22日・埼玉西武ライオンズ戦(西武ドーム)のビジターゲーム1カード2試合。なお、西武ドームでの埼玉西武戦では、同じく手塚プロのレオとの共演となる[3]
    • 帽子・アンダーシャツの色は、2008年時点のチームカラー・濃紺になっており、必ずしも当時と同じものではない。
  • 2009年 - ヤクルト球団設立40周年を記念し、3年ぶりにホーム、ビジターのデザインを一新した(デザインは引き続きBEAMSによる)。選手名と背番号の書体が変更されている。スパイクは白から紺に変更。左袖にはつば九郎とは異なるツバメの顔がデザインされている。ホーム用はゼット製、ビジター用はミズノ製。
    • ホーム用は2006年使用モデルを基本に、太ラインを赤、ロゴマークを白と赤・紺に変更。
    • ビジター用はライトグレー地を基調にしている。
    • ホーム用交流戦ユニフォームは、国鉄創設時のユニフォームが使用されている(背番号上の選手名のローマ字表記はない)。

[編集] スポンサー

セ・リーグでは、各球団の申し合わせにより、2002年度からホーム用ユニフォームに限定して、スポンサー広告を掲載できるようになった。スワローズでは2005年まで掲載していなかったが、2006年のユニデンから広告が入る。

  • ユニフォーム左胸 ユニデン(2006年度 - 2007年度、オフィシャルパートナーシップ契約)
  • ユニフォーム腰 インテル(2007年度)
  • ヘルメット レノボ・ジャパン(2007年度)
  • ユニフォーム左胸 ゼット(2009年度オフィシャルパートナーシップ契約)

[編集] 歴代監督

太字は優勝達成監督

※1 ここからサンケイスワローズ
※2 ここからサンケイアトムズ
※3 ここからアトムズ
※4 ここからヤクルトアトムズ
※5 ここからヤクルトスワローズ
※6 1979年は8月17日まで指揮、残り試合は佐藤孝夫が代行
※7 1984年は4月26日まで指揮、5月22日までは中西太が代行
※8 ここから東京ヤクルトスワローズ

[編集] 永久欠番

球団として公認された永久欠番は無い。欠番的な背番号には以下のものがある。 生え抜きで、かつ対象者が推薦が必要とされる。

  • 1若松勉
    1989年、若松の引退時に、背番号1番を永久欠番にとの署名などが多く集まり、球団が「生え抜きのみの選手が背負う準永久欠番」として当面欠番とすることを決定。入団当初「36」を着けていた池山が1991年オフに「1」を希望して1992年から昇番。2001年に池山が「1」を返上して「36」に戻ったのに伴って岩村に継承された。2006年限りで岩村がメジャーに移籍し、「1」を青木宣親に打診したが辞退したため、再び欠番となった。
  • 27古田敦也
    2007年限りで引退した古田の功績を称え、球団は同年10月11日に「27」を“名誉番号”とすると発表。「実績を積んだ捕手だけが使用できる番号」で、生え抜き・移籍を問わず着用に相応しい選手が現れるまでは欠番となる。 なお、2009年に横浜ベイスターズからフリーエージェントで移籍した相川亮二に打診したが、辞退された。古田敦也の前には、根来広光加藤俊夫大矢明彦と、1985年まで歴代の国鉄→サンケイ→ヤクルトの正捕手が着けていた(1986年から1989年の途中までは空き番だったが、1989年の途中から投手のロン・デービスが着用)。

[編集] 歴代の球団歌・応援歌

アトムズ〜ヤクルトアトムズ時代
  • アトムズマーチ(1969年製作。1970年にヤクルトアトムズとなったとき歌詞を一部変更した。歌手は1969年のものがボニー・ジャックス、1970年の歌詞変更バージョンは砂川啓介
ヤクルトスワローズ〜東京ヤクルトスワローズ時代
  • とびだせヤクルトスワローズ(歌:松岡弘) - 球団公式応援歌。
    • 新とびだせヤクルトスワローズ(大洋ホエールズが横浜ベイスターズにチーム名を改めたのに伴い、関連する箇所の歌詞を変更したヴァージョン)
    • とびだせ東京ヤクルトスワローズ - 新とびだせヤクルトスワローズの「ヤクルトスワローズ」の部分の歌詞に「東京」を加えた替え歌
  • ビクトリーロード(歌:ILYS(アイリス)) - 神宮球場で勝った場合、最後に場内で流す曲。1980年代頃と、2000年前後に流されていた。現在は使用されていない。1978年9月発売。
  • ディスコ翔べスワローズ! - 1979年5月発売。当時のディスコブームに乗って発売された。
  • スワローズ音頭 - 1983年4月発売。坂上二郎はじめ、荒木大輔・松岡弘・梶間健一尾花高夫大矢明彦角富士夫大杉勝男若松勉らのスワローズ選手がコーラスを務めている。
  • 君こそヒーロー - 「スワローズ・ビクトリー・マーチ」。球場では、ドリマトーンの演奏で使われたが、実際の曲は優勝セレモニーなど特別な場合以外は流されなかった。2006年以降、応援団によって四死球による出塁・盗塁成功時などのテーマとして使用されている。
  • 青春のダイヤモンド - スワローズの球団歌。
  • ラッキー・セブンの歌 - 1995年9月1日発売。
  • We Are The Swallows - 2009年 ヤクルト球団創設40周年を記念し、新しい応援ソングとして制作。作詞・作曲は林田健司。2009年より応援団によって安打による出塁のテーマとして使用されている。

[編集] 主なキャンプ地

[編集] キーワード

[編集] 下山事件とプロ野球参入

1949年にセ・パ2リーグ分立騒動が起こるが、当初国鉄は公共企業体という性質上、プロ野球参入には消極的だった。

一方、1949年7月5日、国鉄総裁・下山定則が失踪し、常磐線綾瀬駅付近の線路上で謎の轢死体で発見された(下山事件)。その後下山の死因をめぐり、2リーグ分立の主役である読売新聞毎日新聞の報道面での相違(読売と朝日新聞が他殺体と報道しているのに対して、毎日が自殺と報道した)があった。

歴史の項でも触れたように2リーグ分立が具体化されると国鉄野球部員の集団引き抜きも相次ぎ、国鉄職員の団結力の向上を目指し、下山から総裁を引き継いだ加賀山之雄が、1950年1月に国鉄スワローズを結成。どちらのリーグに参加するかで話題となったが、「鉄道マンは鉄道自殺をしない」という験(げん)もあり、自殺説を報じた毎日主導のパ・リーグへの参加を断固拒否し、他殺説を報じた読売主導のセ・リーグへの加盟申請を行ったといわれている。

※この項の参考資料『ザ・真相』(2004年10月11日放映・テレビ東京

[編集] フジサンケイグループ

1963年に国鉄球団と業務提携を結んだフジテレビジョンは、当時後楽園球場のテレビ放映権が日本テレビ放送網しか与えられていなかったため、当時東映フライヤーズがメイン球場としていた神宮球場を本拠地にすることを前提に球団経営を引き受けたといわれる。その後先述どおり1965年のシーズン開幕直後に正式に球団譲渡を受け入れてサンケイ(産経)スワローズ(1966年からサンケイアトムズ)とした。

国鉄から球団を買収した産業経済新聞社、フジテレビジョンは共にフジサンケイグループの企業。1970年に産経新聞は球団経営から撤退したが、ヤクルトは引き続きフジサンケイグループが球団を後援する事を条件に経営を引き受けたという。2000年にヤクルト球団の第三者割り当てで、産経撤退後も5%弱の球団株を保有していたフジテレビは従来の分も併せて20%程度の株式を引き受ける事となり、球団と業務提携を締結した(以降、スタッフ社員も代替わりし、スタッフはほとんどフジサンケイグループの者が取り仕切り、資金面、管理はヤクルト本社系統、チームの運営等はフジサンケイ系統からヤクルト球団に転入したもので構成されているという)。

これに伴い、フジテレビと同じフジサンケイグループのラジオ局・ニッポン放送も従来以上にヤクルト球団をバックアップすることとなったが、しかしながらそのニッポン放送は1979年以来横浜ベイスターズ(旧:大洋球団)の株式を保有し、フジテレビがニッポン放送(ニッポン放送ホールディングス)を吸収した2006年以降、フジテレビが横浜株を34万株(30.77%)保有している。同一企業およびそのグループが複数の、しかも同一リーグに所属するチームに関与している事が長年の問題になっているが(実際横浜が筆頭株主をニッポン放送に変更しようとした際に他球団のオーナーの猛反対にあいTBSが筆頭株主となった)、2005年にゴールデンイーグルスのオーナーである楽天が、横浜ベイスターズのオーナー(約70%保有)であるTBSとの資本提携を図った際に、根来コミッショナーは「楽天とは異なり、フジテレビは横浜、ヤクルト両球団に対して実質的な支配権を持っていない」との見解を示している。

尚、フジテレビONEフジテレビジョンのCS衛星放送)では、これまでの巨人戦の地上波とのトップ&リレーナイターに加え、2005年から巨人戦以外の主催ゲーム全62試合(交流戦(日本版インターリーグ)18試合含む)を『SWALLOWS BASEBALL L!VE』という題でCS衛星放送独占中継することになった(これまではフジテレビが資本参加するJ SPORTSで放送されていた)。

[編集] セ・リーグ最低打率

1962年のセ・リーグは3割打者が1人という投高打低のシーズンであったが、その中でも国鉄のチーム打率は.201(313得点)であった。これは2リーグ制以降の最低の記録である。

[編集] 最少観客動員

サンケイアトムズ時代の1966年10月12日川崎球場[4]で開催された中日ドラゴンズ戦ダブルヘッダーでは、2試合ともたった100人の観衆しか集まらなかった。これはプロ野球の最少観客動員記録である。サンケイはその前日の10月11日にも同球場で広島カープ戦ダブルヘッダーを開催したが、こちらもそれぞれ250人、300人しか入らず、シーズン終盤の消化試合とはいえ、不人気ぶりを露呈する結果に終わった。

[編集] 試合球到着遅延事件

サンケイアトムズ時代の1967年10月9日横浜公園平和野球場[4]で行われた中日ドラゴンズ戦ダブルヘッダーでの出来事。試合で使用する予定の公式球を搬送していたスポーツ店の自動車が交通渋滞のあおりを受けてしまい、試合開始予定の正午を過ぎても到着しないというハプニングが起きた。

その為公式記録員がセ・リーグの鈴木龍二会長に連絡を取ったところ、鈴木は「応急処置として中日側の了解を得て練習球で試合をするように」と指示を出したものの、中日側はこれを拒否。結果的には公式球の到着を待って37分遅れで試合が開始された。当時セ・リーグのアグリーメントでは「ダブルヘッダーで試合を行う場合、第1試合は日没5時間前までに開始しなくてはならない」と定められていたことから、中日の西沢道夫監督は「このままでは第2試合は中止になってしまうのではないか」と抗議したが、日程調整上当初のダブルヘッダー開催を強行した。

[編集] 初優勝決定の日

1978年10月4日、ヤクルトは地元・神宮で中日ドラゴンズを相手に試合をした。ヤクルトの応援席であるライト側外野席には「国鉄スワローズ→サンケイアトムズ→ヤクルトスワローズ初優勝!! 29年間のご支援ありがとう」という旨の横断幕が既に試合前から掲揚された。そして圧倒的な9-0のリードで迎えた9回1アウト1塁から谷沢健一の打球がセカンドゴロからのゲッツーとなり、念願の地元胴上げで初優勝を達成したのである。

決定の瞬間、選手らが1塁ベンチから飛び出して広岡達朗監督を胴上げすると、興奮の余りに客席からグラウンドに飛び出したファンからも祝福の胴上げや拍手をし、優勝記念の表彰式どころの騒ぎではなくなっていた。この模様はフジテレビから全国に放送された。

更にバックスクリーンのスコアボードにもセ・リーグ参加の他5チームに対するお礼のコメントを書いた垂れが掲げられた。

阪神タイガースはその年、球団創設初の最下位だった。この前年までセ・リーグ6球団中、最下位シーズンの経験がなかったのは阪神だけであり、この1978年でセ・リーグの全球団(消滅した西日本パイレーツを除く)が優勝と最下位を経験したことになる。

[編集] 背番号17番

背番号17番は、スワローズのエースナンバーとして正統に受け継がれている。現在までの着用者は以下の6名。

[編集] 開幕129試合連続得点

初優勝した1978年、ヤクルトは開幕戦から完封負けも0-0の引き分けもなしの記録を129試合続け、ついにシーズン最終戦(対広島)を迎えることになった。広島の先発はプロでは完投経験もなかった2年目の大野豊で、シーズン全試合得点の大記録達成は確実と思われた。ところがこの大野をヤクルト打線は打ち崩すことができずプロ入り初完封勝利を献上、あと一歩のところで記録を逃した。前年からの143試合連続得点は当時の日本記録。のちにシーズンを跨ぐ形の記録は更新されたが、1シーズン全試合得点の記録は2009年までまだ達成した球団はない。

なお、大野はその後ヤクルト戦を得意とするようになり、1998年に引退するまで通算31勝10敗(大野自身の現役通算成績は148勝100敗)、1985年から88年までは12連勝を記録した。

[編集] 1978年の日本シリーズ

詳細は「1978年の日本シリーズ」を参照

[編集] 使用球場変更[4]

1978年、ヤクルトは前身の国鉄時代から数えて29年目で初のリーグ優勝を決定し、日本シリーズに駒を進めた。しかし、神宮球場を本来使用するべきところだったが、この時期は東京六大学野球リーグ戦、東都大学野球リーグ戦と開催日が重複しているため、日本シリーズのナイター開催、あるいはその逆で学生野球のナイター開催を双方が提案したが折り合いが付かず、この年のシリーズのヤクルト主催ゲームは後楽園球場に代替して開催された。

その後、1992年・1993年の日本シリーズは学生野球をナイター開催とし、日本シリーズ(デーゲーム開催)の神宮開催が実現している。

[編集] 上田抗議に大杉の2発

ヤクルトと阪急(現在のオリックス)が共に3勝3敗で迎えた第7試合(10月22日)、ヤクルトが1-0でリードして迎えた6回裏、当時の4番・大杉勝男選手がレフトポールぎりぎりにホームランを放った。しかし、これが後楽園球場のレフトポールを切れてスタンドに入ったのではないか(即ちファウルボールではないか)と、阪急の簑田浩二選手と上田利治監督らが抗議。

一時阪急は放棄試合も検討し始め、「審判があんな判定をするんだったら変えるべきだ」とまで要求してしまい、挙句の果ては金子鋭コミッショナーが阪急のベンチに説得するまでの事態に発展。「(コミッショナーである)ワシが頭を下げてもダメなのか!?」と言わせてしまうまでに上田監督は試合再開をかたくなに拒否し、結局1時間19分という日本シリーズ史上最長の中断時間を経て試合が再開された(この時点で上田監督は辞任を決意していたという)。

尚、この時の上田監督と金子コミッショナーの会話はテレビ中継の集音マイクで拾われており、そのまま放送されていた。

異様な雰囲気が続く中、大杉はベンチの中で「人の仕事にケチをつけやがって」と1人憤慨していたという。その後8回裏に「正真正銘のホームラン」を放ち、阪急に引導を渡した。大杉はこのシリーズのMVPを獲得している。

なお試合終了=優勝決定後、1塁側内野席で日本一を称えるくす玉が割られると同時に、リーグ優勝の時同様ファンがスタンドから飛び出し、広岡監督を選手共々胴上げする光景が見られた。

[編集] 本拠地で優勝チームの胴上げ

ヤクルトは1985年1986年に2年連続で最下位になったが、1985年は阪神タイガースの優勝、翌1986年は広島東洋カープの優勝と2年連続で本拠地の神宮球場で許した。2年以上連続で最下位になったチームがその内2年以上連続で自分たちの本拠地で敵将の胴上げを許しているのはセ・リーグではヤクルトだけである。87年以降神宮球場での他球団胴上げは99年の中日ドラゴンズだった。しかし、2008年マジックナンバーを2とした読売ジャイアンツが神宮でスワローズに勝ち、同日遅れてマジック対象の阪神タイガースが敗れたため読売ジャイアンツの優勝が決定。神宮球場で胴上げとなった。(日本シリーズでは92年の西武ライオンズがある)

[編集] 日本プロ野球選手会脱退

1985年日本プロ野球選手会労働組合の資格を得た。だが、当時のオーナー松園尚巳は「(親会社の)ヤクルト本社をはじめ、グループ内で労組を結成している会社は無い」として、ヤクルト選手会を労組選手会から脱退させた。

この際、本社側からは「表向きには“労組脱退は選手の自発的な行動”とするように」などとする緘口令が敷かれたが、脱退を表明する記者会見で当時の選手会長角富士夫が声明文を読み上げる際『表裏一体』を“おもてうらいったい”と誤読してしまうハプニングがあった。

プロ野球選手会には労組格と社団法人格の2組織があるが、ヤクルト選手会は、一方の社団法人格の選手会に関してはオーナー側から継続参加が認められた。当時のプロ野球選手会総会は社団法人格の総会と労組格の総会とを同時に行うことが多かったが、労組格を脱退している間、ヤクルト選手会幹部は労組総会が行われる際には全員退席していた。

しかし1989年、当時の球団社長桑原潤が「労組といっても、政治的な背景があるわけではない」と活動に理解を示したことなどから、ヤクルト選手会は労組選手会に復帰した。

[編集] プロ野球史上最長試合

1992年9月11日の対阪神戦(甲子園)で記録(6時間26分)。

この試合、3対3で迎えた9回裏、阪神八木裕のレフトへの当たりが、一度はホームランと判定されて阪神のサヨナラ勝ちと思われたが、ヤクルト側の抗議を受けエンタイトルツーベースに訂正される。今度は阪神側が抗議し、この判定を巡って37分間中断。結局エンタイトルツーベースで試合が再開されるも、共に優勝を争う両軍は譲らず、7回からロングリリーフした岡林洋一の力投もあり、延長15回引き分けに終わった。

この記録は2005年シーズン終了時でも破られておらず、また延長の規定が12回までと短縮されてしまったので、当分は破られそうにない。

なお、中断なしでの最長試合もヤクルトがらみ(1996年9月8日対横浜戦(下関) 6時間19分)である。

交流戦での最も遅い終了時間としては、これもヤクルトがらみで2006年5月21日のヤクルト-ソフトバンク戦において0時12分という終了時刻を記録した。なお、この時は東京六大学野球が長引き、試合開始時刻が30分遅れていた。

[編集] 幻の「優勝決定プレーオフ」

1992年のセ・リーグは史上まれにみる混戦となり、9月下旬の段階でヤクルト、阪神、巨人、広島の4チームに優勝の可能性があるという状態だった。最終的に優勝の可能性が残ったヤクルトと阪神が、同率で並ぶ可能性があったため、急遽「プレーオフ委員会」が開かれ、「2勝したほうが優勝とし、第1戦を甲子園、2戦目を神宮、3戦目を東京ドームでおこなう」プレーオフを実施するとあらかじめ決定していた。第3戦が東京ドーム開催とされたのは、最終戦(10月11日)と日本シリーズ開幕(10月17日)の間にわずかな日数しかなく、雨天での順延を避けるためである。当時公式戦に使用できるドーム球場は東京ドームだけだった。

甲子園で最後の直接対決2連戦を阪神が連勝すれば、プレーオフ実施となったところだったが、その1戦目(10月10日)でヤクルトが勝って優勝が決定し、プレーオフは幻に終わった。

[編集] 高得点の1点差試合の日本記録

1993年5月19日・神宮球場での広島東洋カープ戦は、1回表に広島の先頭打者が一塁手・広沢のエラーで出塁するという、はなから波乱じみた幕開けとなった試合。ヤクルトの先制後に広島が逆転するが、ヤクルトが3回裏に池山隆寛の1イニング2本塁打(3ランと満塁)などで逆転した。しかし、広島もジワジワと追い上げ、ヤクルトはこの年から抑え投手となった高津臣吾を投入するが、8回に追いつかれてしまう(この試合の頃では高津は抑えとして信用されていたわけではなかった)。結局試合は延長戦に突入し、広島はエース佐々岡真司までも投入するが、午前0時を回った延長14回にヤクルトがサヨナラ勝ち。この試合がヤクルトの快進撃と広島の急降下のきっかけとなった。

試合終了後、インタビューに答えた池山が「1イニング2ホーマーが昨日のことのようだ」と話したが、すでに午前0時を回っていたため、本当に昨日のことだったという笑い話がある。 なお、この試合のスコアは以下のとおり。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14
広島 0 1 4 2 1 1 1 6 0 0 0 0 0 0 16
ヤクルト 2 0 11 0 1 0 2 0 0 0 0 0 0 1X 17

[編集] 1995年の開幕3連戦

1993年の日本一から、1994年は一転してBクラス(4位)へ転落。さらに主軸の広沢克己ジャック・ハウエルの2人が前年優勝の巨人へ移籍、そしてその巨人と開幕3連戦でぶつかることとなり、ヤクルトは最初から正念場に立たされた。初戦は斎藤雅樹に完封され、続く第2戦も桑田真澄に8回まで完璧に抑え込まれ、連敗の気配が濃厚となったその時、桑田が飯田哲也に頭部死球を与えてまさかの一発退場。突然の登板に戸惑う巨人のリリーフ投手陣に連打を浴びせ、土壇場で大逆転勝ちを収める。続く第3戦も接戦で制して、まさかの開幕戦勝ち越しを果たし、これがこの年の優勝へ繋がるシーズンの分岐点となった。

この「頭部死球は即退場」というルールは、この前年のヤクルト-巨人戦で、ヤクルトの西村龍次が巨人の村田真一の頭部に死球を与えたことを発端に定められたもので、それが皮肉にもヤクルトを利する結果となった。

[編集] 1997年優勝

シーズン開幕前、オマリーが退団し4番が不在になり、落合の獲得を目指したが失敗。オマリーの後釜として期待された新外国人のホージーもキャンプで酷評されオープン戦でも不調で悲壮感が漂っていた。一方開幕戦の相手で連覇を目指す巨人は清原和博ヒルマン石井浩郎を獲得。優勝の大本命に挙げられていた。

迎えた開幕戦、巨人の先発は4年連続開幕戦完封勝利を目指す斎藤雅樹。しかしヤクルトは広島から移籍した小早川毅彦の3打席連続本塁打で斎藤を粉砕。野村克也監督が「135分の135。負けたら終わり」とまで言い切っていた開幕戦の勝利で勢いづいたチームは開幕ダッシュに成功。さらに怪我の高津臣吾に代わって伊藤智仁がストッパーに定着、抜群の安定感を見せる。また開幕前からダメ外人の烙印を押されていたホージーのまさかの活躍などもありペナントレースを独走。このまま優勝かと思われたが8月頃から横浜が猛追。最大10あったゲーム差を2.5まで縮められた。しかし大事な横浜との天王山で石井一久がノーヒットノーランを達成し勢いを取り戻し、最終的には横浜に11ゲーム差をつけ、開幕から1度も首位の座から転落することなく優勝した。

[編集] 2001年のリーグ優勝

シーズン開幕前は、川崎憲次郎の退団・伊藤智仁の怪我などがあり先発投手陣に不安を抱えていたため前評判は例によって著しく低かった。しかし、先発の穴を藤井秀悟入来智前田浩継の新戦力で埋め前半戦を2位(勝率では1位)で折り返す。

後半戦は開始当初は好調を維持していたが8月下旬に古田敦也が負傷し戦線離脱すると徐々に成績が低下。9月の2位巨人ホーム・ビジター各3連戦では3連敗を喫し、残りを大きく勝ち越さないと逆転優勝を許すという窮地に立たされる。しかし、その巨人がシーズンを4連敗で終えたうえ、ヤクルトも直後の中日との4連戦(ナゴヤドーム)で4連勝して再び突き放し、10月6日の横浜スタジアムで優勝を決めた。

そしてこのシーズンのキーワードのひとつになったのが勝ち数優先の順位決定である。2001年、セ・リーグは勝数で順位を決定、ただし、勝数が最も多い球団と勝率が最も高い球団が異なる場合はプレーオフで優勝決定する方式へと変更し、マスコミ等に掲載される順位表も勝数順とされた。しかし各球団試合消化数には違いがあり、実際に優位に立つのは勝率の高いチームだった。

ドーム球場をフランチャイズとし順調に試合を消化した巨人に対し、雨天中止があるヤクルトは例年に比べさらに試合消化が鈍かった。このため前半戦終了時には巨人の方が試合数が多いため勝数も多く首位に立ったが、勝率ではヤクルトが上回り、ゲーム差(勝数優先の順位表では表示されなかったが)でも4.5差をつけていた。この「隠れ首位」の状態は8月まで続き、ヤクルトはその間首位の重圧から解放され、巨人は首位にも関わらず追いつめられた状況に陥るなど、順位決定制度が精神的にヤクルト側へ有利に働くこととなったといわれている。

このような経緯があったためか、2002年からは勝率優先の順位へと戻った。ただし、2007年のクライマックスシリーズ導入までは勝率が最も高い球団と勝数が最も多い球団とが異なる場合はプレーオフで優勝決定する事は変わらなかった。

[編集] 史上最速でのサイクルヒット

2003年7月1日横浜ベイスターズ15回戦(松本市野球場)で、3番・右翼で先発した稲葉篤紀は第1打席から三塁打、本塁打の順に放ち、5回先頭の第3打席で単打、さらに打者一巡した第4打席で二塁打を放って、日本プロ野球史上56人目となるサイクルヒットを達成。5回でのサイクル達成は史上最速イニングの記録だった。試合は6回終了後に雨が激しくなったためコールドゲームとなり11-5でヤクルトが勝利したが、サイクル安打がコールドゲームで記録されたのも日本プロ野球史上初めてのことだった。

また同日、当時福岡ダイエーホークスに在籍していた村松有人も、大阪近鉄バファローズ16回戦(大阪ドーム)で史上57人目のサイクル安打を達成した。同じ日に2選手がサイクル安打を達成したのも、これが日本プロ野球史上初めてのことだった。

[編集] 巨人との相性

近年は巨人との相性の悪さが目立つ成績が続いている。

ヤクルトは巨人のエースだった上原浩治(現ボルチモア・オリオールズ)を大の苦手にしており、1点差や2点差の僅差の試合でも完投を許していた。その中には1-0というスコアで完封勝利させてしまう試合まであった。ちなみに、ヤクルトの上原との通算対戦成績は勝利数、三振数、勝率、総得点ともにダントツでリーグワーストである。さらに、上原の自己最高記録である1試合14奪三振を2度も許している。上原に1試合14奪三振を許しているのはヤクルトと楽天だけである。

その他にも桑田真澄をはじめとして苦手投手が多く、これが響いてかヤクルトは優勝した2001年から毎年巨人に負け越し続けている。2001年や2004年2005年2006年はセ・リーグ5球団の中で対巨人戦は勝率、敗数共にリーグワーストであり、特に巨人がBクラスに転じた2005年はその上原や桑田が大不振に陥っており、巨人が低迷していたにもかかわらずヤクルトは彼らからなかなか点を取ることができず、セ・リーグ5球団の中で唯一巨人に負け越した。

2007年はチーム自体が低迷している中、7月6日-8日の神宮球場での3連戦で3連勝し、負け越しを阻止するかに見えたが、その後は4連敗を含む連敗を重ね、9月11日に5-6で巨人に敗れ、7年連続負け越しが決定。同年10月2日の東京ドームでの試合で1点リードの9回裏、宮本慎也の悪送球でサヨナラ負けを喫し、1990年以来の17年ぶりに東京ドームでの巨人の胴上げを目の前で見ることとなった。

2008年はチームの主砲だったアレックス・ラミレスと前年の最多勝投手セス・グライシンガーが巨人に移籍し、開幕カードこそ3連勝したものの、その後は一方的に負け続け、9月5日に13敗目を喫し8年連続負け越しが決定。巨人がリーグ優勝マジック2とした10月10日の試合でも敗北し、マジック対象チームである阪神も敗北したため巨人の優勝が決定し、本拠地である神宮球場での胴上げを許すこととなり、巨人が2年連続でヤクルト戦で胴上げを行った。

2009年は9月4日の試合で4勝12敗1分けとなり、9年連続で巨人戦の負け越しが決定。球団史上ワーストを更新という不名誉な記録を打ち立ててしまった。

前述のラミレス、グライシンガー以前にも1994年オフにはジャック・ハウエル広澤克実が、2002年オフにはロベルト・ペタジーニと、チームの主力選手が相次いで巨人へ移籍するという事態となっている。この移籍はヤクルトファンだけでなく野球ファンからも巨人に対して多くの批判がある。2008年オフにもヤクルトを解雇されたディッキー・ゴンザレスを巨人は獲得している。

  • ヤクルトの対巨人戦対戦成績(1988年以降)
年度 監督 ヤクルト順位 勝利 敗戦 引分 巨人順位
1988年 関根 5位 13 12 1 2位
1989年 関根 4位 7 19 0 1位
1990年 野村 5位 7 19 0 1位
1991年 野村 3位 14 12 0 4位
1992年 野村 1位 13 13 0 2位
1993年 野村 1位 12 14 0 3位
1994年 野村 4位 11 15 0 1位
1995年 野村 1位 17 9 0 3位
1996年 野村 4位 7 19 0 1位
1997年 野村 1位 19 8 0 4位
1998年 野村 4位 11 16 0 3位
1999年 若松 4位 12 15 0 2位
2000年 若松 4位 16 11 0 1位
2001年 若松 1位 12 16 0 2位
2002年 若松 2位 10 18 0 1位
2003年 若松 3位 13 14 1 3位
2004年 若松 2位 10 17 1 3位
2005年 若松 4位 10 12 0 5位
2006年 古田 3位 8 14 0 4位
2007年 古田 6位 10 14 0 1位
2008年 高田 5位 6 18 0 1位
2009年 高田 3位 5 18 1 1位
  • 監督別・対巨人対戦成績
監督 対巨人対戦成績 勝率
西垣徳雄 18勝60敗1分 .231
藤田宗一 21勝31敗0分 .404
宇野光雄 56勝71敗3分 .441
砂押邦信 20勝30敗3分 .400
浜崎真二 16勝12敗0分 .572
林義一 19勝37敗0分 .340
飯田徳治 14勝38敗2分 .270
別所毅彦 24勝54敗2分 .308
三原脩 28勝49敗1分 .364 
荒川博 38勝37敗3分 .507
広岡達朗 31勝40敗7分 .437
武上四郎 50勝69敗11分 .421
土橋正幸 16勝31敗3分 .341
関根潤三 27勝47敗4分 .365
野村克也 111勝125敗0分 .471
若松勉 83勝103敗2分 .449
古田敦也 18勝28敗0分 .392
高田繁

(監督がシーズン途中で交代した場合も、そのシーズンはその監督の成績としてカウント)

[編集] ロケットボーイズ

2人のリリーフ投手五十嵐亮太石井弘寿のコンビ。五十嵐は日本人右投手最速の158km/hの直球を、石井は日本人左投手最速の155km/hの直球をそれぞれ持った球界最速のリリーフコンビとしてその名を轟かせている。「ロケットボーイズ」という愛称自体は、2002年5月にファンの公募により決められた。

もともとリリーフエース・高津臣吾へ繋ぐセットアッパーとしての役割を果たしていたが、高津がFAシカゴ・ホワイトソックスに移籍したことにより2004年から五十嵐がストッパーとなる。五十嵐は抑えの守護神として2004年度、リーグ最多の66試合に登板し球団新記録となる42セーブポイントを挙げ最優秀救援のタイトルを獲得した。一方の石井は2004年度、故障とアテネオリンピック出場でチームを離れることが多かったが、後半戦における登板機会は多く、中継ぎエースとして活躍した。先発投手から石井→五十嵐への継投はヤクルトの盤石の投手リレーだった。

[編集] 勝利の方程式

2008年から、トレードで獲得した押本健彦、シーズン途中に一軍に昇格した松岡健一、怪我で離脱していた五十嵐亮太、韓国リーグから獲得した林昌勇の4人で試合を締めくくる継投。

先発投手→押本・松岡・五十嵐(順不同)→林昌勇の流れで勝利を掴むというもの。2008年のシーズン中は、終盤まで安定感があったが、終盤で8連敗を喫してしまう根源となってしまう。しかし、他のチームの中継ぎに比べて4人の平均防御率もそこまでは悪くなかった。

2009年からは押本の不振もあり、松岡→五十嵐→林昌勇の流れで試合を締めくくっている。

同年6月29日、「新・勝利の方程式」(松岡・五十嵐・林昌勇)の3投手の愛称(応募当時はリレーの名前)をファンから募集し、8月19日に『ツバめ組』に決定した。

[編集] 社会人野球大会出場

2005年、スワローズの2軍は社会人野球の公式戦の一つ「JABA日立市長杯争奪大会」に初出場した。社会人野球の大会にプロの2軍チームが出場するのは広島東洋カープJABA広島大会2002年から毎年恒常的に参加しているのと、2003年福岡ダイエーホークスが1年限りでJABA九州大会に参加したが、それに次ぐ3例目である。チームは同年4月の大会で沖縄電力明治安田生命日立製作所と4チームによる総当り方式の予選リーグ戦を行ったが、1勝1敗1分けの成績で予選通過はならなかった。

2006年、スワローズ2軍は再び日立大会に参加。予選リーグではJR東日本東北東京ガス住友金属鹿島と同ブロックに振り分けられ、2勝1敗のブロック1位で予選を突破。決勝トーナメントに進出したが、同大会で優勝した富士重工業に1-6で完敗し、またも優勝を逃している。

2008年、2年ぶりに日立大会に参戦。予選リーグ初戦で鷺宮製作所に敗れるも、東海理化日立製作所に連勝してブロック1位として決勝トーナメントに進出した。準決勝では日本通運と対戦したが、タイブレークが適用される延長戦で敗れて4強に終わっている。

2009年、予選リーグ初戦で住友金属鹿島に完敗したが、その後TDK三菱重工横浜を零封し、ワイルドカード(予選リーグ2位チームのうち最高成績)で決勝トーナメントに進出した。準決勝では富士重工業に1-5で敗れ、参加した3大会連続で4強に終わった。

[編集] F-Projectとヤクルトタウン

2005年秋に古田敦也が監督に就任し、日本プロ球界では29年ぶりとなる選手兼任監督が誕生した。日本プロ野球選手会の会長でもあった古田は、かねてから「ファンにとって、プロ野球をもっと身近な存在にしたい」という想いが強く、また2004年球界再編問題で自ら奔走した経験から、その想いをより強くした。そこで監督就任と共にファンサービス向上や地域密着の強化などを柱とした球団改革構想「F-Project」の活動を同年11月1日に開始した。

F-Projectの「F」はFuruta(古田)の他、プロジェクトが目指すFan(ファン)、Fun(楽しむ)、Full(満員の球場)の3つの言葉を表しており「よりファンと選手・チームの距離を身近なものにして、本拠地の明治神宮野球場をスワローズファンで満員にし、且つ単に応援するだけでなく、ファン自らチームに参加してもらい、共に楽しみを分かち合いたい」という願いが込められていた。プロジェクトには古田の他、ヤクルト球団職員、外部からもカカクコム社長の穐田誉輝(当時。現相談役)や芸能・放送関係者を招聘し、IT産業やマスメディアを巻き込んだ球団の多角的経営を目指すことを打ち出した。同年11月23日に神宮で行われたファン感謝デーに合わせて、球団モバイルサイトのURLのQRコードが刷り込まれた名刺が作成され、当日は古田自らファンにこの名刺を配布するパフォーマンスが繰り広げられた。また都内の企業ともオフィシャルパートナーシップを締結、カカクコムの他、家電製造業のユニデンとも契約した(2006年からホーム用ユニフォーム左胸部分にロゴマークを掲出)。また都民参加型のチームを作るという観点から東京都民銀行ともスポンサー契約を締結した。

さらに古田は球団に対し、当時の球団名「ヤクルトスワローズ」に「東京」を冠し、地域密着をアピールすることを提案した。古田は1990年代半ばから契約更改交渉の席などで球団幹部に対し「球団名に都市名か地域名を入れることはできないか」と提案を続けてきたものの実現には至らなかったが、球団もF-Projectの立ち上げを機に協力することを決定。球団名を「東京ヤクルトスワローズ」と変更した(同年12月19日のプロ野球実行委員会で承認)。なお、球団名に「東京」を冠していた球団は過去に例があり、戦前の東京巨人軍(読売ジャイアンツ)、東京セネタース大東京軍(いずれも消滅)、戦後の東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)の4球団。東京オリオンズは1969年を最後に「ロッテ」に改称したが、東京ヤクルトはそれ以来37年ぶりに「東京」を冠する球団となった。また、これを機に神宮球場がある明治神宮外苑周辺の新宿区港区渋谷区の3つの特別区をホームタウンと位置づけ、「スワローズタウン(ヤクルトタウン)」と銘打って地域密着活動を行う方針も決定した。

このF-Projectが立ち上げられた背景には、ヤクルトの主催公式戦の観客動員数が慢性的に減少していたという事実がある。14年ぶりのリーグ優勝を果たした1992年には2,477,000人を集めたが、以後は徐々に減少。2005年から動員数は実数発表となったが、同年は130万人台にとどまった。本拠地の神宮球場ではスワローズファンの来場者減少が顕著な一方でビジター球団のファンの来場者が多く、ビジター側のファンがスワローズファンの数を上回ることがしばしばある。特に読売ジャイアンツ戦や阪神タイガース戦ではビジター側の三塁・左翼側だけにとどまらず、あぶれた観客がホーム側の一塁・右翼側に入場するケースも多い。こうした現状に対し、選手会長の宮本慎也は「かなり複雑な気分。観客数が多くても自分たちを応援してくれる人が少ないのは寂しい」、五十嵐亮太も「神宮はヤクルトの本拠地だが、阪神ファンの方が多い」と語るなど、選手の間からも現状を憂える声が挙がっており、スワローズのファン層を拡大し、来場者を増やすことが求められていた。

また、神宮球場でのデーゲーム開催数を増やす方針も打ち出された。神宮球場は学生野球(東京六大学野球連盟東都大学野球連盟)公式戦のスケジュールが優先されているため、ヤクルト主催公式戦は4月初旬の週末を除き、ほとんどがナイター開催となっていた。だが2005年から球団は学生野球側と積極的に折衝を行うようになり、デーゲームの開催数が増加。東都リーグが開催されている6月にもデーゲームが開催されるようになった。さらにF-Projectの活動開始に伴って折衝が行われた結果、2006年には東都リーグに割り当てられていた5月3日5月4日のデーゲーム枠を取得(代わって東都はナイター開催)、集客力の高いゴールデンウイークのデーゲーム開催を実現した(神宮球場の使用権については明治神宮野球場#優先使用権も併せて参照)。

この他、都内を本拠とする他のプロスポーツチームとの提携も積極的に進め、2006年7月にはJリーグFC東京と「東京のスポーツ振興」に共同で取り組むと発表。双方のファンの取り込みを目指した共同キャンペーンなどを展開している。また同年9月にはbjリーグ東京アパッチとも提携を結んだ。2009年からはヤクルト球団・FC東京・大井競馬場による3者共同キャンペーンも行なっている。

なお古田の引退・監督辞任により、F-Projectは2007年シーズンをもって活動を終了したが、球団は2008年以降もファンサービスの改善に取り組む意向を示している。

[編集] 主な活動

  • 2006年 - プロジェクト初年度は「チームとファンの新しい関係」をテーマに、ファンに親しまれる球団をアピールする活動を行った。
  • 2007年 - 2年目は「ファンによる、ファンのための神宮」がテーマ。前年はファンの来場回数増加など一定の成果を挙げたが、ファンから寄せられた意見を反映して、より楽しめる環境づくりを目指した。

[編集] 主な企画

応援メッセージボードデー
紙・または布に選手への応援メッセージを書いてもらう(手持ちのみ可。所定サイズあり)
仮装応援デー
ファンにコスプレをして応援してもらう。その出来栄えを審査し、優勝者に黄金の傘をプレゼント(傘振りコンテストという東京音頭などに乗って傘を持って応援する技術を競うコンテストもあり(優勝者には黄金傘のプレセントあり))
メガネデー
古田監督がメガネをトレードマークにしていることや、アイメトリックス社とコマーシャルキャラクター契約を結んでいることなどもあって企画されたものである。この日は球団関係者(選手含む)は皆メガネを着用して会場入りする。ファンもメガネ(伊達メガネもOK)を着用し、面白いものを審査して賞品をプレゼントする企画もある。詳細は古田敦也#野球に関する話題も併せて参照。

[編集] 明治神宮外苑創建80年記念奉納試合

明治神宮外苑創建80年を記念して、2006年11月4日に東京六大学選抜とスワローズのアマ・プロ交流試合が実施された。「この一戦、球界史上初」と銘打たれたこの試合は、シーズンオフにも関わらず23,010人の観衆を集め、東京六大学合同応援団とスワローズ私設応援団とのエール交換など普段見られないシーンもあって盛り上がりを見せた。試合はスワローズが3-2と接戦を辛うじて制し、プロの意地を見せた。なお、記念試合は1度のみの予定であるが、古田監督は継続実施を希望するコメントを出しており、今後も継続して行われる可能性もある。

ベンチはクラブハウス位置の関係でスワローズが1塁側、代わりに東京六大学選抜が後攻となった。通常内野席に陣取る東京六大学の応援団も、この日は外野席での応援だった。スワローズのメンバーは、帰国済みの外国人選手とFA移籍を控えた岩村明憲が欠場したものの、出場選手はほぼ一軍に在籍した選手が出場している。なお、同日に東京ドームで実施されていた日米野球のメンバーに選ばれていた青木宣親が、早稲田大学出身ともあってこの試合に出場し、その後ナイター開催の日米野球にも出場するダブルヘッダーをこなした。

[編集] セ・リーグ1試合最多タイホームラン

2007年7月11日広島東洋カープとの対戦において、両チーム12本のホームランを放ち、延長11回参考記録ではあるが1試合の合計本塁打数のセ・リーグ最多タイ記録を樹立した。また、1試合8チーム本塁打はスワローズの球団新記録である。試合は延長11回、ラミレスのサヨナラホームランでスワローズが12-10で勝利した。

なお、この日は強い南風が吹いており、バックスクリーンから外野方向へのいわゆる『ホームラン風』がこの結果に影響したと、試合出場した宮本慎也等が後に証言している。

[編集] 11打数連続安打(ギネス世界記録に認定)

2009年6月14日京セラドーム大阪で行われたオリックス・バファローズ戦の5回の攻撃で11打席連続安打のプロ野球新記録をマークした。先頭の3番青木宣親から2番田中浩康まで9人連続単打。青木の四球を挟んで、アーロン・ガイエルの本塁打でタイ記録とし、飯原誉士の二塁打で記録を更新した。試合はスワローズが14-10で勝利した。翌月の2009年7月13日ギネス世界記録に認定となった。なお旧記録のうちの一つは千葉ロッテマリーンズが同年6月11日に記録した10打数連続安打(タイ)だった。

  • ヤクルト5回表の攻撃
    • 青木宣親 中前安打
    • ガイエル 中前安打
    • 飯原誉士 左前適時安打
    • 宮本慎也 投前内野安打
    • デントナ 左前適時安打
    • 相川亮二 左前適時安打
    • 川島慶三 左前安打
    • 武内晋一 一塁適時内野安打
    • 田中浩康 中前適時安打
    • 青木宣親 四球
    • ガイエル 満塁本塁打
    • 飯原誉士 二塁打

[編集] 人事面に関する問題

東京ヤクルトは国鉄、サンケイ時代を通じた過去において、一軍で長年活躍し実績を挙げたチームの功労者を厚遇する一方、不振が続くと実績如何にかかわらず容赦なく人事整理を行ってきた一面がある。

[編集] 広岡監督電撃辞任騒動

1978年広岡達朗監督の下で球団史上初の日本一を勝ち取ったヤクルトは、翌1979年は開幕から失速し下位に沈んだ。7月、当時の球団オーナー松園尚巳はヘッドコーチの森昌彦、投手コーチの植村義信の両名を二軍降格するよう広岡に勧告。しかし広岡は現場一任を求め、事態は一旦収束した。ところが翌8月、突如として当時の球団社長が森、植村の無期限休養を一方的に発表した。また一連の動きが球団幹部からメディアに漏洩していたこともあって広岡は8月17日に電撃辞任、同日の読売ジャイアンツ(巨人)戦は広岡、森、植村の3人が不在のまま、打撃コーチの佐藤孝夫が代理監督を務める異常事態となった。結局このシーズンは最下位に沈み、その後ヤクルトは実に14年もの間リーグ優勝から遠ざかり低迷を続けた。

[編集] 広沢克己への「君の時代は終わった」発言

1984年秋のドラフト1位でヤクルトに入団した広沢は、ルーキーイヤーの翌1985年から主軸に定着し、チーム内・ファンからも愛された選手だった。ところが9年目のシーズンを終え、自身二度目のセ・リーグ打点王を獲得し主砲やリーダーとしてチームを15年ぶり日本チャンピオンに導いた1993年オフ契約更改交渉の席で、チームの看板選手としてのプライドを持っていた広沢に対し、既にチームの顔は広沢から急成長を遂げた古田へと移っていると考えていた球団社長は、「君の時代は終わった」と発言し、大幅年俸アップと幹部待遇を目論んでいた広沢の要求を拒んだとされる。後輩古田の方を重んじる球団の姿勢にショックを受けた広沢は、FA権を行使して翌1994年オフ、フリーエージェント宣言し読売ジャイアンツに移籍した。

[編集] 古田選手兼監督に「引退勧告」

2007年選手兼任監督古田敦也はかねてから傷めていた右肩の回復具合が思わしくなく、出場試合数も8月の段階で僅か3試合にとどまっていた。古田自身はシーズン序盤の段階で現役引退を決意し、シーズン終盤にタイミングを計った上で現役引退を表明する心積もりだった。一方、球団幹部は古田との2年契約が切れることから翌年以降の契約交渉を行うため、8月上旬の段階で「2008年以降は監督専任とし、現役は今季限りで引退」という条件を提示する意向を示していた。ところが、この旨を鈴木正球団社長がメディアを通じて公表したことで、これが事実上の“引退勧告”となったことから古田は態度を硬化、交渉は暗礁に乗り上げた。結局東京ヤクルトがクライマックスシリーズ進出を逃しBクラスが確定した段階で、古田は「チームの不振の責任を取りたい」として現役引退、さらに監督も退任して退団する旨を表明した(当時の状況に関する詳細は古田敦也#現役引退、監督退任へも併せて参照)。

[編集] 高津臣吾、突然の戦力外

10月10日には高津臣吾が戦力外通告を受けた。また通告の旨を発表した際、鈴木は報道陣を前に「(“早めに去就を相談し、お別れ出場などの配慮を行うべきだったのでは”という問いに)それが配慮だとは思わない。現役を続けたければトライアウトを受ければいい」と発言した。この高津の解雇に対して球団には約600件の苦情が寄せられた。これを受け、球団は10月15日になって球団Webサイトに鈴木名義で謝罪文を掲載した。高津はその後、シカゴ・カブスとマイナー契約を結んだものの、結果を出せず3月中旬に解雇された。2008年6月に韓国プロ野球・ヒーローズと契約し、韓国での選手生活は同年秋にNHKスポーツ大陸で紹介された。

[編集] 主力選手の相次ぐ移籍

2004年シーズンオフの稲葉篤紀北海道日本ハムファイターズ移籍、2007年シーズンオフの石井一久埼玉西武ライオンズ移籍、同オフのアレックス・ラミレス、セス・グライシンガーの読売ジャイアンツ移籍、更には極秘に進んでいた藤井秀悟他の日本ハムへの電撃トレードなどのようにベテラン選手の移籍が相次ぎ、若手選手への急速な世代交代を進めている。ちなみに2009年現在では宮本など数えるほどの人数しかベテラン選手がいない。

[編集] 本拠地移転に関するエピソード

[編集] 後楽園球場から神宮球場移転の経緯

1964年当時後楽園球場の放送権は日本テレビのみに放送権があり、国鉄から球団株が渡った産経新聞社、当時ニッポン放送と文化放送の合資子会社のフジテレビは放送権を持っておらず、当時東映フライヤーズが後楽園球場に移転した事により、フランチャイズを後楽園球場から神宮球場に変えた。しかし、内部抗争により金田正一投手等を放出することとなった。

なお当初は神宮第2球場を本拠地にすることを計画していたが、グラウンドサイズが公式野球規格に適合しない恐れがあることや、第2球場をアマチュア専用にしたいという意向・学生野球連盟の反対運動まであったことなどから第2球場の改修を見送って、本球場を通年利用できる専用球場として登録した。

[編集] 宮城球場移転誘致構想

2004年6月、宮城県の複数の市民団体がヤクルトスワローズを同県仙台市宮城球場に誘致する活動を開始した。宮城球場は1973年から1977年までの5年間、ロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)が暫定的に本拠地とするなど多数のプロ公式戦が開催されていたが、近年は老朽化や狭隘化など設備の陳腐化が著しく、県の財政難などもあり改修・改築もままならない状況で、その打開策としてプロ球団を誘致する構想が浮上した。またヤクルト球団は神宮球場の使用契約更新を1年毎に行っているが、これが不安定要素であるとして「ヤクルトが本拠地移転を検討している可能性がある」との噂から、活動を活発化した。ただし当時、ヤクルト球団はその旨の意思表示は全く行っておらず、飽く迄も東京に本拠地を置き続けながら、空白地帯だった東北地方の仙台でも定期的に主催試合を行い、サブフランチャイズとして市場開拓する意向があったと一部夕刊紙等で報じられた。団体は非公式ながら署名など誘致活動を行い「5年後を目途に誘致したい」という意向を見せていたが、直後にオリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズの合併問題に端を発する再編騒動が勃発、その後は宮城県を保護地域とする新規参入球団の構想が浮上した事により、同県のヤクルト誘致構想はそれに引き継がれる形で消滅した。宮城県の球団誘致は、東北楽天ゴールデンイーグルスとして実現している。

[編集] 助っ人外国人選手

ヤクルトは助っ人外国人選手のスカウトの成功が多いチームとして有名であり、ヤクルト入団1年目からチームの勝利に貢献、もしくは個人タイトル争いを掻き回すダークホース的存在となる選手が非常に多く、1992年にはジャック・ハウエル、1995年にはトーマス・オマリー、2001年にはロベルト・ペタジーニがMVPに輝いている(但し、オマリーは阪神タイガースから移籍した外国人選手である)。ちなみに、外国人選手が3度MVPに選出されているチームは他に大阪近鉄バファローズのみ。また、他球団から移籍してきた外国人選手も成功しているケースが多い(例:オマリー、ヘンスリー・ミューレングレッグ・ラロッカなど)。そのため、オフシーズンになるとヤクルトの外国人スカウティングに注目しているメディアやファンも非常に多い。この外国人選手の活躍の理由に関しては「駐米スカウトが優秀である」「球団の新外国人獲得の方針が上手い」など諸説ある。しかしながら、年俸の高騰により契約が難航・交渉決裂し最終的に退団・他球団へ移籍してしまうことが多い(例:セス・グライシンガーリック・ガトームソンアレックス・ラミレスなど。過去にはボブ・ホーナーラリー・パリッシュジャック・ハウエルロベルト・ペタジーニなど)。また、入団1年目から活躍する選手が多いものの、2、3年目以降は成績が下降してしまう選手が多いのも事実である(例:デイヴ・ヒルトンテリー・ブロスドゥエイン・ホージーケビン・ホッジスアダム・リグスなど)。

[編集] スワローズ戦の放送権事情

[編集] 地上波ナイター中継での放送事情の歴史

※デーゲーム地上波中継は時々、フジテレビテレビ朝日テレビ東京NHK、ビジターでTBSで放送される為、ここではヤクルト対巨人戦以外での地上波ナイター中継のみ表示する。

  • 1953年 日本テレビ巨人主催試合と同じく放送権を保有。
  • 1964年 国鉄スワローズからサンケイスワローズに改称し、球場も後楽園球場から神宮球場に変更した為、日本テレビから放送権が外れる。(なお現在日テレはヤクルト球団と無関係の東京六大学野球中継と日米野球等のイベント時のみ神宮球場から中継することがある)。
  • 1964年 フジテレビ、テレビ朝日、TBS、NHKでの放送権が拡大された。対巨人戦の全国中継を主体に放送。それまでは後楽園以外の主催ゲームを僅かに放送する程度だった。
  • 1967年 東京12ch(現・テレビ東京)で地上波放送を開始。巨人戦以外が中心。当初はフジテレビに制作を委託し、その後自社制作に移行した。
  • 1976年 TBSが放送権から外れる。
  • 1978年 優勝マジック1になりかかった時に地上波放送が多くなる。
  • 1981年 - 2001年 巨人戦以外の中継はテレビ朝日が放送時間延長なしで年数回全国ネットで実施した。時折西武ライオンズ主催ゲームとの二元中継も実施した。フジテレビは巨人戦以外は対戦相手の地元局向けの技術協力と、地方球場での週末のデーゲーム中継が主体となる。
  • 1992年 サンテレビで神宮球場での対阪神戦ビジター放送開始。
  • 1992年 優勝マジック1になりかかった時に12年ぶりに放送が見直され、フジテレビでは初めて番組を差し替えて放送。
  • 1995年 東京MXテレビが開局し放送される事が期待されたが、神宮球場の対中日戦のみ中継が開始されるにとどまる(現在に至るまでヤクルト戦中継は年間数試合ほどしか放送しない)。
  • 1997年 優勝マジック1になりかかった時の放送では『ダウンタウンのごっつええ感じ』を差し替えて放送し、スペシャル放送を1週遅れにした事による出演者とスタッフとの対立により、打ち切りに追いやった伝説がある。
  • 2001年 東京MXテレビがサンテレビの阪神戦を取り扱う様になり、時々甲子園球場と大阪ドームでの中継で放送される様になる。
  • 2001年10月4日世にも奇妙な物語』を中断して神宮球場での対阪神戦を緊急野球中継として生放送したが、引き分けに終わる。10月6日にはドラマ再放送枠を打ち切って放送された。
  • 2003年 日テレ系列で放送中の広島市民球場での広島対巨人戦が雨でノーゲームとなり、残りの時間は甲子園球場で阪神対ヤクルト戦を放送した。
  • 2003年9月11日 当時、放送権を対横浜戦しか取り扱わなくなっていたtvkで神宮球場の対阪神戦(サンテレビ製作)をネットした。
  • 2005年 巨人戦の視聴率不振により、ヤクルト戦がCS送りになり、初めてフジテレビ地上波で深夜放送される。なおBSフジは未放送。
  • 2006年 巨人戦の視聴率不振により、テレビ朝日でも東京ヤクルト戦の放送分がBS朝日に鞍替え放送が多くなった。
  • 2007年 巨人戦の視聴率不振により、その中でも巨人戦中継を増やす考えを持っていたテレビ東京にも放映権が渡された。テレビ東京でヤクルト主催試合放送は久しぶりの事となった。(オープン戦・裏送りは除く)
  • 2007年10月7日 古田敦也引退試合の模様を『新報道プレミアAスペシャル』内で放送(ただしアナウンサーとのからみなし)。

[編集] BS局での放送事情の歴史

  • 2000年12月1日BSフジが開局し翌年シーズンから開始。しかし横浜戦だけ優先させられ打ち切りとなり2002年〜2007年までの6年間、2006年のオールスター中継以外BSフジでは未放送だった。またBS朝日BSジャパンも開局したが、BS朝日はテレビ朝日の東京ヤクルト戦が放送できない場合はナイター中継をカバーをするが、BS朝日、BSジャパンは巨人戦以外の東京ヤクルト戦ナイター中継は1度も放送していない(セ・パ交流戦を含む)。
  • 2006年当初テレビ朝日で放送予定だったヤクルト対巨人戦を急遽BS朝日で放送するという措置を取った。
  • 2008年8月19日BSフジにて2001年の日本シリーズ以来(2006年のオールスター戦を除く)7年ぶりに神宮球場での東京ヤクルト主催の野球中継を放送、なお対巨人戦をBSフジ開局以来初中継を行う、なおCS放送フジテレビONE・フジテレビNEXTと同じ実況・解説陣を起用し、映像もCS放送の映像を19時〜20時55分まで中継(8月20日9月6日10月10日10月11日も中継を行う)。
  • 2008年10月10日、BSフジにてレギュラーシーズンの東京ヤクルト主催の野球中継初の延長放送を行う、ちなみに地上波では中継されず、BSフジとフジテレビONEのみによる巨人優勝決定試合を中継し、神宮球場内でパブリックビューイングで流されたTBSニュースバードの横浜対阪神戦の映像を一部流した。

[編集] CS局での放送事情の歴史

  • 1996年パーフェクTV開局、しかし、放送数が少なかった。
  • 1996年ディレクTV開局、パーフェクトチョイスで神宮球場の中継のみ一部テレビ神奈川運営の横浜ベイサイドTVでの放送があるものの、全試合放送カバーされる。ただし地上波とは違って有料放送。
  • 1998年ディレクTVとパーフェクTVが合併し、スカパーが開局。ホーム&ビジター含め全試合視聴可能になる。
  • 2002年CS日本開局により、東京ドームでの巨人対ヤクルト戦が時々見られなくなる現象が起る。
  • 2004年CS日本がスカパー2と合併し、スカパー!110(後のe2byスカパー!、現スカパー!e2)が誕生。G+がスカパーでも放送開始した為、東京ドームでの巨人対ヤクルト戦が時々見られなくなる現象が解消される。
  • 2005年フジテレビONEが巨人戦を除く主催全試合を『SWALLOWS BASEBALL L!VE』として全試合放送する。2007年からは対読売ジャイアンツ戦を「プロ野球中継」枠で放送、2008年からはSWALLOWS BASEBALL L!VE枠で放送。また、2008年4月放送分からはフジテレビNEXTでもハイビジョン放送となる(F1が優先されるため、一部試合は従来通りONEのみ放送)
  • 2007年9月27日、jsportsの編成が間に合わなかった為、e2byスカパープロモ100ch及びスカパーパーフェクトチョイスのスペシャル放送として広島市民球場の対東京ヤクルト戦のビジター中継を無料放送。
  • 2007年9月30日、27日と同上、jsportsの編成が間に合わなかった為とjsportsでは1度もダブルヘッダーの中継をした事がない為、e2byスカパープロモ100ch及びスカパーパーフェクトチョイスのスペシャル放送として横浜スタジアムの対東京ヤクルト戦のビジター中継のダブルヘッダーを無料放送される予定だったが、9月30日の中継が雨で中止になり、予備日に放送される事となった為、10月8日と9日に分割され、ナイターで放送された。なお10月9日が古田敦也の最後の出場試合となった。

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ

[編集] 脚注

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  1. ^ 1978年〜1979年に在籍したデイヴ・ヒルトンの本塁打を出迎える写真がベースボール・マガジン社に残っている(参考:「ベースボールマガジン1994年秋季号 一冊まるごと大特集 プロ野球の華 本塁打がすごい!」 - 23ページに写真掲載)。また、1979年頃の漫画「がんばれ!!タブチくん!!」でホームランを打った選手を出迎えるシーンが描かれている。
  2. ^ 「プロ野球ユニフォーム物語」(2005年3月ベースボール・マガジン社発行)より。
  3. ^ヤクルト、アトムズユニホームを復刻 日刊スポーツ』 2008年3月31日 閲覧。
  4. ^ 神宮は原則として学生野球を優先するため、1978年の日本シリーズ以外にも消化試合がデーゲームで行われる場合は関東の他球場で消化した試合がある。

[編集] 外部リンク


最終更新 2009年11月18日 (水) 13:12 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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