沖縄返還

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沖縄返還(おきなわへんかん)とは、1972年5月15日に、沖縄県施政権アメリカ合衆国から日本に返還されたことを指す。

目次

[編集] 背景

日本復帰署名運動(1954年)

第二次世界大戦講和条約で、1951年に署名された日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)では、潜在的な日本の主権は認めながらも、アメリカ合衆国の施政権下に置かれるものとされ、1952年4月28日に発効した。そこでアメリカは、「行政主席」を行政の長とする琉球政府を置き、公選の議員で構成される立法機関「立法院」を設けるなど一定の自治を認めたが、最終的な意思決定権はアメリカが握ったままであった。

1950年6月25日朝鮮戦争1965年2月7日ベトナム戦争がおこり、アメリカは施政権下においての自治から軍事基地としての重要性の方向に変わっていく。その間にも各地に半ば力ずくでアメリカ軍基地・施設を建設し、またアメリカ兵による事故・事件が頻発し県民の死傷者も相次いだ。このころから県民はアメリカの施政に落胆し、県民有志は「島ぐるみ闘争」といった抵抗運動を起こす。日本の佐藤栄作政権は1970年に予定される日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約延長と共に本土復帰を緊急の外交課題としたが、70年安保延長反対を唱える日本社会党日本共産党は本土復帰を訴えつつも、安保と同列の沖縄返還論に反発した。

一部の新左翼学生運動、各種労働組合は反安保・反返還の一大運動を日本国内で繰り広げた。しかしこれらは、沖縄県民の運動とはほとんど結びつかず、県民の真意とはかけ離れたものとなった。

1970年12月20日未明、沖縄本島中部のコザ市(現・沖縄市)で、米軍兵士が連続して起こした2件の交通事故を契機にコザ暴動が発生した。常日頃から米軍兵士が優遇され沖縄県民が不当に差別されたことに対するコザ市民の怒りが表面化したもので、これ以上沖縄県をアメリカ軍政下に置くことは適当でないと内外に知らしめた。

[編集] 返還へ

1969年の日米首脳会談で、アメリカ大統領リチャード・ニクソンが安保延長と引き換えに沖縄返還を約束したが、公選の行政主席である屋良朝苗や復帰賛成派の県民の期待とは裏腹に米軍基地を維持したままの「72年・核抜き・本土並み」の返還が決定し、1972年5月15日に日本へ復帰した。佐藤はニクソンとの取り決めで、非核三原則の拡大解釈や核兵器持ち込みに関する秘密協定などアメリカの利益を最大限尊重した。

また、日本政府は返還協定第7条にもとづき特別支出金として総額3億2000万ドルをアメリカに支払った。特別支出金の内訳には米軍政下で設置された琉球水道公社琉球電力公社琉球開発金融公社のほか、那覇空港施設・琉球政府庁舎あるいは航空保安施設、航路標識などの民生用資産の引き継ぎの代金1億7500万ドルが含まれていた。日本政府は取り決めに従いこの巨額の対価を支払った。これについて、松山大学の田村譲教授など一部の者は、県民の間から「これらの施設・資産は無償譲渡されるべきものであって、アメリカ政府に対価を支払うのはおかしい」といった批判が噴出したとし、そのため「沖縄県は日本政府によって金で買い取られた」との非難が挙がっていた、と主張している[1][2]

これらの過程はベトナム戦争に伴うアメリカの財政問題や貿易収支とも関係しており、アメリカ政府の支出削減のためのベトナム戦争終結(中華人民共和国との国交樹立および中華民国との国交断絶)、収入増のための沖縄返還(上述のバーター)、貿易収支改善のためのニクソン・ショックへと繋がる。しかしその後、2度のオイルショックでアメリカの財政が悪化すると日本政府は思いやり予算の支出に迫られ、足元を見られ続けることになる。

[編集] 返還後の沖縄

※ 現在の沖縄の詳細については「沖縄県」「沖縄県の歴史」を参照すること。

1978年7月30日には車両の通行が左側通行に切り替えられ(730)、本土同様の道路交通法が適用されるようになった。また復帰に伴って自衛隊が置かれた。

返還後は道路・病院・学校など公共投資に力が入れられ、また数々の優遇税制や特例や諸税の免除が実施され、本土並みの生活水準への到達が官民一体となって目指されている。しかし返還から30年以上経つ現在でも、1人あたりの県民所得が全国最低のままである。

経済体質は、米軍基地・公共事業・観光が柱となっており、製造業などの有力な地域産業は十分に育っていない。一方で小泉改革の一環として行われた各種特区構想をきっかけとして、コールセンターやデータサーバーが誘致されるなど、新たな産業作りも始まっている。また、沖縄県出身者の地元志向の強さを狙って、人材流動の激しい本土ではなく、沖縄でのIT開発拠点を作ろうとする動きも一部に見られるようになってきた。

現在も沖縄県外の日本を「本土」「内地」「大和」と言う慣習がある。


[編集] 脚注

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  1. ^ 松山大学法学部教授・田村譲のホームページ - 用語解説「☆沖縄返還☆」第10パラグラフ[1]
  2. ^ 沖縄タイムス「特集 米軍ヘリ墜落」2004年9月6日付朝刊『県政の姿勢に怒り』[2]: 「米軍や日本政府の基地行政にも一切協力しないと脅しをかけてもいいのでは。それ(主体性のある県政)ができないのは沖縄を金で売った弱みなのか」

[編集] 関連項目

最終更新 2009年9月13日 (日) 12:55 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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