爵位

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爵位(しゃくい、Title)とは主に古代から中世にかけての国家や現代における立憲君主制に基づく国家において貴族や国家功労者に対して血統または功労に基づき授与または世襲により継承される血統別・等級別の栄誉称号のことである。別称として爵号など。官職と爵位を相称して官爵ということもある。

目次

[編集] 爵位概説

中国及びその影響圏に於ける爵位は古くは中国にさかのぼり諸侯封号として爵位が授けられ、その慣行は清代まで続いた。また近代の日本華族でも用いられ、あるいは西欧の貴族称号の訳語としてヨーロッパロシア貴族についても用いられた。五爵(ごしゃく)或いは五等爵(ごとうしゃく)、公・侯・伯・子・男(こう・こう・はく・し・だん)などともいう。なお、タイの爵位制度に関してはラーチャウォンを参照。有爵者への敬称は「閣下」または「」。天から授かった徳を天爵というのに対して、爵位や位階官禄のことを人爵という。

なお「王爵」「帝爵」という言葉もあり、また隋の九等爵の筆頭が「国王」である事からもわかる通り「王」や「皇帝」といった君主の称号即ち君主号も広義の意味では爵位の一種とされることもある。或いはヨーロッパにおいては有爵者を君主、国家元首とする国家も存在し爵位が君主号の役割を果たしている場合も少なくない。

今日、君主制ではないいわゆる共和国ではもちろんのことであるが君主国の系譜を引くフランスや日本などでは貴族制度、華族制度が廃止となり公式に爵位を定めない国もある。その場合においても特にフランスなどに代表されるように一部では慣習として爵位を私称し続けたり、その私称を継承し続けている旧貴族層も存在している。なお君主制或いは自国に爵位制度が存在するかに関わらず外国の爵位が贈呈されることも少なくなく、国際親善や特定の国に利益をもたらした人物にその国から爵位が贈呈される場合もある。また一部には寄付により爵位を贈呈する国や自称国家もあるが、それらの中には詐欺まがいのものもあるのが現状である。

序列は以下の通りとなる(英語名は青色が男性、赤色が女性)。

称号 英語名
皇帝
天皇
Emperor, Empress
King, Queen
大公 Archduke, Archduchess

Grand duke, Grand Duchess

公爵 Duke, Duchess
侯爵 Marquis, Marchioness
伯爵 Earl, Countess
子爵 Viscount, Viscountess
男爵 Baron, Baroness

[編集] 中国における爵位

[編集] 秦以前の爵位

儒教の経典の主張するところによると王朝にはの五等があり、それが代にはの三等となり周代には再び五等となったとされる。

しかし甲骨文金文等の同時代資料を用いた歴史学の実証的な研究によりこれらの時代に実在した都市国家支配層や共同体の成員には爵位の原型とされる称号はあったものの五等爵のようにきれいに序列化され整理されたものではなかったことが明らかになっている。たとえば西周においては都市国家の首長がであり、特別に格付けされた侯をと呼んだ。都市国家に従属する小都市や村の長がで、こうした共同体の一般成員をと呼んだ。さらに、周の勢力圏から外れる国々の首長を貶めてと呼んだことが明らかになっている。

きれいに序列化された五等爵は戦国時代に過去の時代のありかたをもって当時の政権に正当性を与えるために諸子百家により整理され、序列化されたものではないかとする説が有力になってきている。

[編集] 秦・漢の爵位

では商鞅の第一次変法により軍功褒賞制と爵位制が設けられ、二十等爵制として軍功により爵位を与えた。その爵位により、土地の保有量や奴婢数など生活水準が決められていた。

前漢にはの軍功爵制を改め、軍功に限らず身分に応じて爵位を与えた。更に二十等爵の他に王爵を設けたが、これは次第に皇族に限られることとなった。また、爵位を持つ者は土地の保有を許可された。

二十等爵とは第二十級徹侯(後に武帝避諱から通侯列侯と呼ばれた)を筆頭に第十九級関内侯第十八級大庶長第十七級駟車庶長第十六級大上造と続き以下少上造右更中更左更右庶長左庶長五大夫と続いた。ここまでが官爵であり十二等に分かれることから十二等爵ともいい、官吏に与えられた。第八級公乗以下、公大夫官大夫大夫不更簪裊上造公士までを民爵といい民に与えられた。

武帝の代には軍事費調達のために売爵が行われ爵位の価値が低くなったため、軍功による爵位として別に武功爵が設定された。これは第十一級軍衛を筆頭に第十級政戻庶長第九級執戎第八級楽卿と続き以下千夫秉鐸官首元戎士良士閒輿衛造士といった。しかしこれらの武功爵も後に売爵の対象となった。

後漢代に入ると爵位の価値は更に軽くなり列侯、関内侯のみが爵とされ県侯郷侯亭侯などに細分された。

[編集] 魏晋南北朝の爵位

曹魏に至ると秦以来の十二等爵を廃止して、儒教経典の公・侯・伯・子・男を擬古的に復活させた。文帝の黄初年間に王・公・侯・伯・子・男・県侯・郷侯(最初郷侯の下に亭侯が置かれていたが後に省かれる)・関内侯の九等の爵制が定められた。黄初3年(222年)には皇子を王に封じ、王子を郷公に封じ、王世子の子を郷侯に封じ、公子を亭伯に封じていた。その後黄初5年(224年)に緒王を皆県王と改められ、明帝太和6年(232年)に再調整されて郡王となった。以上の九等の外に庶民や兵士に対しての賜爵もあり、関内侯の下には名号侯・関中侯・関外侯・五大夫侯が創立された。

武帝咸寧3年(275年)に王・公・侯・伯・子・男・開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯・開国伯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯の爵制が定められた。皇子でない者には王は封じらず宗室には公・侯・伯・子・男(郡公・県公・郡侯・県侯も与えられた場合もあった)があり、功臣には開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯・関外侯等があった。五等爵の上に「開国」の2字を加えるケースは西晋では少なかったが、東晋になると多く用いられるようになり常に古来からの五等爵と混称されることもあった。

南朝のでは、おおよそ魏晋代に倣った爵制を定めていた。では郡王・嗣王・藩王・開国郡公・開国県公・侯・伯・子・男・沐食侯・郷亭侯・関中関外侯の十二等があった。

北魏道武帝皇始元年(396年)に五等爵が定められたが、天賜元年(404年)に五等から王・公・侯・子の四等に減らされた。王は大郡を、公は小郡、侯は大県、子は小県が与えられた。その後、再び伯・男の二等が加えられた。皇子と功臣には王が封ぜられた。景明元年(500年)には王・開国郡公・散公・侯・散侯・伯・散伯・子・散子・男・散男の十一等の爵制が定められた。官品との対応は下の表を参照。なお王には官品は適用されていない。

北斉では王・公・侯・伯・子・男の六等に分けられた。官品との対応は下の表を参照。なお王には北魏の場合と同様に官品は適用されていない。

北周の爵位には全て「開国」が加えられている。爵位は王・郡王・県王・国公・郡公・県公・県侯・県伯・県子・県男・郷男の十一等が定められた。

[編集] 隋・唐・宋・遼・金・元の爵位

文帝の開皇年間に国王・郡王・国公・郡公・県公・侯・伯・子・男の九等爵が設けられた(但し「国王」については、従属国・朝貢貿易の相手国の君主に対して与える封号としてのみ用いられ、本稿で述べる君主が臣下に与える爵位とは異なる)。この他文献には、郡王・嗣王・藩王・開国郡県公・開国郡・県侯・開国県伯・開国子・開国男・湯沐食侯・郷侯・亭侯・関中・関外侯なども見られる。

中国の爵位は隋代以降基本的には王・公・侯・伯・子・男をベースにしたものとなり代に完成した。その後を経て、徐々に簡素化し代には殷や周のころのように五等や三等であった。代も基本的に五等爵を基本としていたが、等級を設けていた。

官品 日本¹ 北魏 北斉 隋² 唐・遼³ 4
正一品 開国郡公
従一品 開国県公・散公 開国郡公 郡王・国公・
開国郡公・開国県公
嗣王・郡王・国公 郡王
正二品 開国県侯 散郡公・開国県公 開国侯 開国郡公 郡公・開国郡公 郡公 国公
従二品 散侯 散県公・開国県侯 開国県公 郡公
正三品 開国県伯 散県侯・開国県伯 開国伯   郡侯
従三品 散伯 散県伯 開国県侯 開国侯
正四品 開国県子 開国子 開国県伯 開国伯 郡伯・県伯 郡伯
従四品 散子 散県子  
正五品   開国県男 開国男 開国県子 開国子 県子
従五品 散男 開国郷男・散県男 開国県男 開国男 県男
Notes:
1) 日本については品階ではなく位階であるが、類似した制度なため参考として載せた。この爵位と位階の対応は位階令大正15年勅令第325号)による。
2) 煬帝の時代には王・公・侯は保留された。
3) 遼は唐の制度をそのまま用いた。
4) その後、嗣王・郡公・開国公は保留された。

[編集] 明代の爵位

代になると皇族たる宗室と功臣や外戚との爵位が異なるようになった。宗室以外の者に与えられる爵位は当初古来からの五等であったが、後に子・男は保留されて公・侯・伯の三等となった。

一方、宗室に与えられた爵位はより複雑なものとなっている。太祖の時代に襲封の制度が定められた。皇子は親王に封ぜられ、親王の嫡長子で10歳に達した者は王世子に立てられ、嫡長孫は王世孫に立てられ均しく一品が与えられた。10歳に達した諸子は郡王に封ぜられ郡王の嫡長子は長子に、嫡長孫には長孫に立てられ均しく二品が与えられた。諸子には鎮国将軍が授けられ従一品が与えられ、孫には輔国将軍と従二品、曾孫には奉国将軍と従二品、玄孫には鎮国中尉と従四品、来孫には輔国中尉と従五品、六世以下には皆奉国中尉と従六品が授けられた。

[編集] 清代の爵位

代の爵位も明代と同様に宗室のものとモンゴル貴族のものと功臣・外戚のもとと分かれていた。宗室のものは和碩親王(ホショイしんのう)・多羅郡王(ドロイぐんおう)・多羅貝勒(ドロイベイレ)・固山貝子(グサイベイセ)・奉恩鎮国公(ほうおんちんこくこう)・奉恩輔国公(ほうおんほこくこう)・不入八分鎮国公(ふにゅうはちぶんちんこくこう)・不入八分輔国公(ふにゅうはちぶんほこくこう)・鎮国将軍・輔国将軍・奉国将軍・奉恩将軍があった。一般に爵位は世襲であるが、父の爵位より一級下のものとなる。ただし功勲などにより例外もあった。

ハーンやモンゴル貴族には親王・郡王・貝勒・貝子・公・一等-四等台吉(タイジ)・一等-四等塔布嚢(タブナン)が授けられていた。タイジは本来は太子の意でチンギス・ハーンの子孫の称号であった。タブナンはカラチン三旗とトメット左翼旗でタイジに相当する地位として用いられていた。

下の表は功臣・外戚の爵位の変遷である。

官品 天命5年(1620年 天聡8年(1634年 順治元年(1643年 乾隆元年(1736年 乾隆16年(1751年
超品 五備御之総兵官 一等公 一等-三等公
  一等-三等侯 一等侯兼一雲騎尉・一等-三等侯
一等-三等伯 一等伯兼一雲騎尉・一等-三等伯
正一品 一等-三等総兵 一等-三等昂邦章京 一等-三等精奇尼哈番 一等子兼雲騎尉・一等-三等子¹
正二品 一等-三等副将 一等-三等梅勒章京 一等-三等阿思哈尼哈番 一等男兼一雲騎尉・一等-三等男¹
正三品 一等-二等参将 一等-三等甲喇章京 一等-三等阿達哈哈番 一等軽車都尉兼一雲騎尉・一等-三等軽車都尉¹
游撃
正四品 備御 一等-二等牛録章京 一等-二等拜他喇布勒哈番 一等騎都尉兼一雲騎尉・一等-二等騎都尉¹
正五品   拖沙喇哈番 雲騎尉¹
正七品   恩騎尉
Notes:
1) 満州語での名称は順治元年と同じ。

[編集] 外命婦の封号(女性の爵位)

女性に与えられる爵位に順ずる封号は古来から存在したが、基本的に皇族女子や夫・子によって授けられることが多かった。

唐代には皇伯叔母に大長公主、皇姉妹には長公主、皇女には公主、皇太子の娘には郡主、王の娘には県主、王の母や妻にはが授けられた。皇室以外では夫や子の品階や爵位によって授けられた。一品及び国公の母・妻には国夫人が、三品以上の母・妻には郡夫人が、四品以上の母・妻には郡君が、五品以上の母・妻には県君が、散官や同職事には郷君がそれぞれ封ぜられた。

宋代では当初は唐とほぼ同様の制度が用いられていたが、公主から帝姫に一時期変更されていたことがあった。また郡君を淑人・碩人・令人・恭人に、県君を室人(後更に宜人・安人・孺人に分けるようになった。

明代では公の母・妻は国夫人、侯の母・妻は侯夫人、伯の母・妻は伯夫人が授けられた。また、一品は夫人が授けられていたが、後には一品夫人と呼ぶようになった。二品は夫人、三品は淑人、四品は恭人、五品は宜人、六品は安人、七品は孺人がそれぞれ授けられた。

なお、母・祖母などには「太」の字が加えられた(国太夫人や郡太君、伯太夫人など)。これは、皇太后・太皇太后などの用例と同じものだと考えられる。

[編集] 琉球王国の爵位

琉球王国には身分序列に応じて王子(おーじ)・按司(あじ・あんじ)・親方(うぇーかた)・親雲上(ぺーちん・ぺーくみー)・里之子(さとぅぬし)・筑登之(ちくどぅん)など、爵位に準じた称号がある。

女性については王妃を佐敷按司加那志(さしきあじがなし)、側室を阿護母志良礼(あぐんしたり・あごもしられ)、王の乳母などの女官を阿母志良礼(あんしたり・あもしられ)などと称した。また、臣下に嫁した王女および王子の妃は翁主(おうしゅ)と呼んだ。

琉球王国の称号および位階については、詳しくは琉球の位階を参照されたい。

[編集] 日本における爵位

日本での爵位制度は明治17年(1884年7月7日に「華族授爵ノ詔勅」が下され、華族に列せられていた元公卿・元諸侯等と国家功労者の家の戸主に公・侯・伯・子・男の五爵を授けられたことに始まる。日本の爵位は個人にではなく、家の戸主に与えられるものであった点が他の爵位制度と異なる。その後、朝鮮貴族令(明治43年皇室令第14号)により朝鮮貴族にも爵位が授けられるようになった。昭和22年(1947年5月3日日本国憲法施行に伴い華族制度と共に廃止となった。

なお古代にも爵位ではないが、八色の姓(やくさのかばね)のような(かばね)という類似する制度があった。また、中国における爵位を継受した制度として位階公家の階層を示すものとして摂家、清華家、大臣家などの家格があった。

[編集] ヨーロッパにおける爵位

[編集] 成立過程

ヨーロッパの爵位は総じて一定の行政区域の支配を担当する官職が、中世地方分権の過程で世襲化されたものである。その中にはローマ帝国の官職に由来する場合(公爵伯爵など)もあれば、封建制の進行過程で新たに創設された場合(辺境伯男爵など)もある。これらの「爵位」と呼ばれる役職は当初ローマなどと同様に任期制の官職として用いられたものが、王権の弱体化によって地方の有力者による世襲を許してしまった事によって成立したものが多い(フランク王国の設置したカタルーニャ伯を独断で世襲化したギフレ1世多毛伯などが典型例であろう)。

和訳に際しては中国や日本の爵位と相当した名称を当てているがヨーロッパの爵位と東洋の爵位とが厳密には対応するとはいい難く、また同じ欧州内でも全く異なる経緯を辿って成立しつつも便宜的に類似した爵位とされているケースもある。すなわち東洋の爵位の上下の序列を、ヨーロッパの爵位におおよその順番を踏襲しての訳語が伝統的に当てられているに過ぎない。またこの対比表もあくまで一例を挙げた物であって、実際に何らかの国の爵位が別の国のどの爵位と同じかということは時代と共に変化しているので一概には言えない(プリンスも参照のこと)ので注意を要する。

[編集] 日本の爵位制度との違い

欧州の爵位に共通しているのは「爵位」という名誉は何らかの貴族の家系そのものに対して与えられているのではなく大本の爵位(官職)が担当する行政区域(公爵領、侯爵領、伯爵領など)に対して与えられているもので、爵位の保持とは言い換えればこうした領域の保持の事という点である。つまり特定の地域が何らかの爵位が担当する区域であるなら、その区域を実効支配する人物こそが爵位を名乗るに相応しい人物という形になる。

こうした点は家柄そのものに与えられる称号である日本の爵位制度とは大きく異なるため、注意が必要である。例を挙げれば、ある一つの家が複数の爵位を保持している状況は日本においては制度的に考えられない。しかしヨーロッパの場合はその爵位の担当する所領を保持していることが爵位の保持と同義であるから、ある家が7つも8つも爵位を保持していることは全く珍しくない。こうした複数の爵位を保持する家の場合、もっとも重要な爵位以外を切り離して嫡男以外に分け与えることすらある。

なお、行政区域を担当する官職の世襲化が困難であった古代ローマや西欧とは異なる歴史を歩んだ東ローマ帝国などではこれと全く違う体系の爵位制度が用いられていた(en:Royal and noble ranksを参照)。

日本語 英語 フランス語 イタリア語 スペイン語 ドイツ語 デンマーク語 ノルウェー語 スウェーデン語 フィンランド語 ロシア語 ラテン語9
大公 Grand Duke Grand duc
Prince
Granduca Großherzog6 Storhertug
Storfyrste
 
公爵 Prince¹ Duc Duca Duque Herzog¹ Hertug Hertig Herttua³ князь Kniaz4 Princeps
(公爵)
(侯爵)
Duke¹ Principe Príncipe Fürst¹ Fyrste Furst³ Furste³ Ruhtinas³ Dux
侯爵
辺境伯
Marquess7
Margrave7
Marquis Marchese Marques Markgraf² Markis Marki Markis³ Markiisi³ Боярин Boyar4
伯爵 Earl
Count
Comte Conte Conde Graf Jarl
(Greve8
Greve Kreivi Comes
子爵
副伯
Viscount Vicomte Visconte Vizconde (Vizegraf) Visegreve  
男爵 Baron Barone   Freiherr Baron Friherre Paroni  
準男爵 Baronet5 Baronetto Baronet  
勲功爵
勲爵士
騎士
Knight5 Chevalier Cavaliere Caballero Ritter Ridder Riddare³ Ritari Eques
Notes:
1) 英語のDukeは独語ではHerzog、デンマーク語ではHertug、英語のPrinceは独語ではFürst、デンマーク語ではFyrsteである。なおドイツやデンマークでは逆にHerzogやHertugは、FürstやFyrsteより上位であるので注意が必要である。イギリスではPrinceは王族に対する敬称であって爵位ではないためDukeとPrinceの間に単純な上下関係はない。ただし王、女王の伴侶や子息(Prince)には公爵位(Dukedom)が与えられることが多く、こうした王族公爵(Royal Duke)が非王族のDukeより上位とされるのは勿論である。なお現在の英国ではPrinceの敬称は君主の孫までに適用され、曾孫は公式にはただの貴族もしくは平民となる。英国ではPrinceは限定世襲される王族への一般的敬称といえる。また、日本の「公爵」はPrinceと英訳されることが多いが上記の理由から例えば元総理近衛文麿を皇族と理解する等の誤解が生じるもととなっている。
2) 和訳は辺境伯。英訳はMargrave。ドイツでは方伯Landgraf宮中伯Pfalzgrafとほぼ等しい地位で時には侯爵Fürstよりもさらに上位と見なされることもあった。
3) 現在、国内では用いられていない。
4) ロシア国内の貴族向けに2つの公(Kniaz)と伯(Boyar)のみが用いられた。
5) イギリスでは厳密には貴族に含めない。
6) ドイツではErzherzog(:Archduke)という爵位もある。Erzherzogはハプスブルク家ルドルフ4世が勝手に「オーストリア大公」と自称したのが始まり。ハプスブルク家の成員のみがErzherzogを名乗れるとされた。現在のハプスブルク家の当主オットー・フォン・ハプスブルクもErzherzogと称している。
7) 語源が同じ爵位であるが英語ではMarquess、Marquis等とドイツのMargraveとを区別している。そのため日本語でもドイツ以外を侯爵、ドイツを辺境伯と訳している。
8) 英国以外のCountやGrafなどはGreveと訳される。なお英国内でもスコットランドの侯爵はMarquisと綴る。
9) ラテン語の部分は由来となったか、或いは対応すると思われるローマの官職称号を記している。ローマ時代には世襲化されていなかった(≠爵位)ものも含まれる。

[編集] Duke

語源は古代ローマの有力者に与えられる称号で、後に地方司令官を指す言葉となったラテン語のドゥクス(Dux)。帝政後期に入るとローマ帝国は異民族の首長にDuxの称号を与えるようになった。4世紀には文官と武官が分かれ、Duxはそれぞれの軍団の司令官の職名に使われた。同様のComes mei militarisはduxの部下であり、のちCountとなる。

この事象の一端であったフランク人はローマの影響を受けてDux/Duces(将軍)を用いるようになった。 Duxは軍団の司令官であり、同時に郡の執政となった。シャルルマーニュが辺境を平定したのち諸氏族の氏族長にもDux/Ducesの称号が与えられ、フランク王国の宗主権を認めさせた。これらの称号は世襲され、公爵領となった。いっぽうでDux/Ducesは王子にも用いられる習慣も広がった。この制度はフランク以外の地域にも広がり、イングランドではエドワード黒太子が初の公爵(コーンウォール公)となった。

[編集] Marquess

Marquessはゲルマン語の称号Markgraf(marka境界線+Graf伯)に由来し、しばしば「辺境伯」と訳される。英語ではMargraveと綴る。はじめはカロリング朝フランクで辺境を守る武将の役職名でフランク王国東部のローマ帝国との国境線に多く配された。しだいに貴族の称号となってゆきDukeの次、CountないしEarlの上という序列がつくられた。その後ヨーロッパ各国もこれを導入し、13世紀から14世紀にかけてMargrave/Marquessは貴族の称号として一般的に定着していった。

[編集] Earl

9世紀スカンジナビアデーン人が非王族軍指揮官として任命したのが始まりである。石碑や出土した武器などからHerul/Jarlの文字が見つかっているが、そもそもは北欧神話の神Rígの伝説に端を発する。

Rígは旅の途中で農民の老夫婦の家に泊まり、老夫婦はRígに粗末な食事を出した。9ヶ月後に夫婦の間に子ができ、褐色の肌を持つ子はThrall/serfと名付けられた。これが奴隷(slave)の祖先である。次に辿りついたのは工芸職人の家で彼らはRígにより上質な食事を提供した。やはり9ヶ月後に職人夫婦の間に子が生まれ、Karlと呼ばれるようになった。赤毛で赤ら顔のKarlは農民職人の始祖となった。最後に泊まったのは豪邸で豪邸の若夫婦はすばらしい食事を出した。その後同様に子ができた。その赤子は金髪碧眼でJarlと名付けられ、貴族の祖先とされた。

デーン人はイングランドに移住してからもEarlを用いた。「太守」もしくは「伯」と訳され、各州に配置されて州の統治が任務だった。当初は一代かぎりの役職だったが、すぐに世襲されるようになった。のちにヨーロッパ各国のCountと同じように用いられるようになり、12世紀以降は役職名ではなく称号として用いられた。

[編集] Count

ローマ帝国のComesは廷臣の階級のひとつであった。文官のComesと武官のComesがあり、Duxが部下として指名した。

中世のフランク王国やゲルマン地域ではCount Palatine(パラティンとよばれる自治州を領有し、そのなかではほぼ完全な自治権を有していた)、Comes Sacrarum Largitionum(王室財政を管掌する職)などがあった。当初は任命制だったが、その強大な権力により次第に世襲されるようになった。中世になると伯爵領はCountyと呼ばれるようになり、これが現在の州「カウンティ」に受け継がれている。領主としての伯爵の地位は近世以降しだいに称号化し、他の爵位をあわせて社会の序列をあらわす名称へと変化していった。

[編集] Viscount

「副伯」というニュアンスでフランス、スペイン等で使われていた。イングランドではシェリフ相当の爵位として14世紀に創設された。ドイツ語圏では城伯(都市伯)Burggrafがこれに相当すると言える。またドイツ貴族であっても、フランス王による冊封を受けViscount(Vizegraf)の爵位を持つ例もある。

[編集] Baron

自由民を表す言葉で後に領主一般を指す言葉となり、最終的にViscount以上の爵位を持たない領主の爵位(男爵)となった。ドイツ語圏やスコットランドでは男爵に相当するものにFreiherrやLord of parliamentが使われ、Baronはそれより低い称号になっている。スコットランド語でBaronyは荘園を意味し、荘園領主・小規模領主にBaronが用いられた。

[編集] 関連項目

最終更新 2009年8月20日 (木) 01:56 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【爵位】変更履歴

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