石橋正二郎

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石橋 正二郎(いしばし しょうじろう、明治22年(1889年2月1日 - 昭和51年(1976年9月11日)は日本実業家

ブリヂストンタイヤ(現 ブリヂストン)の創業者であり、1966年8月1日日産自動車と合併したプリンス自動車工業の育ての親(出資者)でもある。

また、張り付け式ゴム底足袋(地下足袋)の考案者でもある。

企業活動を通じて、日本のゴム工業や自動車工業の発展に多大な貢献を行った。長年の功績により2002年には日本自動車殿堂入り、2006年には米国自動車殿堂入りを果たしている。一貫してブリヂストンを中心とするゴム工業を経営の基盤としたが、これ以外にも多数の業種に参入し、一代で石橋財閥ともいえる企業グループを形成した。

目次

[編集] 経歴

現在の福岡県久留米市に父・石橋徳次郎、母・マツ夫妻の二男として生まれる。家業は着物襦袢を縫う仕立屋。

久留米商業学校卒業後、病気療養中の父の希望で、兄の重太郎(家督相続と同時に二代目徳次郎を襲名)とともに家業を継ぐ。しかし、この年の暮れに兄が徴兵されてしまい、実質的に正二郎が一人で家業を切り盛りしなければならない状況となった。

種々雑多な注文に対応する困難さ、職人的な技能に頼る仕立物屋の将来性に対する疑問などから、業容を変更して以前より業務の一部としていた足袋製造を専業とすることを決意する。この後、順調に事業は拡大し、規格化された製品を大量生産するため、1908年には新工場を設立し、縫製用のミシンと生地の裁断機、これらの動力源となる石油発動機を導入している。また、多くの労働者を雇い入れる必要性から、古い徒弟制を廃し給与制をいち早く採用して、経営の近代化を図っていった。販売面についても、それまで文数(サイズ)ごとに細かな価格設定がされていた足袋の小売価格を、分かりやすい一律価格に改定している。1912年には九州地域で最初となる自動車を購入し、町の中を走らせて足袋の宣伝を行うという、当時としては先進的な広告手法も取り入れている。

第一次世界大戦が始まった1914年商標(ブランド名)を「志まや足袋」から「アサヒ足袋」へと変更する頃には、先行する大手の足袋会社と肩を並べるほどに成長した。正二郎は、大戦勃発による物価高騰を予見して、事前に生地、糸などの原料を大量に仕入れていた為、この時期に事業は更に発展した。1918年には兄の二代目徳次郎を社長、正二郎を専務取締役として、日本足袋株式会社を設立。株式会社組織とすることで事業基盤を固め、この時点で名実ともに足袋の四大メーカーの一つとなった。

日本足袋株式会社は、1947年に日本ゴム株式会社と名称を変更し、1988年には株式会社アサヒコーポレーションとなっている。同社は正二郎が経営から退いた後も順調に事業が拡大し、昭和の時代には長期にわたってズック靴の製造で日本のトップシェアを誇っていた(商標はアサヒ靴)。しかし、1998年4月10日経営悪化により福岡地裁に対し会社更生法の手続き開始申請を行なって、事実上倒産している。倒産時の経営は二代目徳次郎の息子にあたる三代目徳次郎(幼名は義雄)が務めており、負債総額は1300億円あまりの大型倒産であった。

昭和51年(1976年)の9月11日に没。墓所は生地久留米市の曹洞禅寺・千栄寺

[編集] 年譜

  • 1889年 - 福岡県久留米市に生まれる
  • 1906年 - 久留米商業学校卒業 家業を兄とともに継ぐ
  • 1912年 - 営業のため上京する 自動車に試乗させてもらい宣伝に使用することを思いつく
  • 1918年 - 日本足袋株式会社を設立、専務に就任する 社長は兄重太郎
  • 1921年 - 地下足袋製造を開始
  • 1930年 - 日本足袋株式会社社長に就任
  • 1931年 - ブリヂストンタイヤ株式会社設立
  • 1952年 - 東京京橋にブリヂストンビル建設
  • 1957年 - 日本合成ゴム株式会社(現・JSR株式会社)社長に就任

[編集] ゴム工業への参入

  • 1929年 タイヤ製造装置をアメリカへ発注。日本足袋の倉庫を改造しタイヤの試作開始。
  • 1930年4月 日本足袋タイヤ部が初の純国産(日本の資本、日本の技術)自動車用タイヤを完成。
  • 1931年3月1日 ブリッヂストンタイヤ株式会社設立。
  • 1935年 自転車用タイヤ、ゴルフボール生産開始。

[編集] 家族 親族

[編集] 系譜

  • 石橋家
「嶋屋」を創業した父・石橋徳次郎は安政5年(1858年久留米藩舟手方・龍頭民治の次男として生まれた。藩士といえども家禄23俵の下級武士だった。廃藩置県で家禄を失った龍頭家は生活に窮し14歳で藩役所の見習いをしていた徳次郎も職を失い、明治6年(1873年)16歳で叔父の緒方安平の店「嶋屋」に奉公した。安平は藩政時代の御用商人として江戸に上ること20数回、筑後の物産を江戸で売り、江戸で仕入れた雑貨筑後一円で売って財を成した。商いも袋物の販売から醤油醸造水産業質屋印刷業まで手がけ、幕府の命で蒸気船を傭船して支那貿易にも乗りだすほどだった。維新後も明治元年(1868年)久留米本町一丁目に間口八間もある米穀取引所を商い、筑後一帯はおろか九州一円、東京大阪から奥羽、蝦夷(北海道)まで手広く販路をひろげた豪商だった。その安平に実直な奉公ぶりが認められた徳次郎は明治17年(1884年)26歳で安平の長女マツと結婚して、マツの母の実家石橋家を継いだ。徳次郎は安平の事業のうち仕立物業を担当していたが、安平の事業は息子の鋓太郎が継いだので、明治25年(1892年)正二郎が3歳の時に叔父の家の隣に暖簾分けしてもらい、よろず仕立屋「嶋屋」を開業して独立した。徳次郎は武家の商法そのままで、その名のごとく実直で勤勉な人だった[1][2]
  ┏木戸孝尢
  ┃
  ┗治子  児玉源太郎━━━━━ツル
   ┃              ┃
   ┣━━━木戸孝正       ┃
   ┃     ┃      ┏木戸幸一
 来原良蔵    ┣━━━━━━┫
         ┃      ┗和田小六
       ┏寿栄
       ┃
山尾庸三━━━╋山尾三郎
       ┃
       ┗千代
         ┃
         ┣━━━━━┳広沢真吾
         ┃     ┃
広沢真臣━━━広沢金次郎   ┗直子
                 ┃
                 ┃
       池田吾一郎━━━池田勇人    ┏直子
                 ┃     ┃
                 ┃     ┃
                 ┣━━━━━╋紀子
                 ┃     ┃ ┃
                 ┃     ┃池田行彦
                満枝     ┃
                       ┗祥子
                         ┃
               ┏石橋進一━━━━石橋慶一
               ┃
               ┃
               ┃ 鳩山一郎━鳩山威一郎
               ┃        ┃
       石橋徳次郎━━━╋石橋徳次郎   ┃      ┏鳩山由紀夫
               ┃        ┣━━━━━━┫
               ┃        ┃      ┗鳩山邦夫
               ┃        ┃
               ┃      ┏安子
               ┃      ┃
               ┃      ┃
               ┗石橋正二郎━╋多摩子
                      ┃ ┃
                      ┃石井公一郎
                      ┃
                      ┗啓子
                        ┃
                        ┣━━━━━━━悦子
                        ┃        ┃
                       郷裕弘       ┃
                                 ┃
                 伊地知純正━━庸子       ┃
                         ┃     ┏宮澤裕夫
                         ┣━━━━━┫
                         ┃     ┗啓子
                       ┏宮澤喜一     ┃
                       ┃         ┃
        宮澤鹿吉━━━━━宮澤裕   ┃    クリストファー・ラフルア
                  ┃    ┃
                  ┃    ┃
                  ┣━━━━╋宮澤弘━━━━━宮澤洋一
                  ┃    ┃
                  ┃    ┃
        小川平吉━━━━━こと    ┃
                       ┃
                       ┗宮澤泰
                         ┃     ┏その
                         ┣━━━━━┫
                         ┃     ┗ゆり
                 児島喜久雄━━汪子       ┃
                                 ┃
                        ┏吉國二郎━━吉國真一
                   吉國兼三━┫
                        ┗吉國一郎

[編集] 社会事業

  • 1927年 九州医学専門学校(現 久留米大学医学部)へキャンパスの敷地、約10,000坪と鉄筋コンクリート造校舎を寄付
  • 1952年 ブリヂストン美術館開館
  • 1955年 ヴェネツィア・ビエンナーレの日本館建設資金を外務省へ寄付
  • 1956年4月2日 石橋財団設立
  • 1956年4月 久留米市へ石橋文化センターを寄付。約30,000平方メートルの敷地に石橋美術館、体育館(現在は図書館)、プール、文化会館、野外音楽堂、遊園地などが置かれた巨大な総合文化施設である。
  • 1956年5月7日 久留米商業高等学校(母校)へ講堂、柔道場を寄付
  • 1969年4月 日本国へ東京国立近代美術館の建物を寄付(約1,250,000,000円)
  • 1973年9月28日 久留米商業高等学校へPTAと共同で体育館を寄付

[編集] 参考文献

  • 私の履歴書 昭和の経営者群像⑧』 日本経済新聞社 1992年 7-34頁

[編集] 脚注

  1. ^ 石橋は『私の履歴書』に「祖父は町人だったが、養子の父は士族出。士族の町人というか、堅い一方で、いっこうにパッとせず、着物襦袢を縫うちっぽけな仕立屋だった。父の仕立物屋は堅い一点ばりで、あまり繁昌せず、わたしが卒業するころ引退を決意してしまったのだ」と書いている
  2. ^ 林洋海『ブリヂストン 石橋正二郎伝 -久留米から世界一へ- 』9-12頁

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月26日 (木) 04:42 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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