石野真子

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いしの まこ
石野 真子
本名 石野 真子(同じ)
生年月日 1961年1月31日(48歳)
出生地 日本兵庫県芦屋市
血液型 A
職業 女優歌手
ジャンル テレビドラマ舞台映画
活動期間 アイドル歌手時代: 1978年 - 1981年

復帰後:1983年 - 現在

活動内容 1977年:『スター誕生!』決戦大会合格
1978年:「狼なんか怖くない」で歌手デビュー
同年:「九月の空」で映画デビュー
1979年:『熱愛一家・LOVE』でドラマデビュー
同年:「ジュリーがライバル」でNHK紅白歌合戦初出場
1980年:『なさけ坂旅館』(ドラマ)
同年:「ハートで勝負」でNHK紅白歌合戦2回目出場
1981年:結婚を控え芸能界を一時引退
1982年長渕剛結婚
1983年離婚により芸能界復帰
1986年:『いのち
配偶者 長渕剛(1982年 - 1983年)
広岡瞬1990年 - 1995年
家族 妹(いしのようこ、宝乃純)
公式サイト 所属事務所公式プロフィール
主な作品
NHK大河ドラマ「いのち
受賞
第20回日本レコード大賞新人賞(1978年、「失恋記念日」)
備考
身長156cm、足のサイズ23cm、みずがめ座

石野 真子(いしの まこ、本名同じ、1961年1月31日 - )は、日本女優歌手フロム・ファーストプロダクション所属。兵庫県芦屋市生まれ。日本テレビ『スター誕生!』出身の元アイドル歌手第20回日本レコード大賞新人賞受賞、NHK紅白歌合戦出場2回。実妹に女優のいしのようこ(旧表記・石野陽子)と宝乃純(旧名・石野敦子)。

目次

[編集] 経歴とエピソード

[編集] 芸能界デビューまで 1961年 - 1977年

[編集] 1961年

  • 1961年1月31日、兵庫県芦屋市伊勢町の石野家の長女として生まれる。みずがめ座のA型。父親はビーズのハンドバッグを製造する会社を経営。両親と妹2人の5人家族。石野が幼い頃の実家では大型犬のセントバーナード(名前は「バズ」)を飼っていて、「バズに乗って遊んだ」[1][2]

[編集] 1973年

[編集] 1975年

  • 中学3年の終わり頃になり、躾に厳しかった父親も何か習い事をすることには理解を示してくれる。歌が好きだった石野は歌のレッスンを受けたいと父親に相談すると、「きちんとした所に通うんやったら、ええやろう」との許しがでた。平尾昌晃歌謡学院大阪校(現在の平尾昌晃ミュージックスクール大阪校)のオーディションを受けて合格したことで同校のレッスンに通うことになる。入学審査オーディションで石野が歌ったのは、アグネス・チャンの『冬の帰り道』[3]

[編集] 1976年

  • この頃にデビュー前の川崎麻世文通をしていた[4]。この時期二人は、共に平尾昌晃歌謡学院大阪校へ通う生徒だった。
  • 4月、百合学院高等学校に進学。(ただし、同高校には2年生の2学期までの在籍、歌手デビューのため上京した2年生3学期からは都内の堀越高等学校へ転校)
  • この年の秋、平尾昌晃歌謡学院の先生から「本気で歌手になる気があるならオーディション番組を受けてみないか、君の実力ならきっと受かると思う」と勧められる。これがきっかけで日本テレビ系のオーディション番組『スター誕生!』に応募ハガキを出す。父親に「オーディションを受けてもいいかな?」と訊ねると、「どうせ落ちるやろから、まあええよ」と反対されなかった[1]

[編集] 1977年

  • 1月26日、まもなく16歳になる石野は『スター誕生!』の予備審査と予選会を勝ち進み、本選の大阪大会(豊中市民会館、テレビ放送日1977年2月13日)に出場。ダニエル・ヴィダルの『天使のらくがき』を歌った。審査発表では会場の一般審査員からの得点だけで合格点を超えてしまい、阿久悠ら専門審査員を驚かせる。この当時の審査方式は会場の観客からの500点と専門審査員5人×100点の500点=合計1,000点を出場者7人が何点ずつ獲得出来るかというもので、まず会場の一般審査員からの点数発表があり、次に専門審査員の点数加算が行われる。合格ラインは250点(5人出場時の大会では300点)で、この日の石野の最終得点は530点にもなり1,000点の過半数を一人で独占した結果になった[1]。しかし、最終目標は後日合格者が集まって開催される「決戦大会」に出場して芸能事務所からのスカウトを受けることであり、ここでスカウトされなければ「歌が上手な一般人でしたね」で終わってしまう。『スター誕生!』は、業界からのプロ審査員による歯に衣を着せぬ論評、獲得得点による公平な合否判断、芸能事務所による本気のスカウトなど、オーディションの全ての様子をテレビ公開するよう意識して番組が制作されており、時にこのことが「素人に対して厳しすぎるのでは?」などと批判を受けたりもした。スカウトの実態と番組からスターが誕生する様子を在りのまま視聴者に観せて芸能界をガラス張りにしたい、との阿久悠の企画・監修の下で番組制作されていた[5]
  • 3月23日、運命の『スター誕生!』第20回決戦大会に出場。(東京の後楽園ホール、放送日1977年4月3日、司会:萩本欽一、ゲスト:ピンクレディー、野口五郎)。父親から「これに落ちたら、もうオーディション番組を受けたいなんて気持ちを起こすんじゃないぞ」と念を押されて挑戦した。再びダニエル・ヴィダルの『天使のらくがき』を歌う。「11番、石野真子、一所懸命頑張りました、どうぞよろしくお願いします!」と挨拶した石野に対し、スカウト意向の芸能事務所プラカードが16社挙がる。スカウト希望した事務所には、ビクター音楽産業、バーニングプロダクション、田辺エージェンシー、第一プロダクション、キングレコード徳間音楽工業ワーナーパイオニア日本コロムビア、長良音楽事務所(名称は放送当時)などがあった。尚、同決戦大会の合格者には石野の他に渋谷哲平がいた[1][6]
  • 石野真子本人の『スター誕生!』審査時の書類が残されている。そこには「テレビに出演するにあたってのあなたの抱負は?」との質問があり、「新人賞をとりたい、誰からも愛されたい」との回答が記されている[6]
  • スター誕生!』決戦大会の勝因について尋ねられた石野は、「選曲が自分に合っていた事と、自分で勝手に考えた振り付けが歌に合っていた事が良かった」と後にコメントしている[1]
  • 『スター誕生!』決戦大会に進む前の大阪大会に出場した際、バーニングプロダクションのスカウト担当者から「もし決戦大会でダメでもうちに来ませんか、責任を持って歌手に育てますから」と声をかけられていた[1]
  • デビュー前からファンが付いていたと言われているが、実際に『スター誕生!』第20回決戦大会(1977年4月3日)のスカウト発表場面のDVD映像によると、素人の石野に対して早くも会場の男性ファンから「真子ちゃーん!」との声援が飛んでいる事が確認できる[6]
  • 『スター誕生!』の合格を経て、石野の所属事務所はバーニングプロダクションに決まる。事務所選定時のエピソードについて後の取材で石野は、「何かホントに素人判断なのですが、バーニングには先輩に郷ひろみさんがいらっしゃるから大丈夫じゃないか、と思ったんです。もちろん両親や周りのスタッフの方とも相談して決めましたが、当時の事務所の専務さんから「当社はあなたを将来、こういう風にしたい」という温かいお手紙をいただき、ここだったら安心、みたいな気がしました。」(2009年4月、YOMIURI ONLINE)
  • その後、約1年間をかけてデビューへの準備を行う。父親の希望もあってデビュー曲が出来上がるまでは芦屋の実家で歌のレッスンに励み、高校2年の夏休み1ヶ月間は東京へ出向いて日本テレビ音楽学院に通った[1]
  • デビュー曲の作曲を担当する吉田拓郎とは東京六本木のバーで初めての対面をする。この時の“石野真子”の印象について吉田は、後に著書の中で「本当にこの人デビューするんですか?と思うほど太っていたのだが、不思議な芸能界は3ヶ月後(レコーディングの時)には見違えるほど変身させて連れて来た」[7]、と記している。

[編集] アイドル期 1978年 - 1981年

[編集] 1978年

  • 1月7日、上京する。所属事務所から芦屋市の実家へデビュー曲が決定したとの知らせが届き、レコーディング準備に入るためいよいよ上京することになった。[1]電話越しに、作曲者の吉田拓郎が歌う『狼なんか怖くない』のデモテープを初めて聴き感激した。

(デビュー曲『狼なんか怖くない』の詳細は、『狼なんか怖くない』を参照)

  • 3月25日、デビュー・シングル『狼なんか怖くない』(作詞阿久悠/作曲吉田拓郎/ジャケット撮影篠山紀信)がビクターから発売。17歳のアイドル歌手として芸能界にデビューした。当時のアイドルには必ずと言っていいほどキャッチフレーズが付けられており、石野に付けられたものは「100万ドルの微笑」。ファースト・アルバム『微笑(ほほえみ)』の帯にもその記述が見られる。また、八重歯とタレ目であることをチャームポイントにしていた。

八重歯についてのエピソードは、項目「#世紀の八重歯タレント」を参照のこと。

  • 『狼なんか怖くない』を初めてお客さんの前で披露したのがTBSテレビの『笑って笑って60分』で、後日感想を訊かれて「私の歌をあんなに喜んでくださるなんてもう最高!、すごく嬉しかった!」とコメント[1]
  • 3月27日、デビューからたったの2日目にしてフジテレビ系列の音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演。『狼なんか怖くない』を歌い終えた石野に対し、司会者の芳村真理は「いやー真子ちゃん、デビューして2日目! ご苦労様でした!」と声をかけている。石野の所属事務所バーニングプロダクションは同番組と強いパイプを持っていた芸能事務所のひとつで、新人歌手の番組初出演に優遇措置を受けていた。
  • デビューからしばらくの間、石野が仕事の移動で使っていた車はマネージャーの井上氏が運転する「フォルクスワーゲンの真っ赤なビートル」。これは所属事務所の1年先輩の高田みづえが使用していた車を譲り受けたもの[1]
  • 6月25日、シングル2作目『わたしの首領』(わたしのドン)発売。作詞担当の阿久悠は、当時広島で起きていた暴力団抗争からヒントを得て、「首領」を「ドン」と読ませた。
  • 8月、シングル1作目と2作目の作曲担当の吉田拓郎がパーソナリティーを務めるラジオ番組『セイ!ヤング』にゲスト出演。本番中のCM開けのジングル「♪セ~イ!ヤ~ング♪」まで口ずさんだ石野は吉田から「そうやって、いつも歌ってるの?」と尋ねられ、「子供の頃からいつも歌っています」と告白する。また、自分を動物に例えると何?とのリスナーの質問に、石野が「タヌキ…じゃないですか?」と答えると、吉田は「僕は自分をカモシカだと思ってますけどね」と応じて石野を笑わせた[8]
  • 当時披露したモノマネ芸に、アメリカ人美女プロゴルファー「ローラ・ボー」(1978.8文化放送「吉田拓郎のセイ!ヤング」で披露、当時流行した日清製油(現、日清オイリオ)のテレビCMのローラ・ボーの歌真似)[8]と、「アグネス・チャン」(1979.7.20日本テレビカックラキン大放送!!」で披露)[6]などがあった。
  • 8月27日、いわゆる「西武園1万人コンサート」開催。この年の夏休み最後の日曜日に、初となるコンサート西武園埼玉県所沢市)で行う。ファンの集いを兼ねたこのコンサートは基本的に中高生をターゲットにしたもので、石野の歌を楽しみむ一方、大学教授を招き「宿題なんか怖くない」いうタイトルで夏休みの宿題対策を冗談を交えて行うという企画だった。集まったファンへのプレゼントとして夏休み期間のお天気情報(天候、気温、湿度)が配られた[1][8]
  • 10月5日、シングル3作目『失恋記念日』発売。
  • 10月22日、石野が初めて出演する映画『九月の空』が松竹大船撮影所にて撮影開始。高橋三千綱芥川賞受賞作品『九月の空』を映画化したもので、山根成之監督作品。主人公の高校生小林勇(坂東正之助)にほのかな憧れを抱く初々しい女子高生の松山小夜子役。石野の所属事務所先輩の郷ひろみが、ライバル高校の剣道部員役で友情出演している。この映画には主演の坂東正之助とのキスシーンがあるのだが、元来恋愛に奥手でプライベートですらキスの経験が無かった石野は撮影当日は相当緊張してしまう。キスシーンの撮影自体は1度でOKを出せたものの、本番後の石野は大粒の涙をポロリと流してしまった[9]
  • 11月18日、マスコミ関係者を招き東京プリンスホテルにて「早く来い来い、クリスマス・ホームパーティ」を開催。これは石野サイドが普段お世話になっているマスコミ関係者とその家族に感謝の意を表して企画した“ちびっ子サービスを交えたアットホームな歌のショー”。当日の写真を確認すると、この約2ヵ月後に発売されるシングル『日曜日はストレンジャー』で使用するステージ衣装=「水色の帽子とミニスカート」が既にこの時に披露されていた[9]
  • 12月2日、映画『九月の空』が松竹系映画館で公開[6]。同時上映は『博多っ子純情』。
  • 12月31日、『失恋記念日』が第20回日本レコード大賞新人賞を受賞。最優秀新人賞にはシンガーソングライター渡辺真知子が選ばれた。「『失恋記念日』は賞を頂けたという事で、いつも唄う時には1曲につき2着の衣装があったんですけど、3着・4着と増えたっていうのがすごく嬉しかった」[10]

[編集] 1979年

  • 1月25日、シングル4作目『日曜日はストレンジャー』発売。バーニングプロダクションの小口プロデューサーが企画段階から「次のシングルは徹底的に明るい歌にする」としていたもの[9]
  • 1月31日、TBSの連続テレビドラマ、水曜劇場『熱愛一家・LOVE』に出演が決まり撮影初日。石野がスタジオに姿を現すと、照明が消えてハッピー・バースデーの曲が流れ、バースデー・ケーキにロウソクが灯り共演者や撮影スタッフから拍手が沸き起こる。生まれて初めての粋な計らいを受け大感激した石野は、この日が18回目の誕生日だった[3]
  • 2月14日、TBS水曜劇場『熱愛一家・LOVE』放映開始(水曜21時~、全26話)[~8月8日]。石野のドラマデビュー。石本家の末娘、高校生のみどり役で出演。主演は森光子、共演者に松山英太郎浅茅陽子柴俊夫太川陽介西田敏行水沢アキ岡崎友紀左とん平泉ピン子長谷川初範(新人俳優の長谷川は、熱愛の末に高校生のみどりと結婚をする長距離トラック運転手役)など。「愛せない、愛します、愛する、愛するとき、 … せ、し、する、する、すれ、せよ」の独特の歌詞で記憶に残るドラマの主題歌は、「SHOTGUN」というグループが歌う『愛は心のフルコース』(阿久悠×筒美京平作品)。
  • 自身初となったドラマ『熱愛一家・LOVE』出演について後年の取材でのコメント、「当時は“女優”とか“演じる”とかの意識はほとんどなかったのですが、現場がものすごく楽しかったのはよく覚えています。森光子さんや泉ピン子さん、西田敏行さんとか、素晴らしい俳優さんたちに囲まれて、私は能天気に本当に自由に伸び伸びとやらせていただいたので、NG出したらどうしようかとか先輩が怖いとか、そういうのは全くありませんでした。」(2009年4月 YOMIURI ONLINE)
  • 4月5日、シングル5作目『プリティー・プリティー』発売。
  • 6月25日、水着姿で出演したNTV系『紅白歌のベストテン』の中で、「(自分は)スタイルが悪いので水着を選ぶのに苦労する」とコメント[6]。石野は身長156cm、デビュー当時からのスリー・サイズが、B81・W58・H87で[1]、 体格の割りに大きなヒップをしており、このことでずっとコンプレックスを抱いていた。
  • 7月5日、シングル6作目『ワンダー・ブギ』発売。
  • 7月16日、野球チーム「PRETTIES」結成[6]。このチームのユニフォーム姿でフジテレビ夜のヒットスタジオ』に出演して『ワンダー・ブギ』を歌ったことがある。
  • 8月23日、「第5回日本テレビ音楽祭」開催。デビュー2年目の歌手の中で最も活躍した歌手に与えられる「金の鳩賞」を受賞する。石野は前年の新人賞に続いての受賞で、『ワンダー・ブギ』を披露[3]
  • 9月25日、シングル7作目『ジュリーがライバル』発売。この曲のレコーディングで「石野は感情の入れ方が上手くなった」と周囲のスタッフが感じ始める[3]。この年のTBSのテレビドラマ『熱愛一家・LOVE』への出演で、森光子ら数多くの共演者に恵まれ交流が広がった。
  • 10月27日、TBSラジオ『真子のワンダーランド』出演(毎週土曜17時30分~)[~1981年4月4日][2]
  • 12月、仕事で札幌に行った時に偶然ペットショップで見かけた黒いプードルの赤ちゃん。「黒いフサフサの毛が、可愛くって可愛くって堪らなかった」ので、石野はマネージャーの常盤氏に相談し購入を決定。年明け1980年1月にその仔犬が札幌から届く(マネージャーの婚約者が東京まで運搬)。仔犬は「ツン」と名付けられたが、名前の由来は二説あり、①初め呼んでもツンとしていたから[2]、②歩くと足の爪が「ツンツン」と音を立てるから、とされた。
  • 12月31日、年末恒例のNHK紅白歌合戦に『ジュリーがライバル』で初出場。石野は紅組のトップバッターを任され、この年の紅白歌合戦としての第1曲目を歌った。

[編集] 1980年

  • 1月1日、シングル8作目『春ラ!ラ!ラ!』発売。この曲は自己最大のヒットとなる。
  • 1月13日、ニッポン放送『真子と水島裕のスマッシュ・ルンルン』出演(毎週日曜17時~)[~1980年10月5日][2]
  • 音楽番組「ザ・ベストテン」(TBS)では、『春ラ!ラ!ラ!』と次の作品『ハートで勝負』の2曲がランクインされた。石野は同番組へ頻繁に出演する実績は残せなかったが、出演の際に司会の久米宏黒柳徹子らに対して、手製のクッキーを焼いたり、菓子店で菓子折りを持参するという気配りさを見せる一面があった。また、同番組では初登場の時アルバムに直筆のサインを書くのが伝統となっているが、石野はその1枚のアルバムに何人も書くと勘違いして、片隅の方にほんの小さくサインしてしまう。それでも黒柳徹子からは「あなたのその謙虚さが良い!」と誉められていた(その後石野は2回目の出演時に、改めてアルバムに大きくサインしている)。
  • 3月3日、堀越高等学校を卒業。石野はアイドルデビュー後に多忙になってしまい、単位不足となり1年留年して卒業した[1]。留年後の同期卒業生には、渋谷哲平岩崎良美、そしてレコードデビュー直前の松田聖子(NHKレッツゴーヤングのサンデーズで活躍中)がいた[2]
  • 3月10日 高校卒業の喜びも束の間、芦屋市の実家が失火で全焼する。出火当時、石野は静岡県内で開催された千昌夫ショーにゲスト出演していて、終了後にバーニング側から「家が全焼した」と連絡を受け、涙ぐんだ。
  • 3月21日、テレビ朝日系列の連続ドラマ『なさけ坂旅館 一日三食人情つき』放送開始(金曜21時~、全26回)[~9月26日]。東京神楽坂にある旅館「丸川」を舞台に三代の女系家族が織り成す人情ドラマ。主演は山田五十鈴、共演者には市原悦子林隆三といったベテランが揃っており、前年出演のドラマ『熱愛一家・LOVE』に続いて共演者に恵まれた[2]
  • 4月5日、シングル9作目『ハートで勝負』発売。
  • 4月13日、NHK『レッツゴーヤング』(毎週日曜18時~)の新司会を太川陽介と共に務める。[~1981年3月7日]
  • 石野は芸能界屈指の辛党。久米宏と中華料理店で対談した際に、麻婆豆腐の上に山のように辛子を振りかけて久米を驚かせた。また、普段からバッグの中に七味唐辛子や胡椒の瓶を入れて持ち歩き、注文したうどんが見えなくなるほど七味唐辛子をかけて食べた。[2]
  • 5月25日、東芝日曜劇場「およめちゃん」に初出演。「熱愛一家・LOVE」のディレクター・鴨下信一氏が、石井ふく子プロデューサーに紹介し、出演が実現した。「およめちゃん」は好評のため、その3まで製作された。(共演:山村聰、おりも政夫、織本順吉 折戸伸弘/脚本 鴨下信一/演出 石井ふく子/プロデューサ-)
  • 7月5日、シングル10作目『めまい』発売。
  • 8月28日、日本テレビ系列『日本テレビ音楽祭』のトップ・アイドル賞を受賞。昨年まで女性部門は山口百恵が連続受賞していた。“普通の女の子が歌をうたっているだけ”と日頃から思っていた石野にとって思いがけない受賞で、「ありがとうございます、ホントにありがとう、こんな私がトップ・アイドル賞をいただけるなんて」とコメント[11]
  • 8月30日~31日、NTV系の第3回24時間テレビ 「愛は地球を救う」でメインパーソナリティーを務める。
  • 9月21日、シングル11作目『彼が初恋』発売。
  • 12月31日、前年に続きNHK紅白歌合戦に2度目の出場。当夜は青いレオタード衣装で『ハートで勝負』を披露した。

[編集] 1981年

  • 4月12日、NTVの『スター誕生!』の新司会を坂本九と共に務める。
  • 7月21日、シングル16作目『バーニング・ラブ』発売。
  • 7月26日、金沢観光会館を皮切りに「Bye-Bye MAKO グッドラック・コンサート」が全国18ヵ所で公演。
  • 8月30日、「Bye-Bye MAKO グッドラック・コンサート」最終日(渋谷公会堂)。NTV「日曜スペシャル・いよいよ引退!石野真子ラストコンサート」(15:45~17:10)でその様子がテレビ生中継される[6]。歌手が引退するラスト・コンサートをテレビ局が生中継するのは非常に珍しい事で、2008年迄で山口百恵ピンク・レディーと石野の3例。(キャンディーズ?)
  • 8月31日、フジテレビ系列の音楽番組『夜のヒットスタジオ』の放送。番組内では石野の結婚を祝い“さよなら引退”セレモニーがあった。武田鉄矢が『贈る言葉』を歌い、駆けつけた森光子や当日の番組出演者一同が合唱して石野の引退を見送った。
  • 9月6日、NTVの『スター誕生!』最後の司会を務める回の放送日。この回の収録では番組サイドが石野の歌手引退に配慮して、“石野真子ヒット・メドレー”のコーナーを番組内に組んでいる。『わたしの首領』、『プリティー・プリティー』、『彩りの季節』の3作をメドレーで歌い、最後に『バーニング・ラブ』を披露した[6]

[編集] 芸能界引退 1981年 - 1983年

  • 1981年8月、二十歳になった石野はフォーク歌手の長渕剛と結婚。芸能界を引退する。女性として幸せな結婚をして家庭に入ることは、少女時代からの石野の夢で希望だった。
  • 石野と長渕剛の交際は、ニッポン放送オールナイトニッポン』のパーソナリティを務めていた長渕の希望で構成作家の秋元康が石野のゲスト出演をセッティングして、二人が番組内で意気投合したことから始まった。自分のラジオ番組に好みの女性をゲスト出演させ、親交を深める手法は吉田拓郎がすでに確立していた常套手段で、全く同じ事を長渕が実践した(俺らの旅はハイウェイ、1990年2月、長渕剛、八曜社)。また、長渕は石野との関係を自身のシングル8作目『二人歩記(ふたりあるき)』という歌に残している。
  • 石野と長渕剛の結婚式はハワイの教会で行われる。結婚式の仲人を務めたのは長渕の師匠である吉田拓郎浅田美代子夫妻(当時)[12]。吉田拓郎は石野のデビュー時期の楽曲提供者で、石野にとっての恩師でもあった。
  • しかし結婚した二人は生活の中で様々な見解の相違を表面化させる。そして長渕のDV(家庭内暴力)が決定的理由で、わずか1年3ヶ月で結婚生活にピリオドが打たれた。長渕との離婚後は再び芸能界へ復帰したため、“引退”は結果として一時的なものになった。

[編集] 芸能界復帰から現在 1983年 - 現在

[編集] 1983年

  • 5月、長渕剛と離婚、すぐに芸能活動を再開。主に女優として、テレビドラマや映画に出演する。活動再開にあたり所属事務所は、デビュー時のバーニングプロダクションと同じグループ会社のフロム・ファーストプロダクションへ移籍。復帰記者会見には、「およめちゃん」のプロデューサーでもある石井ふく子氏が同席し、時折涙を見せた石野にハンカチを差し出した。復帰作品は、石井ふく子プロデュースの東芝日曜劇場「ねえちゃんの夏」(共演:堤大二郎、山岡久乃)
  • 9月25日 『スター誕生!』の最終回に他の卒業生らと一緒に出演。
  • 11月14日、フジテレビ系列「笑っていいとも!」のテレホンショッキングのコーナーに鶴見辰吾からの紹介で出演。司会のタモリからは、「太った?」「目が腫れてる?」「相変わらず歯があっちこっちだね」「手が大きいね」「爪も大きい、アサリ貝みたいだね」などとイジられた。自分の手は指が短く形が悪いので、洗剤の宣伝など手が映る仕事は絶対に出来ない手だと思うと話した。仕事の宣伝としては、初めての舞台芝居となる「おしん」のポスターを持参した。翌火曜日へのお友達紹介では、1980年にテレビドラマで共演した林隆三の自宅へ石野自身が直接ダイヤルしてバトンタッチした。

[編集] 1985年

  • 芸能界復帰後、歌手活動を本格的に再開。10月30日、フジテレビ系列の音楽番組『夜のヒットスタジオDELUX』放送。81年8月31日放送の“さよなら引退”以来の4年ぶり出演で、シングル『めぐり逢い』を披露。この日、石野は黒いドレス姿で登場したが、歌の最中にこのドレスの肩の部分がズリ落ちてしまうハプニングに見舞われて必死に耐えながら歌った。

[編集] 1986年

  • 1月5日、NHKの第24作大河ドラマいのち』が放送開始(1月5日~12月14日、日曜20時~)。高原佐智(サチ)役を石野が演じて好評を得る。後年、中南米の国キューバでも『いのち』がテレビ放映されると視聴率が80%にもなり、「イシノマコ」は同国で有名人になっている。「みんなが一所懸命に頑張っていこうとする姿に(我々)キューバ人は皆が泣いたのだ」との事。キューバでのテレビ放送から10年経って石野が同国を訪れた際に、国営テレビ局が取材に訪れてニュース番組にした[13]

[編集] 1990年 - 1999年

  • 1990年、舞台共演で知り合った当時俳優の広岡瞬と再婚するが1996年に離婚をする。(石野にとって2度目の結婚と離婚)
  • 90年代の女優時代には、刑事ドラマに出演する際に犯人役で登場することが多かった。「石野真子がまた犯人役で出ていて、結末のわかる配役に疑問」といった投書が新聞に掲載されたことがある。
  • クレジット表示に「石野眞子」の名義を使用していた時期もあった。

[編集] 2000年 - 現在

  • 既知のことであるが、元極真空手全日本チャンピオンでその後は不動産会社や警備会社を経営して、岸和田市議そして新進党大阪府第18総支部会長、新進党大阪府連常任幹事を務めていた大西靖人と石野は愛人関係になった。やがて大西氏が2003年(平成15年)1月22日に肝炎から進行した肝臓ガン死去すると葬儀の会場には“未亡人と共に臨終を看取った”石野の姿もあり、妻も公認の不倫状態だったことが話題になった[14]
  • 2003年以降、歌手活動を本格的に再始動し、2008年までにアルバム4枚、シングル2枚をリリース。コンサート活動は2008年時点で「キリスト品川教会グローリア・チャペル」でのクリスマスコンサートが毎年恒例となる。
  • 2004年テレビ朝日系列の子供番組「特捜戦隊デカレンジャー」の白鳥スワン役でレギュラー出演、サウンドトラックに「MOTHER UNIVERSE」という歌を、歌:白鳥スワンとして歌っている。この歌が入ったCDはコロムビアミュージックエンタテインメントから発売されている。
  • 2008年3月25日、デビュー30周年記念コンサート「昨日・今日・明日」を開催(原宿クエストホール、19時~)。当日は『狼なんか怖くない』発売から満30年の記念すべき日だった。コンサート会場には遠方各地からの40歳台のスーツ姿の親父世代も多数集結し、“特攻服に緑色の鉢巻き姿”のかつての親衛隊も復活していた。また、実際に石野の親衛隊をしていた俳優の嶋大輔も観客席に姿を現していた。日本テレビの取材に対して石野は、「応援していただいて嬉しい。(30年間は)本当にあっという間のような気もしますが…、あの日に今日の日が来るなんて想像もしていなかった」と喜びを淡々とコメント[15]
  • 2008年3月26日、前日の記念コンサートに続き、石野のデビュー30周年記念CD BOX『Mako Pack -Premium-』が発売。CD7枚+DVD2枚組の完全限定生産盤で、製作・発売元はビクターエンタテインメント(税込価格19,800円)。このCD BOXのジャケット写真は、1980年発売のシングル8作目『春ラ!ラ!ラ!』のジャケット撮影時の別ショットを活用している。商品名称は『石野真子 │ MAKO PACK -Premium- 30th Anniversary Special Edition』と記されている。

(CD BOX『Mako Pack -Premium-』の詳細は『Mako Pack -Premium-』を参照)

  • 2008年12月23日、「東京タワー開業50周年記念のイベント」に出演し、「東京タワー開業50周年 公式応援ソング」を披露する。
  • 2008年12月24日、「東京タワー開業50周年 公式応援ソング」が発売される。

[編集] 憧れた人々

  • 女優で元アイドルの小泉今日子は石野に憧れて芸能界入りした1人。日本テレビ『スター誕生!』に挑戦した小泉は決戦大会まで石野の『彼が初恋』を歌った(YouTubeの“コイズミ「スタ誕!」合格シーン”で映像確認できる)。所属事務所はバーニングプロダクション、レコード会社はビクター音楽産業(現、ビクターエンタテインメント)で両方ともアイドル時代の石野と同じである。
  • 元アイドルの堀ちえみ(2003.12.31TV朝日『鶴瓶とロンブーの年越しイベント』)や芳本美代子(2007.7.14TV東京『夏の北海道期間限定列車で行く旅』)も、「石野真子さんに大変憧れて芸能界へ入った」と証言。
  • ダウンタウン浜田雅功(2007.6.21NTVダウンタウンDX)は、石野の熱狂的なファンであると公言し、現在はお互い頻繁にメールのやり取りするメル友であることを浜田の番組「ごぶごぶ」に石野が電話出演した際に明かしている。
  • 歌手で俳優の嶋大輔は、アイドル時代の石野の親衛隊をしていたと語っている(2006.5.18NHK『きよしとこの夜』)。また、新米の親衛隊員だった頃に大磯ロングビーチで行われたショーの場所取りで日射病にかかり救急車で担ぎ出されたことがある、と石野のデビュー30周年記念CD BOX『Mako Pack -Premium-』のブックレットに今も変わらぬ石野への思いを寄稿している。嶋は石野と同じフロム・ファーストプロダクションに所属している。
  • 爆笑問題太田光(2002.4フジ、ザ・ジャジ!得する法律ファイル、『コレって罪じゃないの!?』)は、「石野真子の所属事務所にファンレターを送り、返信の葉書を本人から頂いた」と証言。
  • 一方、フジテレビ系列の音楽番組『夜のヒットスタジオ』の司会者だった芳村真理は石野が憧れた先輩の一人で親交も深い。石野は芸能界デビュー後たった2日目の1978年3月27日に『夜のヒットスタジオ』に出演をしている。同番組の最終回に出演した際には「他の番組ではアイドル歌手としてしか扱ってくれなかった中で、真理さんだけは一人の大人、一人の女性として接してくれたことがとても嬉しかった」と芳村へ敬意を込めたコメントを残した。

[編集] 世紀の八重歯タレント

  • アイドル歌手“石野真子”がデビューした時のキャッチフレーズは「百万ドルの微笑」で、トレードマークはタレ目と見事な2本の八重歯だった。所属事務所のバーニングプロダクションは、石野をそのまま八重歯のアイドルとして売り出した。色紙にサインを書く時などは、自身に見立てた“タレ目で八重歯”の女の子のイラストを書き添えることがあった。また、そのイラストを基にしたステッカーやワッペン等の石野グッズも販売されていた。1979年7月に結成した石野真子の野球チーム「PRETTIES」のユニフォームのワッペンにもこのイラストが使用された。20世紀の八重歯タレントとしては、小柳ルミ子梓みちよ国広富之河合奈保子芳本美代子、古くは美空ひばり石原裕次郎なども挙げられるが、石野の見事な八重歯具合はトップレベルだった。そして“タレ目で八重歯のタレント”といえば石野を指した。
  • 当時、八重歯が相当な牙(キバ)だったことを示す本人のコメント。「薄ーいコップって有りますよねぇ。それでお水を飲もうと思って半分まで飲んだんです。底にちょっとしか残ってなかったんで、一気にクイっと飲もうと思ったんですよ。それが八重歯の間にちょうどコップの飲み口がカチッと挟まったまま、手だけ上にクッと上げたから、テコの要領でガラスが口の中で割れちゃったんです。バリッという感じで、お水がバッ!と弾けましてね、ビックリしました」[8]
  • デビュー2年目(1979年)に出演したTBSの連続ドラマ『熱愛一家・LOVE』のワンシーンには、結婚式を控えた石本みどり(石野)が夢の中で鏡に向ってマジマジと自分の顔を見つめる場面の台詞に、「タレ目がこう上がって、ダンゴ鼻がとんがって、この牙を抜いて、これだけ整形したら美人になれるかなー?…この牙!どうにかならないかなぁ」と呟くシーンがある。
  • 八重歯タレントの多くは歯列矯正して八重歯を卒業してしまうケースが多く、石野も例外ではない。トレードマークだった2本の八重歯は1985年に矯正してしまい、美しい歯並びに直してしまった。1985年10月30日、久しぶりにフジテレビの『夜のヒットスタジオDELUXE』に出演して新曲『めぐり逢い』を披露した際に、司会の芳村真理古舘伊知郎から「八重歯はどうしたの?」と訊かれると、「そう、削っちゃったの」と軽く口元を見せ、あっさりと歯列矯正した事を認めている。

[編集] 冬の時代のトップアイドル

石野がデビューした1978年当時、日本の音楽界はニューミュージックやテクノポップの拡大時期で正統派アイドル歌手にとっては“冬の時代”だった。第20回日本レコード大賞の新人賞受賞曲は石野の『失恋記念日』のほか、さとう宗幸『青葉城恋唄』、最優秀新人賞に渡辺真知子『かもめが翔んだ日』だった。石野自身、デビュー後のレコードセールスはさほど振るわず、オリコンチャートのベスト10入りしたことは一度も無かった。しかし、アイドルとしての人気はトップクラスで、テレビ出演は音楽番組のみならずドラマやバラエティ番組やCMも含めて出演頻度が多く、NHK『レッツゴーヤング』の司会を務めたり日本テレビ系列の第3回24時間テレビ 「愛は地球を救う」のメインパーソナリティもこなした。また、ラジオ番組のパーソナリティも務めていた。ブロマイド売り上げや人気アイドル投票等では1位を獲得し、明星平凡をはじめとする各種雑誌のピンナップや付録ポスターにも頻繁に登場した。1980年には国民的アイドルに成長して、『日本テレビ音楽祭』でトップ・アイドル賞を受賞した。その後、松田聖子河合奈保子など新しいアイドル達が続々とデビュー。アイドル3年目の石野の人気は徐々にではあるが下降してゆく。自らは1981年夏に長渕剛との結婚のため二十歳の若さで芸能界を引退し、デビュー以来3年半のアイドル時代に幕を引いた。

[編集] レコード

[編集] シングル

タイトル 発売日 作詞 作曲 編曲 備考
狼なんか怖くない 1978年3月25日 阿久悠 吉田拓郎 鈴木茂 デビュー曲、ジャケット撮影は篠山紀信、東京赤坂の公園にて撮影
わたしの首領<ドン> 1978年6月25日 阿久悠 吉田拓郎 馬飼野康二
失恋記念日 1978年10月5日 阿久悠 穂口雄右 穂口雄右 第20回日本レコード大賞新人賞受賞曲
日曜日はストレンジャー 1979年1月25日 阿久悠 筒美京平 筒美京平
プリティー・プリティー 1979年4月5日 阿久悠 筒美京平 船山基紀
ワンダー・ブギ 1979年7月5日 阿久悠 馬飼野康二 馬飼野康二
ジュリーがライバル 1979年9月25日 松本礼児 幸耕平 萩田光雄 第30回NHK紅白歌合戦披露曲
春ラ!ラ!ラ! 1980年1月1日 伊藤アキラ 森田公一 竜崎孝路 自身最大のヒット曲
ハートで勝負 1980年4月5日 松本礼児 馬飼野康二 馬飼野康二 第31回NHK紅白歌合戦披露曲
めまい 1980年7月5日 有馬三恵子 川口真 船山基紀
彼が初恋 1980年9月21日 有馬三恵子 筒美京平 矢野立美 原曲は南沙織の「ふるさとの雨」(アルバム『17才』1971年10月1日発売に収録)、石野に憧れアイドルを目指した小泉今日子がNTV『スター誕生!』で決戦大会まで歌った
恋のハッピー・デート 1980年11月21日 B.Findon-M.Myers-B.Puzey
訳詞:森雪之丞
B.Findon-M.Myers-B.Puzey 矢野立美 両A面として発売
恋のハッピー・デートはノーランズ
邦題同名曲のカバー
フォギー・レイン 三浦徳子 馬飼野康二 馬飼野康二
思いっきりサンバ 1981年2月5日 有馬三恵子 筒美京平 大村雅朗
彩りの季節 1981年4月21日 有馬三恵子 川口真 船山基紀
恋のサマー・ダンス 1981年6月21日 森雪之丞 鈴木キサブロー 萩田光雄
バーニング・ラブ 1981年7月21日 松本礼児 幸耕平 萩田光雄
私のしあわせ パートII 1981年12月20日 石野真子 石野真子 矢野立美
明日になれば 1982年9月21日 伊藤アキラ 穂口雄右 船山基紀 引退後に発売
めぐり逢い 1985年6月21日 松本隆 上田知華 井上鑑
ガラスの観覧車 1987年7月21日 売野雅勇 林哲司 新川博
空にカンバス 1987年10月21日 川村真澄 渡辺博也 渡辺博也
Kira kira ∞ 2001年6月12日 PEGIE YOU TAMAKICHI
こっちを向いて 2007年3月15日 松宮恭子 菅井えり 菅井えり NHK「みんなのうた」
東京タワー 2008年12月17日 326 岡田実音 高島智明 東京タワー開業50周年 公式応援ソング

[編集] アルバム

  • 微笑
  • MAKOⅡ
  • 石野真子ベストヒットアルバム
  • MAKO ライブⅠ
  • MAKOⅢ
  • MY COLLECTION
  • 恋のディスク・ジョッキー
  • 私のしあわせ
  • MY COLLECTIONⅡ
  • TWENTY MAKO 6
  • ジーンズにはきかえて
  • MAKO PACK
  • Bye Bye MAKO LIVE
  • 石野真子さよなら公演完全収録LIVE 
  • サフラン 
  • Truth
  • 海の記憶 
  • Mako Revival
  • Mirai
  • GOLDEN☆BEST 石野真子
  • Mako Pack -Premium-[30th Anniversary Special Edition]
  • Love Merry-go-round

[編集] 主な出演作品

[編集] 映画

[編集] テレビドラマ

[編集] オリジナルビデオ

[編集] 情報・バラエティ番組

[編集] CM

  • ライオン 「ban16」
  • カネボウ アイスキャンデー「BOB」(1980年)
  • 富士ヨット 「富士ヨット学生服」(テレビCMのキャッチコピー:伸ーび伸びの丸洗い!/ 1980年)
  • 花王 「モア(台所用洗剤)」「リンスのいらないメリット」
  • サトウ製薬 「ユンケルEC」(いしのようこと姉妹共演)

[編集] 受賞歴

[編集] 1978年度

[編集] 1979年度

[編集] 1980年度

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] 脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 1978年10月臨時増刊『近代映画』
  2. ^ a b c d e f g 1980年5月25日『近代映画ハロー 石野真子パート5特集号』
  3. ^ a b c d 1979年10月25日『別冊近代映画ハロー秋の号 石野真子パート4』
  4. ^ 2008年1月12日、関西テレビプライスバラエティナンボDEなんぼ』で川崎麻世コメント
  5. ^ 2008年8月1日放送、日本テレビ単発スペシャルドラマ『ヒットメーカー 阿久悠物語』
  6. ^ a b c d e f g h i 2008年発売、デビュー30周年記念CD BOXMako Pack -Premium- 30th Anniversary Special Edition』のセット内のDVDに収録
  7. ^ 吉田拓郎著、エッセイ「ふたたび自分の事は棚に上げて」p121
  8. ^ a b c d 1978年8月放送、文化放送『吉田拓郎のセイ!ヤング』、ゲスト石野真子
  9. ^ a b c 1978年12月25日『別冊近代映画秋の号 石野真子特集号』
  10. ^ 2008年12月27日放送、テレビ朝日『超お宝映像大公開ガリベン昭和歌謡SP』での本人の回想コメント
  11. ^ 1980年10月25日『近代映画ハロー秋の号 石野真子パート6』
  12. ^ 石川順恵著、アイドルという人生p43
  13. ^ テレビ東京「世界で密かにメジャー級 SUGOI★日本人」、2007年8月27日
  14. ^ 北之口太 『一撃の拳-松井章圭』 講談社、2005年(平成17年)、131-140頁。
  15. ^ 2008年3月26日、NTV系「ズームイン!!SUPER


最終更新 2009年9月7日 (月) 15:43 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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