萩本欽一

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 萩本 欽一
本名 同じ
ニックネーム きんちゃん、大将
生年月日 1941年5月7日(68歳)
出身地 東京都台東区
血液型 A型
身長 164cm
方言 東京弁
最終学歴 駒込高等学校
師匠 東八郎深見千三郎はかま満緒 など
出身 浅草東洋劇場
コンビ名 コント55号
相方 坂上二郎
芸風 コント
事務所 浅井企画佐藤企画萩本企画
活動時期 1964年 - 現在
同期 西川きよし立川談志
現在の代表番組 欽ちゃんの仮装大賞
過去の代表番組 欽ドン!
欽ちゃんのどこまでやるの!?
スター誕生! など
他の活動 茨城ゴールデンゴールズ監督
配偶者 既婚
弟子 欽ちゃんファミリー
  

萩本 欽一(はぎもと きんいち、1941年5月7日 - )は、日本コメディアンタレントである[1]日本野球連盟茨城ゴールデンゴールズ監督、司会者、演出家としても活動している。

目次

[編集] 概要

東京都入谷出身。両親は香川県小豆島出身[2]。身長164cm、体重65kg。血液型A型。駒込高等学校卒業。浅井企画佐藤企画(業務提携という形で所属)、萩本企画(個人事務所だが浅井企画の関連会社)所属。

大衆からはもとより、芸能界でも先輩・後輩問わず「欽ちゃん」の愛称で呼ばれる。その他の愛称は「萩モー」「」「欽坊」など。また、彼の番組や舞台から育ったいわゆる欽ちゃんファミリーからは「大将」と呼ばれている(ビートたけしが弟子たちから「殿」と呼ばれているのと同様である)。ゴールデンゴールズの選手からは「欽督(きんとく)」と呼ばれている。

1970年代1980年代に、「なんでそーなるの!」というギャグや、「欽ちゃん走り」と言われる独特の走り方(原点は師匠の東八郎)など体を使った笑い、さらに素人および素人っぽさを残す才能を開花させるなど活躍した。「どっちらけ」、「バンザーイなしよ」等今も語り継がれるギャグも多い。現在ごく普通に使われる「ウケる」(ややウケ、バカウケ等)という言葉も、最初は『欽ちゃんのドンといってみよう!!』から広まったと言われている(芸人言葉を一般にも広めた)。「天然」「天然ボケ」を初めて使ったのも彼である[3])。

[編集] 来歴

[編集] コント55号以前

幼い頃から裕福な家庭で育っていたが、カメラ・メーカーであった父親の事業の失敗(低価格カメラを発売するも販売不振)で極貧生活を強いられる。中古カメラ店の『カツミ堂』は親戚にあたる。

極貧の生活を抜け出したい萩本は、映画で“面白い人が面白いことをしてお金を貰っている姿”を見たことがきっかけで中学卒業と共に芸人を目指し浅草を代表する喜劇役者・大宮敏充の元へ弟子入りを請うが、「せめて高校を出てからおいで」と断られる。
高校卒業後、浅草公園六区にあった東洋劇場(東洋興業経営)の仲介で再度入門を請うべく大宮が常打ちにしていた浅草松竹演芸場へと赴くが、寸前で入門することを取りやめ、その足で同じ近隣の東洋劇場に入団。研究生としてコメディアンの卵となる。

東洋劇場では、先輩芸人である池信一や石田英二、そして東八郎から数多くの指導を受ける。また、彼等の大師匠筋である浅草の首領こと深見千三郎からも薫陶を受け、大いに可愛がられる[4]

入団当時、演出家から「君は才能がないからやめたほうがいい」と言われて落ち込み諦めようとした際、池が演出家を説得し、「大丈夫、演出の先生に言ってきた。ずっと居ていいよ」と萩本を引き止めた。その後、その演出家から「萩本は才能がない。しかし、これほどいい返事をする若者はいない。あいつの“はい”は気持ちがいい。“はい”だけで置いてやってくれ」と池が言っていたことを知らされる。さらに、その演出家から「芸能界はどんなに才能がなくても、たった1人でも応援する人がいたら必ず成功する。もしかしたら、お前を止めさせないでくれという応援者がいる。お前は成功するから頑張れ」と言われ奮起。その後、誰も居ない劇場で早朝に大声を出す練習をしたり、先輩芸人の真似を何度も繰り返すなど才能を努力で補うために必死になった。

その後、父親の家が火災になり、萩本は父親を助けるためにコメディアンを辞めようとしたこともあったが、それを聞いた池は、劇場の関係者からカンパを募り約60万円を萩本に渡した。これには、萩本も感極まって号泣し、コメディアンを続けていくことを決意した[5]

東洋劇場で上達した頃、同系列の浅草フランス座へ出向。ストリップの幕間コントで更に腕を磨く。ここで漫才師崩れの専属コメディアン・安藤ロール(のちの坂上二郎)と知り合う。しかし、当時は共演というよりはむしろ競演で、お互いに自分だけがウケようと衝突していたとの事である。彼の坂上に対する印象は「一緒にやったら食われるから嫌い」だったという。

その後萩本は東洋興業を辞め、いくつかのコントグループを経て浅草松竹演芸場で劇団浅草新喜劇を旗揚げして座長公演を行う。同時期に、放送作家のはかま満緒に師事してお笑い作りに本格的に取り組む。ここで、後年コント55号の殆どの台本を手掛けた岩城未知男と知り合う。さらに、はかまの伝手で、TBSのプロデューサー・向井爽也や芸能マネージャー・浅井良二(浅井企画代表)と知り合い、本格的にタレント活動を開始。向井の手掛ける公開コメディ番組『じんたかパンチ』のコマーシャルに起用される。しかし、ここで緊張したのか気負ったのか、萩本は異例ともいえる21回ものNGを連発し、降板を余儀なくされる。

失意の萩本は、テレビ進出を諦め生涯舞台役者で生きていくことを決意。浅草新喜劇も解散して、熱海つるやホテルの営業で再起を期していた。ここでたまたま考案した一人コント「机」が、後年日本中を席捲したコント55号の端緒となるのである。

後に『快獣ブースカ』で脚本家デビューすることになる市川森一と、はかま満緒師事時代に友好を持ち、市川は後年、日本テレビの開局40周年スペシャルドラマ『ゴールデンボーイズ』で、若かりし頃の萩本(演者は小堺一機)の、これらのエピソードを描いている。

[編集] コント55号

坂上二郎から誘われる形で、一回の舞台契約だけで、1966年、「コント55号」を結成[6]

前田武彦と組んだフジテレビの公開生放送『お昼のゴールデンショー』(1968年1971年)で人気に火がついた。以降、『コント55号の世界は笑う』(フジ)、『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』『コント55号のなんでそうなるの?』(ともに日本テレビ)、『チータ55号』『みんなで出よう!55号決定版』(TBSテレビ)、『ウォー!コント55号!!』『コント55号!!笑ってたまるか!?』(NETテレビ・現在のテレビ朝日)など、テレビを席巻した。その後もコンビとしての活動は続いたが、1975年に始まり、久米宏司会で大人気となった『ぴったし カン・カン』(TBSテレビ)では双方がグループリーダー役になるなど、昔のコンビ芸とは違い、次第に個々の活動に入っていった。

[編集] 視聴率100%男

コント55号で人気絶頂期の頃の1971年、日本テレビスター誕生!』の初代司会者(司会は初めての経験)としてソロ活動を始める。ソロでも人気は安定であり、それ以降の主演のレギュラーにも結びついていく。翌1972年にはニッポン放送のラジオ番組『欽ちゃんのドンといってみよう!!』が開始。聴取者からのハガキ投稿が基本の番組で人気が上昇、1975年にニッポン放送と同じフジサンケイグループフジテレビにて『欽ちゃんのドンとやってみよう!』として公開テレビ番組となる。当時同局で司会を担当していた『オールスター家族対抗歌合戦』(1972年1986年、ただし萩本は1984年6月限りで司会を降板)で編み出したともいわれる、ゲストの家族や素人出演者へのツッコミぶり(いわゆる「素人いじり」)は、「欽ドン!」では素人主体で結成された「欽ドン劇団」や、ロケ先で道行く人々をも巻き込み大きく開花し、のちの番組においても一連の素人扱いぶりは天才的な至芸を極めた。 オファーがあった際に「僕は司会ができないから、ちゃんと司会ができる女の子をつけてほしい」と希望、これが現在のアシスタントの走りといわれる。

以降、間を置いて1981年には月曜9時にフジテレビ『欽ドン!良い子悪い子普通の子』シリーズが開始。1976年から始まっていたホームコメディのテレビ朝日(当初はNET)『欽ちゃんのどこまでやるの!?』(欽どこ)、1982年に始まったTBS欽ちゃんの週刊欽曜日』(週欽)、さらにはTBS『ぴったしカン・カン』、フジテレビ『オールスター家族対抗歌合戦』と高視聴率番組が続き、各番組の合計した視聴率の数字から「100%男」の異名を取る。これらの番組から人気芸能人が生まれ、彼らは「欽ちゃんファミリー」として巣立った。

[編集] 能力を見抜く才能と眼力

萩本は素人をお笑いタレント化するのが非常に上手かっただけではなく、意外な有名人のお笑いの才能を見抜き更には引き出すことにも長けていた。前川清(歌手、元々はクールな二枚目キャラ)、内山田洋とクール・ファイブ(ムード歌謡グループ)、中原理恵(若手歌謡曲歌手)、真屋順子(元は正統派の舞台女優)、志賀勝(悪役俳優)など、それまでお笑いに縁がなかった面々を自分の世界に引き込み、新たな才能を育てたと言える。更に「欽どこ」で若原一郎を、「オールスター家族対抗歌合戦」で近江俊郎(いずれも懐メロ歌手)を人気復活に導き、タレントとしての才能を発揮させ、歌手時代を知らない若い世代にも知名度を広げた。

その反面、萩本は自分の番組内で人気と知名度が高まった面々を、あっさりと切り捨てることも多い。萩本自身が芸に対しては厳しく更には細かい事にもこだわる側面もあり、萩本の番組に出演したことで強い色が付いてしまった結果、その後の俳優やタレントとしての活動に制約が生じ、完全に低迷してしまう例も多く見られた。彼らが人気と知名度を獲得したのは、多くは萩本の力によるものであるにも関わらず、自分の実力を過信してしまう例もあったと言われる。萩本が認める「唯一の弟子」である斉藤清六も、「欽どこ」出演により一時は人気を博したものの、近年テレビへの出演が少なくなっている。

[編集] 番組の顔

一連の企画・主演バラエティ番組以外でも、先述の『スター誕生!』、『オールスター家族対抗歌合戦』の司会者以外にも、1978年から現在も続いている『24時間テレビ』(日本テレビ系)と1975年に始まった『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』(ニッポン放送)では初期にメインパーソナリティを勤め、番組の顔ともなった。

[編集] 番組降板・休養

1985年3月、充電と称して当時のレギュラー番組をすべて打ち切り、半年間ほど休養する。理由について本人は「『100%男』と言われるまでに至った人気を維持していく事に自信がもてなくなった」と説明、また当時人気のあった『オレたちひょうきん族』などの一連のアドリブ主導のテレビ番組が嫌になったとも言われる。また視聴率が下降気味であることを指摘されるようになり嫌気が差したとも本人は後に述べている。

[編集] アドリブ嫌い?

萩本は大のアドリブ嫌いと言われることが多い。コント55号のコントでもアドリブを連発する坂上二郎に対し、舞台裏では「二郎さんが台本通りやってくれない」と毎回楽屋で泣いていたという逸話がある。しかし一方では齋藤太朗(日本テレビディレクター)の「台本どおりのコントをやって欲しい」との要求に対し「演者には演者としてのプライドがある」と反発し、舞台ではアドリブを連発していたとのエピソードもあり、決してアドリブを全否定していたわけではない。

萩本は後にインタビューで「なんで台本どおりやっちゃいけないかというと、台本には間がないんですよ」「どんなにいい台本でも、ひとたび間を入れると微妙にセリフが変わってくるものだから」と語り、舞台上で重要な間の取り方との関係から、アドリブはコントにおいて必要不可欠なものであることを認めている[7]。他にもアドリブについて「台本をやらないんじゃないんだよ。台本どおりやって外すんで、急遽それをカットして取っ替えるんです。でも、取っ替えてでもお客さんに笑ってもらわないと、衣装も小道具もみんな無駄になるし、見てるお客さんもつまらないですから」と語っており[7]、コント演者にとって客を楽しませることこそが最も重要であり、そのためにはアドリブも辞さない姿勢を示している。

[編集] 休養後

休養後テレビに復帰するも次々と番組打ち切りの憂き目に遭い、1980年代前半にはタモリビートたけしらと共に「お笑いBIG3」とされてきたが、その「BIG3」の座も明石家さんまに明け渡すなど人気においても以前ほどの勢いはなくなった。しかしながら今でも『欽ちゃん&香取慎吾の全日本仮装大賞』(日本テレビ)の司会などでテレビに登場していることもあり、彼の顔を知らない人はまず少ない。彼の番組や舞台をきっかけに活動の域を広げた関根勤小堺一機はしのえみ柳葉敏郎勝俣州和らは現在もテレビやラジオ、舞台で活動を続け、また君塚良一大岩賞介といった脚本家を育成させる等、芸能界、放送界における彼の影響力は強く、東京では無名に近かったダウンタウンを自らの番組に出演させて、東京進出のきっかけを作っている。笑いの方向性では対極とも言えるダウンタウンだが、彼らは義理を非常に重んじる面もあり、萩本には他の先輩芸人とは別格の念を持っておりラジオ番組のネタで萩本を揶揄するネタが来たときも、浜田が「萩本さんの悪口言わんといてくれよ」と述べている。松本は著書で、「あの時期のダウンタウンに好き勝手やらせて(他のタレントには細かくダメ出しをしていたのに)OKを出していた大将はやっぱりすごい」と評している。

また同時期にジミー大西の才能を見いだし、10年に1度の天才芸人を発見した!と喜ぶが、2人きりで楽屋に入り出て来た後「天然だったんだね…」と一言残し落胆するが、この言葉が天然ボケの言葉を定着させることとなる。1998年には長野オリンピックの閉会式司会を担当。また、1990年代以降、前川清や自らが主催する欽ちゃん劇団の舞台などで演出家としても活動している。

音曲に合わせ踊りながらじゃんけんをして、負けた者が服を脱いでいく野球拳は、『裏番組をブッ飛ばせ!』で使ってから世間に広まった。ただし汚れ役であることと、野球拳が主体となり自分たちのコントが2次的な存在になることへの嫌悪感から当時はこの役を相当嫌っていたようであり、その後の芸風がそこからかけ離れているのはこの苦悩と思われる。ただし2005年の野球拳発祥の地松山での祭りでは、野球拳(本来の野球拳は服を脱がない)で出演した。この際野球拳について35年ぶりに謝罪し話題を呼んだ。また、じゃんけんの「あっち向いてホイ」は『スター誕生!』の欽ちゃんコーナーで放送されたのをきっかけに全国に広まったものである。

「欽ドン!」「良い子、悪い子、普通の子」「欽ちゃん劇団」など、彼の発案による冗談やネタは数多い。

[編集] 欽ちゃん球団

高校時代は野球部に籍を置くいわゆる高校球児だった。 1975年頃には「欽ちゃんず」というチームを持ち、雑誌社などのチームと交流試合も行った事もある。当時は背番号の代わりに女優の名前を入れたりしていた。 「欽ちゃんのドンとやってみよう!」では、元プロ野球選手の尾崎行雄や“ヒゲ辻”こと辻佳紀らの3人チームがアマチュアチームと対決する「欽ドン!野球」のコーナーもあった。

そのためか、2004年12月26日に、近年の野球人気の凋落を危ぶみ、「野球はもっと楽しいスポーツ」だと、2005年度からの日本野球連盟加盟を目指し、関東を本拠(後に茨城県桜川村〔2005年3月22日に平成の大合併に伴い稲敷市になる〕を本拠地に制定)とした社会人野球チーム「茨城ゴールデンゴールズ(以下、茨城GG)」を結成。萩本は、独自のマイクパフォーマンス[8]や女子選手・元プロ野球選手・お笑い芸人などの参入など、前例のないチーム作りを推進し、茨城GGをアマチュア野球随一の人気チームへと成長させた。また、宮崎県においても、姉妹チームの宮崎ゴールデンゴールズを結成。

これにより、森田健作山本譲二森口博子ら著名人が監督となってクラブチームを設立する事例が続出し、野球人気の回復に大きな功績を残した。

しかし、2006年7月19日に遠征先の北海道にて所属選手の山本圭一極楽とんぼ・当時)の17歳女性への性的暴行疑惑および吉本興業契約解除という一連の事件が起こった翌朝、集まった報道陣の前で「事が事だけに山本だけが責められる問題ではない。野球を始めたのは僕なので、大好きな野球だけど辞めることにしました。ごめんなさい」と涙ながらにゴールデンゴールズ球団を解散することを発表したが、事件について言及されても一切語らず、コメントの締めに「野球、大好きだった」と自身のことだけを語り、その場にいた記者団から失笑されてしまった。

しかしこの解散発表が様々な波及を呼び、地元市民による存続署名活動が展開されたことや各メディアのアンケートなどで存続要望が高かったことなどもあり、7月22日新潟県でのセガサミーとの試合の前に球場で解散の撤回を発表。撤回は各メディアやアンケートでも支持を集めたが、自分の感情に任せて安易な解散宣言をしたり、球団存続の要望が出るとすぐに撤回するなど事件にかかわっていない所属選手を振り回すことになり、一部の現役スポーツ選手などから苦言を呈された。さらに、この騒動のため萩本自身が監督責任を自ら取るということはなく指導者としての資質を問われるという面もあった。さらに、山本以外の選手も事件に関わっていたことに対する謝罪は一切なかった。

当初解散発言の際「山本氏に何か一言」と求められ、山本に対しカメラの前で「球団なくなっちゃったよ!」と厳しい発言をしていたが、解散を撤回した際には「背番号をとったユニフォームを着てお客さんのいない夜に普通の山本で遊びにおいでよ!」と温かい言葉を送った。なお、アマチュア野球の連盟に解散の意思を伝えたのは「野球やめます」発言の8時間前である。

ワイド!スクランブル』のインタビューでは問題が解決したら、背番号0のボール拾いからやり直しさせる、と更生を兼ねてチームに復帰させることを示唆している。その一方で、チームの大幅なリストラを提示し、山本の復帰は無いと発言するなど、流動的である。山本が2007年1月に日向のキャンプに訪れた時に萩本に謝罪し、見学していたファンからは山本に対して「山本がんばれよ!」等の声が上がった。しかし、彼は山本を未だに許さない態度を示すコメントを述べた(その際に、山本に対しアドバイスもした[9])。

[編集] その他

[編集] チャップリンとの面会

萩本が「尊敬するコメディアン」としてチャップリンの名を挙げていたことから1971年1月にフジテレビの番組企画で、当時スイスに隠棲していたチャップリンに面会している。実のところ、萩本は「世界で一番有名な人だから」という程度の意識で彼の名を出していたに過ぎず、このときはチャップリン映画も2本しか見たことがなかったという[10]

その頃、チャップリンは誰にも面会しないと言われており、企画した側も実現するかどうか危ぶんでいたが、萩本はむしろそういう相手だからこそ会ってくれるだろうとスイスに出かけていった。萩本に与えられたスケジュールは4日間。初日は、予想通り警護の人間から「チャップリンはいないから会えない」と謝絶を受ける。翌日、車で帰宅するチャップリンと窓越しの対面を果たすが、邸内にはやはり入れなかった。3日目には、かつてチャップリンのマネージャーを務めた高野虎市の「日本人、特に女性が好きなので女性を連れて行けば会えるだろう」とのアドバイスに基づき、土産の博多人形を携えていくが、マネージャーから「預かりはするが、日本からの客人が置いていったとだけ伝える」という冷たい対応を受ける。そして最終日、せめて敬意を持っているという気持ちだけでも伝えたいと粘ったものの、マネージャーはやはり会わせないという返答であった。萩本が怒りと失望から、日本語で「あの(ヒューマニズムにあふれた)映画は嘘だ」などと大声で叫んでいると、それを聞いたチャップリン本人が「何事か」と出てきて暖かく迎え入れた(萩本によると、いろいろとたかりに来るような訪問者がいたため、マネージャーが来客を会わせないようにしていたという)。

この面会以後萩本はチャップリンに対して心からの敬意を抱くようになり、作品も全てきちんと見ることとなった。1977年12月、ニッポン放送『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』の生出演中にチャップリンの訃報を伝えられると、萩本は思わず泣き出した。

[編集] 結婚報道と家族

テレビの「欽ドン!」のヒットで時代の寵児となっていた頃に結婚を発表したが、相手が浅草での駆け出し芸人時代に知り合ったショーダンサーだったことから名前などの詳しい情報は伏せるようマスコミに要望を出している。妻との間に3人の息子がおり、一般人という理由で長らく公表されなかったが、2007年に刊行された自伝『なんでそーなるの!』(日本文芸社 ISBN 978-4537254686)において実名入りで紹介された[11]

[編集] 親族

  • 兄 萩本功(はぎもと いさお、1927年7月9日 - ) プラスロン化粧品会長[12]
  • 弟 萩本悦久(はぎもと よしひさ、1943年 - ) 元東京創価小学校校長[13]
  • 姪 プラスロン明世(ぷらすろん あきよ、1967年4月12日 - ) プラスロン化粧品社長[14]
  • はとこ 藤本克巳 銀座カツミ堂写真機店(株式会社カツミ堂写真機店)会長[15]
  • 姪孫 萩本愛里(はぎもと あいり、1986年12月26日 - ) プロテニスプレーヤー[16]

[編集] エピソード

  • 大手テレビ制作会社「テレビマンユニオン」が日本初の独立系プロダクションとして創立された際、同じ表現者として彼らの志に共鳴した萩本が出資を申し出ており大株主として上位10位内に名を連ねている。
  • かつては野球以外にも、競馬の馬主として小倉記念を優勝したアンブラスモア萩本企画名義)、ビヨルリンク、1977年日本ダービーにも出走したことがあるパリアッチなどを所有していた。
  • 趣味では将棋をたしなんでいて、日本将棋連盟は萩本に対して段を免状。2006年正月に放送された番組で、森内俊之九段と組み、ペア対局で勝利した。一時期高校竜王戦(読売新聞社主催)の前夜祭の司会も務めた。
  • 弟子入りを志願する者が来ると、「正しい箸の持ち方をしていることは親の躾(しつけ)を素直に受け入れている証拠であり、その素直さが成長には不可欠である」という信念からの持ち方を見るためにまずは食事に連れて行く。
  • コント55号時代の有名なネタの1つに忍者ネタがあったが、当初このネタは坂上のみが出演していた(赤忍者)が、番組が進むにつれ「欽ちゃんにも忍者をやって欲しい」と言う声が多数寄せられ、その結果、一時期、「青忍者」として出演していた事があった。なお、ゲスト扱いであったためジングルは製作されていない。
  • 昔、喫茶店でアルバイトをしていた頃、売れ残ったアイスクリーム数個を食べさせられてから大の苦手となりそれ以来食べられなくなった。
  • 自身の著書の中で「ミニスカートが嫌いだ」と記しており番組の女性レギュラー出演者には「ミニスカートをはかないでほしい」と要請していた。
  • 麻雀の実力は喜劇人の中では随一といわれる。[要出典]
  • ルービック・キューブが非常に得意で、第一次ルービック・キューブ・ブーム時に、テレビでその技を披露したことがある。自分でキューブの各面に番号を振り、自分で解析してすべて我流で解き方を編み出した。
    後に5×5×5のプロフェッサーキューブが発売された時に東貴博からプレゼントされたが、後述するチャリティーマラソンの直前だというのに2週間ほとんど寝ずに同じく各面に番号を振って解き方を編み出した。
  • 2007年8月18日19日に放送された『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』のチャリティーマラソンランナーになる。66歳という年齢等を考慮して走行距離は通例より短い70kmとした。残り900m余りを残したまま放送時間内(20時52分30秒)でのゴールはできなかったが、引き続き生放送された『行列のできる法律相談所』内にてゴール。同番組内でのゴール時の瞬間最高視聴率は42.9%を、平均視聴率は35%超を記録した。台本が好きな彼にとっては、台本どおりに時間内の完走が出来なくて悔しがっていた。所属事務所によると次の日は午前9時半に起床し、いたって元気な様子で食事も通常どおり摂ったという。驚異的な視聴率については、自宅に届いた関係者からのお祝いの花で知ったといい、「完走できたこととひとくくりで喜んでいると思います」と語っている。
  • 2008年夏季オリンピック競技大会(北京オリンピック)の聖火リレーのランナーとして長野駅前(163m)を走ったが、異物を投げ込まれる騒ぎがあり、会見後、沿道の人たちとハイタッチをしながら走り直した。
  • 唯一自宅に飾ってある芸能人のサインは明石家さんまのもの[17]
  • さんまとは一回だけゴルフをした際、「あくまで、ああいう風にふるまっているだけで、静かな時もあるだろう」と思っていたが、プライベートでもしゃべりまくるさんまを不憫に思い、「今後、一切さんまとはゴルフをやらない」と宣言している。
  • 2008年10月に「ちょんまげワールド伊勢」の名誉村長に就任。1993年にも同所でプロデュースしているが、劇場が閉鎖されていたことを役者から聞いたことがきっかけで再興に乗り出したという。現在、劇場の役者に演技指導をしたり、施設のプロデュースをしている。なお、ノーギャラでこの仕事を引き受けており、交通費も自費で通っている。また、三重テレビの番組にも出演し、同所をPRしている。
  • 下ネタが嫌いで、出演者には下ネタを言わないように注意する[18]
  • 師匠の東と同様に芸には厳しく更に萩本自身が細かい事にもこだわる為、変わった芸名を極度に嫌いラビット関根を名乗っていた関根勤に本名に改名させた事がある。(もっとも、その関根の芸名の名付け親が桂三枝だったと言うことを後に聞かされて「言ってくれよー。(三枝師匠に)怒られちゃうよ」と萩本はコメントしていた)

[編集] 出演作品

[編集] テレビ(単独での担当番組)

[編集] ラジオ

特記するもの以外はすべてニッポン放送である。

[編集] アニメ

[編集] 映画

[編集] CM

[編集] ゲーム

[編集] 著書

  • 欽ちゃんつんのめり
  • 欽ちゃんのはにかみ人間学―どうしてオレってばかなんだろう
  • 欽ちゃんどこまで書くの
  • 欽ちゃんの愛の世界45―一日一語で幸せづくり
  • とっておき十話
  • テレビに恋して20年
  • 「笑」ほど素敵な商売はない
  • まだ運はあるか
  • 快話術―誰とでも心が通う日本語のしゃべり方
  • 欽ちゃんの人生コントだよ!!
  • 人生にはチャンスが三度ある―成功する人の演出力
  • ユーモアで行こう!(男のVシリーズ)
  • なんでそーなるの!―萩本欽一自伝
  • 欽言力
  • 人生が楽しくなる気持ちのいい日本語
  • 野球愛
  • 欽ドン(欽ちゃんのドンといってみよう!の番組で紹介されたネタを収録した本)1巻〜6巻

[編集] レコード

  • 何処かにお前が/手のテーマ(1970年2月)‐映画「手」サウンドトラックより
  • あーねむいなあー(深夜放送の為のボサ・ノバ/君は小さな恋人(1970年9月)‐映画「俺は眠たかった」より
  • 山に登れば/今がチャンス(1972年9月)
  • 拝啓おかあさん/あんちくしょうの唄(1975年7月)
  • 妻は夫をいたわりつ/欽一・順子の子守唄(1978年5月)共演真屋順子‐テレビ朝日「欽ちゃんのどこまでやるの」より
  • 「欽ちゃんの」渡り鳥だよ/同カラオケ(1978年11月)‐フジテレビ「欽ちゃんのドンとやってみよう」より

[編集] CD

  • コント55号黄金時代(キングKICS2183)

[編集] パジャマ党

パジャマ党は、萩本欽一の番組に関わる構成作家集団で、「欽ドン!」などのヒットにも貢献したブレーンでもある。構成員のうち、鶴間・大倉・益子・君塚の4名は「サラダ党」と称していたこともある。萩本自身も「秋 房子(あき ふさし)」の筆名で番組構成にも関わっていた。

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^ 2009年9月29日テレビ東京『火曜エンタテイメント!欽ちゃんが芸能界の大御所の家に行っちゃいましたSP』において萩本が実家の写真機のモデルで登場しているので、モデルが初の芸能界デビューだと大橋巨泉が語っていた。
  2. ^ 『あの日あの時母の顔―私の母語り』 小学館 1996年 104頁
  3. ^ 2007年10月24日「明石家さんちゃんねる」にてジミー大西に対しての発言であることが語られる
  4. ^ もっとも、テレビ進出後に世間へイメージが良くないと判断し、浅草ストリップ劇場の過去を隠蔽し、全く浅草を避けるような行動に走る萩本を見て、深見は『萩本の野郎、恩を忘れやがって』と怒りをぶつけていた
  5. ^ ただし、萩本の著書『テレビに恋して20年』では、渡してくれた相手は池ではなく東八郎となっている。
  6. ^ 当初はその都度の契約だったが、気づいたらコンビになっていたという
  7. ^ 「ディレクターにズームイン!!」(齋藤太朗著、日本テレビ、2000年)pp.264 - 280
  8. ^ 練習試合では自らハンドマイクを片手に試合の解説や選手の激励を行っている。
  9. ^ ただし、山本にどのようなアドバイスをしていたかについては明らかにされていない。
  10. ^ 糸井重里のウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」2004年9月6日付による[1]
  11. ^ 自伝によると、報道自粛を伝えた際にはマスコミ関係者からは抗議されることもなく、皆事情を知っていたため拍手を受けたとのこと
  12. ^ がんばる人 第28回 より
  13. ^ 『萩本家・母は100歳のお嬢さま』萩本悦久・著(第三文明社) より
  14. ^ 『全国ライター・講師ガイド 2005』マスコミ駆け込みクラブ・編(生活情報センター) より
  15. ^ 銀座カツミ堂写真機店 より
  16. ^ 萩本愛里
  17. ^ごきげんよう』にて明石家さんまと共演したときに発言
  18. ^ 松本人志放送室で語る。2004年5月27日放送より

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年11月24日 (火) 14:31 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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