西晋
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西晋(せいしん)は、265年、司馬炎によって建てられた中国の統一王朝(265年 - 316年)。国号は単に晋だが、北方民族に攻められ建康に遷都して以降の東晋に対して西晋と呼ばれる。
目次 |
[編集] 禅譲までの過程と晋の成立
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後漢末期に曹操に仕えていた司馬懿は、曹操の死後に曹丕・曹叡の信任により、魏の中心人物として権力を拡大し、呉軍を撃退し、諸葛亮の北伐を耐えしのぎ、公孫淵を滅ぼすなどの軍功により、魏の中での存在感は他を圧するものとなった。その伸張を疎まれて一時期閑職に遠ざけられることもあったが、司馬懿は息子の司馬師・司馬昭の助けを借りてクーデターを起こし、対抗勢力である曹爽一派を駆逐し、魏の権力を完全に掌握した。また、曹丕の制定した九品官人法を大幅に改定し、司馬氏に権力を集中させるなど政治的な面でも実権を握った。
251年に司馬懿は死に、その権力は司馬師が引き継ぐ。司馬師も255年に死に、司馬昭が権力を引き継いだ。257年には司馬氏の権力掌握を打破すると称して諸葛誕の反乱が起きるが、司馬昭はこれを鎮圧して晋公の地位に勧められ、263年に蜀(蜀漢)へ鄧艾・鍾会らを派遣してこれを滅ぼし(蜀漢の滅亡)、晋王となった。
265年に司馬昭が死に、その子の司馬炎が後を継ぐ。同年、司馬炎は魏の元帝より禅譲を受け王朝を立てた。王朝を立てたのは司馬炎だが、晋の実質的な創立者は司馬炎の祖父の司馬懿である。
270年、鮮卑の禿髪樹機能が反乱を起こし、秦州刺史の胡烈や涼州刺史の牽弘を破った。277年、文鴦が禿髪樹機能を降伏させた。279年、禿髪樹機能は再び反乱を起こし、涼州を制圧したが、西晋の馬隆に大敗し、部下の没骨能に殺害された。
280年、司馬炎は賈充・杜預・王濬・王渾らを派遣して、残る呉を滅ぼして晋は中国を統一した。
魏自体、曹操・曹丕によって国家の基盤や制度が確立しており、三国では最も高い国力と軍事力を持っていた。このため、晋は豊富な国力と軍事力を持った魏から禅譲を受けると、これに乗る形となった司馬炎は呉を滅ぼしたが、統一後は政治を顧みず、後宮に1万人という美女を集めて女色にふけった。
こうして、王朝の初期に国家基盤が軽視されたことが、国情の紊乱ひいては政治の停滞へと繋がっていく。
[編集] 八王の乱とそれ以降
司馬炎は290年に死去し、皇太子の司馬衷(恵帝)が後を継ぐ。しかしこの皇太子は暗愚で知られた人物で、父・司馬昭からも太子を取り替えるべきと、言われていた。その前評判どおり、即位した恵帝は政治を放り出し、実権は皇后の賈后(賈充の娘)が握った。
賈后の専権に反対する趙王司馬倫は300年に賈后を殺して首都・洛陽を制圧し、301年に恵帝を廃して自ら即位した。これが八王の乱の始まりであり、これ以後、皇族同士による血を血で洗う争いが続き国内は荒廃した。
このような争いに嫌気が差した知識人たちは権力から離れ、隠者になり清談や詩作にふけるようになった。その中でも有名な者が竹林の七賢である。
八王の乱による混乱を見た匈奴の大首長劉淵は304年に晋より自立して匈奴大単于を称する。この時をもって五胡十六国時代の始まりとされる。劉淵は更に308年には皇帝を名乗って国号を漢(のちに趙を名乗り、後世からは前趙と呼ばれる)とした。また四川で成漢が自立した。
八王の乱は306年に終結して、その年に司馬越により懐帝が擁立される。劉淵は310年に死去し、後を継いだ劉聡は翌311年に洛陽を陥落させ、懐帝は捕らえられる。このことを西晋側から見て異民族の反乱であるとして永嘉の乱と呼ぶ。
懐帝は生かされたものの、劉聡により酒宴で酒を注ぐ役をさせられるという屈辱を与えられ、313年に処刑される。懐帝が処刑されたことを聞いて長安にいた司馬鄴(愍帝)は即位して漢(前趙)に抵抗するが、316年、長安が陥落して西晋は滅亡。愍帝は懐帝同様の扱いを受けた後、殺される。
皇族のうちただ一人逃げ延びた琅邪王・司馬睿(元帝)は江南に逃れ、愍帝が殺されたことを受けて即位して建康に都して東晋をたてた。
[編集] 政治
短命に終わった西晋だが、政治・文化において重要なものが少なくなく、その後の魏晋南北朝時代の特徴を形作ることになる。
政治においては前代の魏によって作られた九品官人法が、司馬懿によって中央へ大きく人事権のウェイトがかかるよう改められ、さらに晋になって血筋が重要視されるようになり、貴族制が形成され始める。この傾向は東晋になってさらに顕著になり、六朝貴族政治へと繋がる。
また統一前の264年には司馬昭により、新しい法の編纂が命じられ、268年に完成する。これは当時の元号・泰始を取って『泰始律令』と呼ばれる。これ以前は律令という区分は存在せず、この泰始律令は律と令とを分けた中国史上初めての制度とされる。この律令は魏晋南北朝時代を通じて基本的に踏襲され、唐律令へと繋がっていく。
もう一つ特筆すべき事が280年の『戸調式』の発布によって全国的に推し進められた田地制度で、これは占田・課田制と呼ばれる。占田とは世襲が認められた私有地のことで、課田とは農民に貸し与えられる国有地の事である。農民は国より課田を貸し与えられ、そこからの収穫の一部を税として納めると言うものであり、これは均田制の前身として歴史家からは大いに注目される。ただ、西晋が短命に終わったためにこの制度の実施期間も短く、その成果がどれほど上がったのかは判然としない。
西晋が中国を統一した後、司馬炎は軍備を大幅に縮小したが、これが八王の乱の拡大や永嘉の乱などによる西晋の滅亡の一因となったとも言われている。
[編集] 文化
前述したように西晋では老荘思想が流行し、竹林の七賢と呼ばれる人物たちがいた。ただしこの七賢とは後世の人物が並べただけのことであって、この7人がグループを作っていたわけではない。
この七賢のエピソードは宋期に纏められた『世説新語』に数多く載っている。「ケチのあまり、果実を売るのに種をくり貫いて売った」などという小話のようなエピソードが多い。
また戦乱の時代の中で仏教が飛躍的にその勢力を伸ばした。
[編集] 西晋の皇帝
[編集] 西晋の元号
- 泰始(265年-274年)
- 咸寧(275年-280年)
- 太康(280年-289年)
- 太熙(290年)
- 永熙(290年-291年)
- 永平(291年)
- 元康(291年-299年)
- 永康(300年-301年)
- 永寧(301年-302年)
- 太安(302年-303年)
- 永安(304年)
- 建武(304年)
- 永興(304年-306年)
- 光熙(306年)
- 永嘉(307年-313年)
- 建興(313年-316年)
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 二十五史 (簡体中国語/繁体中国語)
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