野澤正平
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野澤 正平(のざわ しょうへい、1938年4月3日 - )は、山一證券の最後の社長。長野県出身。
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[編集] 来歴
長野県長野市川中島付近の農家に8人兄弟の4番目として生まれる[1]。長野県屋代東高等学校(現長野県屋代高等学校)卒業後、家庭の経済的な事情もあり3年間家業の手伝いをして働き、1964年苦学の末法政大学経済学部卒業、山一證券入社。証券業界を選んだ理由は「やったらやっただけ認めてくれる業種は証券しかない」[2]と思っていたため。その中でも山一は当時から外資と結びつきが強かったから山一を選んだと述べている。
金融法人本部副本部長、名古屋支店長、専務取締役大阪支店長を経て1997年同社代表取締役社長に就任。現在は日産センチュリー証券株式会社代表取締役社長、ユニコムグループホールディングス株式会社取締役副会長。法政大学経済学部同窓会会長も務める。2009年6月26日付けで退任。
[編集] 山一最後の社長
国立大の東大、一橋大出身者が社長に就任することが多かった山一證券のなかで、初の私立大出身の社長であり、一営業社員を振り出しに、いわゆるたたき上げで社長にまで昇進した異例の人物。野澤が2,600億円にも上る違法な巨額の簿外債務を知らされたのは、社長に就任した後のことであった。前社長・三木淳夫と前会長・行平次雄の二人は、自らが傷口を決定的に広げた問題の尻拭いを野澤らに押し付けて、自らはさっさと遁走してしまったのである。しかし、野澤ら新経営陣はこの時点で廃業という道は考えておらず、事業を整理縮小してでも会社の存続に全力をあげることだけを考えていた[3]。莫大な簿外債務の存在を知らされた野沢らは週明け月曜日(簿外債務の存在を知らされたのは8月16日の土曜日)ただちにプロジェクトチームを発足させた。外資との提携や、規模縮小などで会社の存続を図ったが、この問題はそもそも野澤が知らされた時点でもはや手に負える様なものではない致命傷であった。株価の下落は止まらず、銀行の支援も得られず、最後には大蔵省にも見放される形で自主廃業を決定せざるを得なかった。野澤が社長に就任してわずか3ヶ月での廃業決断だった。
1997年11月24日月曜日。この日は振替休日で休業日だったが、午前6時から臨時取締役会が開かれ自主廃業に向けた営業停止を正式に決議。そして同日午前11時半、東京証券取引所において行われた自主廃業を発表する会見の場で野澤は、「みんな私ら(経営陣)が悪いんであって、社員は悪くありませんから! どうか社員に応援をしてやってください。優秀な社員がたくさんいます、お願いします、私達が悪いんです。社員は悪くございません」と男泣きに泣きながら社員をかばったことがテレビで大々的に放送されて注目された。大小を問わず日本の企業では、自社の不正行為が発覚した際に記者会見などで虚偽の報告を繰り返すなどして醜態を晒す社長が多い中にあって、社長が率先して行った誠実な謝罪として、今や伝説に残る記者会見にもなった。また、三洋証券、拓銀をはじめとする金融機関が立て続けに破綻したこの時代を象徴する映像としても有名な会見である。野澤はこのときの涙の意味について、「一つは、オリンピックなどでスポーツ選手が見せる、がんばったけど駄目だめだったという悔し涙。私も社長として、100日間がんばったけど、力が及ばずに、ああなってしまったという悔し涙」、「そして、もう一つの意味は、山一證券に在籍した7700人の従業員、関連グループ会社を含めて1万人、さらに彼らの家族を含めた3万人がこれで路頭に迷ってしまう。なんとか助けてほしいと訴える涙」、「気持ちとしては、後者の方が強かった。なんとか社員が路頭に迷うことは避けたい。それには涙で訴えるしかない。この気持ちが7割から8割を占めました」と述べている[4]。
山一の破綻によって多数の従業員が解雇され、顧客や融資先などにも多大な損害を及ぼした。にも関わらず、山一では社長職に東大や一橋大の出身者が就任していたこともあり、その学閥外である法政大学出身の野澤の男泣きは、野澤だけではなく山一の一般社員に対する世間の同情を大いに集める結果となった。これが野澤および社員の再就職に際しては大いに貢献する。簿外債務事件には無関係で訴追されることはなかった野澤は自主廃業の業務に追われる傍ら、自ら社員の履歴書を持って求職活動をするなどし、現在でも当時の社員としばしば交流を行っているという(一方で「山一破綻の真の元凶」として、被害を受けた者や元社員・元従業員たちからの怨嗟の声を集める事になった三木・行平は、さらに証券取引法違反容疑で逮捕・起訴され、有罪となる末路を辿った)。
1999年6月の山一證券破産宣告をもって、「最後の山一社長」としての使命を全うした後は、名古屋支店長時代に上場を勧めた事があるコンピュータ周辺機器メーカーのハギワラシスコムの社長、河瀬翔之に要請されて同社の子会社であるシリコンコンテンツの会長に就任。同社が推進するIP電話「ビットアリーナ」の普及に当たる一方、インターネットコンテンツ製作会社のデジタルガレージ(日本初の個人ウェブサイト「富ヶ谷」を発祥とする。インフォシーク(現在は楽天が承継)の最初の日本代理店でもあった)の顧問にも就くなど、一時はIT業界に身を投じていた。
2004年6月にセンチュリー証券(現・日産センチュリー証券)社長に就任、証券業界に復帰した。野澤自身は直接的には関与していないものの過去に社長を務めた企業(山一證券)の不祥事に関する責任を感じてか、本人は証券業界への復帰については消極的であったが、彼の人柄と叩き上げで培われた能力に対する評価は高く、強く請われての復帰となった。
[編集] 年譜
- 1964年 4月 山一證券株式会社入社
- 1990年 6月 取締役金融法人本部副本部長
- 1994年 4月 常務取締役名古屋支店長
- 1996年 4月 専務取締役名古屋支店長
- 1997年 8月 代表取締役社長就任
- 2000年 3月 シリコンコンテンツ入社 会長
- 2003年 4月 大木建設株式会社入社 特別顧問
- 2004年 4月 センチュリー証券入社 特別顧問
- 2004年 6月 センチュリー証券 社長
- 2009年 6月 退任
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
最終更新 2009年12月1日 (火) 08:42 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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