高橋尚子

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高橋尚子
選手情報
フルネーム: 高橋尚子
愛称: Qちゃん
国籍: 日本
種目: マラソン
所属: ファイテン
生年月日: 1972年5月6日(37歳)
生誕地: 岐阜県岐阜市
身長: 163cm
自己ベスト: 2時間19分46秒(2001年、当時世界記録)
ウィキメディア・コモンズ

高橋 尚子(たかはし なおこ、1972年5月6日 - )は、岐阜県出身の元・女性マラソン選手。スポーツキャスター、マラソン解説者。大阪学院大学特任教授。身長163cm。血液型O型。愛称はQちゃん

2000年シドニーオリンピック女子マラソン競技で日本人女子陸上競技選手初となるオリンピック金メダルを獲得。
2001年ベルリンマラソンで女性で初めて2時間20分の壁を破り、世界新記録(当時)で優勝。

マラソン世界記録は1回更新、マラソン日本記録は3回更新している。
現在もオリンピック女子マラソン、アジア大会女子マラソン、名古屋国際女子マラソンの大会記録を保持している。

目次

[編集] 来歴

[編集] 学生時代

父親、母親ともに教育者の家庭に二人兄妹の妹として生まれる。

中学から陸上競技を始め、岐阜市立藍川東中学校・県立岐阜商業高校大阪学院大学商学部を卒業。

県立岐阜商業高校時代は800mの選手で県大会で岐阜県1位であったが、全国インターハイでは予選で敗退となった。高校2年生の時に初めて岐阜県代表に選ばれて全国都道府県対抗女子駅伝に出場した。その時の区間順位は47人中45位であった。

大阪学院大学時代は日本学生種目別選手権の1500mで優勝して全国で初タイトル獲得。関西インカレでは中距離2種目で優勝して女子最優秀選手に選出された年もあるなど、800m、1500m、3000mの3種目で何度も優勝しているが、学生日本一を決める大会の日本インカレでは、1993年、1500mで2位、3000mで3位。1994年も1500mで2位、3000mで3位と両種目とも2年連続で同じ順位となり表彰台には上がったが、惜しくも学生チャンピオンになることはできなかった。しかし、この4年間で高校時代の全国インターハイに出場できるレベルの選手から、学生トップクラスの選手になるまでに成長していた。また、高橋は大阪学院大学陸上部で初めて日本インカレの表彰台に上がった選手である。全日本大学女子駅伝、全国都道府県対抗女子駅伝などでも活躍した。

大学在学中、教師になるために母校、県立岐阜商業高校で教育実習を受けていた。だが、陸上をもっと続けてみたいという気持ちも強くあり、実業団数社からも勧誘がきており、大学卒業後の自分の進路について、教師になるか実業団で陸上を続けるか悩む事になる。陸上を続けるなら勧誘されていた企業ではなかったが、小出義雄監督率いるリクルートが一番との高校時代の恩師からの助言もあり、大学の監督にも相談、大学の監督の計らいで富山インターハイの折に、金沢市内に泊まっていた小出監督と面接が出来る事になった。社の方針でうちは大卒は採用していないと一度は断られたが、高橋の熱意に小出も夏のリクルート北海道合宿に参加させてみるかとなり合宿へ参加できることになった。その合宿で走りを見た小出は一目で素質を見抜き、正社員としては社の方針で採用できないが、契約社員としてなら採用できると言われ、リクルートに入社できることになった。

[編集] リクルート時代

1995年リクルートに入社。有森裕子鈴木博美志水見千子五十嵐美紀など日本代表クラスの選手をずらりと揃えていたリクルートチームで駅伝メンバー入りするのが最初の目標であったが、入社1年目から駅伝メンバー入りすることができた。

当初はトラックランナーであった。1997年世界陸上競技選手権アテネ大会の女子5,000mに出場。予選レースを通過するも、決勝レースの順位は13位だった。1998年5月のIAAF国際グランプリシリーズ大阪大会(長居スタジアム)の女子5,000mで優勝している。

1997年1月26日大阪国際女子マラソンを初マラソンの舞台とする。この時、小出は各種メディアにイチオシの選手として紹介していた。しかし中間点を過ぎた後、先頭争いから脱落してペースダウンとなり、初マラソンは2時間31分32秒の記録で7位に終わる。 1997年4月、小出がリクルートを離れ積水化学へと移籍する。これにともないチームメンバーとともに高橋も積水化学へと移籍することになった。

[編集] 積水化学時代

高橋が女子5,000mで出場した1997年8月のアテネ世界陸上競技選手権で、高橋が練習パートナーを務めていた先輩の鈴木博美が女子マラソンで優勝した。 これを沿道で応援していた高橋は先輩の鈴木の優勝を喜ぶと同時に、自分ももしかしたら3番か4番にはなれたかもしれないと感じ、初マラソンを経験していたこともあり次第にマラソンへの思いが強くなっていった。そこに監督の小出の強い勧め(高橋はマラソンで世界一になれる)などもあり、本格的にマラソンランナーへと転向していく事になる。

翌年の1998年3月8日名古屋国際女子マラソンでは、30km地点まではスローペースの先頭集団に目立たない位置でついていた。その後30kmを過ぎてから、小出の「ここからいけ!」の号令に、高橋は猛烈なスパートを開始、30km~40kmを32分27秒、残り2.195kmを7分10秒で走り、ゴールタイムは2時間25分48秒の日本最高記録(当時)をマークしてマラソン初優勝を果たした。

同年12月6日バンコクアジア大会女子マラソンは、最高気温30度を超す高温多湿のレースとなったが、スタート直後から独り飛び出した高橋は、5kmラップを16分台のスプリットで刻むハイペースで突っ走り中間点を1時間9分15秒で通過、30kmまでは世界記録を更新するペースで進んでいた。さすがに30km以降は17分台のスプリットに落ち込んだものの、独走一人旅で2位とは13分以上の差をつけ、亜熱帯地方特有の高温多湿の気象で、ゴール時気温32度、湿度90%以上の最悪な条件のなか、2時間21分47秒のアジア最高記録(当時)で優勝。自身の持つ日本最高記録を4分以上も更新して世界最高記録(当時)まで1分というところまで縮めた。

また、女子マラソンがアジア大会で初めの開催種目だったので、その後の日本選手の士気を高めて金メダルを量産する原動力となった(当大会で男子100mの日本記録を更新した伊東浩司はそのように取材で述べていた)。そして高橋は、一躍シドニーオリンピック女子マラソンの金メダル最有力候補として、世界から注目を集めることとなる。

1999年8月29日セビリア世界陸上の女子マラソン代表に選ばれていたが、レース直前に左膝を痛めたため、無念の欠場となる。その後も高橋は左腕を骨折したり、食あたりによる腹痛を起こすなどアクシデントが続いた。2000年3月12日、五輪最終選考会となった名古屋国際女子マラソンに出場。体調は万全といえる状態では無かったが、2年前の同大会以上の前半より後半3分以上あげる驚異的なネガティブスプリットを見せて、2時間22分19秒の大会新記録で優勝。これにより、シドニー五輪代表の切符を獲得となった。

[編集] 五輪優勝・世界記録達成

シドニーオリンピックのゴールシーンをモチーフにした高橋尚子像
岐阜メモリアルセンターにて

同年9月24日のシドニー五輪女子マラソンでは、18km付近で高橋自ら先頭集団を抜け出しスパート、この時点で世界記録保持者のテグラ・ロルーペは脱落、一気に集団がばらける。その後26km辺りからリディア・シモンルーマニアの旗 ルーマニア)と激しくデッドヒートを演じるが、高橋は34km過ぎでかけていたサングラスを沿道の父親に投げ飛ばしたと同時に、スパートをかけてシモンを突き放した。スタジアムのトラックでシモンに追い上げを受けるも、そのまま逃げ切り日本陸上界悲願の優勝ゴールテープをきった。五輪での高橋の常にレースを引っ張る堂々たる走りは、ゴール後のさわやかな笑顔とともに、世界のマラソンファンに強い印象を与えた。

高橋の五輪での金メダル獲得は、日本陸上界64年ぶり戦後初の快挙であるとともに、日本女子陸上界においては史上初の快挙だった。またゴールタイムの2時間23分14秒は、ジョーン・ベノイト アメリカ合衆国)がロサンゼルス五輪でマークしたタイムを16年ぶりに更新する五輪最高記録である。これらの功績により同年10月30日国民栄誉賞を授与された。

2001年9月30日ベルリンマラソンでは、女子初の2時間20分突破となる2時間19分46秒の世界新記録(当時)で優勝。前世界記録保持者はテグラ・ロルーペ ケニア)の2時間20分43秒で、1分近くの更新であった。高橋の世界記録樹立での優勝は、女性初のサブ20達成での歴史的快挙とともに、日本女子マラソンがついに世界記録を更新した瞬間でもあった。高橋は女子マラソン世界記録を更新した、ただ一人の日本人選手である。また、女子マラソン世界記録保持者が五輪金メダルを獲得した選手としてはアメリカのジョーン・ベノイトのみいるが、五輪金メダリストとして女子マラソンの世界記録を更新した選手は日本の高橋のみである。(現在の世界記録保持者はポーラ・ラドクリフ イギリス)。

2002年9月29日のベルリンマラソンにも出場。このレースは通常より1ヵ月間短いマラソン練習で臨み、レース途中に足の肉刺を潰すアクシデントもあったが、2時間21分49秒の記録で2年連続優勝を果たし、フルマラソン6連覇を達成した。この試みはベルリン出走からわずか1か月半後の2002年11月17日東京国際女子マラソンへの出場も睨んでいた為であった。しかし、東京のレース数日前に胸の激痛が引かない為診断した結果、肋骨疲労骨折を起こしている事が判明し東京は無念の欠場となった。この為、連覇を狙う五輪代表最短切符になる2003年パリ世界陸上は断念する事になった。

[編集] スカイネットアジア航空(佐倉アスリート倶楽部)時代

その後高橋は2003年2月に積水化学を退社、同年6月にはスカイネットアジア航空スポンサー契約を結び(2005年5月迄)、前年12月に同じく同社を退社した小出監督の指導を引き続き受けることとなる。

2003年11月16日の東京国際女子マラソンで、翌2004年アテネオリンピック代表選出を目指して出走。この時期の平均気温より約10℃高い、季節はずれの気温24~25℃という高温と風速3~6mの風の舞う中、スタート直後から高橋自ら飛び出しハイペースでレースを展開、中間点を過ぎてからスパート、独走状態となり完全に勝負はついたと思われたが、30km手前からスタミナ切れを起こしたのか急激に失速してしまう。39km地点でエルフェネッシュ・アレム エチオピア)に抜かれて、日本人トップの座は死守したものの、ゴールタイムは2時間27分21秒でまさかの2位と6年10ヶ月ぶりに敗れ、マラソンの連勝記録も6でストップとなってしまった。

その後、代表選考は選考基準が不明瞭であるため難航することになる。代表は午後3時に正式発表。テレビでは午後2時に高橋落選を速報テロップで流し、ある新聞の夕刊の一面では「Qちゃん五輪代表へ」と結果的に誤報を伝えたほど混迷を極めていた。結果はコース・気象条件なども違う東京、大阪、名古屋の3レースの上位選手から2名を選ばなければならず、結局、優勝出来なかった事とゴールタイムも悪かった事などの理由で日本陸連の選考で落選。高橋のアテネ五輪代表の切符獲得はならず五輪連覇の夢は潰える事になった。

しかし、これまでの高橋はシドニー五輪以降も毎年マラソン大会で高いレベルの記録で優勝という結果を残した、連戦連勝の五輪ディフェンディングチャンピオンであり、女性で初めて2時間20分突破となる世界記録まで樹立した日本記録保持者(当時)。実績を全く考慮することなく、五輪連覇への挑戦が潰えたことを惜しむ人々の声も非常に多く賛否両論で大きな騒動となった。テレビ各局は高橋と小出監督の会見をNHKなど全局生放送で伝え、翌日の一般紙・スポーツ紙の各新聞社は全紙、高橋落選を一面トップで伝えた。

[編集] ファイテン(チームQ)以後

2005年5月9日、リクルート時代からの約10年に及ぶ小出との師弟関係を解消する事を発表。高橋と小出が二人揃っての記者会見を行なった。高橋このとき33歳であった。

2005年6月ファイテン2009年5月までの4年間の所属契約を結んだ。なお同社陸上部とは別に「チームQ」として活動。同年8月からは中日新聞社の客員に就任した。

2005年11月20日、東京国際女子マラソンに出場。アメリカ・ボルダーから帰国後ポイント練習で右足に痛みがはしり一時全く走れる状態でなくなった為、順天堂大学で診断した結果、軽い肉離れが三ヵ所あることが判明し全治1ヵ月の診断が下された。医師やチームのメンバーは欠場を検討したが、高橋はここまで来て欠場はできない、何が何でも出場すると主張し、医師とチームのメンバーは痛みが悪化したらすぐ棄権するのを条件に出場を決断したという。当日はテーピングをしての出走となり、終盤35km過ぎまでは様子をみながら自重していたが、35km過ぎに高橋がスパート、2年前まさかの失速で優勝をさらわれたエルフェネッシュ・アレムなどをおきざりにして独走となり2時間24分39秒でゴール、2年ぶりのマラソン復帰レースを優勝で飾り大きな感動を呼んだ。

2006年11月19日、2年連続で東京国際女子マラソンに出場したが、31km付近で優勝した土佐礼子から遅れ、39km地点では尾崎朱美にもかわされ3位でゴールとなった。高橋がレースに出場すれば常に国民的関心事になるがゆえに、敗北したレースでも記者会見に臨み、報道陣の質疑応答に誠実に答えるのが義務でもあり責任でもあった。報道関係者のいつもに比べて、ふくらはぎの筋肉に張りがないのではないかとの質問に、怪我を抱えていての出走だったことを明かしたが、この結果になったのは、もちろん今の自分の力不足が原因です、と話していた。

2008年3月9日の名古屋国際女子マラソンに2008年北京オリンピック女子マラソン代表選出を目指して出場。しかし序盤の9km手前で早々スローペースの先頭集団についていけなくなり、ズルズルと遅れ出す。高橋自身今までで一番苦しいマラソンになるなか、それでもリタイアすることなく完走を果たした。結果は27位、ゴールタイムは自己ワーストの記録となった。

名古屋のレース終了後の記者会見では、昨2007年8月1日アメリカボルダーで、右関節の半月板を半分切除する内視鏡手術を受けていた事を告白。引退が囁かれる中、その後高橋自ら「私にはまだやるべきことがある。まだまだ走り続けたい」と現役続行を表明したものの、2012年ロンドンオリンピックへの挑戦については「4年後はまだ何も考えられないが、もしかしたら有るかも知れないですし無いかも知れないです」と明言を避けていた。

2008年3月24日、都内の記者発表会での席で、同年11月の東京国際(同30回大会で終了)・2009年1月の大阪国際・同年3月の名古屋国際と、国内3大女子マラソンへ3レース連続で出場する事を表明していた。

[編集] 現役引退

しかし、練習をしていく中で大会で優勝を狙うプロ高橋の走りが出来なくなったこと、長年の競技生活における体力の限界を理由として、2008年10月28日夕方の記者会見で現役からの引退を発表。各テレビ局は引退会見を生放送で伝えた。1時間近くにわたる引退会見での高橋は終始笑顔を見せていたが、会見の終了直後に報道陣から大きな拍手が送られると、高橋は一瞬虚をつかれた表情を見せた後、感極まって目に涙を浮かべながらも、最後は笑顔で手をふり会見場を後にした。

2008年11月16日、第30回東京国際女子マラソン中継(テレビ朝日)にてゲストとしてマラソン解説者デビュー。

2009年3月8日の名古屋国際女子マラソンに、これまで応援してくれたファンや関係者に感謝する意味を込めて「ありがとうラン」として一般参加で出場した。終始、感謝の気持ちで笑顔を絶やさず沿道のファンに手を振りときおり頭を下げながら走り、2時間52分23秒で完走を果たした。ゴール後、かつてのライバルだったリディア・シモンが近づいてきて抱擁しあい、日本の現役選手からは花束を贈られ、長年の功績へのねぎらいを受けた。また大会組織委員会からは特別功労者表彰され感謝状が贈られた。

[編集] 現在の活動

現在はスポーツキャスター、マラソン解説者。大阪学院大学特任教授。各地で陸上教室の開催やジョガーとしてマラソン大会に参加、web上でもランニングスクールの講師を務めている。また、スマイル・アフリカ・プロジェクトのフロントランナーとして参加している。

[編集] エピソード

  • 現役時代はピッチ走法のお手本と言える選手で、頭がほとんど上下にぶれず、リズミカルに足が出る走り方が特徴的であった。
  • シドニーオリンピック前に、アメリカボルダーで超高地3500m地点でトレーニングを行なった。標高3500m地点でのトレーニングは危険ではないかと一部専門家などの指摘もあったが、高橋と監督の小出は自分たちの信念でトレーニングを敢行し、日本女子陸上界初となる五輪金メダルを獲得した。
  • 2000年7月の札幌国際ハーフマラソンにシドニーオリンピックの調整レースとして出場。小出は調整段階での出場に難色を示していたが、高橋がどうしても出場したいと直訴した為、急遽アメリカ・ボルダーから帰国して参加。当時のハーフマラソン世界記録保持者(1時間6分44秒)エレナ・マイヤー( 南アフリカ共和国)を破り優勝。金メダル獲得へとつなげた。
  • 2001年2月、Qちゃんフィーバーは収まらずイベント・表彰などが続き練習不足のなか、また女性誌などによるいわれのない中傷記事(太りすぎでもう走れないなど)も続くなか、青梅マラソンに出場。30kmの日本最高記録(当時)を更新する快走を見せ喝采を浴びた。
  • 高橋は2001年秋のベルリンマラソンで世界記録を出したが、なんとその次の週のシカゴマラソンにも出場を決意していたという。しかし、2週連続フルマラソン出場という挑戦プランを聴いた日本陸連が、出場にストップをかけたという一幕もあった。
  • 2002年に出演したNHKのトップランナーという番組の中で、高橋は「あなたのベストレースはなんですか?」と訊ねられ、「どれも私にとって大切なレースで選ぶのは難しいのですが……」とした上で、金メダルを獲得したシドニー五輪でも、世界記録を樹立したベルリンマラソンでもなく、1998年バンコク・アジア大会のレースを挙げていた。
  • 2000年9月24日シドニーオリンピック女子マラソン中継は日本時間、早朝6時45分スタートで9時過ぎにはゴールとなったが、テレビ視聴率は平均視聴率40.6%、瞬間最高視聴率59.5%を記録した。この視聴率は女子マラソン史上最高視聴率となっている。また2001年9月30日ベルリンマラソン中継は日本時間、夕方4時スタートで6時20分にはゴールとなったが、テレビ視聴率は平均視聴率36.4%、瞬間最高視聴率53.5%を記録した。この視聴率はオリンピック中継以外では女子マラソン史上最高視聴率となっている。女子マラソン中継全体ではシドニーオリンピック、1996年アトランタオリンピックに次ぐ高視聴率となっている。(数字はいずれもビデオリサーチ調べ 関東地区)。
  • 2000年プロ野球、20世紀最後の年に世紀の対決と騒がれた、巨人長嶋茂雄監督・ダイエー(当時)王貞治監督が激突したON対決の日本シリーズ開幕第一戦の東京ドームで始球式をつとめた。
  • 出身高校である県立岐阜商業高校の同級生にはプロ野球選手和田一浩中日)がいる。ただ、高橋と和田は高校時代は互いに面識こそあったものの会話したことは一度もなかったという。同高では高橋と和田一浩、さらに同高の先輩に当たる高木守道の3人をまとめて“ビッグ3”と呼ばれている。2004年11月23日、地元の岐阜メモリアルセンターでこの3人のトークショーが行われ、このイベントは大盛況のうちに終った。“ビッグ3”と言われながらもこの3人が顔を合わすことは滅多になく、3人のトークをするシーンが斬新だったと言う人が多かった。

[編集] マラソン全戦績

年月 大会 順位 記録 備考
1997年1月 大阪国際女子マラソン 7位 2時間31分32秒 初マラソン
1998年3月 名古屋国際女子マラソン 優勝 2時間25分48秒 当時の日本最高記録
1998年12月 バンコクアジア大会 優勝 2時間21分47秒 当時の日本最高記録
2000年3月 名古屋国際女子マラソン 優勝 2時間22分19秒 大会記録
2000年9月 シドニーオリンピック 優勝 2時間23分14秒 金メダル獲得・五輪記録
2001年9月 ベルリンマラソン 優勝 2時間19分46秒 当時の世界最高記録
2002年9月 ベルリンマラソン 優勝 2時間21分49秒 マラソン6連覇
2003年11月 東京国際女子マラソン 2位 2時間27分21秒 .
2005年11月 東京国際女子マラソン 優勝 2時間24分39秒 2大会ぶりマラソン優勝
2006年11月 東京国際女子マラソン 3位 2時間31分22秒 .
2008年3月 名古屋国際女子マラソン 27位 2時間44分18秒 現役最後のレース

[編集] 座右の銘

「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く。」

[編集] その他

長良川の河川敷に整備された高橋尚子ロード。奥に見える橋が起点となる長良橋
高橋尚子ロードにある靴と足型のモニュメント(岐阜市
  • 2000年4月28日 - 鹿児島県徳之島の周回道路が「尚子ロード」と名付けられる。
  • 2001年6月3日 - 岐阜県岐阜市長良川右岸に、ランニングコース「高橋尚子ロード」完成。
  • シドニー五輪女子マラソン優勝後のインタビューでは、満面の笑顔を交えながら「すごく楽しい、42キロでした」と語っていた。
  • シドニーオリンピック閉会式で日本選手団の旗手を務めた。
  • シドニー五輪後、金メダル効果で、日本のランナーの人口が約200万人増えたといわれている。
  • 愛称の「Qちゃん」は、リクルート陸上部の新入部員歓迎会においてアルミホイルを使ったボディコン風の衣装を着て『オバケのQ太郎』の歌を歌い盛り上がったことに由来するものである。また、このパーティーの際に、オバケのQ太郎の仮装をしていたという話もある。
  • ベルリンマラソンなどで海外でも有名になった頃に海外メディアに『スシターボ』なる奇妙な愛称を付けられたこともあった。
  • 大学時代、グラウンドでの練習後、ほとんど毎日のように大学のジムで夜8時の終了時間までトレーニングしていたことから『ハチコさん』なる愛称を付けられたこともあった。
  • 2003年タイトープレイステーション2 マラソン育成シミュレーションゲーム小出義雄監修 「高橋尚子のマラソンしようよ!」が発売される。
  • 母のはとこにノーベル化学賞を受賞した白川英樹がいる。
  • モーニング娘。吉澤ひとみとは「遠い親戚」とされるがあまりにも遠いため特に関係はない。
吉澤ひとみの祖父の弟の妻の弟の妻のいとこの娘が高橋尚子である。
  • 2006年11月1日母校、大阪学院大学の特任教授に就任した。

[編集] 現在出演中の番組

テレビ

ラジオ

ネット局では放送時間帯が違っている。[1]

[編集] 書籍

[編集] 本人著書

  • 風になった日「幻冬舎」=文庫本 夢はかなう「幻冬舎」

[編集] 主な関連書籍

  • 君ならできる (小出義雄著「幻冬舎」)
  • 高橋尚子 金メダルへの絆 (小出義雄著「日本文芸社」)
  • Qちゃん金メダルをありがとう (小出義雄著「扶桑社」)
  • 努力の天才ー高橋尚子の基礎トレーニング (山内武著「出版芸術社」)
  • 駆け引きー高橋尚子とリディア・シモン (黒井克行著「新潮社」)
  • 高橋尚子 失われた夏 (黒井克行著「新潮社」)
  • 高橋尚子 夢はきっとかなう (黒井克行著「学習研究社」)
  • 激走!高橋尚子シドニーを駆け抜けた青春 (増田明美「早稲田出版」)
  • 食べて、走って、金メダル (金子ひろみ著「マガジンハウス」)
  • 高橋尚子 夢に乗って走る (増島みどり著「講談社」)
  • 高橋尚子物語 (本郷陽二著「汐文社」)
  • 高橋尚子 走る、かがやく、風になる (早野美智代著「旺文社」)

[編集] 受賞

その他、各種受賞多数

[編集] 関連項目

[編集] 脚注

  1. ^

[編集] 外部リンク

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最終更新 2009年11月26日 (木) 10:31 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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