高津臣吾

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高津 臣吾
Shingo Takatsu
フレズノ・グリズリーズ #32
基本情報
国籍 日本
出身地 日本の旗広島県広島市南区
生年月日 1968年11月25日(41歳)
身長
体重
180cm
75kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1990年 ドラフト3位
初出場 NPB / 1991年4月24日
MLB / 2004年4月9日
KBO / 2008年6月24日
経歴(括弧内は在籍年)

高津 臣吾(たかつ しんご、1968年11月25日 - )は、MLBサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下3Aのフレズノ・グリズリーズに所属するプロ野球選手投手)。広島県広島市南区出身。

目次

[編集] 経歴

[編集] プロ入り前

張本勲福富邦夫は中学の先輩となる。幼少の頃から広島東洋カープのファンで、ミスター赤ヘルこと山本浩二の大ファンであった。また、ドラフト会議のあった1990年はその山本浩二が監督をやっていたため広島入りを熱望していた。

広島県立広島工業高等学校3年の時、春夏通じて甲子園に出場したが、控え投手だったため登板機会はなく野手として出場した。亜細亜大学では、当時の大学野球を代表する左腕、小池秀郎に次ぐ2番手の投手であった。東都大学リーグ通算40試合登板し11勝15敗、防御率2.34、140奪三振。

1990年のドラフトヤクルトスワローズから3位指名を受け入団。

[編集] ヤクルト時代

入団当時は先発投手として活躍を期待されていた。特に目立った特徴の無いピッチャーだったが、プロ入り後、長い年月をかけてシンカーを熟成させ頭角を現す。

1993年5月2日 プロ入り初セーブを達成。この年抑え投手に転向し、20セーブをあげてヤクルトのリーグ優勝、日本一に貢献。

1994年、プロ入り初のタイトル、最優秀救援投手を獲得。

1997年、シーズン序盤の不調、伊藤智仁の復活と抑え転向によって中継ぎとして起用されるが、チームの日本一に貢献。1998年はシーズンを通じて不調で抑え投手の座を失う。

1999年若松勉監督の就任とともに抑え投手に復帰し、最優秀救援投手を獲得。

2001年、最優秀救援投手を獲得、チームのリーグ優勝および日本一に大きく貢献。日本シリーズでは連続無失点。

2003年佐々木主浩の持つ通算229セーブのプロ野球記録を更新。最優秀救援投手を獲得。

[編集] メジャー挑戦

2004年FA権を行使し、MLBシカゴ・ホワイトソックスに入団。メジャー初登板はヤンキース戦で、最初の打者は松井秀喜であった。抑え投手として活躍。

2005年、救援失敗が続いた上、味方投手の好調に押し出されてホワイトソックスを自由契約に。その後ホワイトソックスとマイナー契約したものの、8月1日に解雇された。8月12日ニューヨーク・メッツとマイナー契約し、後にメジャー昇格を果たすが、オフにFAとなり退団。メジャーリーグでプレーした2年間で27セーブを記録した。

[編集] ヤクルト復帰

2006年、盟友古田敦也が監督に就任したこともあり、入団テストを経て3年ぶりにヤクルトに復帰。シーズン当初は中継ぎを任されたが、石井弘寿五十嵐亮太が故障離脱した後は主に抑えを務めた。10月7日の対広島(神宮)で日米通算300セーブを達成。このシーズン、チーム最多の13セーブを挙げた。日米合計で通算300セーブを達成した日本人選手は佐々木主浩に次いで史上2人目。

2007年、前年同様、抑え投手を任された。しかし6月30日の対中日戦(秋田)に登板したその夜、宿舎のホテルで入浴中に足を滑らせて転倒。左足親指を剥離骨折(全治3週間)し戦線離脱。夏場には救援失敗を繰り返し、8月半ばから再び2軍に降格。約1か月後に1軍へ復帰し抑えに復帰。最終戦翌日の10月10日、戦力外通告を受けた。12球団合同トライアウトには参加せず連絡を待ったが獲得する球団はなかった。11月30日、自由契約公示。

[編集] メジャー再挑戦

2008年1月18日、シカゴ・カブスと1年間のマイナー契約。春季キャンプに招待選手として参加し、3年ぶりのメジャー復帰を目指した。しかし、オープン戦で登板した5試合で4回1/3を投げて防御率9.64と結果を残せなかった。3月11日に戦力外通告を受けたが、現役続行を表明。3月16日、古巣・シカゴ・ホワイトソックスオジー・ギーエン監督から勧められ、入団テストを受けるも不合格となった。

[編集] 韓国球界時代

2008年6月、韓国プロ野球のウリ・ヒーローズと契約金6万ドル、年俸12万ドルで契約。韓国プロ野球では4人目の日本人選手となった。6月24日に初登板、6月29日には1回2/3を無失点に抑え初セーブを挙げた。これにより日本プロ野球、米大リーグ、韓国プロ野球のすべてでセーブを挙げた初の投手となった。

最終的に18試合に登板し、1勝0敗8セーブ・防御率0.86と好成績だったが、チームが7位に低迷しセーブ数は少なかった。12月17日、外国人野手を獲得する球団方針のためヒーローズを退団。

[編集] 現在

2009年5月、ロサンゼルス郊外でメジャー球団のスカウトが見守る中でトライアウトを受験し、サンフランシスコ・ジャイアンツとマイナー契約を結んだ。40歳7カ月は日本人最高齢での契約で、3度目の米球界移籍も史上初。7月に3Aフレズノに合流。

[編集] 人物

1990年代以降の日本プロ野球を代表する抑え投手である。ヤクルト公式の愛称は「フィニッシャー」(石井弘寿五十嵐亮太の「ロケットボーイズ」とともにファンから公募されたもの)。

右横手から時速140km/h前後のストレートと130km/h台、110km/h台、100km/h台の3種類のシンカーを武器に、セーブを重ね続けている。2007年シーズン終了時点での日本通算286セーブは歴代1位。また、日米通算300セーブ佐々木主浩に次いで史上2人目となる快挙である。

自身最大の武器である100km/h台のシンカーは、当時ヤクルトの監督を務めていた野村克也から「お前のストレートはプロでは通用しない。野球で飯を食いたければ西武ライオンズ潮崎哲也のシンカーを盗め」と言われて完成させたもの。1992年、ヤクルトは日本シリーズで潮崎のシンカーに苦しめられていた。なお高津が投じるシンカーには変化が大きく急速が遅いものと、変化が小さい代わりに球速が速いものの2種類あり、状況によって使い分けている。

ヤクルトの秋期キャンプに臨時コーチとして招かれた山田久志から、シンカーの投げ方を指導された経験がある。しかし高津本人は後年、とあるインタビュー内で「難しくて覚えられなかった」と述べている。

プロ野球の抑え投手と言えば佐々木主浩を筆頭として、150km/h級の剛速球とフォークボールを武器とする投手が大半であり、高津のように「打たせて取る」タイプの投手は異例である。しかしその抜群のコントロール、加えてバッテリーを組む古田敦也との絶妙なコンビネーションによって、球界屈指の抑え投手となった。「高津-古田のバッテリー」は、'90~'00年代初頭を代表する黄金バッテリーとして、現在でもプロ野球ファンの記憶に残る。古田の引退試合(2007年10月7日広島東洋カープ戦)では9回表に登板し、古田が現役最後にバッテリーを組んだ投手となった。結果は緒方孝市を得意のシンカーで見逃し三振。

プロ入り初セーブを上げた1993年5月2日、当時読売ジャイアンツ入団1年目の松井秀喜に、プロ入り第1号ホームランを献上した。これは野村監督が、スカウトが調べあげた松井秀喜の得意コースが本物であるか確かめるために、そこに球を放らせ続けたら見事にホームランを打たれた、というものであった。そのことから、高津の制球の良さがわかる。また、1996年のオールスター第2戦、イチロー登板に際して松井秀喜にかわる代打に送られたり、MLBデビューの最初の打者が松井秀喜(結果は二塁打)とちょっとした縁がある。

登板時、得点圏までランナーをためるが後続をしっかり抑えるピッチングスタイルは「高津劇場」と呼ばれた。

日本シリーズでの通算8セーブ、10SPは日本記録である。また、日本シリーズでは通算11試合に登板して、1点も許していない。当然、防御率も0.00である。このためメジャーリーグに移籍した際は『Mr. Zero』と呼ばれた。

上記のようなピッチングスタイルから、ホワイトソックス時代には、USセルラーフィールドに「イッツ・シンゴタイム!」の表示がともった。

シンカーの速度がアメリカの他の選手の投げるものより数段遅いため、解説者からはチェンジアップと呼ばれていた。日本では投球のほとんどがストレートとシンカーのみであったが、メジャーではカーブも投げるようになった。

シーズン途中で解雇されたものの、その後ホワイトソックスがワールドシリーズを制したため、チャンピオンリングを入手している。

2007年、高津はシーズン終盤以降「フロントから、来季契約の話が無い」と不安を口にしていたが、その不安が的中した格好となった。また球団側がこの通告を発表した際、東京ヤクルト球団社長の鈴木正が「(実績のある選手だけに、お別れ登板などの配慮を行うべきだったのでは、という報道陣の問いに)それが配慮だとは思わない。現役を続けたければ、トライアウトを受ければいい」と心無い発言をした事がファンやメディアの間で物議を醸し、球団には約600件もの苦情が寄せられたことから、球団は鈴木名義で謝罪文を公開するなど事態収拾に追われた。なお、高津はこの一連の経緯について後日「“ひょっとしたら解雇かもしれない”という覚悟は少しだけですけど、していました」と語っている。また、高津自身は現役続行の意向を表明していたものの、12球団合同トライアウト(同年オフに2回実施)については「自分にもプライドがあるし、考えていない」と否定し、結局2回とも参加しなかった。

プロ野球選手をタレント的に扱った最初の雑誌『プロ野球ai』(1991年~)創刊時に一番人気があった選手だった。人柄の良さと喋りの上手さ、面白キャラが受けて人気投票ではたいてい1位だった。

カラオケの十八番はクリスタルキングの「大都会」。オフのプロ野球選手が登場する番組でも、クリスタルキングのムッシュ吉崎のパートをものまねで歌っている。野球界では岩本勉(引退)、佐伯貴弘と並ぶ「芸達者」として知られる。

選手名鑑の「趣味・特技」欄には、「マッチを使った手品はプロ級、将棋は初心者」と10年以上変わらずに掲載されている。

アメリカでの代理人はオクタゴン社のジョー・アーボン、日本国内は水戸重之弁護士が担当。また、日本でのマネジメントは長谷川滋利石井一久らと同様、吉本興業スポーツ部が請け負っている。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別投手成績








































W
H
I
P
1991 ヤクルト 13 1 0 0 1 1 0 -- .500 120 27.2 34 4 6 2 25 1 0 15 13 4.23
1992 23 3 0 0 5 3 0 -- .625 362 82.2 84 10 36 3 63 1 1 48 43 4.68
1993 56 0 0 0 6 4 20 -- .600 324 78.1 69 3 24 5 72 1 0 28 20 2.30
1994 47 0 0 0 8 4 19 -- .667 298 72.1 63 7 30 1 54 1 0 25 23 2.86
1995 39 0 0 0 1 3 28 -- .250 197 48.1 42 2 14 3 36 0 0 14 14 2.61
1996 39 0 0 0 2 6 21 -- .250 215 50.0 56 7 16 1 35 1 0 18 18 3.24
1997 51 0 0 0 7 4 7 -- .636 313 79.1 55 9 20 5 68 0 0 20 18 2.04
1998 42 0 0 0 2 3 3 -- .400 212 45.1 54 6 26 2 32 1 0 29 28 5.56
1999 40 0 0 0 1 1 30 -- .500 164 41.1 32 6 8 0 38 1 0 11 10 2.18
2000 35 0 0 0 0 1 29 -- .000 139 34.2 32 4 8 1 29 0 0 8 8 2.08
2001 52 0 0 0 0 4 37 -- .000 212 51.2 49 3 13 0 39 1 0 17 15 2.61
2002 44 0 0 0 0 2 32 -- .000 174 41.2 37 6 11 3 28 1 0 19 18 3.89
2003 44 0 0 0 2 3 34 -- .400 185 42.0 42 7 21 0 26 2 0 18 14 3.00
2004 CWS 59 0 0 0 6 4 19 4 .600 245 62.1 40 6 21 3 2 50 1 0 17 16 2.31 0.98
2005 31 0 0 0 1 2 8 3 .333 130 28.2 30 9 16 1 0 32 1 0 19 19 5.97 1.61
NYM 9 0 0 0 1 0 0 1 1.000 38 7.2 11 2 3 1 0 6 0 0 2 2 2.35 1.83
2006 ヤクルト 48 0 0 0 1 2 13 8 .333 173 42.2 33 3 15 1 1 31 0 1 15 13 2.74
2007 25 0 0 0 0 5 13 0 .000 110 23.1 32 4 7 2 0 15 0 0 17 16 6.17
2008 ヒーローズ 18 0 0 0 1 0 8 1.000 21.0 16 1 5 4 18 0 0 2 2 0.86
NPB:15年 598 4 0 0 36 46 286 8 .439 3198 761.1 714 81 255 27 591 11 2 302 271 3.20
MLB:2年 99 0 0 0 8 6 27 8 .571 413 98.2 81 17 40 5 2 88 2 0 38 37 3.38 1.23
KBO:1年 18 0 0 0 1 0 8 1.000 21.0 16 1 5 4 18 0 0 2 2 0.86
通算:18年 697 4 0 0 45 52 321 .464 881.0 811 99 300 33 697 13 2 342 310 3.16
  • 2009年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤字は歴代最高
  • AAA通算(2005年) 7試合 0勝1敗0S 7 2/3投球回 6奪三振 防御率3.375

[編集] 背番号

  • 22 (1990年 - 2003年)
  • 10 (2004年 - 2005年)
  • 11 (2006年)
  • 22 (2007年)
  • 33 (2008年)

[編集] タイトル・表彰

[編集] 個人記録

  • 2002年4月28日 通算200セーブ(史上2人目)達成
  • 2003年6月20日 270セーブポイント(日本記録)達成
  • 2003年12月 名球会入り
  • 2006年10月7日 日米通算300セーブ(史上2人目)達成。(1位は佐々木主浩
  • 2006年10月7日 通算273セーブ(日本記録)達成。

[編集] 著書

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

最終更新 2009年12月4日 (金) 11:30 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
【高津臣吾】変更履歴

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